サラダ

                                     . 

 陽台(テラス)のペットボトルの底を切った器の中で、ベビーリーフが芽を出して、今朝の食卓のサラダの中に加えられていました。花屋さんで買った鉢植えの残った土の中に、長女にもらった種を家内が植え、それが初秋の日を受けて成長したのです。数本ですから、おいしさを感じるほど歯ごたえのある量ではないのですが、自家栽培の青野菜を生で食することができるのは、何ともいえない感慨です。

 日本にいます時、空き地を借りて家庭菜園をしたことがありました。トマト、茄子、もろこし、キャベツ、落花生、西瓜、インゲンなどを育てて食べた、あの自家栽培の安心の味が忘れられません。私の師匠が、ジャガイモを50坪ほどの畑に植えたことがありました。収穫期に帰国できなかった彼らに代わって、私と子どもたちで、その収穫をしたことがありました。あんなに嬉々として土を掘り起こして、そのジャガイモを手にして、声を上げて喜んでいた息子や娘の姿が思い出されて仕方がありません。師匠家族がなかなか帰ってきませんでしたので、ほとんど食べてしまったのは本当に申し訳なかったと、今でも詫びたい気持ちがしています。もちろんその時はお詫びをしましたが。師匠は、もう亡くなってしまいましたから、改めてお詫びのしようがないのが、少々責められます。

 家内は、プランターを手に入れて、青紫蘇、パセリ、茗荷などを植える計画を、今立てているようです。秋から冬にかけて植えられるものがあったら、すぐにでも始めるのではないでしょうか。鉢植えなどの花卉市場が、この街の中にありますので、行きたがっております。日本ですと、スーパーや農協には、季節季節の種や苗が置かれてありますが、こちらではどうなのでしょうか。田舎に行けば違うのですが、畑の一郭に「家庭菜園」と看板の出ている、2-3坪の区画地域を見かけたことがないのですが、探せば有るのでしょうか。まあ、それができなくても、我が家には、北と南の2箇所、陽台がありますので、場所の確保は問題がありません。土と種さえあれば、日当たりがいいですから、十分に生育するのではないでしょうか。

 子育てが終わって、仕事も退職して、新生活をこちら始めて、この夏から日当たりの良い家に住ませていただいていますので、恵まれた環境を十二分に活用すべきなのでしょう。遠くにいて、孫の世話ができませんので、家内は、そんな計画を想い巡らせているところです。近々、日本語を教え始めるかも知れません。その準備もしているようです。若い知人が、私たちのアパートの近くに、貸し店舗を借りて、「語学教室」を、この秋口から初めて準備中です。その教室の前の看板に、〈日語班〉と書き込まれています。また、幼児英語を長くし開講した経験が家内にはありますので、その担当も頼まれているようです。少し、これから忙しくなるでしょうか。生徒募集中です。その教室を多目的な区間として活用したいと、老板(laobanボス)が願っています。覚えてくださいますように!

(写真は、我が家のではありませんが、プランターの中で育つ「ベビーリーフ)です)

活路

                                      . 

 私の義兄は、十八の春に、人生の活路をブラジルに求めて、横浜から船で発ったと家内から聞いています。昭和30年代初めの日本は、まだまだ経済的に貧しかった時代でした。誰もが大学に進学できるような80年代とは違っていたわけですから、涙を飲んで諦めて、その踵を返して南米の大地に活路を求めて出かけて行ったことになります。戦争前の多くの青年たちも、狭い日本に住み飽きたと言って、大陸の広大な沃野に、生き場所でしょうか、死に場所を求めて出て行ったと言われます。私の父もまた、多感な青年期の日々を、満州の奉天で過ごしております。満州鉄道に勤務する伯父や、関東軍の将校の親族を頼って、大陸を旅したようです。詳細は定かではありません。父は、その頃のことを何も語らなかったからです。

 当時の青年たちは、窮屈さを覚えたのでしょうか、狭い国土を見限ったのでしょうか、大陸の別天地に「王道楽土」を求めて勇躍出ていったのです。実際には、当時の日本の農村は不況下にありましたから、貧窮し疲弊している小作農民や零細農民は食うや食わずでした。また、農家の次男や三男の土地相続のできない青年たちも多くいて、大陸に雄飛し、一旗あげようとしていたのです。時恰も、日本の国は、「五族協和」が叫ばれていました。それは、漢族、満族、朝鮮族、蒙古族、大和民族が一致協力して、平和かつ強大な国を建国しようとしたのです。とくに、満州には内戦の続く疲弊した中華民国からの漢族や、新しい生活環境を求める朝鮮族が移住してきていました。その動きの中で、日本も、〈満蒙開拓移民〉を計画し、凶作の農村からの移住・入植が相次いだのです。そのような満州に憧れた青年たちが、好んで歌った歌がありました。それが、「蒙古放浪の歌(作詩 仲田三孝 /作曲 川上義彦 /時代不詳 )」です。

       1 心猛くも鬼神ならず  人と生まれて情はあれど
         母を見捨てて波越えて行く  友よ兄等よ何日あわん
       2 波の彼方の蒙古の砂漠  男多恨の身の捨て処
         胸に秘めたる大願あれど  生きて帰らん望みはもたじ
       3 砂丘に出でて砂丘に沈む  月の幾夜が我等が旅路
         明日も変われど見ゆるは何処  小を求めん蒙古の砂漠
       4 朝日夕日を馬上に受けて  続く砂漠の一筋道を
         大和男児の血潮を秘めて  行くや若人血潮の旅路
       5 負はすらくだの糧うすけれど  星の示せる向だに行けば
         砂の逆巻く嵐も何ぞ  やがては越えなん蒙古の砂漠

 鉄道や橋を敷設したり、港湾を整備したり、工場を建設したことはよいことでしたが、軍事力を用いて「満州国」を建国し、その実権を日本が握ったことは、過ちだったのです。なぜなら、宗教や教育をも強いたことは、中国のみなさんには赦しがたいことだったのではないでしょうか。ご自分の土地が奪還されたときの喜びの大きさを知るとき、やはり、それは侵犯であったことになるのではないでしょうか。もし、ブラジル移民のような、合法的なかたちでの入植がなされていたのであれば、許されたのですが、そうではなかったことに、国策の過誤を認めるべきだったと思うのです。しかし、今日の東北部(かつて満州と呼ばれていたのです)が、勤勉な土地改良によって、生産力の強い土地作りをし、驚くほどの農業生産を上げておられます。また重化学工業の進展も驚くほどであり、あの時代には信じられないほどの大変化を見せています。一国の活路は、自らの領土内で遂げるべきに違いありません。

 私は、中国の北に行きたいと思って、天津で一年を過ごしましたが、何故か南に導かれております。そして多くの友人が、こちらで与えられているのです。しかし、もし許されるなら、父が青年期を送った遼寧省の瀋陽(旧奉天)に行って住みたいと思っていますし、吉林省や黒龍江省にも行ってみたい願いは捨て切れないのです。対日感情は、どうしても良くないのですが、それを覚悟で住んだら、多くの友人たちを得ることができるでしょうか。この私の体の中には、漢族や満族や朝鮮族の血が、脈々と流れているのだと思うのです。なぜなら母国にいると同じような思いで、何一つ抵抗なしで、こちらで生活することができているからであります。これからの中国の変化を、つぶさに見続けたいと願う、日曜日の朝であります。

(地図は、17世紀初頭の中国大陸の様子です)

教育

                                      .

 今は自家用車を持ちませんので、移動するときには、公共バス、タクシー、友人の好意で彼女の車に乗せて頂く、そういった交通手段を使い分けています。もちろん徒歩が多いのですが。それから、もう一つは、マウンテン・バイクがあります。日本に留学している若い友人が置いていってくれたもので、大変便利に使っています。それでも雨や風の強い日には、『車があったらなあ!』と思ってもみますが、『健康第一、安全第一!』でふん切りをつけております。

 さて、こちらの公共バスですが、男性に混じって女性が大きなハンドルを回して運転をしているのです。男勝りだと思いますが、男性の職域だと思っている私たち日本人の考えとは違って、こちらではごく普通なことです。ところで男性のバスの運転手ですが、多くの方の運転が荒いのです。軽自動車に乗っているようなハンドルさばきをしたり、急ハンドル、急停車、割り込みなどは朝飯前なのです。家内などは急発進で、何度も座ってる乗客の膝の上にのってしまうほどです。それに、よく怒鳴っているのです。『運転席の近くにいないで、奥の方へ行け!』と、お客様であることを忘れて乗客の私たちに荒らげた言葉をかけて平然としています。走行のじゃまになる自転車やバッテリー付自転車、歩行者に、車の中でぶつぶつと文句を言っています。天津にいたとき、昼時だったので、その運転手は、彼好みのランチを売っている食堂の前で停車して、飛んでいって買うのです。待っている乗客も、文句ひとつ口に出さないで、黙って待っていました。『これって普通のこと!』と、割りきっているのでしょう。でも一番怖いのは、携帯電話をしながら、乗客を運んでいることです。それで事故を起こさないのですから、運転技術と注意力は抜群です。彼らの待遇が良くないのが、もろもろの根なのかも知れません。そんな状況ですから、〈都バス〉の運転手のような優しい運転をするバスに乗ると、ほっと一息ついてしまうのです。

 さて、私たちには二人の娘がいます。彼女たちを訪ねたときは、彼女たちの運転する車に乗せてもらうのです。その運転ですが、親の自慢のように聞こえますが、運転が、とても上手なのです。もう私を超えているかも知れません(そう自慢してます!)。ところが玉に瑕、運転しながら、二人ともうるさいのです。対向車や前を走っている車や歩行者や自転車に対して、『ああでもない、こうでもない!』と〈いちゃもん(不平や文句のことです)〉をつけています。聞いていて笑ってしまいます。この様子を見聞きしている家内は、『そっくり!』と私の顔を見て笑うのです。二十年も私の運転する車に乗り続けて、その一挙手一投足を見続けててきた彼女たちは、どうも親爺そっくりの運転をし、同じようにブツブツと言うのだということが分かりました。教育とは空恐ろしいことですね。このように、コピーが出来上がっているのですから。

 しかし、私の車の助手席に乗っていた家内は、性格は温順(実は、彼女のお父さんに似て結構激しくて短気を継承しているのです。これも教育・・・)に見えるので、その感化も受けているに違いないのですが。〈三つ子の魂百までも〉、恥じ入るばかりです。

 この春、日本に帰っていましたときに、高知に旅行をしました。飛行場でレンタカーを借りて、目的地まで高知のバイパスを走ったのです。これまで、2006年に国を出てから、車の運転時間を総計しても1時間に満たないほど、運転から遠ざかっておりました。家内に言いますと、きっと反対すると思いましたので、レンタカー予約は内緒にしておいたのです。勇躍、公道に乗り出して、ハンドルさばきの勘を戻しつつあったのですが、進路変更のタイミングがまずかったのでしょうか、大きなクラクションを鳴らされ、怒鳴られてしまいました。すんでのところで事故になったかも知れませんが、この方の運転が上手で難を逃れることができたに違いありません。土佐弁で怒鳴られるとは予想もしていませんでしたので、坂本龍馬や武市半平太を思い出してしまいました。何十年も運転して、文句を言ってきた私への返礼を、土佐の高知で見舞われたことになります。

 わが家庭教育ですが、好い感化もあったのだと思うのですが、どうでしょうか。これって〈遺伝〉ではなく、やはり〈教育〉なのです。私の親の世代は運転することがありませんでしたから、誰に自分が教育を受けたのか皆目見当がつきません。もしかしたら、性格の悪さなのでしょうか。そうだとしたら、反省して直していかなければなりません。そんなことを考えていますと、孫たちのことが心配になってきました。この悪習慣を受け継ぐのかと・・・。しかい嫁や婿の善い影響をうけるかも知れませんし、再教育という手もありますし。自分を責めないことにして、大陸の秋の宵を楽しみにしましょう。今宵は、教え子と彼女の男友達が、故郷から美味しいものをもってやってきて、夕食を作ってくれるそうです。楽しいこともあるので、がっかりしないことにしました。

(写真は、高知市内から室戸岬に行く途中の「大山岬」です)


 『黒船襲来!』のニュースは、徳川250年の統治を揺るがした大事件でした。あの「元寇(げんこう、1274年と1281年の二度)」以来の外国勢力の来襲だったからです。もちろん幕藩体制の中にも、様々な問題や矛盾があったことは事実ですが、その崩壊の引き金になったのが、この一件だったことになります。浦賀には、煙を吐く真っ黒な鋼鉄製のアメリカの軍艦が、大砲を搭載して開国を迫ったのです。時、明治維新の15年前の1853年のことでした。江戸下屋敷に勤務していた土佐藩士・坂本龍馬は、品川沖の警護の任に当たっていたとのことですから、この黒船を目撃していたものと思われます。

 この4隻の軍艦を率い、アメリカ大統領の親書を手にしてやってきたのが、ペリーでした。強硬な態度で要求を突きつけたのです。捕鯨船の寄港の要求は表向きで、東南アジアの植民地化へのの武力による威嚇だったのです。その迫りによって、幕府は、1954年に、約束したとおり再びやって来たペリーとの間で、条約を締結し、国交を開始することになります。すでにイギリスは、清国(現中国)にアヘンの販売をして、莫大な収益を不平等な貿易で得ていましたし、アフリカ大陸の南端ケープタウン、インド洋のセイロン、そして太平洋に出るマラッカ海峡とシンガポールを押さえて、中国への植民地政策のルートを確保していました。このイギリスの次なる標的は、日本だったことになります。それに負けじと、太平洋を横切った別のルートを経て中国に進出していこうとするアメリカは、まず日本をも植民地にしようとしていたことは明白でした。

 海軍の4分の1を投入しての来襲だったのですから、アメリカが、どれだけ力を入れていたかが分かります。武力を持って条約締結を迫ったのには、理由があったのです。本来なら、平和的な手段で、捕鯨のための基地の建設や寄港の許可を求めるべきでしたが、アメリカの捕鯨船が難船して、遭難した船員が日本に救助を求めた際に、日本側に虐待されたのだそうです。『土着民に所持品は没収され、動物を入れる見世物にするような籠(かご)に押し込まれ・・・踏み絵を強制され、従わなければ皆殺しにすると脅された』との話が、アメリカの新聞に掲載されます。このような紳士的でない国との交渉は、武力以外にないとして、ペリーが来襲したわけです。つまり日本は野蛮国だと判断されたわけです。

 ところが、ペリーによる交渉が成立するやいなや、今度は、『実は日本は文明的な国だ!』と言い直したのです。ペリーは軍人でしたが、事前に、日本について相当研究をしていました。その彼に情報を提供していた、アーロン・パーマーは次のような言葉を残しています。『エネルギッシュな民族で、新しいものを同化する能力はアジア的というよりも、むしろヨーロッパ的とも言える。名誉を重んじる騎士道のセンスをもっており、これは他のアジア諸国と全く異なる。アジア諸国に見られる意地汚いへつらいの傾向とは一線を画し、彼らの行動規範は男らしい名誉と信義を基本としている。支那に隷属することもなく、外国に侵略されたり植民地化されたことがない。そして日本は東洋におけるイギリスとなるであろう(「国際派日本人養成講座」の記事から引用) 』といった、高評価を下しているのです。これは、幕末や明治初年に日本を訪れた多くの外人が共通に持っていた理解であります。

 幕末の若い武士層、とくに薩摩・長州・土佐の下級藩士の間に、〈尊皇攘夷〉の思想が芽生え、それが大きなうねりとなっていくのには、ペリーの来航は大きな意味がありました。しかし、徳川十五代の統治そのものが限界点に達しており、来たるべくして来、起こるべくして起きた本来的な原因だといえます。封建制を打ち破って、近代化していく時期が、歴史的に到来していたからであります。〈大政奉還〉がなされ、明治維新政府が誕生するや、諸外国の勢力に伍していくために、日本は、〈富国強兵〉の政策をとっていき、日清戦争、日露戦争に勝利します。さらに、ヨーロッパに起こった第一次世界大戦を契機として、大陸での権益を手中に収め、軍事的に進出をしていき、世界の列強の動きに同調していきました。そして世界有数の軍事大国となった私たちの国は、市場と資源を求めて、アジア全域に軍事的に進出していくことになります。その一つが、禍根を残す〈日中戦争〉の勃発と手痛い敗戦であります。

 『剣を取る者はみな剣で滅びます 』と言われています。これは〈丸腰〉になることの勧めではないと思いますが、自分や自分の家族や友人を守るための剣は許されるに違いありません。ただ人の平安な生活を脅かす剣は、二度と再び、子や孫たちに持たせたくないと思う、平和な時代の只中の平和な家庭で迎えている今宵であります。

(写真は、黒船来航の絵です)

遊び

 

 オランダの哲学者で歴史家のヨハン・ホイジンガ(1872年12月7日 ~1945年2月1日)は、1936年に「ホモ・ルーデンス」を著しました。1963年には邦訳も刊行されています。「ホモ・ルーデンス」とは、「遊ぶ人」と訳されるでしょうか。そもそも人間が人間である一つの証詞は、「遊び」にあるというのが、ホイジンガが言おうとしていることなのです。もう少し説明を加えますと、文化的であることと、遊びの要素を持つこととは、とても近い関係があるというのが、彼の主張であります。このホイジンガが哲学者なので、「遊ぶ存在としての人間」と、少々ややっこしい表現をしていますが、それは「労働する存在としての人間」の真反対に人がいることを言いたかったからなのです。簡単に言いますと、きっと『働くだけではなく遊び心を持って生きよ!』といった人生哲学を標榜(ひょうぼう)したのではないでしょうか。

 様々なアルバイトを学生の頃にしました。そのほとんどは肉体労働だったのです。その労働は、結構きつかったのですが、『働くことが苦痛だ!』と思ったことが一度もありませんでした。例えば、芝浦や横浜の埠頭で、『お前、そっちのお前・・・』と、手配師に拾われ雇われて働く〈沖仲仕〉もやりました。体が頑強であるか、よほど食い詰めたかでなければ、耐えられなかったと思います。大変に過酷だったのです。それでも、『嫌だ!』と思ったことはありませんでした。もちろん、当時としては結構日当が高かったのは事実です。そういった人のあまり好まない、3K級の仕事をしたという経験の面白さのほうが大きかったようです。アルバイトは、学費や本代や遊興費のためで、親の負担の軽減のためにも頑張りました。一番の収穫は、お金よりも、〈働く喜び〉だったことを思い出すのです。この経験は、その後、学校を卒業して勤務した職場でも、決して失うことのないものでした。仕事を億劫に感じないですんだのは、良かったと思っています。

 現代の多くの子どもたちは、『遊んでないで勉強しなさい!』、『宿題はすんだの?』、『塾はどうしたの?』と、尻を叩かれて面白くない勉強に駆り立てられています。点数だけが、その子の能力の算定基準になっているからです。先日、3人の小学生が、自殺未遂を起こしてニュースになっておりましたが、ほんとうに嫌な時代ですね。幸い、私の親は、バットやグローブやボールは買ってくれますが、一度も、『勉強しろ!』とは言いませんでした。諦めていたのでしょうか,それとももっと大切な自主性を養おうとしたのかも知れません。しかし、放任ではありませんでしたが。本来、人間が人間らしい所以は、「遊び」にあるのではないでしょうか。どうも人は、大人になると、嬉々として生きていた子ども時代を忘れてしまうのか、あえて忘れようとするのか、子どもらしさをきっぱりと捨てて、〈遊び〉を罪悪視さえしてしまうのではないでしょうか。私は、人の目を気にしない生き方をし、〈遊び〉をしっかりさせていただいたことは感謝なことであります。その〈遊び〉が、次のものを願い求めていく推進力となったのではないかと思うのです。

 最近、プロスポーツが面白くありませんね。観衆を喜ばすプレーが少なくなってきているのと、お金が第一、人気が第二になってしまっているからです。また薬物の力を借りて、腕力や筋力を増強したり、やる気を喚起刺激したりして、記録を伸ばそうとする、競争馬なみの選手が少なくありません。地道に血と汗の結晶のようなプレーを見る機会が少ないのです。そういった面白くないプロの世界を目指すアマチュアの選手たちも、野球を楽しむ、サッカーを喜ぶといった代わりに、契約金や報酬が大きな競技の動機付けになり下がっているのではないでしょうか。プレイを楽しむのではなく、勝つことだけを求めるフアンにも問題がありそうですね。フアンに見せて、大向こうを唸らせる様なプレイがあったら、大相撲のような凋落(ちょうらく)は決してないのではないかと思うのですが。感動したり、奮起させられるスポーツであって欲しいものです。

 ホイジンガは、『立ち返って子共のようになること!』を勧めています。享楽主義は好みませんが、人は、いつも喜び、明朗で、心が解放され、自由を楽しむべきです。人を硬直させ、緊張させ、過度に熱狂させ、疲労困憊(こんぱい)させるようなものは排除されるべきでしょう。心が健康でなければ、人生を健全に過ごすことができませんから、一見して、無駄の様に見える〈遊び〉をもう一度再評価し、正しく位置づけたいものです。父とキャッチボールをしたときの懐かしい思い出は、今もなお私の記憶に鮮明です。

(写真は、子どもの頃に楽しんで乗った「竹馬」です)