信頼


避難所から分けてもらった食料品を受け取る住民たち=南三陸町志津川大森東、日本大震災から3週間余りがたった被災地では、避難所に物資が行き渡り始める一方、大津 波の直撃を免れた自宅で暮らす「自宅避難民」への支援が課題となっている。避難所暮らしの人よりも物資が不足しているケースもある。壊滅的な被害を受けた 宮城県南三陸町で、高台にあったために建物の損壊を免れた集落では、住民たちが厳しい生活環境の中、助け合いながら自宅避難生活を続けていた。(田中一 世)

 南三陸町中心部から約1キロ、がれきに囲まれた道を進んで高台に上がると、外見上は被災の痕跡を感じさせない「志津川大森地区」の住宅街に出る。62世帯268人が今も暮らしているが、電気、ガス、水道はストップしたままだ。

  毎日、午前10時過ぎ、集落の広場に続々と住民が集まり、すぐに70人以上が行列となる。そこに、同地区の区長を務める三浦友昭さん(62)の軽トラック が到着。住民数人が手早く荷台から段ボールを降ろす。三浦さんが約2キロ離れた避難所に連日通い、“おすそ分け”してもらっている食料だ。

 「じゃあ配るぞ。きょうはおかずはついてないけど、トイレットペーパーをもらってきた」。三浦さんの言葉に拍手がわいた。この日の食料は、住民1人につき、お湯をかけるだけで食べられる保存用のご飯のパックが1つ。それが、集落の住民がこの日に受け取った“支援”だ。
 住民らは、争うことなく、順番に家族の人数を申告し、その分を持って帰る。三浦さんは言う。「嘘の申告なんてないよ。集落自体が、避難所みたいなもんだから。みんなで助け合い、信頼しているのさ」。ほぼ人数分しかない物資が、住民全員に行き渡らなかったことはない。

 主婦の佐々木宣子さん(72)は「家の食料は底をついたし、街が無くなっちゃったから買い物もできない。これが私らの命綱ね」。先月11日の大津波は、海抜約30メートルの集落にも迫った。津波にのまれて犠牲になった住民も3人いたが、住宅は大半が無事だった。

  地震から5日ほどたったころ、電気が止まっているために冷蔵庫の食品が腐り、食料が尽きた家庭が相次いだ。そこで、三浦さんは町役場に「住民の食料をもら えねえか」と直談判した。すると「申し訳ないが、1日1回だけ取りに来るという条件なら可能だ」という答えが返ってきた。

 自宅暮らしとはいえ、水道が使えないので洗濯もできない。体調を崩したら、医師がいる避難所まで行かなければいけない。だが、三浦良美さん(78)は「自分の家に住めるというだけ、まだ幸せ」と話す。

  同地区には最近になって、たまにボランティアが差し入れに訪れる。だが、避難所のように世話係の自治体職員が常駐しているわけでもない。同町の担当者によ ると、こういった自宅避難民の数は、正確には把握できておらず、「避難所に比べ、物資が届く仕組みができていないのが実情だ」。(110404・msn産経二ユース)

 
(写真は、大震災以前の南三陸町の「アワビ漁風景」です)