『黒船襲来!』のニュースは、徳川250年の統治を揺るがした大事件でした。あの「元寇(げんこう、1274年と1281年の二度)」以来の外国勢力の来襲だったからです。もちろん幕藩体制の中にも、様々な問題や矛盾があったことは事実ですが、その崩壊の引き金になったのが、この一件だったことになります。浦賀には、煙を吐く真っ黒な鋼鉄製のアメリカの軍艦が、大砲を搭載して開国を迫ったのです。時、明治維新の15年前の1853年のことでした。江戸下屋敷に勤務していた土佐藩士・坂本龍馬は、品川沖の警護の任に当たっていたとのことですから、この黒船を目撃していたものと思われます。

 この4隻の軍艦を率い、アメリカ大統領の親書を手にしてやってきたのが、ペリーでした。強硬な態度で要求を突きつけたのです。捕鯨船の寄港の要求は表向きで、東南アジアの植民地化へのの武力による威嚇だったのです。その迫りによって、幕府は、1954年に、約束したとおり再びやって来たペリーとの間で、条約を締結し、国交を開始することになります。すでにイギリスは、清国(現中国)にアヘンの販売をして、莫大な収益を不平等な貿易で得ていましたし、アフリカ大陸の南端ケープタウン、インド洋のセイロン、そして太平洋に出るマラッカ海峡とシンガポールを押さえて、中国への植民地政策のルートを確保していました。このイギリスの次なる標的は、日本だったことになります。それに負けじと、太平洋を横切った別のルートを経て中国に進出していこうとするアメリカは、まず日本をも植民地にしようとしていたことは明白でした。

 海軍の4分の1を投入しての来襲だったのですから、アメリカが、どれだけ力を入れていたかが分かります。武力を持って条約締結を迫ったのには、理由があったのです。本来なら、平和的な手段で、捕鯨のための基地の建設や寄港の許可を求めるべきでしたが、アメリカの捕鯨船が難船して、遭難した船員が日本に救助を求めた際に、日本側に虐待されたのだそうです。『土着民に所持品は没収され、動物を入れる見世物にするような籠(かご)に押し込まれ・・・踏み絵を強制され、従わなければ皆殺しにすると脅された』との話が、アメリカの新聞に掲載されます。このような紳士的でない国との交渉は、武力以外にないとして、ペリーが来襲したわけです。つまり日本は野蛮国だと判断されたわけです。

 ところが、ペリーによる交渉が成立するやいなや、今度は、『実は日本は文明的な国だ!』と言い直したのです。ペリーは軍人でしたが、事前に、日本について相当研究をしていました。その彼に情報を提供していた、アーロン・パーマーは次のような言葉を残しています。『エネルギッシュな民族で、新しいものを同化する能力はアジア的というよりも、むしろヨーロッパ的とも言える。名誉を重んじる騎士道のセンスをもっており、これは他のアジア諸国と全く異なる。アジア諸国に見られる意地汚いへつらいの傾向とは一線を画し、彼らの行動規範は男らしい名誉と信義を基本としている。支那に隷属することもなく、外国に侵略されたり植民地化されたことがない。そして日本は東洋におけるイギリスとなるであろう(「国際派日本人養成講座」の記事から引用) 』といった、高評価を下しているのです。これは、幕末や明治初年に日本を訪れた多くの外人が共通に持っていた理解であります。

 幕末の若い武士層、とくに薩摩・長州・土佐の下級藩士の間に、〈尊皇攘夷〉の思想が芽生え、それが大きなうねりとなっていくのには、ペリーの来航は大きな意味がありました。しかし、徳川十五代の統治そのものが限界点に達しており、来たるべくして来、起こるべくして起きた本来的な原因だといえます。封建制を打ち破って、近代化していく時期が、歴史的に到来していたからであります。〈大政奉還〉がなされ、明治維新政府が誕生するや、諸外国の勢力に伍していくために、日本は、〈富国強兵〉の政策をとっていき、日清戦争、日露戦争に勝利します。さらに、ヨーロッパに起こった第一次世界大戦を契機として、大陸での権益を手中に収め、軍事的に進出をしていき、世界の列強の動きに同調していきました。そして世界有数の軍事大国となった私たちの国は、市場と資源を求めて、アジア全域に軍事的に進出していくことになります。その一つが、禍根を残す〈日中戦争〉の勃発と手痛い敗戦であります。

 『剣を取る者はみな剣で滅びます 』と言われています。これは〈丸腰〉になることの勧めではないと思いますが、自分や自分の家族や友人を守るための剣は許されるに違いありません。ただ人の平安な生活を脅かす剣は、二度と再び、子や孫たちに持たせたくないと思う、平和な時代の只中の平和な家庭で迎えている今宵であります。

(写真は、黒船来航の絵です)

遊び

 

 オランダの哲学者で歴史家のヨハン・ホイジンガ(1872年12月7日 ~1945年2月1日)は、1936年に「ホモ・ルーデンス」を著しました。1963年には邦訳も刊行されています。「ホモ・ルーデンス」とは、「遊ぶ人」と訳されるでしょうか。そもそも人間が人間である一つの証詞は、「遊び」にあるというのが、ホイジンガが言おうとしていることなのです。もう少し説明を加えますと、文化的であることと、遊びの要素を持つこととは、とても近い関係があるというのが、彼の主張であります。このホイジンガが哲学者なので、「遊ぶ存在としての人間」と、少々ややっこしい表現をしていますが、それは「労働する存在としての人間」の真反対に人がいることを言いたかったからなのです。簡単に言いますと、きっと『働くだけではなく遊び心を持って生きよ!』といった人生哲学を標榜(ひょうぼう)したのではないでしょうか。

 様々なアルバイトを学生の頃にしました。そのほとんどは肉体労働だったのです。その労働は、結構きつかったのですが、『働くことが苦痛だ!』と思ったことが一度もありませんでした。例えば、芝浦や横浜の埠頭で、『お前、そっちのお前・・・』と、手配師に拾われ雇われて働く〈沖仲仕〉もやりました。体が頑強であるか、よほど食い詰めたかでなければ、耐えられなかったと思います。大変に過酷だったのです。それでも、『嫌だ!』と思ったことはありませんでした。もちろん、当時としては結構日当が高かったのは事実です。そういった人のあまり好まない、3K級の仕事をしたという経験の面白さのほうが大きかったようです。アルバイトは、学費や本代や遊興費のためで、親の負担の軽減のためにも頑張りました。一番の収穫は、お金よりも、〈働く喜び〉だったことを思い出すのです。この経験は、その後、学校を卒業して勤務した職場でも、決して失うことのないものでした。仕事を億劫に感じないですんだのは、良かったと思っています。

 現代の多くの子どもたちは、『遊んでないで勉強しなさい!』、『宿題はすんだの?』、『塾はどうしたの?』と、尻を叩かれて面白くない勉強に駆り立てられています。点数だけが、その子の能力の算定基準になっているからです。先日、3人の小学生が、自殺未遂を起こしてニュースになっておりましたが、ほんとうに嫌な時代ですね。幸い、私の親は、バットやグローブやボールは買ってくれますが、一度も、『勉強しろ!』とは言いませんでした。諦めていたのでしょうか,それとももっと大切な自主性を養おうとしたのかも知れません。しかし、放任ではありませんでしたが。本来、人間が人間らしい所以は、「遊び」にあるのではないでしょうか。どうも人は、大人になると、嬉々として生きていた子ども時代を忘れてしまうのか、あえて忘れようとするのか、子どもらしさをきっぱりと捨てて、〈遊び〉を罪悪視さえしてしまうのではないでしょうか。私は、人の目を気にしない生き方をし、〈遊び〉をしっかりさせていただいたことは感謝なことであります。その〈遊び〉が、次のものを願い求めていく推進力となったのではないかと思うのです。

 最近、プロスポーツが面白くありませんね。観衆を喜ばすプレーが少なくなってきているのと、お金が第一、人気が第二になってしまっているからです。また薬物の力を借りて、腕力や筋力を増強したり、やる気を喚起刺激したりして、記録を伸ばそうとする、競争馬なみの選手が少なくありません。地道に血と汗の結晶のようなプレーを見る機会が少ないのです。そういった面白くないプロの世界を目指すアマチュアの選手たちも、野球を楽しむ、サッカーを喜ぶといった代わりに、契約金や報酬が大きな競技の動機付けになり下がっているのではないでしょうか。プレイを楽しむのではなく、勝つことだけを求めるフアンにも問題がありそうですね。フアンに見せて、大向こうを唸らせる様なプレイがあったら、大相撲のような凋落(ちょうらく)は決してないのではないかと思うのですが。感動したり、奮起させられるスポーツであって欲しいものです。

 ホイジンガは、『立ち返って子共のようになること!』を勧めています。享楽主義は好みませんが、人は、いつも喜び、明朗で、心が解放され、自由を楽しむべきです。人を硬直させ、緊張させ、過度に熱狂させ、疲労困憊(こんぱい)させるようなものは排除されるべきでしょう。心が健康でなければ、人生を健全に過ごすことができませんから、一見して、無駄の様に見える〈遊び〉をもう一度再評価し、正しく位置づけたいものです。父とキャッチボールをしたときの懐かしい思い出は、今もなお私の記憶に鮮明です。

(写真は、子どもの頃に楽しんで乗った「竹馬」です)