国務


 戦時の責任を負って処刑に甘んじた、名宰相・広田弘毅が、

       風車 風の吹くまで 昼寝かな

と詠みました。性格が温和だったことは、俳句だけではなく、死刑判決文を直立して聞く、その姿にも如実にあらわれています。ですから、外交知識や情報を綿密に収集するといった努力家だったと言われ、出世の野心などないまま、首相に選任されて、責を負ったことになります。広田と正反対な背景から出て、同時代を外交畑で活躍し、広田の減刑を嘆願し、戦後処理にあたり、「ワンマン宰相」 と呼ばれた、吉田茂が、次のような言葉を残しています。

『君たちは自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり 、歓迎されることなく、自衛隊を終わるかもしれない 。きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない 。御苦労だと思う 。しかし 自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは 、外国から攻撃されて、国家存亡のときとか、災害派遣のときとか 、国民が困窮し、国家が混乱に直面しているときだけなのだ 。言葉を換えれば 、君たちが日陰者であるとき、国民や日本は幸せなのだ 。どうか、耐えてもらいたい !』 
 (昭和32年2月「防衛大学校第1回卒業式」吉田茂総理大臣訓示)

  高校を卒業するに当たって進路を考えていた私は、3つの選択肢を考えていました。1つは大学進学、2つはアルゼンチン移民、3つは、自衛隊入隊でした。大学に補欠で入学しまして、南十字星を仰ぐ南米への移民を断念し、海上自衛隊への入隊も果たせませんでした。自衛隊に入るなら、生活が困らない、様々な資格を取得できる、国防意識を満足させられるといったことを考えたのですが。その5年ほど前に、防衛大学の第一回の卒業式が行われ、時の総理大臣/吉田茂が、国土自衛に就く卒業生に向かって、そう語ったのです。

  3月11日の東日本大震災、津波、原発事故の起こる中で、被災者と街の救と支援、事故処理などの職務を、いのちの危険を顧みないで、献身している自衛隊員の姿を見るにつけ、18歳の折の思いがよみがえってきます。私の敬愛したアメリカ人の実業家が、『あなたの家に犯罪者が侵入し、家族に危害を加えようとしていたら、あなたはどうされますか?』と問われたとき、『私は武器を手にとって、家族を守ります!』と答えられたのです。柔和で、平和主義者で、怒りの感情をあらわした姿を見かけたことなど一度もありませんでした。それを聞いた私は、意外なのと納得の思いとが交錯して、しばらくは判断に窮しましたが、やがて安堵と落ち着きを得ました。国を守る国防も、家族を守る愛も似ているのでしょうか。4人の子を育てた私とて、わが子が犯人に打ちたたかれているのを見たなら、その暴力から子を守ることでしょう。

  自衛隊のみなさんの国を守る自衛意識とは、国を形作る国土のみならず、国民をあらゆる想定される敵から守ろうとする国防意識にちがいありません。そのために、平時に厳しい訓練を受けて備えておられるのです。その備えが、今まさに人々の命を救い、命の保持のための食料を運び、瓦礫の山を片付け、放射能の拡散を防ぐため、作業に当たっていてくださるのです。『自衛隊は、穀つぶしで、税金泥棒だ!』と揶揄批判した人を恥じ入らせる、無私の救援に従事されているお姿に声援を送ります。吉田首相の言葉に、私たちの《幸福》を左右する自衛隊の各位に、とくに被災地で国務に当たるみなさまのご無事を、ただただ祈り願う、渋谷の空の下であります。

(写真上は、講和条約締結後寛ぐ「吉田茂」、下は、http://tundaowata.info/?p=8898の「自衛隊のみなさん」です)

危険な株

   
  『若者は安全な株を買ってはならぬ!』という言葉を、どこかで見付けたのは、まだ学校に行っていたときで、就活をしていた頃だったと思います。『将来の安定を約束している職業の選択はすまい!』と決心して、その年も暮れてしまいました。年が開けて、1967年の正月、中学校の《歴史クラブ》で指導してくれて、分倍河原や国領や日野で、古代の住居跡の発掘作業を指導してくださり、また、母校での教育実習の指導をしてくださったN先生から連絡が入りました。『八王子に教育研究所があって、私の昔の同僚が事務局長や課長をしているので、働いてみませんか?』との誘いでした。卒業を前に何も決まっていませんでしたので、履歴書を持ってその研究所に行ってみました。面接を受けましたら、即採用してくれたのです。M先生の紹介があったからでした。 

  その研究所長を、早稲田大学の学科長が兼務されておられ、ことの外、この所長が私に目をかけてくれたのです。この方の弟子で、早稲田で講座を持ち、都内の短期大学で教務部長をされている先生(研究所の研究員でもありました)の口利きで、この短大の付属高校の教員にと招いてくださいました。それで研究所で3年勤務した後、その学校で働き始めたのです。三流大学卒の私でも、そういった人脈に恵まれますと、将来は大学の教壇に立つことができるようなレールが敷かれたのです。そのレールに乗るために、「論文」を書くように勧められ、その準備にとりかかった頃に、熊本で働いていたアメリカ人実業家を訪ねました。その訪問時に、『一緒に働きませんか!』と招かれたのです。《安全な株》を手中にしていた私ですが、あの『若者は安全な株を買ってはならぬ!』という《座右の銘》を思い出しました。この方が招いてくださった事業は、将来が見えないものでしたが、やり甲斐のある仕事、使命感を湧き上がらすものであったことは事実でした。それで、私は、二つ返事で了解を伝えたのです。

 その受け次いで三十数年従事した仕事を、他の方に委ねて、2006年の夏に、中国に渡りました。私の決断に賛同してくださった友人や先輩や家族から、その新しい歩みのための資金が寄せられたからです。今40年前の決心を思い返し、2006年の決断を想い、悔いがまったくないのです。私たちには、家もありませんし、寄せられた貯蓄もわずかですが、それでも《心は錦(そんなフレーズの流行歌が昔ありましたが)》なのです。中国に参り、天津で1年間語学勉強をしました後、華南の1つの街に導かれました。こちらに参りましたら、何の伝手(つて)もなったのですが、中国人の中に友人たちができ、彼らの紹介で、ある大学で日本語を教える仕事が与えられたのです。子どもというよりは孫の世代の学生のみなさんと一緒に学び合いながら、5年間で断念した教育者の道に再び立ち返り、キラキラした眼差しをぶつけてくる彼らに、こちらも真剣で応答させてもらっています。

  昨秋、家内が病み、地元の病院(戦前にイギリス海軍が持っていたものです)に入院し治療を受けました。退院後、中国漢方医の治療を受けましたが、私の授業と期末試験が終了しましたので、1月中旬に帰国し、東京で治療を継続してきました。2月になって、私の帰国日の翌日、家内の病気の再発、即入院、治療、手術ということになってしまったのです。14日のフライトを予約していましたが、『あなたの人間ドック(家内の病気で心配した子どもたちから、『どうしても検査を受けて!』と言われて、やむなく受けました)の検査結果が、2月15日ならないと出ない!』とのことで、ひと月中国に戻るのを延期していたのです。延期して検査結果が出ましたその晩に、家内が突然激痛に襲われ、救急入院をしましたから、人間ドックの検査のおかげで、再び激痛に見舞われた彼女のそばにいて看病することができた次第です。
  
 次男の家で術後の静養をして、日柄良くなってきている家内ですから、最終予約の4月20日の飛行機で、私は一先ず、中国に戻ることにしています。そんな今朝、読売新聞の「編集手帳(4月1日付)」を読みましたら、あの《座右の銘》は、異質の詩人、ジャン・コクトーが言った言葉だということを知ったのです。東日本の大震災、福島原発事故の復興や復旧事業に従事している自衛隊、警察、各自治体職員、NGOのみなさん、あらゆる分野からのボランティアをされているみなさん、東電職員、さらには諸外国から駆けつけてくださった救援隊等のみなさんが、《危険な株》を手にして奮闘しているのを見るにつけ、さらには年老いた母のことを思うにつけ、中国への帰巣には、後ろ髪が引かれますが、これも導きかと思うのであります。昨晩も、強烈な余震が、次男のマンションを揺り動かし、『お父さん早く出よう!』という次男の呼びかけに家を出ました。原発の汚染もあり、『うーん?!』、と戻るのに迷うのですが、貧しく弱い者を、これまで導いてくださった《牽引の糸》を感じていますので、この糸に身と心を任せることにしましょう。最善がなることを信じて!

(写真は、http://nicovip2ch.blog44.fc2.com/blog-entry-2230.html所収の「自衛隊支援」です)

心の制服


「乗っていたのは3両目。どの電車かわからない」。津波で崩壊した駅に立つ吉村邦仁巡査=福島県新地町のJR常磐線の新地駅
  東日本大震災の発生直後、福島県新地町のJR新地駅に停車中の電車が大津波にのみ込まれ た。約40人の乗客と乗務員の命を救ったのは、偶然乗り合わせた2人の巡査。彼らの行動を後押ししたのは警察学校で学んだ「制服を脱いでも『心の制服』は 脱ぐな」という教えだったという。
  相馬署地域課の斎藤圭巡査(26)と吉村邦仁巡査(23)。1年前に巡査拝命。震災当日は福島市の警察学校から相馬署に赴任中でスーツ姿だった。
  電車が揺れた。乗客は20~70代の約40人。吉村巡査は「肝が冷えるような揺れだった」。乗客の携帯電話のワンセグテレビ機能から大津波警報が流れていた。
  斎藤巡査は乗務員に「私たちは警察官です」と手帳を見せ、2人で乗客に「役場まで避難しましょう」と声をかけ続けた。「警察官として何をなすべきか」「誘導した後、もし津波が来なかったら…」
  多くの思いが心をよぎったが、余震で車両がゆがみ閉じ込められないようすべてのドアを手動で開け、約1キロ山側の高台にある町役場へ誘導した。吉村巡査は「『大丈夫。家族が来るから駅で待つ』というおばあさんを懸命に説得した」。

  役場に着き背後を見ると「不気味な大波が車や建物をのみ込んでいく。正直怖かった」(斎藤巡査)。半信半疑だった乗客もすさまじい形相で悲鳴を上げた。
  現在、斎藤巡査は相馬港に近い尾浜地区で行方不明者の捜索を続けている。駐在所も流された。「普通に暮らしていた方が突然津波にのまれた。冷たい水の中にいたご遺体を家族に引き渡すたび、悲しみを抑えられない」と話す。
   新地駐在所で捜索を続ける吉村巡査は、建物も田畑も消えた一帯を見つめ「もう以前の光景は思い出せないが、『俺たちも頑張るからおまわりさんも頑張ってくれよ』という住民の声に元気をもらっている」。
   相馬署の生田目剛次長は「涙を流しながら訪れてくる乗客や礼状が相次いでいる。ベテランに劣らぬ判断で使命を果たした」と話す。2人の志望は、刑事という。(msn産経ニュース2011.4.7 19:57 ・中川真)