踏青

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 春の季語に「踏青(とうせい)」と言うことばがあります。俳句を詠む心のゆとりなど、ついぞなかった私ですが、春の野辺に萌え出た青草を踏んで、嬉々として走り回った、幼い日の光景を思い出させてくれます。あの日の浮き浮きした早春の気分を、今も同じように感じさせられて感謝で一杯であります。まだ幼かった子どもたちが、春を感じて、『お母さん、春を見つけに行ってきま~す!』と出かけて行き、野花や名も無い雑草を摘んで帰って来た日のことが、昨日のように懐かしく思い出されてなりません。

 私の恩師が、戦時中、治安維持法違反の嫌疑で捕えられて、獄舎につながれている時、獄窓の隙間から、青い空と白い雲、雑草の中に咲いている野の花を見て、『生きているんだ!』と言う実感を覚えさせられたと述懐されていました。この恩師が、卒業して行く私たちに、『野の花のごとく生きなむ!』と色紙に書いてくれたのです。長く牢につながれて、拷問を受けたのでしょうか、足を引きずって歩いておられたのが印象的でした。自由が与えられて、学校に復職して、学部長の重責を果たしておられてました。聞くところによると、先生は大学教育を受ける機会を奪われたのだそうですが、いわゆる無資格の学者で、その道では権威だったようです。

 真冬のような塀の中で、『ここを出たら、自由の身になって、好きな学問をしよう!』と願ったり、『思いっきり幼い日に駆け回った野山で、また春を感じてみたい!』とでも思ったのでしょうか、実に穏やかな人柄の方でした。

 踏まれても、なじられても、野の草や花は強いのですね。時代を憎んで、人を憎まないで生きることが出来た方でした。この方の奥様が、内村鑑三の弟子の妹さんであったことは、卒業して何年もたって知ったことでした。

 人を強くさせ、支えているものがいくつかあるようです。幼い日の懐かしい思い出や人の激励のことば、感動した話などです。でも人を真に強くさせるのは、造物主を知ることに違いありません。自分が、どこから来て、今していることの意味を知り、やがてどこに行くかを知っている人は、自分を知る人なのです。

 それにしても、毎年毎年、忠実に訪れてくる春は、いくつになっても、生きているいのちの躍動を感じさせてくれるものです。この2月10日は、ここ中国では「春節」、新しい年の始まりの伝統的な祝日なのです。この大陸では、春の到来の喜びは、何にも勝って貴く、欠け外のないもので、全国民一丸となって喜び迎える最大限の喜びなのです。帰国した夕べも今朝も、「爆竹」が、けたたましく鳴り響いておりました。春を喚起し、呼びこもうとする切々たる思いを感じて、騒音が、心地好く感じられるのは、在華七年目を迎えたからに違いありません。

 近いうちに「踏青」、川辺の土手を、萌え出でた青草を踏みながら散歩をしてみようと思っています。なぜなら自然界の復活の季節を肌身に感じたいからであります。

(写真は、春の代表的な草花の一つ「蒲公英(たんぽぽ)」です)

エスコート

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 今日の天気予報によりますと、気温は19℃、温かい一日なることでしょう。やはり「陽の光」の中に春が感じられるようになってきているにちがいありません。といっても今朝は曇天、太陽は顔を見せてくれません。昨晩、帰宅しました。3週間ほどの留守で、「住めば都」の言葉通りに、住み慣れた異国の街の借家が、「自分の棲家(すみか)」だと、改めて思わされています。祖国に帰国し、弟や息子の家に滞在し、居心地の好い接待を受けたのですが、決心して住み始めた、こちらの家を本拠としているのですから、里心を捨てて、ここを第一にしない訳にはいかないことになります。「第二の故郷」とはよく言ったもので、それぞれの理由で祖国から離れ、追われた人々にとって、いつまでも故郷は心の奥にしまいこまれているのですが、父が去り、母が逝ってしまった祖国の今は、思い出の中にだけあるようです。

 先月の21日の午後、友人の車に送られて、町の北にあるバスターミナルに向かい、そこから長距離バスに乗り込みました。余裕で上海に着くと思いきや、どこだか確認しませんでしたが、杭州の近くのインーターの近くに、そのバスが停車して、5時間ほど運転手たちが仮眠し始めたのです。『いつ出発するんだい?』と問われても、彼らは上の空でした。杭州で乗客を降ろし、上海に向かったのですが、船のチェックインに間に合うかどうか、心配で心配でなりませんでした。結局、乗船客の最後で、ギリギリに間に合ったのです。薄い頭が更に薄くなってしまったと思って、船の洗面室の鏡に頭を写してみたのですが、さほどん変わりようはありませんでした。

 同室になったのは、上の兄と同じ学年の方で、退職後、蘇州に住んで十数年といっておられました。3ヶ月に一度の帰国をしてきている大阪在住の方で、話し好きでした。名刺を交換したので、何時か訪ねてみたいと思っております。S大学の学生と風呂で一緒になり、交換留学を終えて、北京から上海に来て、そこからの帰国でした。なかなかの好青年たちでした。他人任せの旅には、もうコリゴリだなと思った私は、帰りの船便を1年オープンにして、帰路は大阪から飛行機にしたのです。

 その飛行機の中で、トイレから席に戻ろうとしていた老婦人が、乱気流の中でヨロリとしたのを見て、隣の席の今風の中国人青年が、すくっと立ち上って、そのおばあちゃんをエスコートして席に連れていくのを見ました。実にさわやかで、情愛のこもった行為をみて、『人って、上辺ではなく、心なんだ!』と思うことしきりでした。この中国人社会には、こういった感心する青年たちが多くいるのを目撃して、「孔孟の教え」が二十一世紀の今にも、脈々と生きていて、とくに青年たちによって実行されているのを知らされるのです。素晴らしいことではないでしょうか。

 夕闇の中、厚い雲をついての着陸でしたが、レーダーというのでしょうか、コンピューター操作で着陸できる時代だということを、改めて思い知らされました。「懐かしさ」、着陸してこの街の土に足が触れた時に、それを感じさせられたのです。多くの方々の善意で、念願の「査証」も発給され、もうしばらく、ここにいることが導きとの思いで、新たな一歩を記した次第です。東京の街に比べて、少々暗い夜でしたが、家内の待つ我が家にたどり着いて、ホッとしたのは家内も同じだったようです。

(写真は、飛行中の深セン航空の飛行機です)

《抑制の美学》

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1969年の大阪場所で、横綱・大鵬が、戸田と対戦した時のことです。戸田が横綱を破って金星を挙げた一戦でした。しかし、この判定は行司の誤審で、大鵬の右足が土俵に残っていたのです。その時、大鵬は、『横綱が、物言いのつく相撲をとってはいけない!』、と語って、勝ちを主張しなかったのです。NHKの相撲実況をしたアナウンサーで、相撲ジャーナリストの杉山邦博が、『これは《抑制の美学》だ!』と、書き残しているのです。まさにこれは、《王者の貫禄》ではないでしょうか。

私たちの住んでいた街に、「相撲」がやってきたことがありました。通っていた小学校の校庭に、土俵が設えられて、いわゆる「地方場所」が行われたのです。その相撲興行を行ったは、「二所ノ関部屋」でした。それ以降、兄たちの贔屓(ひいき)の相撲取りは、二所ノ関部屋の玉の海、琴ヶ浜になったのです。私も兄たちに倣って、彼らのフアンになったのです。娯楽の少なかった時代の相撲は、今のサッカー人気以上があったと思われます。この二所ノ関に所属していたのが、プロレスで有名だった「力道山」でした。

そして一世を風靡(ふうび)した、「大鵬」も、この二所ノ関部屋の力士で、「昭和の大横綱」と言われた人気力士でした。ウクライナ人の父親を持ち、その肌の白さや、外人のようなマスクに、子どもや女性から圧倒的な人気があったのです。一番上の兄と同年生までした。昨日のニュースで、この大鵬が亡くなったと報じていました。「平成」が、もう25年にもなりますから、また「昭和」が遠ざかっていくのを感じています。『決してえばらなかった方でした!』と言われ、日本を元気にしてくれた大横綱の死は、やはり寂しいものを感じさせられます。

(写真は、大鵬の出身地の近くにある、初夏の「摩周湖(弟子屈町)」です)

過去

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 『前任者色(しょく)を一掃しろ!』との指令が出ました。つまり新任者は、過去を抹殺して、再出発をしようと考えたのです。前任者が使った机も椅子もロッカーも茶碗も皿もコーヒカップでさえも捨てられてしまいました。すべてを新しくしたのです。前任者が背任行為を働いたのでは、決してなかったのです。ただ野心がなかったので、大躍進することなく、それでも忠実に責務を果たしていたようです。その指令に戸惑いながらも、新任者の考えに従わざるを得なかった社員には、落ち度はなかったのだと思います。ただ混乱したのだろうと思います。

 今があるのは、過去が積み重ねてきたからであって、もし過去を否定してしまうなら、今が実に危うくなることは必至です。これは国でも企業でも、家庭でさえも同じだと考えられます。どんなに愚かな父親でも、お金も経験も地位もある他人よりは、実の父親には比べられないといわれています。前任者は、開拓者として出掛けて行きました。彼に動機を与えたのは、彼の前任者の言葉があったからでした。『あなたの仕事を若い人に任せて、あなたは別の所に出ていきなさい!そうしたら働きは拡大していくからです!』とです。それで、難しい企業環境にある会社に、一切の肩書きを捨てて、「協力者」として関わり始めたのです。
 
 一国の主(あるじ)でい続けるなら、安定した生活を送れるのですが、それに飽きたらない彼は妻の手をとって出ていったわけです。もちろん、彼を導いた方の言葉に、背中を押されたのですが。『私の過去を葬らなければ、会社を経営していけないと思った後任者と、彼のスタッフの気持ちは分かります。だが・・・』と、私の知り合いが漏らしていました。

 有史以来、様々な出来事を積みかさなねて、今の「日本」があります。私たちが歴史を学ぶのは、過去を否定するためではなく、過去に学ぶためであります。戦争をせざるを得なかった日本の実情、国際関係や国内の事情を知るときに、戦争を肯定もしない代わりに、過去も否定しません。『「日の丸」の掲揚は軍国主義につながるからしない!』、『「君が代」も軍隊を連想させるから・・・』という理由で否定されていて、日本人には国旗も国歌もなくなってきてしまい、実に脆弱(ぜいじゃく)な「国家意識」が出来上がっているのではないでしょうか。「桜」や「菊」だって、昔から国花ではないでしょうか。それなのに、春には「桜」を愛でて花見をし、秋には、「菊」を愛でて鑑賞会をしています。それは、まさに国民的行事のようでもあります。背骨をなくしてしまった国民が、自分の国を愛して、国作りに励むことなどできないのです。

 七年の海外生活で忘れるどころか、産み育ててくれた父母の国に対して、心からの愛着が湧き上がっています。私は過去を否定しません。会ったことのない叔父は、南方で戦死しています。家族や親族や友らを守ろうと、純粋に戦った叔父だったのです。当時の対戦国の兵士たちも、同じような思いで戦ったのです。勝っても負けても同じ志を持ちながら亡くなられていったのです。彼らの死を無駄にしてはいけません。私の尊敬する方で、父の世代の方がいました。特攻隊の生き残りの彼が、『戦友たちの死を無駄だと言われたくない!』と言っておられました。戦争の後、平和を願って生きておられた方でした。もう一度言います、私は過去に学んで、今日を生きようと思っています。

(写真は、「桜(ソメイヨシノ」です)

農暦

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 先日、学校の先生と話をしているときに、『来年、26才になります!』と言われたので、2014年に、26才になると思っていましたら、そうではなかったのです。今年、すなわち2013年に、26歳になるのです。この話の行き違いを説明しますと、中国では「農暦、nongli(旧暦)]を使いますので、2013年の場合は、2月10日が、「春節」の新年の「元旦」になりますから、この人の言った、『来年・・・』とは、来月に「正月」を迎えてからのことを言ったことになります。

 話の中で、『誕生日は何時ですか?』とお聞きしますと、私たちは、「西洋暦(新暦)」で答えると思って、『そうですか12月17日なのですね!』と答えると、実は旧暦の「12月17日」のことを言っているのです。それで、『公の証明書などの誕生日は、いつになるのですか?』とお聞きすると、「西暦」で記入するのだそうです。

 日本でも、『今年、〈数え年〉で17才です!』という場合が、昔はありました。私の父は、『数えで・・・』と言っていたのを覚えています。西暦で、1月7日に生まれたら、旧暦の正月が、一月か二月にあります(毎年変動しています)から、その正月を迎えると、生まれて一月もたたないうちに、もう2歳になってしまうわけです。今では、ほとんど「数え年」を使わなくなり、ほとんどの人は「満年齢」で数えるようになっていましたから、私のような者でも、旧暦の考え方のできない世代だということを知らされているわけです。

 ですから誕生日をお聞きしたら、『それは〈農暦〉ですか?』と聞くことにしているのです。このへんが、急激に西洋化してしまった日本人の私の「文化的葛藤」なのであります。面倒なことでありますが、自分の国に伝わる伝統を守るのは大切なことなのかも知れません。日本人の男性、武士階級は「羽織袴」、それ以外の男性も女性も、帯をしめた「着物」を普段着て生活をしていましたが、「欧化」の中で、いっぺんに着る衣服を、欧米式に変えてしまいました。頭髪もそうでした。「ちょんまげ」から、「ざんぎり頭」に変えたのです。法律によってでした。こういった急激な変化をしていくのが、明治以降の日本人の特徴の一つなのです。大工などの職人は、「角刈り」にイキにし、戦後、「太陽族」と呼ばれて青年たちは、「慎太郎刈り」をしていたのです。「ざんぎり頭」になっても、様々に工夫をしている、これも日本人の特徴でしょうか。

 そういった文化と伝統の中で育ってきた私のような人間ですが、歳のせいでしょうか、懐古趣味が、なんとなく首をもたげてきているのを感じるのです。『この街を下駄でカラコロと歩いてみたい!』と思っているのです。そうしましたら、西湖公園のお土産屋の売り場で、何と中国風の下駄が売っていたのです。聞きましたら、『昔は下駄も履かいていたんですよ!』と言われたのです。それで、もし私が下駄で、「五一路」を歩いていたら、きっと石が跳んでくることでしょうから、やめにいたします。

 間もなく、「春節」がやってきます。ヨーロッパ人が、太陽の光が帰ってくる「冬至」を待ち望んだように、中国のみなさんもまた、春の到来を待望しているのです。そんな期待感が、店頭に並び始めた「正月用品」に見られるようなってきました。「春天快要来」の新暦一月の中旬であります。

綺麗

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 先週の金曜日に、私たちが住んでいます「公寓」と道路の間が、制服を着た5~6人の役人の一声で、すっかり綺麗になりました。5階のベランダから、その様子を眺めていました。様々なものが乱雑に置かれたり放置されていたのが、すっかり片付けさせられていました。そこに橙色の制服を着た清掃員が10人ほどやってきて、ゴミを綺麗にしていきました。土曜日に、無料送迎バスで、少し離れたところにあるスーパーに買物に行った道沿いも、すっかり綺麗にされていたのです。昨日の日曜日の午前中も、家内とバスに乗って出かけたのですが、そのバス通りの両側は、以前とは全く見違えるほどに、綺麗にされているではありませんか。7年の中国での生活の中で、金曜日以降の激変振りに驚かされています。

 以前、師範大学で中国語を学んでいた時も、ある週に、校舎や校庭が、すっかり整頓され、花で飾られ、破れや壊れが修繕されていました。私たちの胸には、「◯◯師範大学」というバッチが付けられることになったのです。どうしてかといいますと、中央から学校の視察があるのだそうで、そのための備えだったのです。普段と一変していく様子を、興味津々で眺めていました。そんなことを思い出しながら、『この週末に、どなたかかが視察に来られるのにちがいない!』と確信したのです。普段、道路も歩道も横断歩道も、様々なものが置かれていて、歩くのに支障がありましたから、『これはいい!』と大歓迎しています。家内は、『ずっとこのままであって欲しいわ!』と言っておりました。

 そう言えば、わが家にお客様が来るときには、普段以上に綺麗にそうじをするので、街の中の変化を、他人ごとのように眺めて観察していてはいけないなと思わされております。街の驚くほどの変化がみられます。そう言えば、日本も「東京オリンピック」を境に、ずいぶんと変わっていったのを思い出します。新宿や渋谷の路地裏は、同じようだったからです。何らかの外からの刺激によって街は変化していくのでしょうか。人だって同じですね、様々な刺激があって、人は変えられ、新たにされていくのでしょう。そんなことを思う、週の初めの朝であります。

社会的貢献

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 私が、ほとんど毎日アクセスするブログがあります。昨日配信された記事に、「社会的貢献」のことが記されてありました。どの企業も、業績を上げていかなければなりません。社員がいて、そこには妻や子、家族があるわけです。しっかり食べさせ、冬には防寒服を着せ、雨露をしのげる住まいに住ませ、学齢期になったら子弟に教育を受けさせなければなりません。学びたいのなら高等教育も受けるようにする必要があるからです。企業の責任、企業の役員の責任は、そういった意味で、企業をさせる人々のためにも、『収益」を上げていかなければなりません。これは当然のことです。

 ある人が勤めていた会社が、営業不振で、部門の縮小をせざるを得なくなりました。その部門の責任をしていた方が来られた時、『◯◯さんには、何十人もの部下がいらっしゃり、それぞれ家庭があります。彼らが路頭に迷うことがないように、再就職の世話をしてあげて下さい。それからあなた自身のことを・・・!』と、相談に答えたのです。『そうしたら、きっとあなたの再就職先が、必ず備えられますから。あなたの責任は、部下と部下の家族にあります。彼らを守ってあげ、最善の身の振り方をさせてください!』と勧めたのです。ところが彼は、ノイローゼのようになっていて、その勧めに反して、だれよりも先に退職してしまいました。親族の系列の会社に、根回しをしていたのです。

 企業や上司とは、部下の全生涯にかかわらなければならないからです。子供たちが世間並みに、衣食住が備えられ、教育を受けられ、市民としての最低限度の文化的な生活を過ごせるように配慮する責務があるのです。松下電気が苦境にあった時、役員たちは従業員の「首切り(解雇)」を提案しました。ところが、社長の松下幸之助は、『今まで苦労を共にしてきた仲間を解雇することはできない。この時期を忍べばきっと業績も改善するだろう!』と考え、役員たちの勧めを拒んだのです。昔のような輝きが少なくなったのですが、この企業の輝き、繁栄は、そういった経営者の理念があったからだと思われるのです。ソニーにしても、障碍を持たれた方が働ける職場、部門を設けて、その社会的な貢献を果たしてきて、世界に冠たる企業となったのに違いありません。今、そういった儲けにならない部門、「社会的貢献」を疎かにしているのではないでしょうか。韓国などとの国際競争力が落ちたのは、技術の流失だけのことではなく、このへんにも原因があるのではないでしょうか。

 「楽天」という会社があります。三木谷という方が社長で、「ネット販売」で急成長を遂げているのですが、この会社は、儲け主義ではなく、社会との共存を考えているのだそうです。ブログに、そうありました。この「執行役員」の中には、この「社会的貢献」担当がいるのだそうです。このように、《志を高く持って生きる企業人》がいるのを知って、なんともほっとさせられます。

 国も、《国益》とは、国の利益ではなく、国を構成する《国民の利益》のことであって、弱者切り捨てではないのです。弱者に、手厚い施策をしてきた国は、雨の後の筍のように急成長はしなかったのですが、堅実な国家が作り上げられててきています。そうでなかった国は、いつの日にか崩壊してきています。中学の歴史で、「スパルタ」というギリシャの都市国家のことを学んだときに、身体や頭脳の能力の高い者たちだけが国家の益になり、弱者を切り捨てた国だったことを学んで、理想的な国家は、弱者救済に力を注ぐ国であることを知ったのです。全体主義国家であった、かつての日本やドイツが滅びたのは、これを蔑(ないがし)ろにしたからにほかなりません。弱者への《労(いたわ)り》こそが、国や企業を高く上げることになるのではないでしょうか。

(写真は、「品川シーサイド楽天タワー(楽天本社)」です)

『鏡とみまし山と川と』

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 「故郷」の作詞家・高野辰之は、唱歌の作詞だけではなく、全国百数十校の校歌も作詞しています。彼は、こう書き残しています。『校歌には、その学校の建学の理想が盛られ、校訓が含まれなければならない。生徒は校歌を歌うことを通して生徒としての自覚を深め、誇りを持ち、励まされ、時には戒められ正しく導かれる。校歌はそういう役割を担うものである。その為に校歌は、七五調で親しみやすく口ずさみやすいこと、動揺のない自然の山河などの地方色を含み、比喩は山河に結びつけること。日本の国民性、健全性を大切にし、偽らない中正の考えが含まれること。いつまでも歌い継がれる永遠性を持つこと。』とです。

 そこで、三度めの転校先の小学校の「校歌」を思い出したのです。作詞・岩淵孝(青山師範学校〈現・東京学芸大学〉教官)、作曲・森山保(青山師範学校教授)で、明治45年に制定されています。

1.南に仰ぐ 富士の高嶺
  北にめぐれる 多摩の流れ
  教えの庭の 朝な夕な
  鏡とみまし 山と川と
 
2.名もうるわしき 日野のまちは
  人すなおにて 地味こえたり
   われらの学びの 業を励み
  楽しきこの地の 栄えまさん

 高野が言うように、地勢や健全性が盛り込まれているのです。半世紀あまり経つのに、はっきり覚えているというのは、我ながら「母校愛」に溢れているのだと自認しております。また、高野辰之の学問については、『辰之の学問の底流には「人間の喜びや悲しみの叫びが歌謡の起源、身振りは舞踊、物真似は演劇の起源」という考えがある。 『日本歌謡史』『江戸文学史』 『日本演劇史』は代表的著作で、その研究は別々のものではなく、辰之の学問の世界を構築している。辰之の研究は実証的で、資料の収集と検討分析に力を注ぎ、日本の歌謡・演劇・民俗芸能の学術的研究に前人未踏の世界を開いた。またそれは、様々な時代に生きた人間の心に深く触れる日本文化の再発見であった。 』と、「おぼろ月夜の館・斑山文庫(高野辰之記念ルーム)」のHPにあります。

 日本文学や文化を学びながらも、じつに易しいことばを用いて、作詞をしていることに驚かされるのは私ばかりではないとと思います。高野は、

  白地に赤く日の丸染めて
  ああ美しい日本の旗は

という「日の丸」も作詞をしています。日本が、地理的に、「日の出ずる国」であるところから、このように、「白色」と「赤色(厳密には〈紅色〉というそうです)」の「日章旗」は、理屈抜きで単純で素朴です。去年の夏に乗船した「蘇州号」が、日本近海に進んだ時、「日の丸」が掲揚されました。海風を受けてはためくのを見ていましたら、胸がジンとしてきたのは歳のせいでしょうか、外国に長く住んでいるからでしょうか。私たちの国の「国旗」は、高野が詠むように、実に美しいと思うのです。

回家

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 小学校の音楽の授業で習った「唱歌」の中で、「故郷(ふるさと)」ほど、日本人の心にスッポリとはまり込んだ歌はないのではないでしょうか。1914年(大正3年)に、小学校6年生の「尋常小学唱歌」出発表されています。作詞は、東京音楽学校(現在の芸大)の教授で、「国文学者」の高野辰之、作曲は、同じく東京音楽学校の「声楽」の教授の岡野貞一です。

1,兎追いし彼の山
小鮒釣りし彼の川
夢は今も巡りて
忘れ難き故郷

2.如何にいます父母
恙無しや友がき
雨に風につけても
思い出づる故郷

3.志を果たして
いつの日にか帰らん
山は青き故郷
水は清き故郷

 この歌詞の意味が、ウイキペディアに、次のようにありました。
1.兎を追ったあの山や小鮒を釣ったあの川よ、今なお心巡る思い出深き故郷よ。   
2.父や母はどうしておいでだろうか、友は平穏に暮らしているだろうか。風雨(艱難辛苦の比喩とも)の度に思い出す故郷よ。
3.夢を実現したら、いつの日にか帰ろう、山青く水清らかな故郷へ。

 阿倍仲麻呂が、唐の都・長安で詠んだ、

 天の原  ふりさけみれば  春日なる  三笠の山に  いでし月かも

 これは、海を隔てた故郷を、はるかに思って歌った歌でありますが、「こころの歌」といわれる「故郷は」、高野辰之が、自分の故郷である長野県下水内郡豊田村(現・中野市)を思念しながら作詞をしたようです。志を果たした後に、高野や岡野が帰って行こうとした、《山青き、水清き故郷》は、信州や鳥取の故郷だけのことではなく、「天上の故郷」であったのかも知れません。望郷の念にかられて、何度となくおセンチになって、この歌を歌ったことでしょうか。それは私だけのことではなく、多くの在外邦人の経験かも知れません。兄や弟たちと魚採りをした山間いの流れの水は澄んでいるのでしょうか。また、兄にアケビをもいでもらった山道には、まだ雑木が茂っているのでしょうか。おぼろげに記憶が蘇って来る、「回家(huijia、帰国)」を十日ほどにした朝であります。

(口絵は、谷内六郎が描いたCD「故郷」です)

惜別

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 10年ほど前に、中国の中学生の意識調査をしています。その中で、「知っている日本の人物名」の項目があって、第一位は、時の首相「小泉純一郎」、第二位は、当時の日本のプロサッカーで名を馳せていた「中田英寿」、第三位が「浜崎あゆみ」でした。その第九位に、「藤野先生」が挙げられていました。いったいこの「藤野先生」とはだれなのでしょうか。日本人の私たちには馴染みのない人物なのですが。

 魯迅の作品の中に、この「藤野先生」があります。中国の中学生は、この作品を読んでいるようで、470人がこの方を挙げたのです。本名が、「藤野源九郎」で、仙台医学専門学校(現東北大学医学部)の教授でした。実は、魯迅がこの仙台医専で学んだ時の「恩師」だったのです。魯迅の公私にわたって面倒を見たのが藤野源九郎でした。留学生の魯迅に特別な教師愛を示したので、彼は生涯、北京の彼の家にあった自分の机に面した壁に、この藤野源九郎の寫眞を掲げて、朝な夕な眺めていると、この作品の中で述懐しています。この写真は、「惜別」と裏面に書いて、藤野源九郎が魯迅に別れに際して渡したものでした。

 多くの日本人が、一段低く見ていた中国の人たちを、この藤野源九郎は、特別な愛顧をもって世話をしたのです。「解剖学」の講義ノートを持ってこさせては、いちいち内容から誤字や誤文法まで添削をし、その講義が終わるまで続けてくれ、その筆記したノートが三冊もあったようです。魯迅は、それを一冊に綴じて、一生の記念品としたのですが、引越しのおりに業者が紛失してしまったようです。

 魯迅は、医学の道を断念し、文筆の道に進路を転換していますが、そのきっかけとなったのが、藤野源九郎が見せた「幻燈(スライド)」でした。ある時、授業が早めに終わったのでしょうか、残りの時間に、日露戦争の様子を写したスライドが映写されたのです。魯迅は、この中で、スパイを働いたとして、日本軍に処刑される中国人と、それを、ぼんやりと見ている周囲の中国人の様子を見ました。魯迅は、この時の衝撃を、『愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料 と、その見物人になるだけはないか!』と、「吶喊(とっかん)」という作品の中で書き残しているのです。魯迅が感じたのは、医療よりも、まず同胞・中国人の「精神の改造」こそが最重要なことだと心に決めました。それで、指導教官の藤野源九郎に、退学し、帰国することを告げたのです。藤野は大変残念に思って、写真の裏に、「惜別」と記したわけです。

 私の教え子が二人、今、「杜の都」仙台・東北大学で学んでいます。医学ではなく「経済学」ですが、こんな出会いがあったら素晴らしいですね。ちなみに、藤野源九郎は、仙台が東北大学医学部に昇格したおり、『専門学校卒には教授資格なし!』という学校の判断で、結局辞職し、奥様の郷里(福井・三国町)で開業医をされたそうです。狭量な日本には落胆されますが、中国の魯迅の精神に、大きな影響を与えた人物として、日本人の私たちは知っておくのが好いと思います。

(写真上は、魯迅の出生地の「紹興」、下は、「仙台の七夕」です)