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10月10日は、日本では「体育の日」。生まれ故郷では、「駆けっこ」のことを「跳びっこ」と言った。村の秋の運動会で、就学前の代表に選ばれて部落対抗のリレーに、就学前のランナーとして出場したのである。収穫を終えた村では、祝祭の日でもあるかのような喜びが満ちていた。蓄音機の上の黒く光って回るレコード盤から、『赤いりんごに唇寄せて・・・・』と言う流行歌が流れていた。村で唯一の会社で、軍需産業に従事していたからであろうか、〈親の七光り〉での選出だったのである。ところがスタートの号砲に驚いた私は、漫画の出来事のように、みんなと反対に向かって走ってしまって、一番びりに逆貢献してしまったのだ。俊足だった兄たちは、足のろい私を囲んで、悔しがって頭を小突いたのである。それ以来、部落でも学校でも、私は代表選手になったことがない。
そんな私を、父は、特愛してくれた。小学校に入学する私のために、日本橋の三越で、帽子から靴まで一切を買い揃えて、山奥の我が家に送らせたのである。なんと靴は、足型をとっての特別注文だった。それで身を飾った私の写真が、残っている。写真屋を呼び寄せてとらせたのである。ところがである、入学間近になって、肺炎を患った私は、町の国立病院に入院してしまい、入学式で父を喜ばすことができなかったのだ。だから写真は、退院して病み上がりの私を写したものである。入院中に退屈した私は、母にはさみを持ってきてくれるように頼んだ。実によく切れるはさみだったので、何でも切りたくなった私は、毛布や布団まで切り刻んでしまったのだ。母は、そんな私を叱らなかった。
父には拳骨をされたことがあったが、母に叱られた記憶はまったくない。兄弟姉妹のいなかった母は、後年、『娘がいたら自分の出自を語れたのだけど、男の子たちには語れなかった!』と、回顧録に書いているから、娘が欲しかったのだろう。母は、父に男の子を4人産んだ。父も入れると5人のヤンチャな男の子を、母は育てたことになる。洗濯機も炊飯器も水道もない時代だったのだから、洗濯や食事の用意は大変だったに違いない。愚痴をこぼさなかったし、嫌がることもない。育って行く4人に、いや5人に献身的に仕え続けてくれた。ある時、上の兄に、縄跳びで遊んでいたときに、地面にたたきつけられたことがあった。大声で泣きじゃくって家に飛び込んで行った私を、声を聞きつけて玄関の上がりがまちで待っていた母は、私を両脚の間に入れて、頭を撫でて抱え込んでくれた。その優しさで、痛みがいっぺんに飛んでいってしまったのである。
溺愛の子、兄たちより父に特愛された子は、我儘で苦労することになった。これがなかなかの強者で、なかなか治らないのである。どんなに苦労したことか、見かねた父が、多摩川の岸に小学校4~5年の私を連れていき、二人のところでお説教をしてくれたのである。その諭しの効果でだろうか、私はすこしずつ変えられていくのである。しかし、愛された子には、特別な恵みがあるのだと思う。愛されて育った者には、心の安定があるのかも知れない。そんな変な確信があって、ここまで生きてこられたのだ。肺炎、落雷、水難、落下、自動車事故、転倒、様々な死の瀬戸際をくぐり抜けても、生きてこれた。『家族で一番早く死ぬのだろうか?』と思っていた私だったが、今日まで生きてくることができた。父は、私たちの結婚式の直後に召されてしまった。ところが、母は94歳で未だに、『元気!』と弟が知らせてくれている。その母に、未だに心配をされている不肖の三男である。昨日、娘から、孫が学校対抗のサッカーの試合で得点したと知らせてきた。いよいよたけなわの秋である。
(イラストは、小学校の運動会の定番「玉入れ競争」です)