[旅に行く] 海山を渡って飛ぶ

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 身長173cm(最長期のもので今は?)、体重69.5kg(今現在)の私にとって、[体長 10cm、体重 0.5g足らず]のアサギマダラ(浅葱班目)の飛行距離が、2500kmだと聞いて驚嘆しています。もうこれは、創造主の傑作の一つだと思わざるを得ません。鶴がヒマラヤの山を超えて飛ぶと言うのも驚きですが。それよりも、この私が、まだ自転車でスイスイしてることが不思議でしょうか。

 「アサギマダラは体長4〜6センチ。春には北海道や本州北部、秋には九州や沖縄などに長距離移動する。本県では奥日光でも個体が確認されている。県立博物館などによると、今年も6月下旬に県内で飛来が確認され、お盆明けごろには南下を始める見通し。」と、「下野新聞」の2022812日号で伝えていました。

 風に乗ってひらひらと飛ぶのでしょう。その飛ぶ力、Energie は、花の蜜なのだそうです。フジバカマ、テンニンソウ、コシアブラ、モンパノキ、コスモスなどの花から吸蜜しているのだそうです。花の純粋な蜜は、私たち人間にもよいのでしょうね。
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 聖書に、蜂蜜(honey )と ミツロウ(「ミツバチの巣の滴り」と訳されています/蜜蝋/ honey corn)が出てきます。

 『それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。(詩篇1910節)』

 蜜は、甘いだけではなく、身体には有益な食べ物であるようです。アサキマダラは、それを摂取して、長距離を移動できるのです。花の蜜を求めて飛び、吸蜜しては飛んで、長距離を移動するのだそうです。[0.5g]の体に、どれ程の量の蜜を蓄えられるのでしょうか。しかも、独特な種類の花の蜜をです。

 下の息子が、自分の母親の体に好い、回復に良いと言って、[マヌカハニー(manuka honey)]を持ってきてくれたことがあります。自然天然の中に、創造主は、驚くべきものを備えておいでです。人の知恵で科学的に生成したものも、神の与えられた知恵によって製造されますが、自然界には、未加工なままに、驚くほどの物質が備わっているのです。

 身体の中に、たぶん血液や体液の中に、外部から侵入してくる有害な物質を駆逐してしまう、自然治癒の物質があって、それを有効化するものが、自然界には多くあるのでしょう。

 それにしても、アサギマダラの長い旅には、驚かされます。それを風に乗せて運ばれる、創造者の方が、さらに、私を驚嘆させてしまいます。代を替え、子や孫が同じコースをたどるのは、神がくださる《いのち》の輝きでしょう。一緒に風にのって、2メートルほどしかジャンプしかできない私は、山を越え海を渡って、飛んでみたいなと思うのです。

(「下野新聞」に掲載された写真です)
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さらなる回復を願って

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 一時期、聖書を、共に学んだ同窓のアメリカ人がおいででした。試験があると、彼はほぼ満点で、半点ほどの私との差は歴然としていたのです。その時、気付いたのは、Christianity の社会で育った彼と、自分の霊的な理解力には歴然たる差があることでした。この方は、“ Jesus Movement ” の中で信仰を持たれていたのです。私はと言うと、長く信仰生活をしてきた母から信仰的感化を受けてきてはいましたが、雰囲気だけは分かっていたのでしょう。

 霊的だけではなく、アメリカの名門の大学を出ていた彼の知的な高さもありました。奥さまは北海道の出身で、アメリカぼ大学に留学中に、お二人は出会っています。素敵なヴァイオリン奏者だったのです。日本にやって来られて、仙台近郊の街に住んでいて、その街においでの宣教師の紹介で、私たちの世話をしてくれた宣教師を訪ねて、越して来られたのです。

 上のお嬢さんが、まだ幼かったのです。45年一緒に過ごしたでしょうか。月数回のスーパーマーケットの定期的床清掃の仕事を、スタッフとして関わってくれました。彼は、自然的なことにも忠実でした。週日は、YMCAで英語を教えておいででした。ここでも能力を買われておいでだったのです。ちょうどその頃、教会堂の建設に関わっていて、母教会の姉妹の息子さんが、一級設計士で、勤めていた優良建築会社を辞められて、14ヶ月間、彼の指揮の元、建設に取り掛かったのです。

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 京都からも、宣教師のもとで、聖書を学ぶために来られた、若いご夫妻も加わって、立派な会堂が竣工したのです。母教会や近い交わりの教会から、お手伝いのために来てくださり、実に堅牢な教会堂が建設されたのです。

 会堂が竣工後、しばらくして、宣教師さんの紹介で、アメリカの東部にある教会に、ご家族で戻って行かれました。それ以来、一度家内は、姉の住む街を訪ねるためにアメリカに行った時に、このご家族を訪ねて、良い交わりがあったようです。

 彼らの帰国以来、お会いすることはできないのですが、この2、3年、ネットで旧交を温めているのです。家内の闘病に応援を送ってくれたりで感謝でいっぱいです。今は、アメリカの東部の自然の綺麗な環境の中で、定年後を過ごしておいでです。ところが先日、ご主人が病んで、この度、入院手術をされたのです。奥さまから祈りの要請があって、お互いに祈り合える交わりが戻ってきています。

 4人のお子さんたちがおいでで、お嬢さんは、私たちの二番目の娘と、幼稚園の同窓で同い年です。あの年月が懐かしく思い出されます。奥さまからの連絡で、手術後の経過は良好とのことです。若い日の一時期を共に過ごした方で、短気な私の被害者の一人でもあります。さらなる回復を願って祈っております。

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「これが道だ。これに歩め」

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 ” World  baseball classic 2023 “ tournament戦が、ABCD4つのpoolで行われ、日本は “ pool B ” で、3月9日から、オーストラリア、韓国、チェコ、中国との対戦で、東京ドームを球場に開催されています。上位2チームが、4つのpools から勝ち上がって、準々決勝、準決勝、そして決勝が行われていくのです。。

 子どもの頃、一緒にキャッチボーをしてくれるほどの野球フアンだった父は、テレビで巨人戦を観戦し、放映時間が終わると、試合の続きをラジオで聞いていました。テレビを置いていないわが家なので、ネットの ” Radiko “ で、ニッポン放送の中継放送を、父の真似をして聞いているのです。

 面白いのです。野球を知っているので、映像に頼らなくても、プレーが分かり、目で観られない分、想像力を働かせることができるわけです。選手陣は、ほとんど知ならい世代の代表選手ですが、興味津々で、ear phoneで〈聞戦(観戦ではないので)〉していました。

 お母さんが埼玉県東松山市出身で、お父さんがオランダ系のアメリカ人のヌートバー( Lars Taylor-Tatsuji Nootbaar )が、日本代表で出場しています。MLBのセントルイス・カージナルスに在籍の25才のMajor leaguer です。なかなかの人気者で、好漢のようです。

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 私たちの外孫も、野球選手で、シーズンが来ると、娘がVideo映像で、その活躍ぶりを知らせてくれていました。来年は大学で、野球チームの年配のコーチは、大学推薦を考えていて、彼に推薦進学を勧めてくれているようです。ところが、彼はあまり乗り気ではないのです。もちろん、本人が決めるべきです。

 可能性を評価してくださる、” Mature(円熟した)な指導者の言も、聞いたらいいのではないでしょうか。ここまで育ててくれた二親の率直な思いも聞いたらいいのです。人生の祝福の秘訣は、よい、” Mentor “ を得ていることです。ドイツ系なのだでしょうか、その背景の父親と、日本人の背景の母親の子として、今World classicの野球で日本代表として活躍している、ヌートバーに似た背景の彼のmiddle nameの名の提供者の、このジイジは、そうも思うのです。

 若い頃に、何度か、Mentor の必要を挑戦されたことが、私にあります。どんな心の中の赤裸々な想いを分かち合える導き手の必要性です。親、教師、先輩、友人かも知れませんが、主が備えてくださる器です。一緒の祈ってさせてくれ、なんでも言ってくれる人です。年配者、先輩、親友、さらに親、教師、祈ってくれている人の助言は、聞く価値があります。

 愛媛県に、Mentor を求めて出掛けたことが、私にはあります。人には、それが必要な時があるです。もう何年も何年も前のことでした。今は、ただ《知恵あることば》を聞いたり、また語れるように願っております。よい「選択」と、明確な「決断」があれば、『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳のうしろから、「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。 (イザヤ30:21)』と、背後から語られる主のことばを聞きわけることができます。

( "キリスト教クリップアート “ の語りかける主です)

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見つけた春

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 今日は、巴波川沿いの土手を下って歩き、市の浄化センターの脇を曲がって、県道に出て、JR両毛線の高架橋を越えてみました。キョロキョロしながら、春を見つけながらの散歩でした。

春が来た 春が来た どこに来た
山に来た 里に来た 野にも来た

花がさく 花がさく どこにさく
山にさく 里にさく 野にもさく

鳥がなく 鳥がなく どこでなく
山でなく 里でなく 野でもなく

 ウグイスの声は聞こえて来なかった代わりに、カラスが、センターの林の中で、にぎやかに鳴いている声が聞こえてきたのです。カラスだって、春を歓迎して楽しんでいるのでしょうか。素晴らしい季節の到来です。

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道すがらの春です

 

 29日に、怪我をしてから、一ヶ月が経ちましたので、昨日、整形外科医に出掛けました。治癒とのことで、〈散歩解禁〉で、今朝は総合運動公園まで出掛けてきました。

今頃、まだ小さかった子どもたちが、『春、見つけに行ってきまーす!』と出掛けて行ったのを思い出して、ジイジも、道すがらに《あった春》を見つけて帰ってきました。

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あのことのあった日米に

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 『憧れのハワイ航路!』と言った歌詞の歌がありました。終戦から3年後に流行った歌だそうですが、真珠湾攻撃をしてから10年も経たないのに、日本人が、ハワイ観光を考えることが出来たことに、日本人の不思議さを感じてならないのです。ちょうどドイツ人が、ポーランドのアウシュビッツに旅行することを、しかも憧れて観光したいと願ったことと同じに考えたらたらいいのかも知れません。ほとんどのドイツ人はしなかったでしょうに。

 それまで鬼畜米英だと言っていた日本人が、敗戦後、何年も経たないうちにアメリカ映画を観て、洋モクを吸って、アメリカ製のウイスキーを飲むことに、何の抵抗もなく、心を翻すことができるのですね。適応力がいいと言えば、それですみますが、感情が平気でついていけることが不思議でならないのです。

 新聞小説の「氷点」で一躍、売れっ子作家となった三浦綾子は、戦後、大きな心の葛藤を覚えたことを語っておられます。戦時下、小学校の教師をしていた時に、多くの小学生に、戦争を肯定したこと、そして何人もの生徒を予科練に征かせたことを悔いたのです。国の教育政策に従いながら、自分が間違ったことを教えたことに、痛恨の念を覚えたことを明かしていました。

 でも多くの人たちが、そっと口をぬぐって、平気で主張も思想も変えてしまったのだそうです。支配者や指導者が変わると、上手に追従できる日本人のことを考えますと、徳川300年の鎖国下に、『長いものには巻かれろ!』とか『寄らば大樹の陰!』と言った処世術を身に付けたからなのではないか、と考えてしまうのですが。

 数年前に、息子の結婚式がホノルルで行われた時に、それまで避けていたアリゾナ・メモリアルの戦艦アリゾナの見学を、息子の結婚を機に、実現したのです。この息子が、ハワイ島ヒロの公立高校で学んでいた時に、級友から、『真珠湾の奇襲攻撃を、どうしてくれるのか?』と責められたのです。とっさに16才ほどの息子は、『では、広島をどうしてくれるんだ?』と返したのです。50年近くも経っているのに、おじいちゃんの世代の出来事を、双方が引きずっていたことになります。

 さて、戦後の子なのに、特攻隊や予科練に憧れた軍国少年魂に燃えていたことのある私は、加害者だという意識があったので、何度もハワイを訪問しながらも、行けなかったのですが、意を決して家内を伴って息子と訪ねたのです。アリゾナ・メモリアルのステージの上に立った時、『申し訳ありません!』と言った気持ちで涙が流れて仕方がありませんでした。

 『関係ない!』と言えば、そうかも知れません。しかし、侵略の被害者の中国や韓国の人たちのことを考えますと、靖国神社を参拝する日本の首相の無配慮な心に対して、『関係ない!』と、私たち加害者の国の国民には言えないのではないでしょうか。

 戦時下に、中国大陸や朝鮮半島や真珠湾で、どんなことが行われたかを知ったら、靖国神社の前で、心の踵を返して、『本当に申し訳ありませんでした。赦してください!』と謝罪して当然ではないでしょうか。私たちの世代は、アメリカのキリスト教会から贈られたLALA物資の脱脂粉乳を飲んだ時代の子だったのです。加害者の国の善意によって、生かされたのです。 あれから何年も何年も経っています。

 忘れる努力をしていてくださる中国や韓国のみなさんの前で、国家的な過去の罪を、真に知るべきではないでしょうか。そして、心からの謝罪をすべきだと信じるのです。たいへん遅過ぎるのですが。 

(写真は、ハワイのパール・ハーバーの「アリゾナ・メモリル」) 

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[旅に行く]天なる都を目指して

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 『真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。(使徒162533節)』

 中学生の時に、「足摺岬(田宮虎彦著)」を読みました。主人公は、死場所を求めて旅に出るのです。肺病に罹った大学生が主人公でした。世をはかなむのでしょうか。失恋でしょうか、自己嫌悪でしょうか。絶望するのでしょう。死が問題解決をもたらせたり、苦悩から解放してくれると錯覚するからなのでしょうか、ある人は死を選ぶのです。

 若い人が死に急ぐ、重大な社会問題があります。特に、日本の場合は深刻なのです。自分には自殺願望はなかったのですが、時折聞く、自殺のニュースで、無関心ではいられなかったのを思い出します。小学校の遠足で訪ねた日光、その華厳の滝から、これも旧制一高(東大)の学生の藤村操が、「巌頭之感(がんとうのかん)」と言う遺書を残して、1903年、投身自殺をしたのです。16歳でした。

『悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの晢學竟に何等のオーソリチイーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨をいだいて懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巖頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀に一致するを。』

 この人の死後の4年間に、185名の人が、巌頭に立って、華厳の滝に身を投げて自殺を図っています。自殺が美化されて、後追いのようにして真似て死んでいくのも、日本的な特徴かも知れません。

 あの田宮虎彦は、1988年、76歳の時に、脳梗塞で倒れて、右半身不随になってしまうのです。大学生の頃に、死場所を求めて、土佐は足摺岬にまで行きました。土佐は、両親の出身地でしたから、特別な意味を持っていた地だったのでしょう。でも自殺を思い止まったのです。お遍路さんや薬の行商人たちの泊まる宿で、諭されて、自殺を思いとどまり、学校に戻ったのです。

 16歳の青年ではなく、七十路で老成すべき、超越すべき、全てを身に受けて生き続けるべき年齢になって、田宮虎彦は自死を選んだのです。死の問題を解決していないなら、どんなに社会的な名声を得て、大成しても、その一生に意味がなくなってしまうのではないでしょうか。

 『死んではいけない!』、これは、聖書が一貫して語っていることです。いのちの付与者にとって、それは耐えられないことなのです。苦悩しながら、煩悶しながら、懊悩しながら人は生きるのです。その中で、創造者、いのちの付与者、救い主、助け主に出会って、生きる意味を発見していけるのです。

 また聖書は、私たちを、「旅人」、「寄留者(ヘブル1113節)」と呼んでいます。この旅には到達点があることも記します。

 『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル111316節)』

 主の御名を高く上げながら、主に栄光を帰しながら、輝いて生き抜こうと願っています。生き抜いて、天(あめ)なる永遠の都に凱旋する日までです。人は、生きなければならないのです。

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神の摂理に任せて生きる

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 『夢を買うんです。当たらないことが分かっているんですけど、やはり年に数回、買うのを楽しんでいるのです!』と言う方がいらっしゃいます。私は、このような動機で〈宝くじ〉を買われる方とは違って、これを買いません。パチンコも競馬もマージャンも株もしません。

 中学生の頃に、日本中央競馬会の調教師の子が、級友に何人もいましたので、彼らの仲間になって、府中の競馬場に行ったことがありますが、馬券を買ったことはありませんでした。立川の競輪場に行ったこともありますが、中の様子が見たくて、学生の頃に一度行ったきりでした。父の家の川向こうに、競艇場がありましたが、そこも行きませんでした。

 ただパチンコは、私の育った町に一軒ありましたので、父の後について行って、拾った玉を入れて遊んで以来、20代の初めまでしていましたが、教会に行くようになってからは、まったくやめてしまいました。

 開拓伝道の貧しい中で、その貧しさを克服しようとして、わずかなお金で宝くじを買った牧師さんがいました。『主よ当ててくださいますよね。教会堂を建てるのは御旨に適っているのですから!』と祈ったのですが、当たりませんでした。株がいけないと言っているのではありません。でも何かが間違っておいでです。

 労働の三要素の1つは、「資本」であり、今日の企業の経営にあたって、株式のシステムは、どうしても必要です。そして、小学生が、これを学ぶのは大切なことなのです。出資者がいて、企業が活動することが出来るからです。ところが、小学生が、お小遣いで、株を買っているというニュースを聞きます。小額の投機で、多額の利益を得られることに魅力を感じてしまっているからなのです。

 オランダで首相であった神学者のアブラハム・カイパーという方が、アメリカの大学に招かれて講演をしました。その1つの講演で、次のようなことを言ったのです。『カード遊び・・カード自身に悪魔が潜在しているというのでもありません。しかし、この遊び心が心を誘惑して、神より離れさせ、運とつきに依頼させようとする恐ろしい傾向を助長するからです・・神以外のいわゆる偶然、あるいは幸運と称する空想的運命力を軽率に信じる気持ちを養う・・・人々は、自分の仕事をこつこつと努力するよりも、幸運の一喜一憂に対して・・・心惹かれております・・・神の摂理よりも偶然性を強く望むことによって、(感覚の)泉を汚染させてします・・・嫌悪せざるを得ません。』と、次の時代を担う学生に、百年も前に、そう語ったのです。

 私たちは、運命の力に、自分の人生を任せたり、賭けたりするのではなく、神の摂理に自らを任せるべきです。遊び心だと、軽く考えておられても、それが生きる姿勢そのものになってしまうのです。私は「運」や「つき」に、自分の人生が左右されることを願いません。たとえ状況が悪く感じられることがあっても、それは、『神さまは、何かを教えたり、注意されているだ!』と思うことにしています。

 結婚や留学や離婚のために貯えてあった貯蓄が、この教会堂のための土地と会堂と教会の事務機材の購入のためにささげられました。夢の実現よりも、神のご計画に賛同され、また離婚計画は、主によって不要になったからです。しかし主は、主と社会の前でなされた、その選択と決断と信仰とを覚えておられるのです。「エレミヤ書」に、次の有名なみことばがあります。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもの(29:11)」

 春到来、『どんな素晴らしいご計画が、自分の生涯に、備えられてるのだろうか!』と歳を重ねた今でも思い巡らす、わくわくと胸躍らされる週日です。

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東京都

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 東京を取り上げる上で、どうしても記しておきたいのは、江戸城を築城した太田道灌です。室町時代末期、足利氏の出の優れた武将でした。有名な話は、狩の時に、にわか雨を避けるためにでしょうか、しばしの休息をとった農家の娘に、雨をしのぐ蓑(みの)を借りようとするのですが、この娘が、「山吹」の花を、道灌に差し出したのです。

 その意味が理解できない道灌は、怒ってしまうのですが、部下が解説するのです。

 

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七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき

 八重山吹の花は、綺麗な花をつけるのですが、実りをつけないのです。彼女の家には、貧しさのためか、お貸しする蓑でさえ、一つもなかったのを、歌に呼んだと言う顛末を語るのです。恥入った道灌は、それ以後、和歌を熱心に学んだのだそうです。この故事にちなんで、「山吹町」と言う地名が、新宿や葛飾や埼玉県下の越生(おごせ)にあるそうです。

 

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 アメリカ合衆国の首都のワシントンのポトマック河畔に、桜が植えられてあります。それは、タフト大統領夫人の発案で、首都ワシントンに、日本の桜の樹を移植しようというプランから始まったのです。それを聞いた尾崎行雄は、『絶好の機会であるから、先方には買わせずに、東京市からワシントン市に寄贈しよう!』と思って、市会にかけて、寄贈が決まったのです。それで春が訪れると、ワシントンの桜は、今でもきれいに咲くのです。

 東京の基盤をすえた人で、けっして忘れてはいけいのが、この東京市長を務めた、尾崎行雄です。明治36年(1903年)、45歳の時に市長になり、同45年(1912年)までの九年の間、市長として、その辣腕を振るったのです。「ワシントンの桜」には、そういった経緯があるのです。市の行政の多岐にわたって、尾崎行雄は現場に赴いて、東京の街づくりに専心、奔走します。道路整備、上下水道敷設、市電、ガス電気事業と多岐にわたったのです。

 神奈川県又野村(現在の相模原市の北部になります)で生まれ、慶應義塾に学ぶのですが、塾頭の福沢諭吉に認めれるほどだったそうです。1875年、カナダ人宣教師から洗礼を受けています。「憲政の神様」、「議会政治の父」の威名を受けるほどの秀逸な人でした。そのような人材が、心血を注いだ街が、この東京です。

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 これを遡る、徳川期以前の江戸は、広大な武蔵野の一画に位置した小さな村だったのが、「八百八町」と謳われ、徳川権勢のお膝元として、文化も商業も経済にも栄えた、世界に誇りうる街となったわけです。維新後は、京の都から遷都されて、国都となったわけです。

 「江戸参府旅行日記(ドイツ人医師のケンペルの書いたものです)」には、江戸の街の様子が、次のように述べられています。

 『幕府直轄の五つの自由商業都市のうち、江戸は第一の都市で、将軍の住居地である。大規模な御殿があり、また諸国の大名の家族が住んでいるので、全国で最大かつ最重要の都市である。この都市は武蔵国の、(私の観測の結果では)北緯三五度五三分〈英訳本では三二分〉の広大で果てしもない平野にある。町に続いている長い海湾には魚介類がたくさんいる。その海湾の右手には鎌倉や伊豆の国が、左手には、上総と安房があり、海底が沼土のようで非常に浅いから、荷物を運ぶ船は、町から一、二時間も沖で荷を下ろし、錨を入れなければならない。町のくぼんだ海岸線は半月形になっていて、日本人の語るところによると、この湾は長さが七里、幅が五里、周囲は二〇里である。』、ケッペルの滞在期間が、元禄年間でしたから、長崎から陸路で二度ほど江戸に参府(オランダ人に課せられた大名のような参勤交代と言えます)の経験を綴ったわけです。

 江戸は、当時のロンドンやパリよりも文化的であったと言われています。徳川幕府の統治が優れていたと言うことになります。幕末から明治期に、日本を訪ねた外国人も、おしなべて好印象、驚きを書き残しています。鎖国国家なのに、長崎を通じて、幕府に益するものは受け入れ、そうでないものは排除したから、二百六十年も統治が続いたのでしょう。

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 太宰治の「東京だより」に、1944年ごろの東京の街の様子を、次のように記されています。

 『東京は、いま、働く少女で一ぱいです。朝夕、工場の行き帰り、少女たちは二列縦隊に並んで産業戦士の歌を合唱しながら東京の街を行進します。ほとんどもう、男の子と同じ服装をしています。でも、下駄の鼻緒が赤くて、その一点にだけ、女の子の匂いを残しています。どの子もみんな、同じ様な顔をしています。年の頃さえ、はっきり見当がつきません。全部をおかみに捧げ切ると、人間は、顔の特徴も年恰好も綺麗に失ってしまうものかも知れません。東京の街を行進している時だけでなく、この女の子たちの作業中あるいは執務中の姿を見ると、なお一層、ひとりひとりの特徴を失い、所謂「個人事情」も何も忘れて、お国のために精出しているのが、よくわかるような気がします。』
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 当時の東京が、何か個性を欠いた日本人が溢れていて、戦時下の窮屈さや灰色の色彩が感じられてなりません。戦争が終わってしばらくしてからですが、山奥から東京に越すことを決めた父は、引っ越しを考えていました。当初、新宿駅の南に家を買うつもりでしたが、花園などの繁華な街での子育てはふさわしくないと決めて、大田区や三多摩地区に家を求めたのです。それで、『ベエ、ベエ!』と語尾を飾る南多摩に、家を買ったのです。そこに、私は二十歳になるまで住み、結婚して本籍をその街に置いて、宣教師さんについて離れます。

 「火事と喧嘩は江戸の華」と言うのは、木造建築で、密集した町並みで、「火消し制度」が設けられましたが、猛火に襲われ、何度も大火に焼かれても、また復興をし続けた街だったのです。『江戸っ子!』と誇りをもって、「粋(いき)」であることに拘り、短気で喧嘩っ早い気質を誇示した人たちの街でした。初期には、職人や加工業者や商い人が、全国から集められたのが、江戸でした。伊勢屋、越後屋など、故郷を屋号にした商家が多くあったわけです。東洋一を誇る街としてあり続け、1962年には、〈一千万都市〉の東京となっています。

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 都花は「ソメイヨシノ」、都木は「銀杏(いちょう)」、都鳥は「ユリカモメ」で、人口は1400万人です。東京都市圏の神奈川、千葉、埼玉を含めますと、3700万人も人口があるのです。大正期の関東大震災、戦時中の空襲で壊滅していますが、瞬く間に復興したのは驚くべきことでした。

 1929年に発表された「東京行進曲」に、いくつかの地名が挙げられています。銀座、丸ビル(建物)、浅草、小田急(私鉄電車)、新宿、武蔵野などです。

昔恋しい 銀座の柳
仇な年増を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりゃダンサーの 涙雨

恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文書く 人もある
ラッシュアワーに 拾った薔薇を
せめてあの娘の 思い出に

ひろい東京 恋ゆえ狭い
粋な浅草 忍び逢い
あなた地下鉄 わたしはバスよ
恋のストップ ままならぬ

シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で 逃げましょか
かわる新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る

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 この東京には、山も海も島もあります。中学の時に、誰も誘わないで、奥多摩の御前山に、一人で登ったことがありました。都有林の伐採をしていたおじさんたちにからかわれたのが思い出に残っています。一人での山行きって、けっこう楽しいのです。また知人が、伊豆豊島で教師をしていて、招かれて、家族で出掛けたことがありました。

 武蔵野の一角、櫟林の中に、私が6年間学んだ母校があります。武蔵国の府中、国分寺近くにありました。江戸が中心ではなく、母校あたりが武蔵国の中心であったのです。戦国の代に、戦が行われたという分倍河原があり、その近くで高校の考古学部のお手伝いで、土起こしの発掘をしたことがありました。日本国有鉄道の研究所もありました。もう今では、その武蔵野の面影はわずかですが、あの木の葉を揺する風の音が聞こえそうですし、グランドを駆け回っていた姿も思い出せそうです。夕闇にたなびく秋刀魚を焼いた白い煙が、秋の夕べにはたなびいていました。

 多摩川の流れで泳ぎ、その岸の学舎で学び、二十年ほど、この東京に住んだでしょうか。都下の多摩地域は、明治初期には神奈川県だったようですが、東京市に編入されて行きます。中央線沿いの長野や山梨の人たちは、東京でも東京駅から高尾駅の間の多摩地区に、多くが住み、東北地方の方は京浜東北線、茨城あたりは常磐線、神奈川あたりに人は横須賀線の沿線に住む傾向があるのかも知れません。

 人の多い東京は、一番孤独を感じさせる街に違いありません。首都圏に人が集中し、地方がさらに過疎化していくのでしょうか。また、どなたかが、「新・列島改造論」を論じて、日本を変えて欲しいものです。これから、どんな街に変貌していくのでしょうか。

(山吹、道灌と娘、ソメイヨシノ、ポトマック川の桜、隅田川の花火、新宿御苑、江戸の火消し、神宮の銀杏並木、小田急線の古写真です)

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