再びおいでになるイエスさま

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Jesus Christ is talking to you.

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 聖書の学び方、説教の仕方、パウロの宣教の動き、教会の誕生、終末の出来事などなど、さまざまな真理を、恩師が8年間教えてくれました。出来のよくない弟子でしたが、骨子を学ばせてくださったことには、今もなお感謝が溢れます。

 ある日の聖書の学びでした。コンピューターが、使われ始めてすぐの頃のことだそうです。聖書の記事を入力していた時に、ある発見をしたのだそうです。コンピューターがはじき出したのは、人類の歴史の中に、「太陽が動かなかった日」、「日時計が止まった日」のあることを知らせたのだそうです。それで、聖書が紐解かれたのです。

 『主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」 民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。 主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。(ヨシュア101214節)」

 ケンブリッジ大学のある学者は、『これは、日蝕だったのだろう。』と、科学的に結論しています。聖書が記す奇跡的な記述を受け入れない人たちは、神話、信仰の熱心さが高じて、非科学的なことが記されているのだ、とも言います。

 そして、もう一ヶ所、預言書の中に、次のような時事があります。

 『「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。 わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。』 これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたこのことを成就されます。 見よ。わたしは、アハズの日時計におりた時計の影を、十度あとに戻す。」すると、日時計におりた日が十度戻った。(イザヤ3858節)』

 聖書の記事によると、神さまが《時》を定め、それを動かし、変更するお方だと言っているのです。支配や統御の範囲が、時間にも及んでいることを知って、聖書を読み始めて驚かされたのが昨日のようです。

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 また、コンピュターが出始めた段階で、長く広く読み継がれた聖書の記述の内容にまで、コンピューターの追跡が及んだと言うことに驚かされたのです。聖書が神話や、人間によって編纂されたものではないことを、コンピューターが答えを出したと言うことでしょうか。

 溢れる情報の中で、真理も虚偽も人間の創作も、創造の神への疑いから起こりますが、聖書が、神の言葉であることを、もうコンピューターが出現して間もない頃に、失われた日や時のあったことを突き止めたと言うことなのです。人の常識を超えた、神さまの意図が判るなら、私たち人は、頭を垂れて、神ご自身を受け入れなければならなくなるのでしょう。

 やがて、「世界政府」が出現するだろうと、恩師は聖書から教えてくれました。定められた「時」、「出来事」があると言うのです。全人類の情報を集め、一人一人の個人情報を記録し、掌握し尽くす政府とは、どんな形で出現するのでしょうか。でも、神の子で、死から蘇られたイエスさまは、「万軍の主」、「栄光の王」として、再びおいでになります。主に会う備えをするのは、今の恵みの時であります。

(“ キリスト教クリップアート ” のイラストです)

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強い!

 

 

 強い!

 たまには弱い

 泣くこともあって

 それでも忍耐

 超えた人の意地悪、妬み、ライバル意識、蔑み、羨望、誤解

 人は、やはり人

 いろいろ、さまざま、多種多様

 でも善い人がいた

 異国の地で病んだ

 敬意と愛で慕われ支えられおぶわれ

 そこで入院した

 帰国、即入院

 恵まれた善い医師、看護スタッフ、友、そして家族

 退院、通院、継続した治療

 そして今は3ヶ月ごとの検査通院

 副作用か後遺症かの症状

 でも耐えている

 人が好きだ

 近傍の独り身の知人を訪ねる

 何かを携えて

 一人の残された妹への気遣い

 本が好きだ

 図書館通い

 週一のデーケアー

 楽しかったと帰ってくる

 泣いても笑う

 健気に闘う

 耐えられない試練なし

 聖句と自撮りの写真で4人の子たちを激励する日々

 弾きに行く時々の駅中ピアノ

 この街に主への賛美が満ちるを願い

 ときどき拍手があるそう

 細かく日常を記す

 病んだ十代で受けた宣教師の愛への感謝

 師は師

 子や孫や妹や友への祈り

 ときどきのありがとう

 来週一緒に礼拝を守った若き友が見舞いに来るそう

 二度目の遠路の来訪

 友は友

 今の時を大切に生きる

 義の右の手でしっかり握られている

 幼い日に信じた神

 ずっと近くにいてくださった救い主

 どんな時にも支え、抱き、引かれてきた日々

 愛に満ち不変の神への信頼

 聖霊の喜び

 『恐れるな!』の静かなみ声

 神は神

 あなたの母、あなたの祖母、あなたの友、そして私の妻

 だから、負けない

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(近くの公園で蓮池の中、カラーの水滴です)

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[memory]遥かなる時を思い出して

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1963年の春に、こんな歌が、若者たちの人気を得ていました。映画の主題曲だったのです。

1 アカシアの 花の下で
あの娘(こ)がそっと 瞼を拭いた
赤いハンカチよ
怨みに濡れた 目がしらに
それでも涙は こぼれて落ちた

2 北国の 春も逝(ゆ)く日
俺たちだけが しょんぼり見てた
遠い浮雲よ
死ぬ気になれば ふたりとも
霞の彼方に 行かれたものを

3 アカシアの 花も散って
あの娘はどこか おもかげ匂う
赤いハンカチよ
背広の胸に この俺の
こころに遺(のこ)るよ 切ない影が

 その年の初夏、大手の乳業会社の製造工場で、アルバイト募集があり、履歴書を書いて応募しましたら、OKが出て、夜勤で一夏を過したのです。市乳部門で、45本の牛乳瓶の入った、けっこう重い木製のケースを、製造部からベルトコンベアーで送られてくるのを、冷蔵庫の床に種類に応じて積み上げていくのです。

 翌日の配送のために、8つくらいのレーンがあって、指定通りに、翌朝の出荷に合わせて、積んでいく作業でした。お手のものの肉体労働で、初めはぎこちなかったのですが、すぐに要領を覚えて、15段も16段も放り投げて、瓶を割らずに積むのです。『牛乳は、いくら飲んでもいいからね。ただ瓶は割らないで!』と言われたのですが、そんなに飲めませんでした。でも、あれで丈夫な体作りができたのかも知れません。

 法政、中央、横浜市立大、専修、明治学院などから来ていたアルバイトでした。仕事の合間、休憩時に、取り止めもない自慢話や、経験談を話し合ったりしていたでしょうか。流行歌を歌ったり、相撲をとったりしましたが。明日の雨の予報の夜は、製造量が少なかったのですが、暑い日には、明け方近くまで作業を続けていました。

 事務所の女子職員の制服のポケットに、だれが書いたのか忘れましたが、ラブレターを入れたりしましたが、けしからん悪戯でしたから、恋は実りませんでした。恋も、春の北国に行く計画も、実現できずに来年こそはで、お預けの4年間だったのです。34年生の頃は、朝のバイトもあって、伝票に従っての出庫もしたのです。

 1963年夏、みんなで、だれ歌い出すともなく、この「赤いハンカチ」を歌い出すと、みんなが合唱したのです。大声の私たち『学生なんていい気なもんだ!』、奄美大島や秋田などからやって来て社員になっていた、同世代の社員が羨ましそうに聞いていました。

 そんな様子でも、みんな学生の自覚があり、自分の学校の看板を背負っていましたから、上手下手はあったのですが、プロに負けない仕事をしていました。主任さんにほめられたのが嬉しかったのです『来年も来てね!』と言われて4年の間、同じ工場で同じ仕事をしました。交替勤務でしたから、待機していた1年生の夏、よく裕次郎を歌いました。それが、この「赤いハンケチ」でした。

 計算に弱いのですが、もう60年も経って、記憶は薄れるのに、この季節の夜風が運んでくる空気の匂いがよみがえってきて、あの時の記憶を呼び醒ましてくれたのです。時は流れ、裕次郎も去り、工場への道も変わり、会社も無くなって、夢多き青年は、後期高齢者となってしまいましたが、懐かい思い出は格別なものです。それでもこれまでの間、北国には、数度出かけました。

(「赤いハンカチ」です)

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古き時代への思いが

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 日本には、一都一道二府四十三県があります。最後に県に編入されたのが、1972年に返還された沖縄県です。沖縄を主題にした歌に、作詞が吉川安一 、作曲が普久原恒勇「芭蕉布」があります。

海の青さに 空の青
南の風に 緑葉の
芭蕉は情に 手を招く
常夏の国 ()した島沖縄(うちなー)

首里の古城の 石だたみ
昔を偲ぶ かたほとり
実れる芭蕉 熟れていた
緑葉の下 ()した島沖縄(うちなー)

今は昔の 首里天(しゅいてぃん)ぢゃなし
(とう)ヲゥーつむぎ はたを織り
じょうのうささげた 芭蕉布
浅地紺地(あさじくんじ) ()した島沖縄(うちなー)
()した島沖縄(うちなー)
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 沖縄といえば、唯一の知り合いは、沖縄出身の福音歌手の新垣勉氏です。ずいぶん前になりますが、一度お招きをしたことがありました。実に明るい性格の方で、素敵な人でした。母親を捨てたアメリカ人の父親を、『アメリカに行って殺してやりたい!』という思いを、泣きながら聴いてくださった牧師さんと出会いが、感動的でした。今は赦せて、西南学院大学で学ばれて、牧師さんでもあります。

 家内は、一度訪ねたことがあり、同窓生が何人も沖縄の離島にもおいでだったようです。この沖縄は、日本でただ一つ、鉄道のない県なのだそうです。ところが、調べてみますと、戦争前には、軽便鉄道や馬車鉄道があったのです。30年もの間運行された歴史があるそうです。

 那覇港を中心に、この上の路線図のように鉄道があったのです。サトウキビを運ぶための運送目的でした。敗戦を機に、鉄路が払われてしまいます。その後道路整備が行われ、自動車による輸送に取って代わってしまいます。次のような歌を歌ったことがあります。

せんろは つづくよ どこまでも
のをこえ やまこえ たにこえて
はるかな まちまで ぼくたちの
たのしい たびのゆめ つないでる※

せんろは うたうよ いつまでも
れっしゃの ひびきを おいかけて
リズムに あわせて ぼくたちも
たのしい たびのうた うたおうよ

ランララララ ラランララララ
ラランララララララララ
ランララララ ラランララララ
ラランララララララ
ランラランララン ラン ラン
ランラランラランランラン
ランラランララン ラン ラン
ラン ラランランラン

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 きっと沖縄のみなさんも、この歌を歌いながら、鉄道の旅をしてみたかったのではないでしょうか。私の住む栃木県にも、石灰石を運ぶ産業用の鍋山人力鉄道、馬車鉄道があって、大変活躍していた時代があったそうです。今、住む家の前を、石灰岩を運ぶ人力鉄道が走っていたのだと聞いて、はるかに想像してみたりしています。東北本線の氏家駅から、喜連川(きつれがわ)人車鉄道があって、1902年から1918年まで営業していたそうです。その他にも、三毳山(みかもさん)にもあったそうですが、今は、こんな写真の汽車型遊覧バスが運行されています。
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 蒸気機関車になど乗ったことのない世代が、お父さんお母さんやおじいちゃんおばあちゃんに連れられて、蒸気機関車が運行される週末に、東武鬼怒川線や真岡鐵道(もおか)で、乗車が楽しまれているそうです。nostalgie(ノスタルジー)、古き良き時代への思いが呼び覚まされるのでしょうか。

(沖縄の路線図、記念写真、鍋山人車鉄道線路、三毳山のバスです)

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[街]浜北市(浜松市浜北区)

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 遠江浜北、今では、浜松市に合併されていますが、結婚した頃から、何年か続けて正月を、そこで過ごした思い出の地なのです。回り道でしょうか、逃げていたのでしょうか、《捕まえられた》のです。それが一番的確に、そのことを表していると思われます。首根っこを摘み上げられて、この世から、「神の国」に移された経験、イエスが「キリスト」であることを、分からされた日から、教会の日曜ごとの礼拝や季節ごとの聖会に、忠実に集い始めたのです。

 それまでは、信仰告白をし、バプテスマを受けたのですが、back slide していた時期に、九州の久留米に、上の兄を訪ねた日から、まるで cage の中に、ニワトリが〈追い込まれる〉かのように、私は追い込まれた素敵な世界でした。私の日常が変わっていき、悪い生活習慣から離れさせていただき、嘘のように変えられて生き始めた epoch  (基点)、さらに通過点の街なのです。

 JR浜松駅から、遠州鉄道で、西鹿島駅で降りた辺りが、浜北でした。東名自動車道のバス停で下車して、行ったこともありました。その近くに結婚式場があって、そこを会場に開かれた「聖会」に出掛けたのです。元旦に母教会で礼拝があって、新しい年を始め、その流れで、宣教師仲間の諸教会が、九州、愛知、東京、地元の静岡から、やってきて、そこで三泊四日ほどの会期で行われた「聖会」でした。

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 あの遠州の正月の空の青さ、空気のにおい、宣教師夫人の声掛けで、女性陣が食事を作ってくださって、会場や脇部屋や廊下の床に、シートやゴザを敷き、貸布団で寝ながらでした。宣教師のみなさんの友人や、母教会からの牧師や兄弟たち日本人の牧師や伝道者たちが、聖書からお話をしてくれたのです。みんな若かった!

 休み時間には、芝生の上でバレーボールをしたり、近所を探検、散歩をしたのです。街の様子は、ほとんど知りませんでした。その会場の結婚式場が閉鎖されてから、訪ねることはありませんが、ああ言った交わりに、圧倒され、祝された街でした。思い出の中に色濃く、強烈の残っております。福岡県の久留米市、そしてこの浜北市は、記念的に、特別に記憶されているのです。

 あの聖会を主催してくださった宣教師さんは帰天され、切り盛りしてくださった奥さまは、今年100歳になられ、アメリカのお子さんの家で、今も創建で過ごしていらっしゃいます。

(「青い空」、お土産に買った「うなぎパイ」です)

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苺落とし

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 仙台の青葉城を訪ねたことがありました。耳鼻科の名医がいると紹介され、鼓膜の再生手術を受けるために、四日ほど、市内の病院に入院したのです。聞きしに勝る手術の上手なお医者さんでした。そこを退院後に、この城を見学したのです。城跡に、独眼竜と呼ばれた伊達政宗の銅像がありました。

 武士の世界には、「元服(げんぷく)」という節目の儀式がありました。これは、「成人式」で、中国伝来の大人となる儀式でした。この政宗は、十一歳で「元服」をし、焚天丸(ぼんてんまる)から、「伊達藤次郎政宗」(だてとうじろうまさむね)と改名したと伝えられています。当時、元服年齢には、決まりがなく、各家よって異なっていたそうです。

 嬉々として遊び回りたい年齢の十一歳で、大人扱いをされては、随分と、こども時代が短かかったのではないでしょうか。武家の家では、それだけ、家督を継いだり、父の職を継いでいくことが重んじられ、「家制度」、とくに嫡男の男の子には責任が課されていたのです。

 それは、「自立」への大きな一歩であったのです。自分一人の力で生きていくことを言っているのが、自立、独立でしょうか。親の援助なしで、結婚し、家を構えるなら、それこそが自立です。それまでの親の援助に感謝して、生き始めたのが、22才でした。26才で結婚しました。それまで、家に「食い扶持(くいぶち)」を入れたのですが、父は大変喜んで、それを受け取ってくれました。

 最初に母親に渡した翌日、自分は飲まないビールを買っ来て、食卓に置いてくれました。それを夕食に添え、一緒に飲んでくれたのです。嬉しかったのでしょう。精神的な自立というのは、経済的財政的な自立こそが、実際的なことのでしょう。

 熊の世界に、「またぎ(東北地方・北海道で厳しいしきたりを守りながら集団で狩猟を行う人を言います)」がいますが、この方が言われる「苺落とし」という儀式があるのだそうです。

 野生の熊が、生きていくのは厳しいことですから、母熊は、人生の厳しさを教えるのです。冬眠中に出産して子育てを終えると、山の中に子グマを連れて行き、餌取りを教えるのです。この熊の大好物は、「苺」だそうです。新潟県の「エコミュージアム」の会報に次のようにあります。

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 『新潟県魚沼地方の里山も初夏の装いとなり、アザミの花や美味しそうな桑の実で彩られています。また定点観察地点(エコミュージアム園内ではありません)のオニグルミの実も写真の通り順調に推移しています。オニグルミの青い(緑色の)実はツキノワグマの大好物ですが、里山や河川敷、農道、人家周辺にある「桑の実(クワイチゴ)」もまた子グマの大好物です。ツキノワグマの親子(母グマと子グマ)は出産から約1年半の間行動を共にしますが、子グマが1歳の初夏の頃に「親離れ・子離れ」を迎えます。子育てを終えたメスグマはこの直後にオスグマと交尾し、秋以降の摂食状況(餌資源の獲得量)に応じて子宮内へ受精卵が着床するかどうかが決定されるようです。

 野イチゴが実る初夏の時期は「親離れしたばかりで警戒心の少ない子グマが観察(発見)されやすい季節」でもあります。「野イチゴの盛期」と「ツキノワグマの親離れ・子離れ(ひとり立ち)」を関連付けて、東北のクマ猟師の方々は「母グマが子グマに野イチゴの場所と食べ方を教え」「子グマが野イチゴの美味しさに夢中になっている間に母グマはそっとその場を去り」「初夏にツキノワグマが親離れ、子離れの時期を迎える様子」を、「クマの苺落とし」として情感たっぷりに捉えています。』

 熊の出没が、私が時々行く大平山にもあったと、この冬にニュースが伝えていました。もともとは、熊の棲息域だったのに、そこに人間が入り込んだのだと考えると、熊にとっては迷惑なのでしょうか。大きな音が嫌いな習性がるそうで、人に方が彼らを遠ざける努力をしたらいいかなあって思っています。熊だって生きていくのは厳しいわけで、子熊に生きる術を教え、生きていくための母熊の突き放し、一才半ほどの独立の促し、子熊にとっての「自立」は、親心、やさしさかも知れません。

 次女は、十五才でハワイの高校に入学するために、出かけて行き、親元を離れて行きました。その長男が、今秋大学に入学すると知らせてきました。家を出て、教会の dormitory で生活を始めていくようです。home school で学び終えて、これから家を出ていく息子を見送るのですが、母親は、どんな思いなのでしょうか。川を挟んだ隣町にある学校と教会に行くのです。教会の dormitory は、次女も生活した所です。この自立への一歩を祝福する祖父母の私たちです。

(「オニグルミの実」、「月輪熊」です)

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山上の垂訓を講ずる

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 内村鑑三が、奥羽街道の宿場町であった、栃木県氏家を訪ねています。東北本線の氏家駅で下車した近くの狭間田を訪ね、聖書研究会を開いたことがありました。この地の出身の青木義雄が、在京中に、内村の集会に出ていました。この青木は、実業家・銀行家・政治家で、故郷伝道に内村を招き、内村が聖書から話をしたようです。

 この二人の交流の様子がうかがえる、さくら市の青木義雄生家に、内村からの書簡、書など400点余が遺されているようです。栃木県下の日光、塩谷への内村の旅行、宇都宮での交流があり、内村と栃木の関わりや、青木義雄との公私にわたる深い交友を伝えています。

 「山上の垂訓(マタイの福音書)」から、「聖書の読方」と題して話され、その原稿が残っています(「青空文庫」)

 『聖書は来世の希望と恐怖とを背景として読まなければ了解(わから)ない、聖書を単に道徳の書と見て其言辞(ことば)は意味を為さない、聖書は旧約と新約とに分れて神の約束の書である、而して神の約束は主として来世に係わる約束である、聖書は約束附きの奨励である、慰藉である、警告である、人はイエスの山上の垂訓を称して「人類の有する最高道徳」と云うも、然し是れとても亦(また)来世の約束を離れたる道徳ではない、永遠の来世を背景として見るにあらざれば垂訓の高さと深さとを明確に看取することは出来ない。

「心の貧しき者は福(さいわい)なり」、是れ奨励である又教訓である、「天国は即ち其人の有なれば也」、是れ約束である、現世に於ける貧(ひん)は来世に於ける富(とみ)を以て報いらるべしとのことである。

 哀(かなし)む者は福(さいわい)なり、其故如何? 将(ま)さに現われんとする天国に於て其人は安慰(なぐさめ)を得べければ也とのことである。

 柔和なる者は福(さいわい)なり、其人はキリストが再び世に臨(きた)り給う時に彼と共に地を嗣ぐことを得べければ也とのことである、地も亦神の有(もの)である、是れ今日の如くに永久に神の敵に委(ゆだ)ねらるべき者ではない、神は其子を以て人類を審判(さば)き給う時に地を不信者の手より奪還(とりかえ)して之を己を愛する者に与え給うとの事である、絶大の慰安を伝うる言辞(ことば)である。[中略]

 而して今時(いま)の説教師、其新神学者高等批評家、其政治的監督牧師伝道師等に無き者は方伯等を懼れしむるに足るの来らんとする審判に就ての説教である、彼等は忠君を説く、愛国を説く、社交を説く、慈善を説く、廓清を説く、人類の進歩を説く、世界の平和を説く、然れども来らんとする審判を説かない、彼等は聖書聖書と云うと雖も聖書を説くに非ずして、聖書を使うて自己の主張を説くのである、願くば余も亦彼等の一人として存(のこ)ることなく、神の道を混(みだ)さず真理を顕わし明かに聖書の示す所を説かんことを、即ち余の説く所の明に来世的ならんことを、主の懼るべきを知り、活ける神の手に陥るの懼るべきを知り、迷信を以て嘲けらるるに拘わらず、今日と云う今日、大胆に、明白に、主の和らぎの福音を説かんことを(哥林多後書五章十八節以下)。」

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 内村には、数多くの信仰の弟子が、全国にいたのです。彼は教団や教派などの組織を作りませんでしたし、その頭につくこともありませんでした。形式を嫌い、強制も避けました。内村の信仰の感化力は、今にまでも及んでいるのです。

 《二つのJ 》、Jesus Japan I for Japan ; Japan for the World ; The World for Christ ; And All for God.

 これを掲げて、イエスさまと日本に、自らをささげたのです。このような愛国者がいたこと、しかも、そう公言してやまなかった、正直さこそが、内村の良さなのでしょうか。

 日本という組織は、彼には手厳しく望みましたが、多くの魂を、天地の創造主、全能の父なる神と救い主イエスに導いたのです。その結果、日本の各分野で活躍する有名無名の信仰者を生み出し、育てたのです。悲哀を知り尽くした人でもありました。私たちを導いた宣教師のみなさんに、何か通じるものが感じられるのです。

(さくら市狭間田近辺にあった喜連川人車鉄道の路線図、写真です)

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梅花下野とブーゲンビリア

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 散歩の途中に、この五月になって、ハナミズキの咲き終わってからですが、それに似た白いな花をつけた木をよく見かます。「梅花下野(バイカシモツケ/利休梅とも言います)とも言うそうで、ここ栃木は、下野国ですから、この地に咲いてきた花なのでしょうか。でも伝来は、明治になってからですから、茶道の祖の千利休とは関係がなさそうです。

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そういえば、華南の街では、もう「叶子花 yezihua/ブーゲンビリア)が、街のそこかしこで咲いてうるのでしょう。学校の campus でも、道路の脇でも、低木の垣根の植え込みには、今は盛りの咲っぷりなのではないでしょうか。

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聖書の感化力(山室軍平の講話)

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 ある時一人の上手な掏摸(スリ)があり、東海道から東北にかけ、おもに汽車の中にて仕事をしておったが、それでも「猿も木から落ちる」習い。都合十三度捕らえられて刑務所に入れられたのである。

 十三度目に神戸にて捕えられ、まだ未決に居る間に、はからずも一人の商人と同室することとなった。ところがその商人というのは、あまり大した犯罪をしたわけでもなかったので。もし宅から関係所願を取り寄せて弁明すれば、きっと無罪になるであろうと。

 刑務所から書類をみとめてその妻に送り、『書類を差し入れるように』というてやったところが、妻は一文普通(読み書きができないこと)の女ゆえ、手紙を近所の代書に持って行って読んでもらうと。

 どうした間違いか、「書類」というのを「書物」と読み違えた。そこで妻が思うには、これは刑務所の中で退屈ゆえ、本を読んで気を紛らわそうとするのであろうと。その夜神戸市の夜店をひやかして歩き、無筆(文盲の

意味)のことであるから、ただ紙数が多くて値段の割合安いものをとたずねまわったあげく、なんの書物とも知らずに買い求めたのが、一冊の新約聖書であったのは、不思議というも愚かなことである。

 さてその商人は、そに差し入れられて、意外の思いをなし。『書類をよこせというのに、こんなもになど差し入れて、一体なんの書物でしょうか』と、そばにおる例の十三度のスリに尋ねたのである。

 スリはもとより新約聖書がなんだか知らないけれども、「耶蘇(ヤソ)」だの、「基督(キリスト)」だのと、いうことが沢山書いてあるから。「これは耶蘇の書物に相違ないよ」といいながら退屈しのぎに、マタイ伝の始めから、これを読んでみたが、さっぱりその意味がわからない。

 なおもだんだん読んでいくと、その第九章十二節以下、「健康なるものは医者の助けを求めず、唯病ある者之を需む。我が来るは義(よ)き人を招く為に非ず。罪ある人を招きて悔改めさせんが為なり。」という一句に至り、彼はたちまち電気に打たれるごとく覚えた。而(しか)して思う様、何でもこれは一人の偉いお方があって、自分どものごとき罪深い者を済度(さいど/救うの意味)する為に、この世にお降りなされたということに相違ないと。

 以来、しきりにそのことを思いめぐらし居ると、一方の商人は間もなく愈々(いよいよ)無罪と決まり、その聖書を持って出ていってしまった。あとでスリは、なおも右新約聖書の続きが読みたくてたまらず。「なにとぞお預けした金の中から、一冊の聖書を買うて戴きたい」と願い出ると。

 教誨師のお坊さんが来て、「耶蘇は国賊であるから、そんな書物を読むより御経でも読め」といわれ。また看守が来て、「耶蘇教の本なんか読むより、法律でも調べろ」と叱られるのを。「何が何でも新約聖書を買ってくだされ」と願出たので、終に刑務所に会議にかけられ、その結果ようやく許されて、これを手に入れることができた。

 その後、同人は刑務所に、頻(しきり)にその一巻の新約聖書を読み、放免になって出てきた時には、十数人の仲間の者が、はるばる東京横浜あたりから迎えに来て居ったのを、好加減においかえしてしばらく宿屋に泊まり。種々思案をこらした後、ついにある牧師を訪ねて、耶蘇の救いのお話を聞き。以来心を改めて真面目な基督者となり。それより三十年後の今日は、自分で釈放者保護の事業を経営するほどになったのである。

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喜ぶ者といっしょに喜び

 『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。(ローマ12章15節)』

 新しい風景が、客間、食堂、そして来客時の寝室になる部屋に見られています。

 イスラエル建国記念で、choir の一員として、その祝賀の集いに参加された若き友人から、お土産にと戴いた、《祈りのショール》です。家内は祈りの時に、ショールをしませんのでを壁に掛けたのです。ヘブライ文字も読めませんが、配色も素晴らしく、部屋が一層引き立っています。

 1948年に建国されて、74年の記念の集いで、世界中から、主に若者が集って、建国の祝いをしたのです。異邦人の参加は、日本人は珍しく、ヘブライ語で、イスラエルの歌を歌う日本からのクワイヤーに、大変感謝されたそうです。

 Zionism という民族の内側から湧き上がる、『約束の地、Zion に帰ろう!』との想いが、世界に離散していたユダヤ人たちの心に、同時に湧き上がって、父祖アブラハム、イサク、ヤコブの信仰の継承の地は、彼らの「故郷」で、そこに帰って来て、国家が再建されたわけです。

 訪問団の旅行中の様子を撮ったビデオが送信されてきて、その熱狂に驚かされました。流浪の民のイスラエル人って、すごい power  なのです。

 ポーランドのAuschwitz(アウシュビッツ)にも、足を伸ばされて、Holocaust の記念施設を訪ねられ、やはり衝撃を受けたのだそうです。平和な時代がやってきても、民族として忘れられない、重い出来事だったからです。頂いたチョコレートが、心なしかホロ苦かったのは、気のせいでしょうか。

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