釣り

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最初の職場に、魚釣りの好きな人がいて、何度も連れていかれて、竿を川や谷や湖や海におろしたことがありました。その職場の近くに、陣馬山の流れ、多摩川と合流する「浅川」が流れていて、昼休みに出掛けて、釣りをしたりしていました。

その川底には、「メタセコイヤ(学名: Metasequoia glyptostroboides)」の化石があって、学術研究の対象でした。その脇で、フナやハヤを釣ったわけです。それが面白くなって、「桂川(相模川の源流)」に出掛けて、天然の山女(ヤマメ)釣りまでする様になってしまいました。ある時、まだ寒かった明け方に出掛けて、岩場から釣り糸をおろしていて、足を滑らせて、岩壺にズボッと落ちてしまったのです。相模湖の駅前に友人がいて、そこで着物を乾かせて帰ったこともあったりでした。

それを契機に、日曜日が忙しくなってきたこともあって、釣りをやめてしまいました。海釣りまでしていたのですが、深みにハマって、魚釣りの趣味の深みから戻ったわけです。これって、釣り好きを「太公望」趣味と言いますから、趣味としても古いものに違いありません。確かに、多くの人を虜にしている様に、実に面白いのです。

小説家で、芥川賞を受賞した開高健(かいこうたけし)がいました。とびっきりの釣り好きで、魚釣りを題材にした小説や紀行文を表しています。その中に、「モンゴル紀行」があり、チンギス・ハンの墳墓の調査に出掛けて、「幻の大魚 イトウ」を釣り上げる作品があります。〈放送ライブララー〉で映像番組を見ることができます。
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一度だけ、内モンゴル自治区の呼和浩特(ふふほと)に行ったことがありました。中国領のモンゴル族の地で、草原と山だけの記憶しかないのですが、草原を潤すには、川があるはずですが、開高健は、外モンゴルの川に、釣行をしたのです。そこで見せた表情は、まさに釣り好きそのものでした。あのまま釣りをし続けていたら、自分も、あんな表情を見せていることでしょうか。

長く過ごした中部山岳の街で出会った方も、アラスカにまで出掛けて、釣りをしてきた人でした。病んで、病院の送り迎えをしたり、入院先を見舞ったり、よく交わりを持ちました。『治ったら、マス釣りとオーロラ見物に、一緒にアラスカに夫婦旅行を2組でしましょう!』と約束をしたほどでした。でも、その実現を見ないまま、亡くなられてしまいました。

眼下の巴波川は、魚釣りができそうにない、舟運をしてきた川で、瀬音は聞こえますが、魚影を見ることはありません。でも、今でも時々、一羽だけですが、白鷺が流れの中に立っているのを見かけますから、餌になる小魚がいるのでしょうか。長い竿を下ろせば、魚釣りができるほどの近くに流れがあります。外出禁止が求められるご時世、〈お出掛け〉を自由に楽しんだ頃を思い出してガマンの今です。

(モンゴルの草原、国花の「セイヨウマツムシソウ」です)

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動物の軽視

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★AFP記事  コロナパンデミックの原因は「動物の軽視」
霊長類学者グドール氏

【4月12日 AFP】世界的に有名な英出身の霊長類学者、ジェーン・グドール(Jane Goodall)博士(86)は、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な大流行)は、人類が自然を無視し、動物を軽視したことに原因があると指摘している。

 アフリカで先駆的な研究に取り組み、チンパンジーの本質を明らかにしたことで知られるグドール氏は、ナショナルジオグラフィック(National Geographic)の新ドキュメンタリー番組「ジェーンのきぼう(Jane Goodall: The Hope)」公開に先駆けて行われた電話会見で、今後の災難を防ぐために過去の失敗から学ぶよう世界に訴え、誰もが変化を起こすことができると語った。

■今のパンデミックについてどう考えますか?

グドール氏:われわれが自然を無視し、地球を共有すべき動物たちを軽視した結果、パンデミックが発生した。これは何年も前から予想されてきたことだ。

 例えば、われわれが森を破壊すると、森にいるさまざまな種の動物が近接して生きていかざるを得なくなり、その結果、病気が動物から動物へと伝染する。そして、病気をうつされた動物が人間と密接に接触するようになり、人間に伝染する可能性が高まる。
 動物たちは、食用として狩られ、アフリカの市場やアジア地域、特に中国にある野生動物の食肉市場で売られる。また、世界中にある集約農場には数十億匹の動物たちが容赦なく詰め込まれている。こうした環境で、ウイルスが種の壁を越えて動物から人間に伝染する機会が生まれるのだ。

■このような動物市場に対し、私たちはどんなことができますか?

 中国が生きた野生動物の市場を閉鎖したのは非常に良いことだ。一時的な禁止措置だが、われわれはこれが恒久的な措置になり、他のアジア諸国も後に続いてくれたらと願っている。

 しかしアフリカではブッシュミート(食用の野生動物の肉)の販売に多くの人の生活が懸かっているため、これを禁止するのは非常に難しいだろう。
 自分自身や家族を養うためのお金を全く持っていない人々に対して(食用野生動物販売の)禁止をどう行うべきかは、かなり慎重に検討する必要がある。ただ少なくとも今回のパンデミックはわれわれに、新たな流行を防ぐにはどんなことをすべきか教えてくれたはずだ。

■私たちは何に希望を持てば良いですか?

 私たちは自然界の一部であり、自然界に依存しており、それを破壊することは子どもたちから未来を奪うことに他ならないということに気付かねばならない。
 世界中で行われている前例のないロックダウン(都市封鎖)という対応によって、より多くの人が目を覚まし、ひいては、どうすれば自分たちの生き方を変えられるのかということを考えるようになればと思う。

 日々の小さな選択をする時にその選択がもたらす結果を考えるようにすれば、誰でも、毎日、影響を与えることができる。何を食べるか、その食べ物はどこから来たのか、その食べ物は動物を虐待して得られたものか、集約農業によって作られたものか(大抵の場合そうだが)、子どもの奴隷労働で作られたから安いのか、生産過程において環境に悪影響を及ぼしたか、どこから何マイル移動してきたのか、車ではなく徒歩で移動できないか。

 それから、貧しいとこういった倫理的な選択ができないため、どうすれば貧困を和らげられるのかも考えてほしい。貧しい人たちは生き延びるために、自分たちにできることをせざるを得ない。どれを買おうかと考える余裕はなく、最も安いものを買うだけだ。食べ物をもっと栽培できる土地を必死に探し、最後の木を切り倒してしまうのだ。
 私たちが生活の中でできることは、一人一人少しずつ異なるが、私たち皆が変化を起こすことができる。誰もがだ。(c)AFP/Stéphane ORJOLLET

要契約

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こんなニュースが気になったことがありました。「暴行容疑で摘発された国内の高齢者は、20年前と比べて約50倍に増えている」と言うものでした。その一つの原因を、機能や生理的な変化だとされている様です。食べ物の成分の中に、それを摂取し過ぎて、忍耐力が弱くなって、粗暴な行動をしたり、暴力行為に走ってしまうのだと言うのです。その様な相関関係があるのでしょうか。

戦争が終わって、戦地に出征していた男子が帰国し、結婚したり、妻の元に帰って、第二次世界大戦後の世界各国で共通した、一つの社会現象として、"ベビー・ブーム"が起こりました。本来の家庭が、健全に回復されたからです。日本では、その時期に生まれた子どもたちを、「団塊(だんかい)の世代」と言いました。この団塊の世代のみなさんは、激しい競争の中を生き抜いて、今や、年を重ね、職を辞して、老人の枠の中に入ってきたわけです。

日本の高度成長期を支えた世代で、豊かな日本の国を産み出した原動力であって、その貢献の度合いは計り知れないのです。職を辞してホッとしている今と、激烈な競争体験と、馬車馬の様に鞭を当てられて休むことなく働き続けた日々とのギャップが大きいに 違いありません。そう言った環境変化も、そう言ったことが起ってしまう要因の一つと考えられるのでしょうか。栄養の偏りだけではなさそうですが。

目は口ほどにものを言う

雨降りのあの朝、華南の街で、バスを乗り換えて、リハビリのために病院に出掛けた時のことでした。そのバスに、途中から乗ってこられた年配の男性(私より一回り年上に見えました)が、前の席に座られたのです。そして、その方の視線が、私の隣に座っている若い女性の膝に、釘付けになって、瞬きもしないで見ているのです。

夏になると、意外と無防備で目のやり場に困る服装の女性が、あの街では多いのです。私も、チラッと見てしまうのですが、瞬間、目を反らせて、窓外の車の動きなどに目を移すのですが、この年配の方は、凝視していたのです。その様子を、私は見ていたわけです。

ある男性が、こう言っています。「私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留めよう。」とです。一瞥(いちべつ)は許されるのでしょうけど、<凝視>は反社会的な行為になってしまいそうです。みなさんに見守られて、席を譲られて、『年を重ねるって、思いのほか好いものだ!』と、そう自分に言い聞かせたのが、昨日のことの様です。

きっと若い時には、そんな見方はしなかったのでしょうけど、加齢と共に、『オットいけない!』との抑制力がなくなってしまうのではないでしょうか。自分も《注意》しなければならないな、と思わされたのです。そうしますと、目だけではなく、手、足、口とも契約が必要になりそうです。

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起立

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最近の「賃貸住宅事情」に、一つの傾向があると、ニュースが伝えています。不動産を取り扱う店舗では、老人には、貸し渋りや契約拒否が多く見られると言うのです。

ところが、イスラエルの古の書には、「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い・・・」と記されています。華南の街で、公共バスに乗りますと、「老人卡/raorenka/ICカード」を読取機にかざすと、“ チン “ と音がします。そうすると、座席から誰か一人とか二人の青年が、イスラエル人でない中国の青年が、起立して、乗って来たおばあちゃんやおじいちゃんに席を譲っているのです。

まだ六十代で、まだ矍鑠(かくしゃく)としていた時、街中に行くバスに乗ったら、一人の学生が、『请坐qingzuo!』と言って席を譲ってくれたことがありました。一瞬躊躇したのですが、その凛々しくも敬意を示してくれた青年に、『谢谢xiexie!』と言って座ったのです。それ以来、〈若いつもり〉を捨てて、その善意を受けることにしました。

日本に帰国すると、若者事情は、中国と違っていました。優先席に、高校生が3人、頭をあげずにゲームを夢中でし続けて、「楢山節考」をしていました。家内に席を譲って欲しいと期待しましたし、この家内のために、ここの席を優先使用されているので、座らせてもらってもいいのですが、権利や善意の主張をしないでいました。

まあ現代青年たちも、以前は譲ろうとしたのでしょうけど、譲っても、若いふりして老人扱いをされたくない老人に、無視されたりしていることが多くあると言われています。日本の社会は、素直になれないのだなと思って、そんへんの事情を理解したのです。

一人っ子で、けっこうわがままに育てられた中国の青年たちに、「長幼の序」が備わり、席を譲られる側の年配者も、若者を正しく評価している社会が出来上がっているのでしょう。物質的に豊かになってきてからは、その辺の事情が変わりつつある様ですが。

ある時、席を譲らない学生に、他の大学生が、『あなた立って、このおばあちゃんに席を譲りなさい!』と言う光景を、何度か目にしたことがあります。「民度」は、決して中国は低くありません。ただ文化の違いや習慣の違いがあるだけです。同じ物差しで測れないものがあるのを知らなければなりません。かえって日本の若者の方が横柄かも知れません。滞華時間の長い私は、判官贔屓(ほうがんびいき)でしょうか。

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ネモフィラ

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茨城の海岸に、今頃咲き誇っていると、ニュースが伝えていた、「ネモフィラ/Nemophila、」です。こんなに群生するのに驚かされます。オレゴン州周辺、カナダからメキシコにかけてよく見られる花だそうです。綺麗です!

(大分文化農業公園)

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珈琲

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家内と散歩の途上の近くの公園に、ベンチがあり、陽だまりに同世代のおじいさんたちが、四、五人、会話もなくダンマリと座っています。また、よく行くスーパーの喫茶コーナーに、一組の老夫婦が向き合って座り、コーヒーを飲んでいます。先日行った、近所の喫茶店で、家内はココア、私はコーヒーを注文して、飲み始めたら、店主夫人が、話し好きで、昨年の秋の洪水で、店に汚泥が入り込んでしまい、やっと、最近綺麗にするとができたと言っていました。

こちらも同世代の罹災者ですから、共通の話題で話し込んでしまいました。私たちの住むアパートの持ち主夫人を〈ちゃん呼ばわり〉していました。家内が闘病中だと話すと、お兄さんも同病だとかで、郡山の近くに、ラジウム温泉があって、そこが湯治にいいと勧めてくれたのです。その湯治宿の宣伝レディーの様に、効能を話してくれました。

けっこう面白い話し手で、一杯350円と安いココアもコーヒーも美味しく、サーヴィスの二杯目も淹れてくれました。家内も気に入って、話に加わり、『また来ようね!』と言って家に帰ったのです。

さて社会学者は、高齢者に特有な問題があると言っています。「孤独」と「怒り」なのだそうです。学校を出てから、働き始め、結婚し、子どもたちが生まれ、精一杯働き、定年を迎えて、急に行動範囲が狭まります。趣味があればいいのですが、積極的に何をするでもなく日柄過ごしていると、生活が短調になります。

子どもたちは独立して、遠くにいて、孫たちも大きくなると訪ねて来なくなり、古女房と、四六時中一緒にいる時間が多くなっていきます。そうすると寡黙になって、新聞を隅から隅まで読み、テレビを観るともなく観て、インターネットづけになり、自分の世界に籠りがちになるのです。こうなると危険信号の点滅になってしまっているのです。

元気な主人に『亭主元気で、留守がいい!』と思っていたのに、生き甲斐をなくして、気難しく家にい続けていたら、奥さんは大変でしょうね。その夫の状態が、「孤独」なのです。「狐老」と言った方が的確でしょうか。それが進むと「孤立」になってしまいます。奥さんたちは、「女子会」と称して出かける機会が多そうです。

働いている間は、いろいろと息抜きができたのに、その機会が減り、出不精にになっていき、気難しくなり、それが昂じると、「怒り」なるのだそうです。円熟とか老成とかが望まれる年寄りが、切れやすくなって起こる犯罪が多くなっているそうです。歳を取る、ってこう言うことなのでしょうね。
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トランプさんにしろ、麻生さんにしても、われわれと同じ世代ですが、彼らは、重い責任を負いながら、よく激務をこなしているなと驚きます。私には、家内の世話という役割があって、この一年あまり、けっこう充実して日を送っているかなって思っています。国家への責任も、妻への世話も同じことだと、ちょっと強がって、自認しています。テレビも新聞もない生活ですが、子どもたちが、ちょくちょく気を使って、メールやメッセージという媒体で、文字と映像で、心配してくれています。

最近では、チェロを習い始めた孫娘が、『聴いてくれる?』と言って、FaceTimeで訪問してくれ、演奏を聴かせてくれるのです。また若い友人の母子が、なにくれとなく訪ねてくれ、チビちゃんが折り紙を届けてくれたり、お母さんは、娘の様にしていろいろと届けてくれます。一緒に遠足に行くお母さんとお嬢さんです。故郷のご両親と、私たちは同じ年齢で、ご両親は現役でまだ働いておいでです。

家内は、散歩と、息子に言われての「ラジオ体操」をし、郵便局や図書館やドラッグストアーに行くことが多くなってきています。私は買い出しで、自転車で外出し街探検もしています。友人に勧められ自転車保険に入り、ヘルメットまで買いました。それに同じものばかりの繰り返しの三食の賄いをしています。まあ「主夫」と言ったところです。これが今の自分の仕事なのです。

日帰り温泉行きも計画中です。家内が、台所に立つことが多くなっていますので、昼食は自分で作れますので、『出掛けて!」と勧めてくれています。それで朝食をとって、「ふれあいバス」か自転車に乗って行けそうです。バス代往復200円、入浴料200円で足ります。あとは決断のみです、はい。

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自然の掟

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昨日、メールアドレスのパスワードを忘れてしまったのです。何度か自分で変えたり、新しいサイトで作業する時に、次男に助けてもらって変えたりしてきて、最終的なパスワードを記録しておかないままでした。それで、便利なサイトにアクセスして、ダウンロードしようとしたのです。『×××@gmail.comー⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎ですると、〈パスワードが違う〉00と出てきてしまうけど、変更するにはどうしたらいいの?教えて!』と、次男にメールをしたのです。

そうしましたら、彼は、パスワードを覚えていて、教えてくれたのです。それで、『メモしといてね!』と言ってきましたので、〈備忘録欄〉に、メモしたのです。それで、『はーい?‍♂️痴呆の父親より、いろいろ覚えておいてくれてありがとう!』と返事をしましたら、『まだ全然、大丈夫。たとえそうなっても自然の掟。?』と言ってきたのです。

自虐的な父親を、励まそうとでも思ったのでしょう、忘れっぽくなってる私に、〈まだ全然大丈夫〉と言ってくれました。そして〈自然の掟〉だと言ってきたわけです。つまり、〈なる様になってしまう自然の流れ〉だと言いたかったのでしょう。今や、〈ややっこしい世界〉に分け入ってしまい、もうついていけないほどの複雑な迷宮が目の前に広がっています。

最近、葉書や封書でやってくる〈QRコード〉を、スマホやiPadの〈カメラ〉で読み取ると、サイトにつながる操作や、タブレットを使った会談参加など、利用する様に言われていますが、まるで迷宮に入っていく様で、ハナっから拒否反応が起こってしまい、ついていけないのです。そんなことしなくても、ちょっとの不便を忍べば、まだ生きていけるので、手がなかなか出ません。
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異次元に誘われて、ちっと昭和のジイジは混乱している様です。カセットテープレコーダー、ポケベルなどには、あの頃は、真っ先に飛び込めたのですが、最近のメディアの進歩には、もう指も頭も凍りついてしまって働かないし、なんだか痴呆が進んでしまう様で、自転車にまたがって外出したほうがいいのです。

きっと痴呆傾向の年寄りは、地方に住んで、自然と親しむほうが好い様です。昨日は、フイと家を飛び出して、街探検に出掛けました。まだ未知の道があって、そこに踏み込んだのです。スーパーで売ってるのとは違って、水槽に沈めた豆腐を売ってる店も、自家製の和菓子店も、自家製の惣菜を売る商店(ここで「しもつかれ」を売っていて美味しいのです)も、製造販売の下駄屋もあって、昔ながらの〈昭和の世界〉が、道筋に残っていました。

でも、わが国の総理大臣の記者会見の話を聞いていますと、ネットの世界と同じで、〈カタカナ語〉ばかりが飛び出してきて、『日本人だから日本語を使ってくれないと分からないよ!』と、家内と異口同音の反応を示したのです。これも拒否反応の一つです。

地方の街中の昭和に郷愁を感じ始めたら、痴呆の始まりなのでしょうか。それが、〈自然の掟〉とやらでしょうか。この掟の最たるものが、〈弱肉強食〉です。どうも弱いものを食って、強くなることができない人生を歩んできた様で、自分も弱いままですが、そんな自分を褒め直して、地方の街で、〈自然の掟〉の中を、家内と一緒に生きています。まだご安心ください。

(栃木名物の「しもつかれ/鮭の頭と野菜を煮込んだおかず」です)

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満月

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昨日は、満月だったそうで、次男が、東京のど真ん中で撮影して送ってくれた写真です。月が回っていて、東から見える季節で、窓を開けたら、肉眼で見えたのに、ちょっと残念でした。この時期、目を天空に向ける必要がありそうです。でも今夕は、小雨です。

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礼節

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1990年8月2日から1991年2月28日にあった、「湾岸戦争」を題材にした、アメリカ映画「TAKING CHANCE」を観ました。実は、家内の二人の甥が、志願して兵役についたのが、「湾岸戦争」でした。兵役を終えたら大学に進学をする計画でいたのです。上の子は、親元を離れて、私たちが住んでいた街の小学校に、半年ほど留学し、通学したことがありました。

この兄弟二人とも、兵役を終えて、無事に帰国することができたのですが、この映画に出てきます、チャンス・フェルプスは、「イラク自由作戦」で命を落としてしまいます。勇敢に戦い、20歳で戦場に倒れた一等兵でした。その実話の映画化でした。

そのチャンス一等兵の遺体を、家族の元に送り届ける任務を、買って出たのがを、シュトローブル中佐でした。佐官である将校が、上等兵を、親元に葬送する役割を果たすことは、極めて稀なことなのですが、あえて彼はその任務に着きます。その遺体を、ワイオミングに住む親元に送り届けるのです。

中佐は、「砂漠の嵐作戦」に従軍したのですが、その任務を終えて、戦場から本国の内務に移って、家族とに生活を楽しんでいました。そんな勤務をしていたある日、国防省が発表するイラク自由作戦の死亡者リストに、自分と出身地・コロラドが同じ兵士を探し出したのが、チャンスでした。しかし両親は離婚していて、お父さんが、ワイオミングに住んでいて、そこに届けるのです。

私が驚かされたには、祖国のために戦って戦死した兵士に対する、驚くほどの敬意を、この中佐が表していることでした。戦地から遺体収容所への移送、遺体の世話、身の丈に合った制服を縫い、それで遺体を覆う縫製士、軍の中に、そういった部署ががあって、戦死者への畏敬が溢れた任務を果たし、戦死者に心の籠もった接し方を、軍として遂行していました。
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戦争への礼賛(らいさん)でも美化でもなく、軍務で命を落とした兵士への「礼節」が、軍関係者はもとより、移送する空港の職員、同乗機の乗客らが示すのです。日本では、自国の国旗が、先の世界大戦で侵略国の象徴だったとして軽視や、嫌悪の的になっているのとは違って、遺体を納めた棺に、「星条旗」で丁重に覆い、自分たちの国のために戦って亡くなった兵士への哀悼を込めた用い方を、軍として、国として果たしていました。戦死者への重い敬意を感じたのです。
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親のいる家に向かうバンの車に、星条旗で覆われた棺を認めた、追い越して行くトラックや乗用車の運転手たちが、哀悼と敬意を込めて見守っているのも、驚きでした。私は、南方で戦死した叔父を知りません。亡骸が家族の元に返されたり、勲章が授与された話は聞いていないのです。敗戦国の戦死者は、押し並べて、そんな扱いだったのでしょう。

有名な旧陸軍の大将の甥子が、同級生にいました。お父さんも、陸大出の軍人で、中国の内地で戦死しています。敗戦の将も、その家族も、戦後は厳しい生活をしていたようです。一人の命の重さの日米の違いを感じて、ちょっと複雑な思いがしております。

決して戦死者を礼拝するのではなく、敬意や哀悼や感謝を表明しているアメリカの社会の在り方の一面に、生命重視の姿勢を覚えます。日本海軍に、有馬正文少将がいました。この方は、自ら青年兵士の先頭に立って、軍服から少将の襟章を外し、特攻機に乗って、49歳で戦死しています。『戦争は老人から死ぬべきだ!』と言っていたそうです。美談としてではなく、戦争は死を避けられない事実に、思いを新たにした春四月です。

(DVDのカバーとワイオミングの一風景です)
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気になること

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この三週間ほど、巴波川対岸にある旅館の解体工事が行われています。5人ほどの作業員で、息の合ったチームワークで解体作業が行われてきて、建物の大部分をほぼ終え、基礎部分を残すのみとなっているところです。昔は、ツルハシやスコップなどでの手作業がほとんどでしたが、この工事では、“ KOMATSU” と印字されたパワーショベルの大中小の三台が、フル稼働で6階建ての鉄筋コンクリートの廃屋を解体しているのです。

近所に配慮して、散水を行いながら、破砕時に出るコンクリートの粉塵を防いでいたり、騒音を最小限にしての道路脇の現場の作業です。この解体工事を、わが家の窓際から眺めていて、一つの建物のことが、気になってきたのです。それは、ニューヨーク市のシンボル “ のエンパイヤ・ステート・ビルディング “ です。1929年3月17日着工、1931年4月11日竣工で、102階建、443.2mのオフイスビルです。

この築九十年の建物も「解体工事」が、いつか必要な時があるのでしょうか。2001年9月1日「9.11」の “ ワールド・トレイド・センター・ビル ” が、崩壊して行く様子を、テレビで観ていましたので、今、隣でしている工事を見ながら、『ニューヨーク名物を、どうやって解体工事をするんだろうか?』と、心配になってしまったのです。

実は、1965年の3月に、私は、家を解体したことがありました。父が買った家が、日本道路公団の「中央自動車道」の道路予定地とされて、立ち退かざるを得なかった時、父から解体を請け負って、その解体をしたのです。木造平屋でしたので、大き目の片手持ちのバールを使って、弟の学友たちに手伝ってもらってやりました。

市の消防署に連絡をし、解体した木片や板などを焼却しながら進めました。怪我もなく、無事に終えることができたのです。解体の会社を建て上げる自信と野心もありましたが、まだ十九の私は、それは諦めました。父から貰った、公団からの解体費は、バイト代と昼飯代とおやつ代とで、みんな消えてしまいました。そんな経験があって、鉄筋コンクリート建の解体の大変さを眺めてきたのです。
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この解体工事には、下準備、足場の設営、重機の運転、ガスバーナーでの鉄筋の切断、瓦礫の分別(コンクリートと鉄筋の種分け)、瓦礫の搬出、さまざまな工事が手際良くなされているので、450mもある建物を、あの密集したニューヨークの繁華な地で解体するには、至難の業のように感じるのです。一体建物は、建てる時に、解体時をはるかに計算して建てるのでしょうか。

人の人生にも、〈終活〉をする必要があるのでしょう。10年ほど前から、「断捨離」などという言葉を、よく耳にします。見える物も見えないものも、元気な内に整理したり処分したりした方がいいそうです。もう一度くらい引越しをしそうな予感がしてならないのですが、その処分を、子どもたちにさせないように、今の内に持ち物の簡素化、スリム化が必要でしょう。在天の故郷に帰る前に、人間関係にも、心の中にも、どうも整理や処分も、する必要がありそうです。

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