2012年を想う

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                     2012年を想う

 『・・・2012年が、起死回生の祝福の年となりますように、この大晦日の午後、衷心から祈り、切に願っております。「生きている幸せ」を、思い起こさせてくださって、一言お礼を申し上げます。ありがとうございました。
 追伸;私の左手首には、『 Unite To  be ONE! がんばろうNIPPON 』のリストバンドが、いまだにはめられたままです。 』

 この文章は、昨年の大晦日の〈2011年度最後のブログ「悠然自得」の記事の終りの部分〉です。私が、「起死回生」を願った2012年が終わろうとしています。私たちの国が、自然災害が起こりうる不安、原発事故による被災地の復興の遅れ、日本を代表する企業の業績不振からくる経済の落ち込み、政治の迷走と交代、9月以降の領土問題を中心に、外交関係の緊張と硬直、そんなことが国内にありました。一方、アメリカ大統領選挙、中国や韓国の指導陣の交代(実際には2013年に入ってからですが)、ギリシャの経済破綻によるヨーロッパ圏だけではなく世界への影響、アメリカ経済の不安、銃の乱射事件、国際社会にも、大きな課題を残したままの越年となります。多くの喜ばしいこともありましたが、その筆頭は、山中教授の「ノーベル賞」の受賞でした。生き方も、奥様の愛し方も一流でした。

 私たちは、こちらでの生活が七年目になりました。家内も私も、それぞれに母親と死別をし、家内は上の兄とも死別をした年でした。今は悲しさも癒えて、前を向きなおしております。とくに、生涯の十分の一の年月を、外国で過ごすことになり、今さらながら不思議な導きを感じております。故国にあったものをすべて処分してしまいましたから、国籍と法的な住所を残すのみです。私の、こんな歩みについてきてくれた家内は、あちらこちらと跳び回って、友人たちや病んでいる人たちを訪ね、中学生たちに日本語を教えたりして、大陸の生活を楽しんでいます。『心配ないの?』と聞くと、『全然ない!』と答えています。

 私は、学校で日本語を教えており、感謝なことに、来学期も来年度も機会が与えれています。とても身の引き締まる思いをしております。この9月15日の前後には、多くの教え子や、友人たち、天津で中国語を教えてくれた教師までもが、『大丈夫ですか?』、『何かあったら助けますので、遠慮なく言ってきてください!』、『こんなことになってごめんなさい!』など激励やお詫びがあました。つらい思いはしましたが、いつもと変わらず過ごしております。1月の下旬に帰国を予定しております。「査証」の更新の申請をしなければなりませんし、「運転免許証」も更新期限を過ぎましたので、これもと思っております。もう一つ、大切な用がありますので、このためにもすべきことがあります。福州にいることが最善だとするのなら、その必要も満たされ、「査証」が取得されれば戻りたいと思っております。

 この2012年のみなさまからの激励や援助やお便りに、心から感謝しております。 新しい年の祝福を心からお祈り申しあげます。(添付の写真は、今夏8月に訪ねた島で、若い友人に出迎えてもらった時のものです。)
                       2012年大晦日

ハイデルベルク

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『生きている間に一度行ってみたい外国の街!』の一つは、ドイツのシュトゥットガルトの近くにある「ハイデルベルク」という街です。ドイツの地図を見てみますと、ライン川の支流のネッカー河畔にあります。街の中心に、ドイツ最古の大学があり、また歴史的な王城もある学術都市なのだそうです。ロンドンやパリやベルリンではなく、『ここがヨーロッパを最も感じさせてくれる街ではないのか!』と、昔から思っていましたので、とても惹きつけられているのです。

もう何年も前に、あるドイツ人の伝記を読んで、とても感銘を受けたことがありました。その本を翻訳された方に手紙を書きました。そうしましたら丁寧な返事をいただき、一緒に、『むずかしくないのでこれを読んでみてください!』と、その伝記の主人公に関する「ドイツ語資料」のコピーを、しかも大量に送ってくださったのです。学者というのは、ドイツ人に関心がある人は、みんながドイツ語を理解できると思っておられるのでしょうか。ある方に翻訳してもらおうと、お願いしたのですが、その方の行方が不明になってしまい、そのまま書類が消えてしまったのです。この方は、先年、召されたと聞きました。本当に申し訳ないことしてしまったと思っております。

その主人公が、ハイデルベルクを含むのでしょうか、シュヴァーベンという地方の出身だったのです。そういった人物を輩出した地に、なんとも言えないほどの関心があって、もし許されるならと思っているのです。もう少し生きていられる間に、訪ねられたらいいのだがと思っております。今年、私の長女が、出張でヨーロッパのいくつかの街を歴訪して、色々とメールで知らせてきてくれました。どうも、ドイツに行って、美味しい「ドイツ料理」を食べる機会があったようです。その話を聞きましたら、今度は、「脳」だけではなく、「胃袋」も、ドイツに行きたくなってしまったようで、なんとも食いしん坊が露見してしまったようです。

日本という国が、大きく変化してきた歴史的な要因を調べてきますと、ヨーロッパ視察をしてきた人たちが、ヨーロッパの文明や思想、さらには高度な科学技術を、実際に見て、手で触れた報告をされてからだと思うのです。『天は人の上に人を造らず、人の下の人を作らず』という思想を知らせた福沢諭吉のようにです。どれほど日本が立ち遅れているかを痛感させられて、「欧化政策」を急進的にし始めていくのです。アジアでは、そういった動きをしたのは我が国だけでした。死にものぐるいの努力で、まあ肩を並べるところまで到達し得たのかも知れません。そんなことから、やはりヨーロッパ、ヨーロッパでもドイツといった思いが強いのかも知れません。

学校を出て、最初に務めた職場に、ある体育大学の先生が、非常勤研究員の一人としていました。彼は、ドイツに留学して、学んで帰るときに、ドイツ人の奥方を連れて帰国していたのです。どうも日本人とドイツ人は似ていて、相性がいいのだと言われていたのを、この方が証明していたのです。ヨーロッパ圏で国境を超えて侵略したドイツと、アジア圏で隣国を侵略していった日本とは、やはり政治的、外交的にも似ているのかも知れません。『ダンケシェーン(ありがとう)』だけしかドイツ語を知りませんが、片言が話せたらいいなとも思っていますが、まあ、してみたいことが多いというのは、気が若いのでしょうか。困ったものです。

(写真は、ハイデルベルクの街の風景、下は、ドイツの地図で南部にハイデルベルクが位置しています)

『よくやった!』

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 長女と同学年だったのが、松井秀喜でした。北陸の球児として、高校時代から注目されていました。一方、彼より二級上の息子も、小学校から中学まで、『お父さん僕がプロ野球の選手になったら、家を建てるし、新車も買うからね!』と言って、野球をしていました。親としては、その彼のことばが嬉しくて応援していたのです。中学の部活動の中での出来事は、彼が大人になってから語ったことばを間接的に聞きまし、彼の取り扱いについて、彼が愚痴ったり、監督批判をしたことがありませんでしたから、寝耳に水でした。それで、『そうだったのか!』と驚いたわけです。どうも公正な扱い方ではなかったようですが、彼が腐らなかったことを褒めたいのです。「もし」と言う仮定はないのですが、励ましがあったら、180cm以上(大学では187cmでしたから)の恵まれた体躯を持っていまし、運動神経もあったので、可能性があったかも知れません。でも、「巨人の星」の星飛雄馬やイチローの父親のようではなかったので、彼は花開かなかったわけです。それで中学を終えると、友人がいたハワイの高校に進学していき、野球からは離れて行ってしまったわけです。

 昨日、『松井引退!』というニュースが、ネットで伝わって来ました。心から、『ご苦労さま!』と言いたいのです。その日の試合が終わって、記者が取材をすると、毎試合、驕(おご)らず衒(てら)わず、質問に答える姿が、実に好印象でした。こちらで開かれた講演会の講師が、リベラ投手の知り合いで、『松井はじつにいい青年だそうです!』と、公演の中で言っておられました。日本人の評判を高めた、彼の功績は大きいのだと思われます。渡米してアメリカのプロ野球界に在籍して10年になるのですね。そうしますと、野球の選手生命は、30代の後半で終わるのでしょうか、短いですね。政治家の世界では、世襲でない限り、まだお茶汲みの時代で、まだ半人前です。学問の世界でも、「博士号」をとって、大学に残ったら、助手か専任講師くらいで、優秀だったら副教授といったところでしょうか。相撲の世界は、もっと短いようで、30の声を聞くと「ベテラン」と言われてしまいます。 

 野球が面白くなくなってから、日本のプロ野球に、この松井が登場して、人気が回復してきたのではないでしょうか。その彼が移籍してしまったのは、大きな穴があいてしまったようでした。しかし、メジャーの世界で、実力をいかんなく発揮したので、今度は、アメリカ野球が面白くなってきたわけです。陰のイチロー、陽の松井秀喜、そんな両者の活躍は、興味が尽ききませんでした。年齢的に、そろそろ終焉に近づいているのはわかっていたのですが、『ついに来たか!』といった感じです。

 私は野球は素人ですが、日本人が、アメリカ野球で活躍する上で、体格や体力の面に、大きな問題があるように感じたていたのです。試合数も多く、アメリカ中を西に東に、南に北に移動しなければならない環境で、ついていくのは、大変なことだと言われていました。ゴルフのトーナメントでも同じです。投手なら、ローテーションがあるので休みを取れますが、松井やイチローは野手ですから、休むすきがないのです。イチローは、入団当時と体型も体重も、殆ど変化がないのですが、それに比べ、松井は、ある時、外国人並みの体を作って、彼らに伍してやっていこうと、改造をした時期があったのではないないでしょうか。筋力のアップ、体を大きくする工夫を心がけたのです。彼の「膝」の問題は、このへんに問題があった様に、感じてならないのです。

 まあ、それは結果論で、『よくやった!』でいいのでしょう。また野球がつまらなくなってしまいました。どの世界でも、性格の良い人が一番ですね。『驕らず、衒わず」!』です。彼のような選手は、百年に一人ほどでしょうか。3Aでプレーしていた時も、ひたむきに野球に向う姿勢に、子どもの世代の彼から学ばされました。改めて、『ご苦労さまでした!』

『来年こそ一度行ってみたいところ!』

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 『来年こそ一度行ってみたいところ!』の一つは、北海道の「帯広」です。こちらで家内が知り合いになった方が、そこの出身なのです。家内が出かけていて留守の間に、夕食に招いて下さり、北海道の名物料理、「ちゃんちゃん焼」をご馳走してくださったのです。サシミで食べられるような生きの良い鮭をふんだんに使って、『これこそが北海道の味!』と思うような美味しさでした。異国の地での「ちゃんちゃん焼」に感動してしまいました。

 ご主人は、こちらでお仕事をされていますが、9月以降の騒動の中で、事業展開が大変なのだそうです。『リスクが高すぎること、どうなるか先行きが読めないので考え中です!』と、今度は、奥様が帰国され、家内もいないときに、数度、私の手料理にお招きした時の弁でした。大きな企業での仕事なら持ちこたえられるのでしょうけど、個人事業は、なおのこと悩んでしまうのでしょう。赤ちゃんが生まれて予防接種を受けるために帰国中に、ちょっとした〈男の弱音〉を聞いてしまったわけです。

 その奥様がこちらに戻られてから、相談されたのでしょうか、来年は引き上げを考えているとのことでした。彼らの可愛い「マゴ」を見た、おじいちゃんやおばあちゃんは、そばに置きたくて仕方が無いことも、ひとつの理由なのかも知れません。天津にいた時に、スイスから来ていた夫妻が、私たちを食事に招いてくれました。医者として、中国の大学病院で奉仕しようと、語学勉強をしたり、機会を待っておられる時でした。その招待の理由というのが、私たちの三番目のマゴが、アメリカで生まれ、その同じ時期に下の子を、天津の病院で出産していたのです。『マゴを抱きたいだろう!』と察して、家内と私を、家に招いてくれたのです。彼女は、上の子も中国で生んで育てていたのですから、さすがはお医者さんだなと思って感心してしまいました。今は北の方の大学で教えていることでしょうか。彼らのように「中国愛」に溢れている方々との交わりから、遠のいてしまったのですが、人様々に異国の地で生きているのを知って、自分たちも、存在の意味を自らに問い直したりしています。

 先日は、務めている学校の「晩餐会」があり、家内と二人で参加しました。ホテルのレストランでの会食で、中国料理というのは、驚くほどの種類があるのには、いつも驚かされるのですが、とても美味しく頂戴しました。その折、わたしの「査証」のことで、学校の責任の方が、ご心配くださっていて、そのお話もしました。先ほどの日本人経営者の話ですと、『ビサの発給がだいぶ難しくなっていて、私も来年は難しいかも知れないようです!』と言っていましたので、そんなことを察して、心配してくださったのです。もう60の後半に差し掛かっていますのに、未だ続けて働く機会を与えてくださる学校側のご好意に、心から感謝した次第です。

 帰国してから、どうなるかですが、家内も私も、こちらでの生活を続けたい願いがありますが、日本にも、しなければんらない大切な要件がありますので、そちらも考えなければならないようです。股旅の旅がらすなら、『なるようにならあな!』とでも言うのでしょうか。裕二郎なら、『明日は明日の風が吹く!』とでも言うでしょうか。また、上海から船に乗って帰国をしようと準備中です。ですから、今回は「帯広行き」はお預けで、来夏には実現したいと思っています。もちろん家内と一緒にですが。

(写真は、帯広に春を告げて咲く「辛夷(こぶし)」の花です)

『来年こそ一度やってみたいこと!』

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 『来年こそ一度やってみたいこと!』の一つは、「歌舞伎」を観に行って、役者の屋号である『中村屋!』とか、『播磨屋!』と言って、掛け声をかけてみたいのです。歌舞伎座でかけられるような本格的なものを観たことがないのです。よく父が、『昔から、歌舞伎役者を〈河原乞食〉と言って軽蔑されていたんだぞ!』と言うのを、子どもの頃から聞かされていたので、つい足が遠のいていたからです。こちらに来て、「京劇」、「川劇」、「闽劇」という中国の歌劇の観劇招待状をいただいて、観る機会がありました。相互に影響しあったと言われる「歌舞伎」を、そんなことで、一度観たくなったわけです。そして、腹から、『三河屋!』を屋号を呼んでみたいのです。

 そういった呼びかけというのは、中国の劇にはなかったと思います。みなさんは静かに観ているのです。でも、『何を言ってるのかチンプンカンプン!』と、こちらの方がいうのを聞いて、『じゃあ、分かりっこないよね!』と家内と言ったりしておりました。それでも、娯楽の少ないこちらでは、ずいぶんと人気があるようです。テレビでも専属チャンネルがあって、年寄りは、楽しみにして観ていると聞いています。

 長野県の大鹿村に伝わる「大鹿歌舞伎(農村歌舞伎)」を観た時に、ほんとうに『面白い!』と思ったのです。何時もは、みんなと同じようにはしない私ですのに、「おひねり(お金を紙に包んでひねってあるのでそう呼びます)」を、舞台に投げて楽しんでみました。演目は「藤原伝授手習鑑~寺小屋の段」でした。江戸時代の農村で、ご禁制でありながら、密かに残され楽しんでいた娯楽で、それを観た時に、『きっと、平家などの落ち武者が、この山岳地帯に流れてきて住み着いたけれど、「武士(もののふ)」の血が騒いで、鋤や鍬を持つ手を休めて、剣や槍で演じ、また観てきたのだろう!』と思わされたものです。終演の時は、大きな拍手をしてしまいました。

 何時か、また大鹿村に行って、この農村歌舞伎を見てみたいと思うのです。桜の春と、紅葉の秋、年二回の公演をしていて、映画にもなったことから、全国的な人気が出てきたのだろうと思います。長野県には、この大鹿村だけではなく、他の村でも、伝承されて、公演が行われていると聞いたことがあります。そいうえば、ずっとこの村に住んでいる人の顔をよく見てみると、『あの平清盛は、こんな顔をしていたのだろう!』と思ってしまうような、凛々しい男性がおられました。ここでは、役者が素人の住民ですから、屋号はないでしょうね。野菜を売っている店の主人が出てきたら、「やお屋」とでも呼んでみましょうか。きっと顰蹙(ひんしゅく)をかうことでしょうけど。

(写真は、「大鹿歌舞伎」の観劇風景です)

「別れ」

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 「別れ」、この2012年に、愛する人との別れが三度ありました。先ず、ブラジルの義兄でした。昨年、発病して手術を受け、回復して、自営の仕事に復帰していたのです。今年の元旦でしょうか、家内に、『電話してみない?』と言って、国際電話をかけたのです。久しぶりの会話を家内は楽しみ、私も懐かしい渋い声を聞くことができて喜んでいたのですが、その後、間もなくして召されたとの連絡が、互いの子どもたち、従兄弟同士の連絡網で、私たちのところにも知らせてきたのです。すぐに、義姉に電話を入れて、告別式には行かれないこと、気を落とさないで過ごして欲しいむね伝えました。

 アルゼンチンの会議の後、私は、サンパウロから車で、1時間半ほどのところにいる、義兄を訪ねたのです。移民した中では、大きな敷地の中に一周するとそうとな時間のかかる池を持つ、そのような「屋敷」に住んでいましたから、農業では成功しませんでしたが、まあ成功の部類に入るのでしょうか。高校を卒えた春ですから18歳で、船でブラジルのサントス港に向い、一度も帰国をしないまま、移民先で召されたわけです。『移民仲間が、あまりの辛さと孤独で自死してしまい、なくなく墓をほって埋めた!』と、話してくれました。義兄の友人で、リンゴ栽培と、貯蔵しての出荷に成功をした親友がいました。お母さんが離婚され、親戚と一緒に、3,4人の子どもを連れてやって来たのだそうです。赤貧水を洗うが如き時を過ごして、林檎栽培を始めたのだそうです。私の訪問時に、日本のものと遜色ない「フジ」を一箱届けてくれたのです。食事をご馳走してくれましたが、食べ切れませんでした。

 そして、3月31日、母が九十五歳の誕生日に、天に帰って行きました。出雲で生まれ、東京に死したのです。母の体が荼毘(だび)にふされた時、自分を妊娠して、十月十日の間いた母の胎が灰になっていくのを目の当たりにして、なんとも言えない寂寞とした思いを感じていました。『人生短し!』、まさのこの実感でした。甲州街道に面していた時計屋の小父さんが、母の通りすぎていく姿を、じーっと見つめて目で追っていた光景を覚えています。ちょっと肌が黒かったのですが、「今市小町」と言われていたと、母の幼馴染に聞いたことがあったのです。母親との死別のコメントを、これまで何度も読んできましたが、自分の母との場合は、格別なものがありました。帰国して、すぐに跳んで行く場を失ったこと、いや話しかけたり、手を引いたりすること、おぶうこともできなくなったことは、言いようもなく寂しいものです。

 さらに、母の死の後すぐに、母の大切な友人で、家内の母も、私の母を後を追うように、天に帰って行きました。筑後川で泳いで、夏は真っ黒になっていたのですが、「久留米小町」と言われていたようです。子供の頃から優しい人で、貧しい人を見ると、家の蔵に跳んでいって、米を分け与えるのを常としていたそうです。そんな義母を、母親は黙ってみていたのでしょう。昭和天皇だったと思いますが、久留米に行幸された時に、選ばれて、お茶の接待役をしたとも聞いています。子育てや夫婦関係で悩んでいるお母さんたちの相談にのり、離婚してしまい、つらい気持ちを聞いて上げて、一緒に泣いて上げた義母でした。私の母とは、甲州街道の路上で、初めて出会って、それから親交し続ける「親しい友」となったのです。6つ年上でしたから、101歳で、義母は召されたことになります。

 この方々との別れは、寂しくも悲しくもありますが、やがて「再会」の望みがあって、『また会えるね!』と思えるので、いつまでも悲しまないことにしましょう。歌の文句に、『会うは別れの始めとは・・・』と言うのがありましたが、生まれた時に、『こんにちは!』でしたが、『さようなら!』が続くのだという人の世の常が、しみじみと感じられた一年でありました。でも、『さようなら!』よりも、中国方式で、『再見!』と言うことにしましょう。

(写真は、陽の光を受けて陰影を見せる雲です)

英雄

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 最近、「草食系男子」という言葉をよく聞きます。かつては「肉食系」だったと思うのですが、女性化でしょうか、中性化していく傾向があるのでしょうか。男の子が、「男」として生きていくためには、その「男性性」を養わなければなりません。そのためには、モデルが必要とされます。幼い日は、「父親」でした。大きくて、力があって、何でもできるし知っていて、たくましかったのです。どんな大人チョリも、『お父さんが一番!』と思っています。ところが、だんだん大きくなるに連れて、お父さんのボロでしょうか、弱さを見るようになるのです。それで、「偶像」が地に堕ちてしまい宇野です。『お父さんって、偉くないじゃないか。◯ちゃんのお父さんは課長で、お父さんは係長・・・・』ということが露呈してしまいます。ここでいけないのが、お母さんの、お父さんへの、『まったく・・・』の愚痴です。しかも、子どもたちの前で、父親の権威を失墜させるような言動が、さらにお父さんの地位を低下させていくのです。

 そこで子どもは、マンガや映画やテレビの「ヒーロー」、「英雄」に心を向けるのです。いわゆる「強い男」、「男性性」がプンプンと匂い立つ映画スターに、「偶像」を換えていくのです。やがて、彼らは「虚構の世界の男」だということが分かり、彼らのスキャンダルを耳にしてしまうと、もうヒーローではなくなってしまうのです。それで今度は、歴史上で、実際に活躍した「偉人たち」に特別な関心を向けていくわけです。しかし、歴史を学んでいくと、彼らも、みな「弱さ」や「欠点」を持っていた事実を知ってしまうのです。それで最後に、再び「お父さん」のところに帰って来るのです。『親爺は弱いところがある普通の男だけど、俺に関心を向けてくれ、懸命になって働いて、養い育ててくれたんだ!』と言って、感謝の念が湧くき上がってくるわけです。もう、同級生の親爺と比べたりしないのです。オナラはするし、ゴロゴロしたり、万年係長でも、「父親像」は健全になっているのです。

 中学の時に、第一次世界大戦の頃のアメリカのカリフォルニアの農村の家庭を舞台にした、「エデンの東」という映画を観ました。両親は離婚。父は、大きな農場を経営し、レタスの栽培をしているのです。母親は列車でだいぶ行った別の町で、いかがわしい水商売をしていました。彼らの二人の青年期の男の子がいるのです。弟は、お父さんや兄に内緒で、何度もお母さんを訪ねていました。彼は兄もまた、母の現実に直面すべきだと思ったのでしょうか、意を決して、嫌がるお兄さんを誘って会いに行くのです。

 お兄さんが、母親に会ったときの衝撃は想像を絶するほど激しいものがありました。母親に触ることが、汚れたものに触るかのように拒むのです。それを傍らでいたずらっぽく眺める弟の表情が微妙で、二人の兄弟の違いの描写が巧みでした。兄は母の現実を受け入れられなくて、発狂したかのように発作的に、ヨーロッパ戦線に従軍して村から出ていってしまいます。

 弟は、野菜の出荷で大損をした父を励まそうとし、父親の愛を求めたのでしょうか、大豆を栽培し、戦争景気で大豆相場が高騰して、大もうけをするのです。その設けで、お父さんの損を補填して渡そうとするのですが、父に受け入れてもらえないのです。そんな時、お父さんが倒れてしまうのです。弟は、かいがいしく父の世話をし、ついに父の愛を得るのです。

 不良っぽい弟と、模範青年の様でも脆い兄、この二人の違いに、『お前はどっちの人間でありたいか?』、そう問われたように感じたのです。弟は、母が何をしていても母として受け入れて遇したのです。母を恥じたりしなかったたわけです。その様な映画でした。何度観たことでしょうか。この弟を演じたのが、ジェームス・ディーンでした。まだ、ジョンスタインベックが、1952年に著した原作を読んだことがないので、今度帰国したら、読んでみようと思っている、年末の夕方であります。

(写真は、「エデンの東」の一場面です)

☆南十字星

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 子どものころに、「南十字星」が見られる南半球に、『何時か行ってみたい!』と思っていました。地球が丸くて、「赤道」という帯が地球の中央部についていて、そこから北側が、日本や中国やヨーロッパの国々がある「北半球」で、その南側が、「南半球」だということを、社会科で学んでからでした。自分の足の下に、別の国があって、様々な生活がなされているというのは、「不思議」というのでしょうか、小学生の自分にとっては、まったくの「神秘」であったのです。

 17歳の高校生の時に、卒業したらどうするかを考えていました。兄たち二人は、それぞれに進学して行きましたから、自分も同じ道を踏んでいくのだろうと思っていました。しかし、受験勉強に全く身が入らないのです。そうこうしているうちに、小学校で学んだ、「南半球」のことを思い出したのです。それで、気の多い私は、「アルゼンチン協会」という団体が東京にあるということを知って、そこに手紙を出しました。すると、すぐに便覧やパンフレットなどが送られてきたのです。それを興味津々、食い入るようにして見入ったのです。首都が、ブエノスアイレスで、ラプラタ川という川が流れ、アンデス山脈に至るまで、「パンパ」と言われる大平原が広がり、アンデスの麓には、メンドサという街があることを見つけたのです。その山を越えた向こう側に「チリ」という国がありました。これを観ていたら、受験なんて全く小さなことにしか思えなくなってしまって、一生懸命に「スペイン語」の独習をしていたのです。

 メンドサは葡萄の産地で、ワインで有名な街でした。葡萄の収穫のもようが、便覧に写真入りで解説されていました。ラテン系の美しい女性が、ニッコリと微笑んでいるではありませんか。まるで『来ませんか!』と呼びかけているようでした。思春期まっただ中の私ですから、すっかり誘惑されてしまったのです。『よし、アルゼンチンに移民するぞ!』と、心深く決めてしまったのです。それもこれも逃げの一手で、受験のプレッシャーから逃れる逃避好でしたし、ちょっとしたハシカのような症状でしたから、すぐに熱は冷めてしまったのです。

 仕事の一環で、アルゼンチンで開かれる会議に出席する機会が与えられて、20年ほど前でしょうか、出かけたのです。ブエノスアイレスの街は、かつてはスペイン統治でしたが、イタリア系の移民の多い、気取りのある白人社会でした。日系の移民のみなさんは、沖縄出身者が多くて、花屋かクリーニング屋をしていていたようでした。移民のグループのみなさんが、食事に招いてくれたこともありました。遠い旅先で、日本料理をごちそうになり、実に美味しかったのです。またパンパも大草原の中にある街を訪問したときは、どこまでも続く草原をバスに揺られながら出かけたのですが、コルドバには行く機会がありませんでした。実に広大な国でした。

 アルゼンチンの人は、こう言うのだそうです。『日本人がアルゼンチンに住み、われわれが日本に住んだら一番いい!』とです。人口に比べて国土の広大なアルゼンチンと、国土が狭く人口の過剰な日本が、シフトすればいいという考えなのです。たしかにそうかも知れませんね。ブエノスアイレスのレストランで、ウエイターの接客態度が素晴らしかったのが印象的でした。給料は、たいして好くないのかも知れませんが、素晴らしい接客の身のこなしでした。ああいうのを《プロの意識》というのでしょうか。「アルゼンチン・タンゴ」の発祥の港にも連れていってもらいました。ギターの奏でる《ラ・クンパルシータ》とカスタネットと靴を蹴る音が、祖国のスペインから遠い港町の石畳に反響していました。きっと望郷の思いのやまない人々が、踊り歌い聞きながら、その港で祖国を偲んだのでしょう。

 でも「南十字星」を見つけることができなかったのは、心残りでした。『あの時、日本から移住していたら、どんな生活をしていただろうか?』と、空港に降り立った時、人生の不思議さを思いながら、不思議な懐かしさがこみ上げてきたのです。

(写真上は、アルゼンチンのメンドサ、下は、アルゼンチン・タンゴの発祥の港街です)

写真一葉

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 自転車で転倒して、右腕の「腱板」を断裂して、その手術のために入院した時、私は、同室の、同年で、同じ月に生まれた方が、坊主頭にしたのに倣って、看護師さんに、『彼のように〈坊主刈り〉して!』とお願いして、刈ってもらいました。それ以来、もう10年近く、同じ髪型にしてきています。この方が、私たちの友人のお兄さんだったのです。以前、『兄が大怪我をして、病院に担ぎ込まれて、ずっと入院してるのです!』と聴いていました。ところが、怪我をして見てもらった病院では、手に負えないとのことで、紹介されて入院したのが、同じ病院の同じ病室の隣のベッドだったのです。なぜか神秘的な、〈運命的なもの〉を感じたのが正直な気持ちでした。

 彼は、戦争中に、北京で生まれているのです。彼が引き上げてきたのが、私が生まれ育った山村の2つほど北の村でした。私は、小学校1年の夏休みに東京に越したのですが、彼はその村で育ったのです。言葉数の少ない人ですが、何か、とても近いものを感じております。私の入院中に、リハビリを開始して、だいぶ機能を回復してきておられましたが、車椅子に乗られ、片腕がやっと動かせる状態でした。今は、その病院から、近くの街の施設に転院していらっしゃると聞いています。また会ってみたい人の一人です。

 おとといの晩、いつもの様に、電気バリカンを使って、頭髪を刈っていました。十年間、伸びると刈るを、自分の手で繰り返してきているわけです。綺麗に刈り上がって、襟足を鏡に写してみますと、何だか刈り残しがあったのです。それで掃除し終わったバリカンで、再び狩り始めた瞬間、「一分刈りのアタッチメント」を付け忘れて、「一りん刈り」になってしまったのです。自分で髪の毛を刈り始めて、初めての失敗でした。後頭部で、目に見えないところですから、気にしなければ、それですむのですが、やはり気になってしまうのです。それで毛糸の帽子を深くかぶって、昨日は外出しました。なんとなく襟足が涼しいのです。

 私が住んでいる家の大家さんも同じ坊主頭で、なんとなく安心しています。彼は法学部の教師で、弁護士もしているのですが、髪型には何ら頓着しないのでしょうか、いつもさっぱりしていて、仲間意識を感じております。でも冬場になると、毛がないというのは寒さを感じるもので、、今度は、鬘(かつら)を手に入れようかなとも思っております。「白頭掻けば更に短し」と詠んだ、杜甫の「春望」を学んだことがありますが、髪の毛がまばらになってきて、白髪だらけになってしまった自分です。髪の毛のフサフサだった若い日の写真を一葉、そっと財布の中に隠し持っております。時々、『これ誰だかわかる?』と聞いて見るのです。『髪の毛があった時だってあるんだぞ!』、訴えるのです。無駄な老いの抵抗かも知れませんね。太陽は、今はまだ薄日ですが、これからだんだんと濃くなっていくのですが、髪の毛は・・・・。

(写真は、四川省成都にある「草堂」にある漂白の詩人「杜甫」の像です)

比較論

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朴正煕大統領が、KCIAの責任者で、古い友人で側近の部下だった人物によって、1979年10月に殺されました。その翌年に、再びソウルに参りました時に、ある韓国の知人が興味深い話をしてくれたのです。朴大統領と田中角栄首相の「比較論」でした。

『韓国人は、正しく生きてる時には命をかけてでも仕えていくことができます。ところが一旦、不正を行なっていることを知ると、手の平を返すように反逆するのです。日本では部下と上司の繋がりというのは、人と繋がっているのです。良くても悪くてもかまいません。正しくても正しくなくてもいいのです。にその人の行いや考え方というのは構わないのです。田中角栄が不正を行なっても、部下が、その不正を糾弾することはありません。ところが朴大統領に不正が露見した時に、黙っていることができずに、銃を手にとって売ったて、制裁を加えたのです!』とです。

この方が言われたことが事実かどうかよりも、彼は日本人と朝鮮民族の違いを語られたので、大変興味をそそられたのです。明智光秀と織田信長との一件を思い出させられる話であります。私たちは、『◯◯先生のことだから、少々の失敗をしても、まあ仕方が無いか!』と思ってしまうのでしょう。人脈とか派閥といった強い絆に、太い感情のパイプでつながっているからです。朝鮮民族のみなさんは、「正邪」、「良悪」と言った規準で人とつながるのだということを学んだわけです。

韓国から日本に働きに来ていた方が、ときどき遊びに来たことがありました。彼の嫌いな日本人はだれだと思われますか。親日家の彼は、そういったことをダイレクトに言う方ではなかったのですが、ある話しの中で、『豊臣秀吉です!』と言ったのです。彼が問題としてこだわっているのは、秀吉の「朝鮮出兵(文禄の役)」の一件なのです。この事件が起こったのが、1592年3月のことでしたから、400年も前のことになりますが、韓国の青年たちは、この歴史的な屈辱を教えられているのですね。

国内統一の後は、近隣諸国を支配下の置こうとした、秀吉の「野心」のなせる業でした。ソウルの大学を卒業して、日本に事業のためにやってきて、ときどき、キムチを作ってくれた彼でしたが、日本人の中に赦すことのできない人物がいる、そう言った隣国の歴史的な感情を、今の私たちは理解しないといけないのではないでしょうか。「竹島」の問題も、歴史をしっかり学ばないでは、話し合いをすることができないのだと思います。

(図は、1959年に15万もの兵を出兵させた「文禄の役」の様子です)

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