自粛


  「遠慮」、「奥床しい」、「自重」、「我慢」という、自己を規制している言葉は、日本人の感情表現や生き様を、的確に言い表わしているといえるでしょうか。そういったものを強いられ培って、忍従して生きてきた国民性を言う言葉なのでしょうか。島国で、農耕民族の私たちは、今年の収穫の中から、来年の植え付けのために、もし飢饉になったら、さらに2~3年後の蒔種のためにも、「種」を備蓄しておかなければならなかったわけです。蔵や洞の中に蓄えたら、狩猟民のように生活の基地を転々とさせて移っていくことはできません。農耕民族の我慢強さ、飢饉や貧乏などに耐えられる遺伝資質が備わっているのです。

  それで自己主張を強くしないで、『長いものには巻かれろ!』という人生哲学をもって、穏便に生きてきたのが、私たち父や祖父や曽祖父だったのにちがいありません。物が豊かで、機会にも恵まれた忍耐力のない私たちの世代の生き方とは違って、強靭な精神力を持っている世代なのでしょう。終戦後、軍需工場のあった中部山岳の山村から、東京に出てきた時の父を写した一葉の写真が、母の写真帳の中にありました。目の映るようなオジヤでしょうか、スイトンでしょうか、そんなモノしか口にできなかったそうですから、恰幅の良かった父とは別人の様な姿が映されていました。養育を委ねられた四人の男の子のために、戦中戦後を生き抜いて、食べ物や着るものを整えてくれた父の在りし日の姿なのです。

  『欲しがりません、勝つまでは!』というスローガンも、戦争中にはあったと聞きます。一億が、飢餓の中で耐乏を強いられていた時代、黙して争わず、そう要求されても、じっと唇をかんで生きていたのだそうです。そういった遺伝質を、この時代の私たちも受け継いでいるのでしょうか。3月11日に起きた大震災と大津波、それにともなう福島の原発の放射能漏れ事故、建国以来の大試練の中で、黙々として耐えている被災地のみなさんの様子に、世界は驚きの声を挙げているのです。そうやって耐えている大人を見て、『最近の子ども、若者は・・・!』と酷評されている若い世代も、それに倣っている様子には驚かされるのです。

  そんな被災地のみなさん、日本人をご覧になられて、 米紙、ニューヨーク・タイムズは、『津波後の日本は自粛という新たな強迫観念に襲われた!』との見出しの記事を掲載していました(3月27日付)。「自粛」とは、[名](スル)自分から進んで、行いや態度を慎むこと。『露骨な広告を業界が―する』」とyahoo辞書にあります。国や国家権力に強制されるのは「自粛」ではないのですが、暗黙のうちに「自粛」が要求されることは賛成できません。被災地の困難を考えて、自分の行動を律するのは《美徳》だと信じます。日本という文化と伝統の中で、培われた高い心の資質、人間関係の術(すべ)だと思われます。でも、《自粛》が呪縛のようになってしまったら、これも問題なのです。馬鹿騒ぎをしないで、尋常ではない華美に走らないで、生活を楽しむことは決して悪だとは思えません。十年も子どもに恵まれなかった夫婦に、赤ちゃんが与えられたら、『東北地方ではみんなが悲しんでいるのだから・・・!』と言って、生まれてきた赤ちゃんを喜び楽しまないとしたら、これは異常なことではないでしょうか。

  どこかに喜びの歓声が上がったら、それが反響し共鳴して、四方八方に喜びがまき広がっていくのです。東京や神戸や博多の喜びが、東北地方にコダマしていくなら、東北人は、それを嫌わないでしょう。かえって共に喜んでくれるはずです。《喜び方》の問題なのではないでしょうか。私は、家内の退院を喜び、友人や家族の喜びを共有し、四十周年記念の3本のローソクの点ったケーキを、「遠慮」も「自重」も「我慢」もしないで、実に美味しく頂きました。もちろん自粛もしませんでした!

(写真は、ヒラメキワークスの「自粛のTシャツ」です)

 
  《風評被害》、goo辞書によりますと、「根拠のない噂のために受ける被害。特に、事件や事故が発生した際に、不適切な報道がなされたために、本来は無関係であるはずの人々や団体までもが損害を受 けること。例えば、ある会社の食品が原因で食中毒が発生した場合に、その食品そのものが危険であるかのような報道のために、他社の売れ行きにも影響が及ぶ など。 」とあります。

  もちろん、『健康被害となる食品をむやみに食べたり飲んだりしても構わない!』というわけではありません。次の時代を生きなければならない、幼気(いたいけ)のない子どもたちの健康保持の配慮も、決して忘れてはなりません。でも生産者の悲痛な顔をテレビの映像の中に見、語る言葉を耳にしますと、実に辛い思いがしてまいります。農産品に被害があるということは、生産地と生産農家にも被害があるということになります。生産者みなさんは、そういった環境の中で生活をしているということになります。先祖から受け継いだ土地を離れられないで、耕し続け生産してきた地での生業(なりわい)を、そう簡単には捨てて離れることなどできないのでしょう。

  家内の入院と手術を終えて、今、次男の住む代官山の家で過ごし、家内の恢復を見守っています。次男が、こう言った東北大震災での原発事故の放射能飛散や余震が続くといった異常な現況の中で、母親と私を守ろうとしてくれているのです。この様な役割というのは、父親の私の長年の務めであったのですが、今や自分の子が細かく配慮してくれて、役割を引き継いでくれていることは、なんと言って表現していいのか言葉が見つかりません。《青春の蹉跌(さてつ)》というのでしょうか、思春期に辛い経験をして、今、三十歳になる次男が、人生の山や谷を超えて、東京のど真ん中、日本のIT産業の中心地の一角に本拠地を移して、借りた部屋で自営の仕事を始めているのです。その決して広くない部屋に、私たちを受け入れていてくれることは、彼のために幾度となく涙を流し、手を合わせて祈っていた家内にとっては、どんなに大きな慰めと励ましでしょうか。

  小さな彼のベッドで、家内と休んでいるのですが、三日前の夜中に膝を出したままだったので、『膝が痛い!』と言いましたら、芳香を放つ入浴剤を入れて風呂をわかしてくれた彼が、『お風呂に入って!』と勧めてくれました。昨晩、放射能汚染に関わり危機管理を訴える講演会から帰ってきて、『放射能に汚染された葉物は食べないようにね!』と注意してくれました。なんども死に損なって、おつりとか余分を生きていていると思っている私に、そう言って注意を喚起してくれて、『生きよ!』というメッセージを発信してくれているのです。実に嬉しいかぎりです。

  この2月に、勤務地の中国に戻る予定でしたが、家内の胆石治療、私の「人間ドック」での精密検査の必要を告げられての航空券を変更しての残留、その検査が『問題ない!』との結果が出た日の夕食後の家内の緊急入院、治療、退院、再入院による摘出手術で、日が過ぎてしまいました。もう4月、結婚4四十周年を次男の家で迎え、長男家族が訪ねてくれ、買ってきてくれたケーキで祝ってもらいました。なんと、孫たちが、《ハッピーバースデイ》を歌ってくれました。そういえば、結婚生活の中で与えられた4人の子どもたちが誕生したのですから、「結婚記念日」のこの歌は的外れではないことになります。20日に私だけで中国の戻り、今後のことを考えたいと思っています。残る家内は、息子たちが世話してくれますので、安心しています。遠くにいる娘たちも、『おいでよ!』と招いていてくれますが。

  未曽有の日本の現状のもとで、生活の中には余震への恐れ、生活の不安、将来への憂慮などがあります。そんな中で、『困難に強いDNAを、本人は受け継いでいます!』と、テレビで語っておられた東工大の先生の言葉が思い出されます。風評に惑わされない正確な情報を、次男が収集してくれて、その都度知らせてくれます。そんな彼に感謝している、満開の桜の卯月の東京であります。

(写真は、長右衛門の壁紙の「桜」です)