もうすぐ三月ですね!

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 もし200年後があったとして、その頃のみなさんが、200年前の古写真を見て、『この口のまわりの白や黒や花柄の布は何なんだろう?』と不思議がることでしょうか。その頃は、みなさんが防毒マスクをかぶっていて、『こんな簡単なもので、ビールスや毒素を防げたのだろうか?』と、きっと訝(いぶか)しく思うのではないでしょうか。

 父の戦時中に撮った写真が、次兄の家に残っていると思います。東京の都心を歩いている父が、黒いマスクをつけている姿です。マフィ屋の親分のようにも見えないでもないのですが、風邪を引いた後のマスクで、人に移さないような配慮があったのではないかと思えてきます。今で言う「流行性感冒(インフルエンザ)」が流行していたのでしょうか。

 この313日からは、3年ほどの歴史のある「マスク着用」は個人の判断に任されられるようですが、気になるのは、つけるべきか、外していていいいのか、『他の人はどうするかな?』、なのでしょうか。「世間」は、どう判断し、どう決めているかが気になる日本人は、きっと迷うに違いありません。「他人の目」でしょうか。

 前からくる人が、どうしても避けているように、進路を変えているのに出会(でくわ)して、何とも言えない「疎外感」、「仲間外れ感」の思いに駆られるのは、私だけではなさそうです。聖書の中に、ライに冒された人が、道を行く様子が記されています。

 『患部のあるそのツァラアトの者(昭和46年版の新改訳聖書では「らい病人」と訳されてあります)は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。 (レビ1345節)』

 ユダヤ人の旧約時代の世界では、「汚れ」に対する厳格な規定があったのです。聖なる創造者なる神さまは、異邦の民のさまざまな汚れに対して、ご自分の民が、その汚れに汚されないように、「聖さ」を求められたのです。それは差別とは違い、「区別」でした。ライに冒されたら、その人が回復することを願い、社会復帰できるような願いが込められていました。

 ですから、その感染の他者への拡散を防ぐために、つまり、その社会で共同生活をする人々を守るための決まりでした。この3年間のマスクは、感染を防ぎ、保菌者からの拡散を防ぐためになされてきたものでした。それでも、『コロナだ、コロナだ!』と叫んでいる人とは出くわさなかったと思います。

 私の信じてきた神さまは、汚れをきよめる(聖める)お方です。どんな汚れだって、「十字架の血(1ヨハネ1:7、ヘブル9:4)」、「聖霊(ロマ15:16)」、「みことば(ヨハネ15:3)」、「信仰(使徒15:9)」、「懲らしめ(ヘブル12:10)」によって聖めてくださいます。聖別会でではなく、信じた瞬間に、救いの一面としてです。そして漸進的にです。その途上に私はあり、感謝でいっぱいなのです。

 うっとおしいマスクですが、寒い日には、口元が暖かくて良かったのです。髭剃りを気にせずに、忘れたふりをしても、見咎められずに済んだのです。いったん慣れ親しんだものから、離れるには、けっこう難しいかも知れませんね。それにしても、『クソジジイ!」と言った、あのおばさんは、感染しないで済んだのか、ちょっと気にしてみたい、《もうすぐ三月ですね》であります。

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春の兆し


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 『春よ来い来い!』、陽の強さが増し加わってきて、もう隣村には春が来ているように感じられます。馬の背にのって、野を越え、川を越えて間もなく到来でしょうか。今日は、孫娘の公立高校の受験日です。受験準備で蓄えたものが発揮されますように!

 Reluxだね。  ジジババ応援団より

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「見よ。それは非常に良かった。」

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 『神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。(創世記1711節) 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。(同31節)』

 年度替わりの頃でしょうか、毎年、長く住み、子育てをした街で、「側溝掃除」があって、町内会総出で行ったのです。公共の場を保全するというのは、住民の責任ですから、側溝のコンクリート製の蓋を上げて、汚泥などを取り除きました。

 『空と海と地、そして人を汚すなかれ!』、宇宙も、海洋も、今や〈ゴミ〉であふれるほどにされています。この連日のニュースで、北朝鮮から発射した飛翔物が、日本海に落下したと伝えていました。大地震、津波、嵐、竜巻などによって、海に流入する生活物資は、驚くべき量に加えてなのです。

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 そればかりではなく、宇宙空間には、2年前の調べで、4400基もの宇宙船があるそうです。打ち上げられたロケットの破片などの残骸が、おびただしくあります。その数は、JAXAの報告ですと、一億個にも上ると言われています。

 そうしますと、宇宙や海洋の残留物の回収を行う国や会社や個人は、宇宙清掃社や海洋清掃事業を起こして、回収をする責任を負うべきです。子どもの頃、ゴミは隅っこに放置したり、近所の小川に流したり、埋めたりしていました。それではいけないとのことで、今や市町村の事業の一環として、ゴミの収集事業が行われて来ています。

 悲劇なのは、福島原発で流出した放射線で汚染された土です。その地域を訪ねた時、青いシートで覆われて、行き場がなくまだ放置されたままでした。そんなことで飛散はないのでしょうか、地に染み込んだり、飛んで行く成分はどうなのでしょうか。

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 さらに、流出し続けてるのは〈汚染水〉です。それを希釈して、海洋に流そうとしていることです。放射能で汚染されたものを薄めたって、気休めや言い訳なのかと持ってしまいます。その中を遊泳する魚や貝などへの影響はないと言えるのでしょうか。食の危険がでもありそうです。

 ものすごい出力を生み出すものには、そんな risk のあることが分かりながらも、その十分な対策が講じられずに、原子炉の利用が始まったことに問題があります。しかも私たちの国は、地震頻発国なのにです。やはり対策は後手後手です。

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 創造主から委託された天や地や空への責任を欠いた時代のツケが、返ってきているのでしょう。子どもたちの通った幼稚園で、「サツマイモ農園」に、サツマイモの苗を植える作業に駆り出されたことがありました。土いじりというのは楽しかったのです。そうして、鍬やシャベルなどの農具を、近くの小川からバケツに汲んだ水で洗ったのです。一人の若い先生が、その水を川に戻さず、農地に注いだのです。お百姓さんのお嬢さんなのでしょうか、水の大切さを知っておられて、感心したのです。

 もう、ずいぶん前になりますが、近い交わりの教会の宣教師や牧師の交流会、勉強会がありました。20人ほどいたでしょうか。みんなで食事を作って、後片付けをしていた時です。話に夢中で、水道の栓は、温水を流しっぱなしにしていた方の後ろに回った一人の老宣教師さんが、手を伸ばして、栓をひねって、無駄に流れる温水を止めていたのです。

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 水が豊かで、その有難さを感謝しないと、無駄がわからないのでしょうか。水の貴重さを知っている外国の方は、無為に水を流しっぱなしにできなかったのです。華南の街でも、お勝手で使った濯ぎの水を、流してしまわないで、大きなポリバケツに溜めていました。掃除やトイレの水に再利用されていたのです。神からの自然の恩恵に対する《感謝》が、無駄を省くこととなっているのだと学んだのです。

 測り知れない大空に煌めく星々、古代人は、さまざまに星にまつわる話を紡ぎました。地球に程よく位置する太陽もは、その距離、熱量、引力など、それを傾斜して受け止める地球も、誰が設計配置されたのでしょうか。romantic な気分にしてくれる月は、その引力で潮の干潮を生み出しています。地球も程よく傾斜軸があって自転して、季節季節を楽しませてくれ、太陽の回りを公転しています。

 この地球の水も土も空気も、すべて神さまが、人が生きていくために備えてくださったものなのです。進化で、ここにあるのではなく、濃度も成分も量も、『そうであれ!』と意図された神のご配慮で存在しているのです。だから《あるもの》への責務を、人は覚えなければいけないのでしょう。

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日の丸弁当とにぎり飯

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 「今日はなんの日」と言う掲示板が、私がときどき行く市立図書館の入口の壁に下げられてあります。『エッ、こんな日があるの!』と驚かされることもあります。いわゆる、「肉の日」の発想で、29日、毎月29日が、そう言われるようなダジャレや、語呂合わせのものが多いようです。

 410日が、「弁当の日」なのだそうです(「駅弁の日」だと言う人あるようです)。母親がいない時に、私は〈おやじ弁当〉を作って、子どもたちに持たせたことがありました。特別の自慢できることではないのですが、覚えているのは、食パンをトーストして、それにバターを塗って、チーズ、卵焼き、牛肉の焼いたもの、キャベツや玉ねぎやPマンなどの炒め物を挟んだsandwich で、けっこう人気があったと思います。

 『日本初の駅弁として定説となっているのは、1885年(明治18年)716日、日本鉄道から依頼を受けて「白木屋」という旅館が販売した駅弁です。 この日に開業した日本鉄道宇都宮駅で販売され、〈おにぎり二個、たくあん二切れ〉という内容でした。(全米販)』とありました。まさに東北本線の宇都宮駅が、駅弁の発祥駅なのだそうです。

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 小学校で、弁当を持ってこれない級友がいて、立たされ仲間でした。立たされ仲間でカンパして、コロッケパンをおごったこともありました。あの級友は、今どうしているでしょうか。戦後、お父さんを戦争で亡くした家庭は、今のような保障のない時代で、貧しかったのです。堂々として食べられなくて、隠して食べる子もいました。麦飯に、イカを細く切ったものを、醤油と飴のようなもので佃たものに、タクアンだけ入れてきた子もいました。

 小学校は、給食が始まる前でしたが、アメリカから贈られた〈ララ物資〉の脱脂粉乳のミルクは、みんなに配られていました。スキムミルクを飲むと、あの頃が思い出されてきます。同じ世代の願いは、〈腹一杯食えること〉で、貧しさをバネに生き抜いた時代でした。

 敗戦の惨めさを、食べられないことで味わっていた時代があったのが、嘘のような高度成長から今日までの豊かさです。この繁栄の背後に、そんな谷間があったのを、忘れてはなりません。

 父親に追い出されて、裏のお勝手のコンクリートの三和土(たたき/土間)に膝をついて、ごはんに味噌を乗せてもらって、泣きながら意地になってかき込んだ日がありました。『ごめんなさい!』が言えない、男の意地で、また寝所をさがいて、里山を歩き回ったのです。

(日本経済新聞の「日の丸弁当」、tenki.jp の「駅弁」です)

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農業の大切さの再考を

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 華南の海沿いの街に、記念館があって、見学のために訪ねたことがありました。昔の農具が展示されていて、つい先頃まで、使われていた物が置かれてありました。それは、東アジアに共通していて、子どもの頃に見て、触れたのと同じような農具が展示されてあって、興味津々でした。

 私たちの家では、父が勤め人の家庭でしたが、山奥から越してきた東京都下の街は、駅の近くなのに、まだまだ農耕地が広がり、農業が盛んで、通学路には、田んぼや畑があって、その間を歩いて学校に通っていました。

 田植え前の田んぼでキャッチボールをしたり、鬼ごっこもしたでしょうか。苗植えのための田んぼならしの農作業から、水の張られた田んぼへの田植え、田の草取り、稲刈り、稲の乾燥、脱穀、稲村積みなどの農作業を眺め、休耕の田んぼの間の登下校でした。

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 田んぼ作りに使っていたのが、「朳(えぶり)」と呼ばれていた農具だそうです。田植え前の田んぼの土をならす、T字型の道具で、野球部が練習を終えた後に、使っていたグラウンドならしのトンボと呼んでいた道具に似ています。地方地方によって、呼び方が違っていたことでしょう。

 その田んぼに入って、一度だけ、田植えの手伝いをしたことがありました。親指と人差し指と中指で、苗をつかんで、土の中にさす作業で、どうも苗をつかみ過ぎて植えてしまったようで、きっと後で、その植え直しが大変だったのではないかと、思ったりでした。

 足踏みの脱穀機に、刈り取った稲を入れる作業も、その様子を見ていた時に、『やってみるかい!』と言われて、させてもらった覚えがあります。稲刈りもしたのです。農作業というのは、大変なもので、「米」という漢字は、「八十八」と書くので、ぞれほどの作業をして、お米が食べられるのだと教えられました。

 華南の農村に行ったときに、三階建ての立派な造りの家に泊めていただいたのです。出稼ぎからの送金で建てた家々で、目を見張るような光景でした。窓から近くにある畑を眺めていましたら、耕運機ではなく、牛に農具を引かせて耕しているのを見て、なんだかチグハグで驚いたのです。立派な輸入車に乗っているのに、農機具が前近代的な、昔ながらなのが、mismatch で興味深かったのです。

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 そう言えば、栃木に来てから、散歩の途中で、農作業を見ることがあります。農薬散布は、ドローンを使っていました。また稲刈りは、畑の面積に比べて車体が大きすぎる程の稲刈り機が作業を開いていました。高級車の座席に座って、スーツを着ていても似合いそうな雰囲気だったのです。泥田の中に、草鞋のをはいて田植えをしたり、腰を屈めて鎌を使っての収穫をした頃と、雲泥の違いでした。

 アメリカの北西部の農村を旅していて、見かけた大規模農法の機械化が、狭い日本の地でも、機械の導入で行われているのは、それほどにしなくともいいにではないか、と思いながら、昨秋は眺めていました。

 田舎から出てきたお母さんでしょうか、竹で編んだカゴの中に、座れるように作られた背負子に、子どもがいたのを見たのです。バスを何度も乗り継いで、大きな街にやって来たのでしょう。まだ車社会になる前の華南の街の光景でした。それがまた熊に近代化してしまうのを、驚きを持って眺めていた滞在期間でした。

 農村育ちのご婦人たちと、一緒に山歩きに誘われて出かけたこともありました。着飾って、ヒールの高い革靴を履いてこられたのには、驚いてしまいました。ついに彼女は、靴を脱いで、裸足で歩いていました。米俵をヒョイと担いだ農村育ちで、伝道師のご主人よりも力持ちだったのです。

 薪で炊いたご飯に、野菜を煮たおかずで、食事の招待に呼ばれたこともありました。純農村、山を越え、川を渡って2時間も車で走ったでしょうか。日本にもあるような山里で、オリーブの木に実をつけていて、その収穫への招待でもありました。近代化しても、あそこの村は、今も変わっていないのでしょう。若者は、都会に出てしまい、お年寄りの社会でした。

(華南の博物館に展示されてある農具、朳、ドローン農薬散布作業の様子です)

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[旅に行く] 芭蕉の感性の凄さ

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 荒海や 佐渡に横たう 天の川

 芭蕉の作です。越後国の出雲崎の浜に立って、天空と海の彼方にとに目をやっています。海の向こうに「佐渡」を見て、見上げると、高遠な「天の川」が視界に入ったのでしょう。

 古人も、天空の不思議に心躍らせたのです。江戸時代、工場の煙突はなく、竈(かまど)や焚き火の煙が立つくらいで、空は澄み渡って綺麗だったに違いありません。夜空を散りばめる星々を眺めている芭蕉の感性には驚かされます。齢四十六の芭蕉は、現実ばかりを見る人ではなく、大自然に目を向けて感動しているのです。

 伊賀国上野に、寛永二十一年に生まれ、俳句を学ぶのですが、二十七歳の時に、江戸に出て行きます。俳人として生きていく芭蕉は、多くの弟子を持ち、彼らに慕われた人でした。

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 「旅を栖(すみか)とす」、李白のように「漂白の思いに駆られ」、「三里に灸すゆる」によって、陸奥(みちのく)に向かって、「過客」となって、深川の庵を出立するのです。芭蕉が使った「ことば」が素敵ですね。李白や杜甫の詩作に学んで、豊かな語彙を蓄えた人だったわけです。

 この人は旅好きだったのです。「奥の細道」の紀行を終えた後に、「野ざらし紀行」を著すのですが、江戸に帰って、また旅に出ています。ゆっくりとした時を過ごしていて、その好きな旅(お弟子さんを訪問の時です)の途上で、享年五十で亡くなっています。

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語りのプロなのか

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 ソウルの教会を訪ねた時に、『日本語は、詩を作るのに適していて、韓国語は、説教するのに向いているんです。』と、韓国人クリスチャンの方が言われていました。確かに、『そうだ!』と思わされたのです。

 中学1年生の時に、高等部の古文の先生から、『月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人なり・・』の書き出しの「奥の細道」を、週一で1年間学びました。国語の授業の枠の外だったと思います。古いけど、実に美しい日本語を学ばせていただいたことは、知識欲の旺盛な時でしたから、実に楽しくて仕方がありませんでした。

 NHKで、その道で活躍して高い評価を得ている方が、ご自分の母校の小学校で、特別講義をする番組がありました。世界的だったり、日本的だったりの著名な先輩からのレクチャーを聞くのです。その番組の中で、小学生の目がきらきらと輝いてるのを見て、講義の内容よりも、彼らの応答の方が興味深かったのです。きっと中1の頃の自分も、『高校生を教えてる先生が僕たちに教えてくれているんだ!』と言う、何とも言えない誇りや自負を感じていたんだろう、と思い出しています。でも中1に、分かるように講義してくれたのですから、あの先生の教授術には驚かされます。

 クリスチャンは、聖書のみことばを暗記するのですが、あの先生から、「奥の細道」を暗記させられたのです。65年近くたつのに今でも、最初の部分をそらんじることができるのです。どうしても日本語の原点は、古典の中にあるのですが、この頃は、古いものが敬遠されてしまう傾向にあるのは残念なことです。

 そういえば、「落語」が、台本なしで演じられるのには、いつも、びっくりさせられています。名人で、桂文楽と言う方がおられました。その日の演目を、家でやらないでは高座にはあがらなかったほどに、完璧を期した噺家だったと聞きます。

 78才の時に、国立劇場小演芸ホールで、「大福餅」を演じているとき、「神谷幸右衛門」という名を忘れて絶句してしまったのだそうです。彼は、『申し訳ありません。もう一度勉強して、出直してまいります!』と謝ってから楽屋へ引っ込んでしまいました。それ以後、二度と高座に上がらなかったのだそうです。実は、この文楽師匠は、いつの日か、高座で、話を忘れてしまうことを想定して、その謝罪のせりふを稽古していたと言われています。

 八十に手の届く年齢になって、度忘れしたって、その時の観客は赦したに違いないのですが、自分の芸にそれほど厳しかったのは、『たかが落語、されど落語!』ですね。ご自分の芸道の限界を認めて、身を引いたのは、実に潔(いさぎよ)いのではないでしょうか。

 「アドリブ」と言う芸があるのですが、即興で話をしたり演奏することですが、せりふを忘れてしまって、咄嗟のごまかしの場合も多いのではないでしょうか。もちろん、アドリブ芸の達人は、しっかりと計算し熟考して、さらりと演じるのだそうです。落語家だって、忘れたことをアドリブで無難にやり過ごしてしまう方だっておいでです。

 「黒門町」と呼ばれていた、稀有の噺家・文楽師匠は、やはり語りのプロだったことになります。そういった古い形の芸人がいたからでしょうか、「落語ブーム」が去っても、また人気を取り戻せたのでしょう。講壇には、いろいろな教会で立たせていただきましたが、今は、講壇から遠ざかってしまい、高座で話を折ってしまった文楽師匠と同じ年齢になって思うところ大なのです。

 話芸と言えば、キリスト教会の説教者も同じでしょうか。周到な準備をしても、詰まったり、間違えたり、忘れたりしてしまいます。そしてお茶を濁してしまうので、文楽師匠のようにはなれないままでした。平壌(ピョンヤン)生まれの教会の牧師さんの韓国語の説教を聴いたことがあります。その日本語語りには感情が豊かに込められていて、抑揚や高低があり、歯切れのよさと迫りが〈機関車〉のようで驚かされたのです。

 イエスさまは、アラム語で弟子たちや群集に向かってお話をされたのですが、どんな抑揚、どんな感情でお話になられたのでしょうか。『彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。(イザヤ422節)』とイザヤが預言していますから、きっと穏やかな口調だったに違いありません。喋りはもとより、《人格の高さ》が抜きんじていたのでしょう。

(“キリスト教クリップアート”から説教されるイエスさま)

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[旅に行く] 防人として

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父母が頭(かしら)かき撫で幸(さく)あれと言ひし言葉ぜ忘れかねつる

 『(遠く筑紫国の太宰府に出かける)私の頭に、二親が頭を撫でてくれた。そして、旅の無事を願って、幸を祝してくれたことばがありがたくて、忘れられない。』

 これは、万葉集の「防人歌」です。そんな思いの「旅」でしょうか。これは、辺境防備のために、防人(さきもり)の任務に選ばれて、出立する若者が詠んだ和歌です。旅に途中には雨や嵐、盗賊だっていたでしょうか、太宰府に着任し、防備に配備されたのでしょう。現代人の旅人には考えられないような長旅をしての任務だったのです。親というのは、子の「幸い」を願うものなのでしょう。

 この歌を詠んだのは、何歳くらいの若者だったのでしょうか。防人勤務は大変なことだったそうです。苦労の多い旅の途中で、両親のやさしさを思い出し、涙したかも知れません。任期三年、それも延長されることが多く、どんなに故郷の家族が思いを占めていたことでしょうか。

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 私たちの子どもたちのうち、15で、長男と次女は、それぞれ中学校を終えて、ハワイの友人の世話で、ハイスクールに入学のために出かけました。次男は中学を出て新潟に行き、長女は高校を出て東京に行きました。みんな不安イッパイだったに違いありませんが、『可愛い子には旅をさせよ!』の親の決心だったのです。〈他人の飯〉を食べるのは、親元とは違っていたのを経験できたわけです。

 でも、そんな主の導きの中で、学び、人と出会い、国外から自分の祖国や家族や友人たちを思い、貴重な体験を積んだのでしょう。確かに学び得たものは、大きかったと思います。

 国のための義務を負い、異国に出かける愛おしい子への親の思いは、今も、自分時も、古代でも同じなのでしょうか。結婚するまで、二親の元にいた自分としては、それは恵まれた時だったと思い返しています。

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再び平和を願って

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 好きな讃美歌が、私にもあります。トプレディー(Augustus Montague Toplady/1740-1778)の作詞で、「千歳の岩よ(Rock of Ages)」です。この讃美歌には、父なる神への全幅の信頼が告白されています。これを賛美すると、自分の信仰の体系が全部備わっているように感じて、ただ感謝な思いが湧き立ってまいります。

1 千歳の岩よ、わが身を囲め
裂かれし脇の 血しおと水に
罪もけがれも 洗いきよめよ
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2 かよわき我は 律法にたえず
もゆる心も たぎつ涙も
罪をあがなう 力はあらず
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3 十字架の他に 頼むかげなき
わびしき我を 憐れみたまえ
み救いなくば 生くる術なし
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4 世にある中も、世を去る時も
知らぬ陰府にも 審きの日にも
千歳の岩よ、わが身を囲め
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 人間の無力さ、か弱さ、寂しさ、死への恐怖の中で、神に見出された者の驚きの中で、神を思い、賛美しているのでしょう。千歳(永遠)、岩、十字架、裁き、陰府、救い、信頼、憐れみ、贖い、力と言った、聖書の用語が並べられた讃美歌なのです。滅びて当然な自分を、永遠のいのちへの救いに入れてくださった神への賛美と感謝が溢れています。
 戦時下のウクライナもロシアも、両国の青年たちは、祖国のために銃を手にして、酷寒の戦場にあって、何を思うのでしょうか。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(マタイ26章26節)」、とイエスさまが、剣を抜いて打ち掛かったペテロに語ったことばを、どう読んだのでしょうか。祖国のために、同胞のために、家族のために、青年は戦わなければならないのでしょうか。

 私たちの世代は、平和教育を受け、平和の戦後を生きてきました。今また、子や孫の世代は、曽祖父の時代のように、剣を手にしなければならないのでしょうか。第三次の世界戦争は、避けられないのでしょうか。昨日、フランシスコの「平和の歌」を読みました。

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、
争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、
絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、
悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、
愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。

 イザヤ書に次のように記されてあります。
 『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。  その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 (9章6〜7節)』
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戦争と平和

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 青年期に、ヴェトナム戦争がありました。『市民権がもらえるぞ!』と、同級生に誘われたのですが、応募しませんでした。1965年、その戦争中に、“ What The World Needs Is Love ” と言う歌が生まれました。戦争よりも、「愛」を世界が必要としている叫び声でした。

What the world needs now is love, sweet love
It’s the only thing that there’s just too little of
What the world needs now is love, sweet love
No, not just for some but for everyone

Lord, we don’t need another mountain
There are mountains and hillsides enough to climb
There are oceans and rivers enough to cross
Enough to last ‘til the end of time

What the world needs now is love, sweet love
It’s the only thing that there’s just too little of
What the world needs now is love, sweet love
No, not just for some but for everyone

Lord, we don’t need another meadow
There are cornfields and wheat fields enough to grow
There are sunbeams and moonbeams enough to shine
Oh, listen, Lord, if You want to know

What the world needs now is love, sweet love
It’s the only thing that there’s just too little of
What the world needs now is love, sweet love
No, not just for some, oh, but just for every, every, everyoneq

(What the world needs now) Whoa, whoa (is love) is love (sweet love)
(What the world needs now) Oh, oh (is love) is love (sweet love)
(What the world needs now) Oh, oh (is love) is love (sweet love)

世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
足りてないのはこれくらい
世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
ダメよ一部の人だけじゃ,みんなになくちゃダメなのよ

神様,山はもう要りません
山登りしたいなら,山も丘も十分あるし
渡ってどこかへ行きたいのなら,海だって川だって十分に足りていて
この世の終わりがやって来るまで,なくなったりしないから

世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
足りてないのはこれくらい
世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
ダメよ一部の人だけじゃ,みんなになくちゃダメなのよ

神様,牧草地ももう要りません
食べ物を作りたいなら,トウモロコシの畑とか,小麦畑が十分あるし
輝く光が欲しいなら,お日様の光や月の光もあるの
ねえ神様,関心があるならどうか話を聞いて

世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
足りてないのはこれくらい
世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
ダメよ一部の人だけじゃ,みんなにもれなくなくちゃダメ

世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ(愛なのよ)

 日本の最後の戦場となった沖縄ですが、2023年の「平和の詩」に選ばれた沖縄市立山内小学校の2年生の徳元穂菜さんの詩、「こわいをしって、へいわがわかった」があって、次の詩を発表しています。

「びじゅつかんへお出かけ
おじいちゃんや
おばあちゃんも
いっしょに
みんなでお出かけ
うれしいな

こわくてかなしい絵だった
たくさんの人がしんでいた
小さな赤ちゃんや、おかあさん

風ぐるまや
チョウチョの絵もあったけど
とてもかなしい絵だった

おかあさんが、
七十七年前のおきなわの絵だと言った
ほんとうにあったことなのだ

たくさんの人たちがしんでいて
ガイコツもあった
わたしとおなじ年の子どもが
かなしそうに見ている

こわいよ
かなしいよ
かわいそうだよ
せんそうのはんたいはなに?
へいわ?
へいわってなに?

きゅうにこわくなって
おかあさんにくっついた
あたたかくてほっとした
これがへいわなのかな

おねえちゃんとけんかした
おかあさんは、二人の話を聞いてくれた
そして仲なおり
これがへいわなのかな

せんそうがこわいから
へいわをつかみたい
ずっとポケットにいれてもっておく
ぜったいおとさないように
なくさないように
わすれないように
こわいをしって、へいわがわかった」

今まさに、ウクライナでは戦争が続いていて、何も生み出さない争いなのを、過去に学ばない愚かさを露呈しています。いつも苦しむのは、若者たちであり、その家族です。産業は滞り、食糧も生産できず、多くの命が潰えているのです。そん中で、平和を願う声が、世界中から聞こえて参ります。

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