ジョージ

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 「和製」という言葉があります。goo辞書によりますと、「日本でできたもの。日本製。国産。ex.―プレスリー」とあります。1958年、中学の頃でしょうか、有楽町の駅のそばにあった「日劇」を舞台に、大ブームを起こしたコンサートが開かれていました。若者たちの間で人気があったのが、〈ロカビリー〉という歌です。それは、アメリカの若者の間で爆発的な人気を博した音楽で、ポール・アンカ、ニール・セダカ、コニー・フランシスなどがいました。彼らの歌った歌を、未だに口ずさむことができるのです。と言っても、このブームに、心を大きく揺り動かされわわけではなく、中学ではバスケット・ボール、高校ではハンド・ボールの練習に精出していましたが。日本に上陸したロカビリーは、「日劇ウエスタンカーニバル」として若者の魂をとらえたのです。当時、多くの若者を憧れさせた歌手たちの中には、平尾昌晃(「リトル・ダーリン」が持ち歌、これは日本人の作詞作曲です)、山下敬二郎(ポール・アンカの「ダイアナ」が持ち歌)、ミッキー・カーチスといったロック歌手がいました(兄たちの世代でした)。ウエスタンソングではなく、ロックサウンドでした。アメリカ仕込みの文化が、「和製」となって、受け入れられ、演奏され歌われていたのです。

 いつの時代でも、若者が好むのは、激しさ、速さ、意外さではないでしょうか。あの世代の若者も、はや60~70代になっていますから、今活躍している「SMAP」や「嵐」は、彼らの孫、いや子の世代になるでしょうか。今のグループの人気に比べたら、想像もつかないほど大きかったのではないでしょうか。米の代わりにパン、味噌の代わりにピーナッツバターやいちごジャム、大福の代わりにケーキ、ラムネの代わりのコーラに大きく変化していく時代の到来でしたから、大人たちをやきもきさせていたのです。

 そんな彼らの世代の少し後に、「柳ジョージ」という歌手がいました。先日病に倒れて亡くなられましたが。その彼が歌った「テネシーワルツ」が素晴らしかったのです。それはテレビの「ミュージックフェアー」という番組で、江利チエミとコラボレーションで歌われた歌です。江利チエミが亡くなる数ヶ月前の出演ですから、1981年の暮だったと思います。十代の前半では、このロックに関心をよせはしましたが、その後、ロックの麻薬臭さが気になって好きではなくなったのです。なぜかといいますと、折にふれて父に聞かされていた〈麻薬(当時は覚醒剤を”ヒロポン”と呼んでいました)の怖さ〉を知らされていましたので、自らをそれに遠ざけたかったのです。この彼は麻薬臭くなく、ただ直向(ひたむ)きに、歌を愛して歌う姿に心が揺すぶられたのです。あの地味さがよかった!今でも、中国のサイト〈優酷youku〉で見聞きすることができます。うるささを感じないロックといったらいいでしょうか、『彼のようなロックだったら、聴ける!』と思わされたのです。彼も60歳を超えていたのですね。ご両親が広島の原爆の被爆者だったそうで、そんな関係ででしょうか、私よりも3学年ほど下でしたが、もう召されてしまいました。

 この柳ジョージを、「和製エリック・クラプトン」と呼んだそうです。彼の歌のジャンルのロックは、アメリカのアフリカ系の人たちが歌い始めた歌で、ジャズやワルツやゴスペルと同じ起源なのでしょうか。奴隷として虐げられた者たちが、魂の解放と、虐待された身分からの自由を求めて歌われた、魂からの叫びが、そのメロディーの中にあります。ミーちゃんハーちゃんの好みですが、ルイ・アームストロング(”サッチモ”と呼ばれていましたが)やナット・キングコールのジャズも好きでした。柳ジョージは、土佐藩の城主の山内容堂を題材にして、ロック調で歌っていたりした、破格のロック歌手だったのです。酒飲みで、いつも酔っていた容堂を歌ったことは、禁酒のためには貢献したのではないでしょうか。ちなみに、容堂は46歳で長年の痛飲が原因して死んでいます。

 麻薬にも酒にも縁遠く、仕事や使命をいただいて、今をまだまだ元気で生きることができて、何と感謝なことでははないでしょうか。今日も、マウンテンバイクを転がしながら、秋の風を頬に受けて、近くの〈テスコ〉というスーパーマーケットの3階にある、「飲食コーナ」でアメリカン・コーヒーを飲みなが、作文の添削をしました。スターバックスに行くより近く、さらに安くてすみます。そんな私のところに、送迎バスにゆられて家内がやって来て、何と、エスプレッソを注文していました。一杯8元のちょっとした贅沢でした。今まさに心身ともに心地好い、たけなわの秋十月であります。

 そういえば、私のもう一人の師匠も、ジョージさんでした。

(写真は、「エスプレッソ」のコーヒーです)

貫禄


 『近頃の政治家は貫禄が無い、とよく聞くが、もっともなこと、当たり前のことでは無いか。貫禄のつく経験をまったくしていないからだ。楽だけしてきた政治家に貫禄は無理。無い物ねだりである。』と、私の愛読しているブログにありました。「貫禄」を、goo辞書でみますと、『からだつきや態度などから感じる人間的重みや風格。身に備わった威厳。「―がつく」「―がある」「―十分だ」』とあります。なぜ、最近の政治家は、そうなのかといいますと、この方は、『貫禄がつく経験をしていないからだ!』と結論しています。「塗炭の苦しみ」という言葉があります。これは、「ことわざ図書館」によりますと、『非常に苦しいこと。 大変な困難の中にあること。 塗は泥の意で、炭は火の意。 泥にまみれ火に焼かれるようなひどい苦しみから。 』とあります。あまりにも恵まれすぎて、冷水をくぐるような苦難の体験を通ったことがない、すなわち途端の苦しみをなめたことがないと、人に、「貫禄」が備わらないようです。

 これは、政治家だけに限られたことではありません。人としての重みが欠けているのが、現代人の一つの傾向、特徴なのかも知れません。風貌とか顔つきが、いかつくて怖そうだから貫禄があるのではありません。それは、ただ格好を付けていて、貫禄があるかのように振舞っているだけなのです。生活を通して、これは自然に身につく風格に違いありません。潤沢に物が備えられ、たらふく食べ、高等教育も当然のように受け、衣食住で苦しんだ経験がない人には、やはり貫禄がつかないのかも知れません。

 明治の軍人に乃木希典がいました。この方は、講談や浪曲でも語られるほどに、人間味、人情味のある人だったようです。東屋三楽という浪曲師が、「乃木将軍と太平」という演題の浪花節を語っています。信州の塩尻から出てきた太平(たへい)が、にわか雨の中で、乃木将軍に傘に入れてもらいながら宿に着くのです。このまま別れては申し訳ないと、一緒にお茶を飲もうと誘います。その誘いに応えて二人は、暫くの交わりを太平の投宿先で持ちます。自分の身の上を語る中で、長男は旅順の戦で戦死、次男は武勲を上げて〈金鵄勲章〉を貰って、今は退役し塩尻にいること、三男は近衛兵として「近衛連隊(天皇を警護するへ舞台)」で軍務についており、その三男の招きで上京し、面会に来たと告げます。帰りには、お国自慢の栗羊羹を、奥様にと土産にして手渡すのです。

 この太平は、それとは気づかずに乃木将軍(この時には退役して、学習院の院長をしていたのですが)に、このように軽口を叩くのです。『似てる!』と思いながら、太平には見破れないほど、乃木大将が謙遜な方だったからでしょうか。この前日には、名だたる大将の家を見学するのですが、乃木将軍の住まいに驚いています。あまりにも相応しからぬ、お粗末な〈おんぼろ屋敷〉住まいだったからです。帰国の後に、天皇に報告するための參内(さんだい)の折、他の武勲を上げた大将たちは馬車仕立てでしたが、乃木将軍は、愛馬の背に一人で皇居に参ったのです。『手柄を上げたのは私だけではない!』と言って、命を任せ従軍した軍馬にも功があったとして、『誉れを半分やりたい!』と、愛馬もろともに参内したのです。

 太平と別れて、家に帰った大将は、書生を遣わして自分の家に太平を招きます。あの話し相手が、自分の息子が出陣し戦死したときの将軍、乃木大将だとわかった太平は、彼は恐縮しながら、その家を訪ねるのです。乃木将軍もまた、二人の息子を、その時の戦で失っていたのです。将軍は、時間があれば戦死者の遺族を訪問し、『乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい。 』と、語ってていたそうです。

 明治期の大人の男子の身長(17歳男子ー明治33年・158cm、平成17年・171cm)に比べても、この乃木将軍は短躯な人だったそうです。目も不自由で、住む家も粗末で、人柄が謙遜でしたが、威厳に満ち、〈貫禄〉の十二分な人だったと語り継がれています。困難や失敗や挫折を厭わずに、命がけで雄々しく生きるならば、二十一世紀の男子でも、この〈貫禄〉を身につけることができるに違いありません。私は、口ひげを三度ほど生やしたことがありましたが、童顔はどんなことをしても駄目でした。それでも、『もう少し〈貫禄〉がついたらいいのだが!』と願う、晴天の秋の午後であります。

(写真は、太平の故郷、信州・塩尻市の「奈良井宿(中山道)」です)