裸の私

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 ずいぶん昔、「裸の王様」の話を、自分で読んだか、誰かに読み聞かせしていただいたことがありました。『見えない者は愚か者なのです!』という仕立て屋の言葉にだまされる王様が主人公です。特別な人にしか見えないという豪華な布で、仕立て屋は特別仕立ての素晴らしい服を縫い上げるのです。その洋服を王様に献上します。それを喜んだ王様は得意満面で着てしまいます。そして国民が見守る中を、王様は誇らしく城下の街を闊歩するのです。家来も国民も、『なんと素晴らしくお似合いでしょうか!』とほめるのです。ところが無垢な一人の子どもが、豪華な服を着ていると思い込んでいる王様に向かって、『王様は裸です!』と言いました。その一言によって、王様の裸の現実・事実を、王様も国民も認めるのです。『変だ!』とは思っていましたが、「愚か者」になりたくなかったので、言はれるままに王の面子を保つためでしょうか、着てしまったら、脱げなかったわけです。

 人はだれでも、「愚か者」と思われたくないのです。ですから、おかしいのが分かっていても、人の目や言葉を気にするあまり、この王様のような行動を取ってしまう傾向があります。人の目を気にするのですが、その奇異な行動がもっと人の目をひきつけてしまって、大恥をかいてしまうことになります。この王様のことを考えていて、思わされるのは、『王様は裸です。だまされているのです!』と、はっきりと指摘し忠告してくれる妻や子どもや家来や国民や友人を持っていなかったことが、彼の一番の不幸なのです。何時でしたか、ある自動車会社の欠陥車が死亡事故を起こしたニュースで賑やかなことがありました。その欠陥を告発したのが内部者だったと伝えられています。『黙っていればいいのに!』と思われるでしょうか。会社やユーザーや家族を愛するがゆえに、言わざるを得なかった、その社員の苦渋の選択と決断と勇気をほめたいのです。凶器にも変わる自動車を作り、売る者が持っている当然の社会的責任を果たしたわけです。しかし、そうさせない組織のしがらみや重圧があり、嫌われたくない誘惑だってあったことでしょう。でも、それ以上の事故や事故死を出さないために、また企業で働く者と家族の生活のこと、さらには傘下にある関連企業の存続への配慮などを考えますと、内部告発されたことは最善だったのです。

 ある書物に、デーヴィッド王とサウル王の物語があります。この話には考えさせられることが多いのです。サウル王は聞く耳を持たないばかりか、言おうとする者の口を封じ、言えない環境作りをして来ていたのです。ところがデーヴィッド王には、罪や過ちや欠点を指摘してくれる部下や友人がありました。彼自身が、権威を横暴に振り回さないリーダーだったので、《メンター(教育的な配慮を持った助言者)》を持つ余地が心のうちにあったのです。サウル王は、自らの欠陥のゆえに滅び、デーヴィッド王は、それを克服して王の職務も生涯も全うしたのです。アンゼルセンの作った寓話は、様々に解釈されるのでしょうけど、自分で気付かないか、勇気が無くて間違った選び取りをしている私にも、実に教訓的なのです。

 久しぶりに家に帰ってきた娘が、『お父さん、さゆりちゃんに、あんなこと言っていの?ちょっと厳しすぎるよ!』と言われたことがありました。知人のさゆりさんと私の会話を聞いていて、後になって二人になったときに、娘が、そう言ったのです。それほどきついことを言った覚えはなかったのですが、男ばかり4人兄弟の家庭で育った私には、そういった〈人を傷つけない言い方〉への配慮が欠けていたのかも知れません。娘たちは、私の話ぶりで、多分傷ついて育ってきていたのでしょうか。人の気持を察する優しさが育っていたのです。これは私にとって少々難しい学びでしたが、『言葉に気をつけなかれば!』 と思うようになって、まさに、〈負うた子に教えられ〉の経験をしたのです。親の面子は立たないので、『子どものくせに黙ってろ!』と言いたい気持ちもなくはなかったのですが、親の欠陥を黙っていられなくて、言ってくれた娘の気持ちが分かって、かえって感謝を覚えたことでした。そういった義を学んで育った娘の成長ぶりに、これまで何度となく助けられてきたか知れません。

 『雅仁、あなたは、まだまだ裸ですよ!』と、事実を言ってくれる家族や友人が必要な、足りなさに気付かされる秋風の日曜日であります。溜息をつく代わりに、感謝を覚えたいものです。

(写真は、母馬におんぶされる子馬です)