選手生命について思う

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 組織や団体を維持して、その経営収益を増し加えるために、舞台で歌う歌手、同じ舞台で舞う踊り手、また球場でボールを投げ、打ち、捕り、走る選手たちが誕生しては、消えていきました。そんな彼らの活躍を見続けてきて、その中からわずかなスターたちが誕生していきます。その時の歌手や役者や選手たちの活躍に、一喜一憂しながらフアンは見聞きして、心躍らされてきているのですが、その会社や団体の事情は、スターとなった選手、歌手、踊り手、俳優などがいて、どんな忙しいスケジュールでも、人気のある間に、活躍させて、収益を上げさせたいのでしょう。

 兄の2、3年上の世代のプロ野球選手で、パ・リーグの西鉄ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズです)に、名ピッチャーの稲尾和久がいました。お父さんが大分の漁師で、船で港に帰ってくると、お母さんが、その魚を売りさばいていたのだそうです。彼は、子どもの頃から、お父さんの船に乗って、お父さんの漁の手伝いをしていていたようです。その経験で、強靭な足腰を得たそうです。

 高校を卒業してから、プロ入りをし、14年間に、276勝と言う成績を上げていて、あの時代の日本プロ野球では、最高の存在感を示した投手でした。でも、この方は、1956年から1969年まで現役を続けられたのですが、その最盛期は、『私の投手人生は8年で終わった !』とご自身が述懐されているように、8年間という短い期間だったのです。後半の6年間は、低迷し、32歳で現役を引退してしまっています。長く投手で活躍できる方法が考えられていない時代だったのでしょう。

 「鉄腕」と言う異名をほしいままにしていたのですが、チームへの貢献は驚くほどのものがありましたが、稲尾和久ご自身の野球生命は、実に短命だったのです。体一つで生きる世界で、やはり酷使による〈燃え尽き症候群〉だったと言えるでしょうか。

 以前、『息子には、絶対アメフトはさせない!』と、次女が言っていたことがありました。と言うのには、理由があったからです。アメリカの国民的スポーツの「アメリカン・フットボール」で活躍した選手の中、現役を引退した後には、肉体上の損傷だけではなく、メンタルな面での問題が大きいと言うのです。それ猛烈なプレーで、脳の障碍を負ったことに起因しているからです。

 一人のアメフトのスター選手だった、ヘルナンデスが、殺人罪で服役中の刑務所の中で、27歳で自殺しています。死後に、頭部が解剖され、脳の損傷を見付け、Stage 3 の「慢性外傷脳症」だったことが分かったのです。野球やアイスホッケーやラグビーやアメフトなどの激しい運動をした選手は、その負傷の後遺症を残す可能性が大きいようです。

 観衆を沸かせ、チームに貢献し、チーム経営の球団を富ませた選手が、そのような損傷を肉体に受けていて、引退後の人生は、闘病であったり、犯罪を犯したりするケースが、多いのだそうです。それを聞くと、スポーツをしてきた身としては、悲しくて仕方がありません。

 次女の子は、high school age の野球選手でした。ピッチャーでもバッターでも活躍し、大学に scholarship (奨学金)を貰って推薦入学の機会があったのですが、彼は続ける願いがなかったのです。野球産業の卵たちへの大人の思惑などを見聞きする機会があって、それを知っての彼の決断でした。

 頭部損傷が原因で、様々な後遺症の現れがあります。それがわかった今は、活躍時の選手時代に、健康管理を十分に果たす必要があるようです。初めに取り上げました、稲尾和久氏は、『投げるのが好きです!』と言って、連投に継ぐ連投をした結果、肘や肩を痛めてしまったのですし、勝つためには、優秀な投手起用は避けられなかったと言うチーム事情もあったのですが、それを考えていなかった頃の連投が、稲尾和久の投手生命を縮めてしまったわけです。

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 今、大リーグで活躍中の大谷翔平も、これまで肘の手術を、二回もしています。稲尾時代には、手術など考えられない時代でしたから、医療による再生など思いもよらなかったことです。こう言った再起が良いのかどうか、今、私は考え中です。やはり、人間の肉体や精神には限界があります。そう言った選手たちを保護するためですが、それを考えずに、活躍を期待し、選手自身も、一度きりの人生を、最高にパホーマンスしたい気持ちは分かります。

 野球部のキャッチャーの次に、ボールの遠投の記録を持っていたのに、野球ではない、ハンドボールを私はしていました。でもその遠投のおかげで、肩を痛めてから、もう遠くには投げられなくなってしまいました。稲尾和久や大谷翔平、その他、志半ばで、怪我でマウンドを降りざるを得なかった多くの投手たちの気持ちが、少し理解できます。肩ばかりではなく、肘や膝や頭部などを痛めたスポーツ選手は、数限りなくおいでです。もし選手の健康管理が、適正になされていたら、もっとスポーツが楽しめたに違いありません。

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Gold nest egg concept for retirement savings and financial planning

 

 大人の世界の都合で、〈金の卵たち〉が、肉体的にも精神的にも社会的にも、損傷を与えられない科学的な配慮がなされて欲しいのです。激しい競争の中で、煽られた選手が、冷静に判断できないで、記録や収入や名声に踊らされて、お金儲けの世界で、消耗品のように、次から次と現れては消えていくような世界で、前途ある若い人たちが悲しむことがないように願ってやみません。

( 稲尾和久投手、漁船、iStockの金の卵です)

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久しぶりな事ごと

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 先日の外出の時に、三、四年ぶりになるでしょうか、「革靴」を履いてみたのです。普段、スニーカーがほとんどなのに、何とはなしに履いてみましたら、足元に重みを感じ、確かな靴音が聞こえ、キリリとした感じがしてきました。丸首のT shirt windbreaker でしたので、襟を正したくなるほどでしたが、けっきょく背筋だけを伸ばしてみたのです。

 父が黒革の靴を履いて、コツコツと音を立てて、家を出て出勤していく時の靴音が好きで、いつか履いてみたいと思っていたのです。学校を出て、黒い革靴を履くようになったら、やっぱり社会人の自覚が出てきたように感じていました。

 もう、Yshirtnecktieで、背広を着るようなことも、全くなくなってしまいました。華南の街で、若い二人の結婚式の司式の時には、一着だけ持って行った背広を着ましたが、あの時以来、帰国してから、ある教会にお招きいただき、着用して、それからは着ることがなくなってしまっています。それでも、一着だけ、収納扉の中に残してあり、もう締めることもないネクタイなんかは二十本もあるのです。でも白いY shirt も半袖しかないのは、まさかのときの用意不足でしょうか。

 また、説教に招かれることもなくなり、冠婚葬祭の機会も少なくなり、何だかナイナイづくしの今です。が、思い出は溢れるほどにあります。5年前に住み始めた街は、住み心地も、空気も、食べ物も、人も好くて、気に入っているのです。一昨日は、なぜか、私の故郷の街の工場で作られた、アップルパイとレーズンパンとヨーグルトをいただいて、故郷の味にひたりました。

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 すっかり秋風が吹き、味の味覚を味わえております。あの生まれ故郷特産で、長い栽培の歴史のある品種の「葡萄」も、もう出回っている頃でしょうか。それは、全国区の葡萄ではないので、食べる機会は、ほとんどないままです。そう言えば、それぞれの地の特産品には、そこで育った人には、格別な思い入れがあるのでしょう。

 そんな葡萄が食べたくなるのも、この季節に、食べたことを思い出すからでしょうか。毎年、葡萄好きだった父に、送られて来ていたのです。夏にはプラムが、暮れには母の故郷から、蕎麦と野焼き蒲鉾が送られて来て、二親の家から独立していった私たち子どもたちにも、毎年送っていただいていました。

故郷を、味覚で感じては思い出して、父や母を思い出し、兄たちや弟のことが気になる、もうたけなわの晩秋なのですが、やけに陽の光が強いのが気になります。

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明治の風を感じて

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 長野県や山梨県の様子は、よく知っていたのですが、今夏初めて、栃木県の県北の那須地方に、帰国中の長女の運転する車で、出かけてみました。家内の出た学校の恩師が開校した農業センターを見学したかったからでもあったのです。そこは緑があふれる農場に水田が広がって、自然農法の実践をされ、アジアやアフリカから研修生たちがおいででした。

 訪ねた地には、原野が変えられて、新しい世界が目の前に広がっていたのです。かつては、水利がなくて、茫茫たる扇状地で、原野であった那須野が原に、薩摩藩士だった三島通庸が注目をし、栃木県令になると、那須野が原の開墾に着手します。幹線道路の整備や農業用水や飲料水のための疏水敷設に事業を開始したのです。1885年に、那珂川からの疏水が完成すると、水利を得た原野は、見違えるほどに肥沃な原野に変えられていきました。

 その三島は、維新政府から貸し出された地に、欧米式の大農場を実験的に開拓し、三島農場を興します。それに倣って、ドイツの貴族地主の生活に憧れた、青木周蔵(長州藩出身)も、山林経営を主体とする青木農場を開設して行きます。その他にも、明治維新政府の要職にあった、明治の元勲たちは目を向けたのです。

 薩摩藩(大山巌も農場経営をし煉瓦造の別邸を設け、松方正義は千本松農場を設け、西郷従道も農場を経営してます)、長州藩(乃木希典は質素な別邸を作り、佐賀藩(佐野常民も農場経営をしています)、鍋島藩(藩主であった鍋島直大も農場開拓をしています)などの出身者たちは、欧化主義に思いを向けて、公務の傍ら、次々と大農場経営に力を注いでいったのです。

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 薩摩や長州では見られないような、おおきく広がる原野は、きっと魅力的だったのでしょう。しかも新政府のお膝元の東京には、道路整備をし、鉄道を敷設するなら距離的にも近かったこともあって、開拓に拍車がかかったようです。そして政務に追われる元勲たちの休暇を過ごす、別荘ができ上がっていき、皇室の御用邸も建設されていくのです。

 山中湖や富士市などに、欧米や北欧から宣教にやって来られた宣教師のみなさんの別荘がありました。一度だけ、兄が貸していただいた、その別荘を利用させていただいたことがありました。遠慮がちな、山小屋のような、祈りの家のようで、別荘といっても、明治の元勲たちの豪奢な別荘とは比べものになりませんでした。

 私たちの群れで開拓伝導をされた宣教師さんたちは、本国に帰ることも、極力少なくし、手紙でミッションレポートをすることもなく、淡々と宣教活動をされておいででした。借家の住宅兼礼拝所で育ったお子さんたちは、今は、それぞれに宣教の業に携わっておいでです。また私たちを導いてくださった宣教師さんは、水洗便所ではない家に住み、庭に子どもさんたちの部屋兼教室を増築して、そこで礼拝もしていました。

 娘が、那須でご馳走してくれたお昼は、格別でした。緑の木々や草花の中のレストランで、珍しく贅沢をさせてもらったのです。日常を離れ、都会を離れた那須の地に、吹き渡った明治の息吹に触れられた時でした。もう明治の遺産は、人手に渡り、公社などに替わり、ところどころに明治の建造物が残されていたのです。

 高台から眺めた那須野が原は、自然が溢れ、ちょっとヨーロッパの風景を感じさせるようで、先人の苦労を感じたのです。でも、冬季は寒いのだそうで、ここに住み始めても、長続きしないと、この地の出身の知人が言っておられました。

(「那須疏水」、那須野が原に咲く「クリスマス・ローズ」です)

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セグロセキレイ

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 秋風が吹き始めたからでしょうか、東側の窓の下の屋根の上で、きれいな囀りの声をした「セグロセキレイ」が、飛んでき、囀りの声がしていました。この鳥は、隣街の小山市の市指定の鳥とされていますから、ここ巴波川沿いのわが家でも見られるのでしょう。わが市の鳥は、鴨(かも)です。巴波川には、たくさんいて、最近は、綱手道の陽だまりに群れています。

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江戸切子

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 「ぎやまん」、「ビードロ」とか昔は言われたガラスですが、考古学で、三内丸山遺跡からは、ガラス球が出土されていて、ずいぶん古くから、わが国には、ガラス製品が珍重されていたようです。光を受けて神秘的に屈折するので、珍しがられてきたようです。

 先週、中高と6年間在籍した母校から、「江戸切子」が送られてきました。開校記念に、感謝を込めて協賛や感謝の気持ちを表したことへの贈り物なのです。江戸時代の後期に、加賀屋久兵衛が始めたガラス細工で、江戸の大伝馬町で始まったようです。

 何かを蒐集したりする趣味のない自分ですが、頂いてみると、ガラスへの切り込みが綺麗で、光が屈折して見ることができ、実に美しい物です。落として割らないようにしていますが、茶箪笥か、床の間か、高級品や飾り物の棚があったら、そこに収めるのがいいのでしょう。

 天然自然の草や花にばかり関心が向けられてきていますが、ガラス細工もいい物です。しばらく私たちの教会においでだった方が、鍛金(たんきん)をされていて、よく個展を開いておいでで、その案内をいただいていました。サンパウロ大学で美術を専攻された方で、銅板を叩いて、制作をしておいでなのです。

 この方のお父さまは、江戸の彫金の職人、芸術家でいらっしゃったようです。江戸文化は、いろいろな分野が盛んだったようで、伝統工芸が盛んな街だったのです。先週末、市立美術館で、浮世絵展をしていて、家内と出掛けてみました。江戸時代の爛熟した文化の一つで、享楽的なものばかりではなく、子どもたちへの教育の教材などがあって、子ども遊びや虫や魚などが、一枚の絵の中に描かれて、図鑑のようなものが見られ、新発見をしたのです。

 もう60年も前になりますが、横浜のデパートで、鏑木清方の個展があって、そこでの警備のアルバイトでしたことがありました。明治から昭和にかけての日本画家で、浮世絵師と俗ぽく呼べない作家でした。それでじっくりと、美人画を見る機会がありました。江戸の文化を引き継いだ作家で、健全な絵ばかりで安心したのです。

 日本人の器用さに、今更ながら驚かされています。中国から伝わった芸術を、より精密に受け継いで、工夫発展させている点で優れているのです。絵の描き方に、精緻さがあって驚くほどです。筆の乱れなどなく、驚くほどに描写力が優れているのです。そういえば、「芸術の秋」を迎えているのに気付いた次第です。

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とにかく遠くに行きたかった頃

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 「青春の讃歌」と呼べる歌が、私には三つほどあります。一つは、立川の日活の映画館で、裕次郎を観ました。「風速40メートル」と言う映画でした。あの時代に青春のシンボルなのでしょうか、カッコいい兄貴のような裕次郎の歌を、足を引きずりぎみにして歩きながら、口づさんだのです。1958年、生意気盛りの中学生だったでしょうか、作詞が友重 澄之介、作曲が、上原 賢六でした。

(セリフ)何だいありゃ
(
セリフ)何、風速40?アハハ

風が吹く吹くやけに吹きゃァがると
風に向って進みたくなるのサ

俺は行くぜ胸が鳴ってる
みんな飛んじゃエ 飛んじゃエ
俺は負けないぜ

(セリフ)おい風速40米が何だってんだい、
(
セリフ)エ、ふざけるんじゃねえよ

風が吹く吹くやけに吹きゃァがると
街に飛び出し 歌いたくなるのサ

俺は歌う 俺がうなると
風もうなるヨ 歌うヨ 俺に負けずにヨ

風が吹く吹くやけに吹きゃァがると
風と一緒に 飛んでゆきたいのサ

俺は雲さ 地獄の果てへ
ぶっちぎれてく ちぎれてく
それが 運命だョ

(セリフ)◯◯野郎、
(
セリフ)風速40米が何だいアハハ

 風速40メートルなんて、風の強さは想像することができませんでした。「太陽族」と呼ばれた湘南の若者たちの物語の映画音楽でした。父の生まれ故郷と目と鼻の先で、なんとなく馴染み深さを覚えていたようです。裕次郎が普段着の顔のようで、夏の海浜を思い出させてくれた歌でした。ちょっと捨てばちさが、十代には強烈だったかも知れません。

 2つは、作詞が永六輔、作曲が中村八大の「遠くへ行きたい」で、まるで不良少年のような感じのジェリー藤尾が、1962年に歌っていました。

知らない街を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい

知らない海を ながめてみたい
どこか遠くへ 行きたい

遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅

愛する人と 巡り逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

愛し合い 信じ合い
いつの日か幸せを

愛する人と 巡り逢いたい
どこか遠くへ 行きたい
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 とにかく、「現状打破」 、新しさへの憧れ、大人になりかけた年頃で、父の家を出て独立したいけど、父の援助なしでは、まだ生きてはいけない自分の未熟さがわかっていたのですが、とにかく「逃亡」とか「脱走」願望が強く、〈だれか〉との出会いたい思いが強かったのです。道への憧れの強かった頃の歌でした。

 3つは、作詞が伊野上のぼる、作曲がキダ・タロー、歌が北原謙二で、「ふるさとのはなしをしよう」でした。1965年に発表されていた「昭和の歌」です。

砂山に さわぐ潮風
かつお舟 はいる浜辺の
夕焼けが 海をいろどる
きみの知らない ぼくのふるさと
ふるさとの はなしをしよう

縁日の まちのともしび
下町の 夜が匂うよ
きみが生まれた きみのふるさと
ふるさとの はなしをしよう

今頃は 丘の畑に
桃の実が 赤くなるころ
遠い日の 夢の数々
ぼくは知りたい きみのふるさと
ふるさとの はなしをしよう

 自分にもあるふるさとの光景と、砂山の潮風、夜店のともしび、丘の畑の柿の実とは違いますが、木通(あけび)取りに、兄たちの跡を追って山の中に入って行って、実をもいだり、家の前の小川で泳ぐ魚を追う兄たちがいました。あの木通をもいだのを手にしたのか、家に帰って、米櫃の中に入れて、追熟して、ほのかに甘い果実を食べた味が忘れられません。どんな秋の味覚よりも、懐かしさからすると、それが秀逸なのです。だれにもあるふるさとの歌でした。

(“DANRO” からです)

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稲穂が波のように揺れて

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 散歩道の途中に、いくつもの小学校があります。市内の設立の古い学校の庭には、やはり金次郎像が置かれているのです。ある学校は正門脇に、ある学校は庭の隅に置かれて、《勉学励行》の勧めを無言の内にしています。

 薪と言うよりは、柴(しば)を背に担いで、「四書」の一つで、中国の朱子学の「大学」を読んで歩く像なのですが、その本に刻まれているのは、『一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興り、一人貪戻なれば一国乱を作す。その機かくのごとし。』なのだそうです。

 尊徳の死の翌年の1857年に、二宮尊徳の高弟で相馬中村藩士の富田高慶(1814年・文化111890年・明治23)が著した「報徳記」があります。この書をもとに、幸田露伴が、「二宮尊徳翁」という書を表していて、これらを題材に、「二宮金次郎像」が作られ、全国の小学校で作って置かれるようになったのです。

 海外進出が、日本の生命線だという時代の「富国強兵」の旗印を掲げつつ、「勤勉」を勧める教育行政の一環で、昭和7年(1932年)に金次郎像の設置を推し進めた中での運動だったのです。私が学んだ小学校にも、中学校にも、この像が置かれてありました。どのような時代でも、この「勤勉」は意味のあるものなのです。

 校長の勧めで、入学当初には毎朝、登校すると、立ち止まって、脱帽して、礼をしていた自分でした。神社礼拝などしない両親、キリスト者の母の影響で育ったのですが、思い返すと、鋳物の像に、敬礼をしたことは、キリスト者の家庭としてはふさわしくなかったなあと思い、校長よりも、聖書に従おうと、敬礼をやめました。

 二宮金次郎の出身地である神奈川県の小田原市や、農業の振興で手腕を発揮した地である栃木県の真岡市や日光市などには、芝を背負う二宮金次郎像ではなく、立派な大人となった姿の「二宮尊徳像」が見られます。その二宮金次郎、尊徳を、「代表的日本人」の一人として、海外の読者に紹介したのが、内村鑑三でした。

 二宮金次郎像や二宮尊徳像を見たり考えたりする時、この人の生き方、あり方に目を止めていくことなのです。小田原の人が、この下野国で、農業開会や振興に尽力し、農業用水を他にひいて、稲作を推し進めたのは、当時の農村に活力を与えたことは、驚くべきことででした。

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 それほどの高い評価を受けた二宮尊徳(金次郎)が、農作を導いた、「真岡」には、「報徳田」」が残されてあります。尊徳は小田原藩主・大久保忠真公に、農作の手腕を認められた人で、「野州桜町(現・真岡市の一部)」の復興の命を受けています。1823年に赴任し、自ら先頭にたち用水路や堰や橋の改修を行ったのです。

   桜町での働く様子は、村人にとってまさに超人的であったようです。早朝4時に起床し、村内を見回り、開墾や改修を行い、陣屋へ帰って夕食を散った後には、1日の反省や、明日の計画などを練ったそうです。それで寝るのは、12時過ぎで、毎日の睡眠時間は4時間ほどだったのは有名な話です。

 その尊徳自身が米作りを行っていた水田跡が残されていて、それを発掘、復元したのが、この「報徳田」でした。そのために市民などの多くのみなさんが集まって、列になって一定の間隔を保ちながら、苗を丁寧に手植えたりしたようです。

 やはり有言実行の人で、勤勉な人や労苦して働く村民には、報奨金を与え激励したようです。人の先頭に立って、尊徳自らが働く姿こそが、教えの根幹だったのでしょう。ご自分の出が、「百姓」だということを忘れずに、百姓の悲哀をよく知っていたからこそ、善政を行い得たのでしょう。県北で、農の基本を実践している方たちがおいでです。

(二宮の住宅兼住居の陣屋が保存されています)

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こんなにウマイもんが

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 『こんなにウマイもんがあるのか!』と、子どもの頃に思った物が、3つほどありました。1つは、東京の国鉄・神田駅前にあった鰻屋の鰻、2つは、肉の万世のカツサンド、3つは、横浜駅で売っていた崎陽軒のシュウマイだったでしょうか。

 まだレストランとかは、私たちの育った街にはありませんでした。蕎麦屋が2軒、パン屋が一軒ほどあったでしょうか。そんな頃、時々、父が、お江戸から買って帰って来て、『さあ喰え!』と言っては、食べさせてくれたのが、上の三つでした。

 後になって、母は、カツを揚げたり、餡かけのカタ焼きそばを作ってくれたり、ハンバーグをフライパンで作ってくれたり、色いろんな具材を混ぜたちらし(ばら)寿司などを作って食べさせてくれました。あの時代、時々でしたが、けっこう贅沢な食卓だったのかも知れません。食べている四人の顔を、母は満足そうに眺めていたのです。

 その上、自分の会社のあった東京から、食パンに、みじん切りにしたキャベツをのせたソース味のサンドイッチを買ってきてくれたのです。だからでしょうか、今でも、パン屋に行くと、カツサンドが目について仕方がなく、たまーに買ってしまうのです。あの味には比べられませんが。

 また、串に刺して炭火で焼いた鰻を買ってきてくれ、炭火で焼き直して、丼のご飯の上にのせて、タレとサンショをかけて食べたのです。今、この住んでいる街の南に、有名な鰻屋があるそうですが、完全予約で、〈お重8800円〉だそうで、とても手が届きませんし、まあまあの庶民の贅沢だった物が、高級ステーキ並みになっていて驚きです。でも、この鰻は、入院中に父に頼まれて神田の昇亭まで行って買って、父に届けたことがありました。同室の方に頭の方を上げて、自分は尻尾の方を食べていました。あの後、すぐに父は召され、父の最後の鰻だったのです。

 もう一つは、崎陽軒の焼売(しゅうまい)です。陶器の醤油差しがついていて、からし醤油で食べたあの味は、高い物ではないですが、抜群に美味しかったのです。何個入りだったのでしょうか、きっと母の分を残さずに食べて、自分が一番多く食べて、みんなに嫌われていたのでしょう。それは、競争社会の中で生き抜く逞しさでは、どうもなさそうでした。

 蛇足ですが、崎陽軒の創業者は、餃子の街・宇都宮に近い鹿沼の出身だそうで、なにやら、ここでは焼売で町興しがなされているのだそうです。48もの食堂などが、シュウマイを出してくれる、〈焼売地図〉まであります。しばらく、カツサンドも鰻も焼売も食べていないのです。そういえば、《食欲の秋》の到来、ちょっと唾液腺が動き始めてきているようです。

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ガザ地区病院爆破の原因

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 「10月18日のガザ地区病院爆破はイスラム聖戦発射と判明(ブリッジ フォー ピイスからの速報記事)」

 ガザ地区の病院爆破が大きく報じられていますが、ミサイルはイスラエルのものではなく、ガザ地区のテロ組織イスラム聖戦のものであることが、カメラ映像やイスラエル軍の作戦と照合した結果、明らかになりました。カメラには、爆発が起きた前後、ガザ地区から連射されたロケット弾の一発が、ガザ領内に落下した様子がとらえられています。

 ガザ地区のテロ組織は、以前にも、イスラエルの空爆と偽ってガザ領内に向けて意図的にロケット弾を発射したことがあります。今回のような落下や誤爆を含めると、何千発と発射されるロケット弾のうち、どれほどの被害がガザ領内でも起きていることでしょうか。

 彼らの目的は、ガザ住民の犠牲を利用し、国際的な非難をイスラエルに向けさせることです。ガザの人々はまさに「人間の盾」であり、人質ともいえます。

 この病院の爆破事件に対し、レバノンのヒズボラは報復を口にしている他、アラブ諸国の間で反発が広まっています。イスラエルに対する諸外国の理解や心象が今後変化していく可能性もあります。

 イスラエルはガザ北部の市民に、南部へと避難するよう引き続き呼び掛けていますが、ハマスらはその避難を妨害するだけでなく、それを逆手にとって南部で活動を活発化させる恐れも出てきました。

 ガザ市の人々を人間の盾にして、人道状況を悪化させて苦しめているのはハマスらテロ組織に他なりません。引き続き、ガザの一般市民がテロ組織の手から守られ、安全を確保できるように、人道状況の回復のために、国際社会が問題を見極めて対処する知恵が与えられるようお祈りください。

『主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。(詩篇18篇2~3節)』

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終わりの朝顔が

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 今季、きっと最後の朝顔の花かも知れません。もう溢れるほどに咲き、これまでも蚊と咲き続けたのですが、種を残して、朝顔劇場の幕が降りたようです。種を残そうと思っていますが、数年前から、「肥後朝顔」に魅せられた私は、これに挑戦してみたいのです。きっと、タネの入手も、育て方も難しそうですが、ちょい線に値するような、見事な、「肥後六花」の一つです。

 今年の夏は、異常な暑さに見舞われ、何もが焦げてしまいそうな感じがしていましたが、この朝顔の葉の緑と、三色が次々に咲き続けてくれた赤、紫、桃色の花びらの開花に慰められ、励まされました。

咲きあふれ 暑さ忘れし 朝顔ぞ

 華南の借家に咲いていた朝顔は、日本から持っていった種を植えたのですが、亜熱帯の暑さ、中国でも極めつけの暑さの地で咲き、正月まで、裏のベランダで咲き続けたのには驚きました。次女家族が来た時、そのベランダを箒で、水を流しては綺麗にしてくれたのです。そこから移り住んだ住宅で、ただ一軒だけ、向こうの棟の八階で、「喇叭花(朝顔の中国名です)」の咲いているのを認めましたが、小規模栽培でした。

 春に、家内が、シンクタンク(流し)の下の冷暗所で、発芽させたか細い苗を、私が苗床を作って、植えた朝顔でしたから、ちょっと寂しい思いがしてまいります。日本には、中国から、観賞用よりも「薬草」として伝わり、まさに、わが家では《精神安定薬》の役割を担ったと言えるのです。孫たちが近くにいないので、もっぱらの関心は、この《薬》だったかも知れません。

 最後に、「朝顔の花言葉」は、愛情、愛情の絆、結束、結びつき、平静、明日もさわやかに、私はあなたにからみつく、などがあるそうです。まあよくからみついて咲いていた朝顔でした。《創造の美》、神の創造の世界でありました。

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