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これまで、「幸福論」を書き著した人がたくさんいるのですが、それは取りも直さず、『人は誰もが幸せになりたい!』ということと、『だれも幸せの境地に達していない!』という結論になるのでしょうか。なんだか蜃気楼のようなもので、近づくほどに遠のいてしまい、煙のようにつかむことのできないものだというのでしょうか。
南カリフォルニア大学教授のリチャード・イースタンが、『幸せをもたらす要因は、愛する者との質の高い時間、健康、友人、楽観人生観、自制、高い倫理基準を保つことです!』と、報告しています。これは、1975年以降、1500人/1年間の長年にわたる調査結果によるものです。この調査報告を読みますと、6つの条件を満たすことによって、人は幸福になることができそうです。これを要約しますと、〈時と人と自分を大切にすること〉が、幸せになるための要点になるのでしょうか。
家内のおばあちゃんが、『人生って、「こんにちは!」を言ったら、もうすぐに、「さようなら!」を言わばければならないよ!』と言ったそうです。自分の生きてきた方を振り返って見ても、なんと時間の経つことが速いことでしょうか。立川の超満員の映画館で、大人たちの背中が邪魔でスクリーンが見えなかったときに、『早く大人になりたい!』と本気で思いました。タバコを吸ったりお酒を飲んだりして、早く大人になりたくて、背伸びばかりしていた中学3年くらいで、ほぼ大人並みの身長173センチメーターになりましたから、背格好だけは大人になりつつありましたが、肝(きも)は小さくて幼く、まだまだ未熟な自分を強烈に感じていました。
『もっと確り勉強しておけばよかった!』と、後になって悔やむような学生時代を過ごしました。中高の恩師の紹介で、社会人になり、一人前の顔をして、あちこちと出張して、本物の大人の社会に突入したのです。そして、ついに一人の「佳人(かじん)」と出会って結婚し、子どもが四人与えられて、二人で夢中で育てました。かつて親にしてもらった様に、自分に養育を委ねられた子どもたちにもしてあげることに責任を感じたのです。下の息子が二十歳になったときに、『親がすべき義務は果たし終えた!』と思ってみました。それでも、大人になっていく四人の相談に乗ったりしていましたから、親子の交わりは、親である私たちにも子どもたちにも必要でしたし、これは子どもたちがいくつになっても変わることにない、〈親子関係〉に双方があるからなのでしょう。
子育て中ほど、充実していた時代はなかったのではないでしょうか。もちろん仕事をしながら、父親としての責務を遂行していたのですが、夕には疲れて熟睡し、朝には目覚めて新しい日の責任を負いながら、日を重ねていたのです。私は疲れれば、車を走らせて山奥の温泉につかったり、蕎麦やうどんを頬張りに行ったりして、気分転換をはかる機会もありました。ところが家内は、四人分のオシメの洗濯を重ね、三度三度の食事を用意し片付けるという、とてつもない同じような日々を積み重ねて(もちろん四人の子どもたちの成長を実感する喜びはあったのですが)、まあ息をつく暇さえなかった30年だったのです。『申し訳ない!』、『女、いえ母親は強いなあ!』、というのが家内を見ての率直な思いでした。
そんな家庭でしたが、人の出入りが多かったのです。一時は十人くらいで、一緒に生活をしていたこともありました。『あの人たちは、今、何をしているんだろう?』と、消息のわからない方が何人かいて、少々気がかりです。タバコも酒も飲まず、悪い遊びをしないで過ごした日々は、まあまあ質の高い日々だったでしょうか。友人も、中国にも日本にもアメリカにも、そこそこいますし、健康であったと言えるでしょうか。39才の時に、ドナーとして腎臓の摘出手術をしたり、屋根から落ちて肋骨を折って入院したり、自転車で転倒して腱板断裂で入院したことはありましたが、総じて健康だったと思います。まあ〈短気〉は、どうも治りきらなまま持ち越してきていますから、この「自制」は落第点かも知れません。これだって、『正直だから腹がたつんだ!』と自己弁護の内です。家内に厳しいことを言って気まずい時も、寝て起きると忘れるてしまっているので、楽観主義者(被害を被った家内は気の毒ですが)だと思っています。最後の「高い倫理基準」は、若い日に、師匠と師匠の友人たちから、徹底的に叩き込まれましたから、心の戦場では、金と女と名誉との激烈な戦闘を繰り返しながら今日を迎えていますから、まあまあ及第でしょうか。ただし、これは自分の意志の強さなどではありません。
そうしますと、イースタン説によって、総合点で合格すれすれ、まあまあ幸福な生き方を、これまでしてくることができ、これからも、幸せを噛みしめることができるのではないか、そう自負しております。こんな自己点検を、今日はしてみました。青い鳥が運んでこなくても、ごく至近、自分の心の内に、幸せって小さくあるのではないでしょうか。
(写真上は、廃駅になった「幸福駅」の表示版、下は、「小さなことを喜ぶ」です)