ハイデルベルク

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『生きている間に一度行ってみたい外国の街!』の一つは、ドイツのシュトゥットガルトの近くにある「ハイデルベルク」という街です。ドイツの地図を見てみますと、ライン川の支流のネッカー河畔にあります。街の中心に、ドイツ最古の大学があり、また歴史的な王城もある学術都市なのだそうです。ロンドンやパリやベルリンではなく、『ここがヨーロッパを最も感じさせてくれる街ではないのか!』と、昔から思っていましたので、とても惹きつけられているのです。

もう何年も前に、あるドイツ人の伝記を読んで、とても感銘を受けたことがありました。その本を翻訳された方に手紙を書きました。そうしましたら丁寧な返事をいただき、一緒に、『むずかしくないのでこれを読んでみてください!』と、その伝記の主人公に関する「ドイツ語資料」のコピーを、しかも大量に送ってくださったのです。学者というのは、ドイツ人に関心がある人は、みんながドイツ語を理解できると思っておられるのでしょうか。ある方に翻訳してもらおうと、お願いしたのですが、その方の行方が不明になってしまい、そのまま書類が消えてしまったのです。この方は、先年、召されたと聞きました。本当に申し訳ないことしてしまったと思っております。

その主人公が、ハイデルベルクを含むのでしょうか、シュヴァーベンという地方の出身だったのです。そういった人物を輩出した地に、なんとも言えないほどの関心があって、もし許されるならと思っているのです。もう少し生きていられる間に、訪ねられたらいいのだがと思っております。今年、私の長女が、出張でヨーロッパのいくつかの街を歴訪して、色々とメールで知らせてきてくれました。どうも、ドイツに行って、美味しい「ドイツ料理」を食べる機会があったようです。その話を聞きましたら、今度は、「脳」だけではなく、「胃袋」も、ドイツに行きたくなってしまったようで、なんとも食いしん坊が露見してしまったようです。

日本という国が、大きく変化してきた歴史的な要因を調べてきますと、ヨーロッパ視察をしてきた人たちが、ヨーロッパの文明や思想、さらには高度な科学技術を、実際に見て、手で触れた報告をされてからだと思うのです。『天は人の上に人を造らず、人の下の人を作らず』という思想を知らせた福沢諭吉のようにです。どれほど日本が立ち遅れているかを痛感させられて、「欧化政策」を急進的にし始めていくのです。アジアでは、そういった動きをしたのは我が国だけでした。死にものぐるいの努力で、まあ肩を並べるところまで到達し得たのかも知れません。そんなことから、やはりヨーロッパ、ヨーロッパでもドイツといった思いが強いのかも知れません。

学校を出て、最初に務めた職場に、ある体育大学の先生が、非常勤研究員の一人としていました。彼は、ドイツに留学して、学んで帰るときに、ドイツ人の奥方を連れて帰国していたのです。どうも日本人とドイツ人は似ていて、相性がいいのだと言われていたのを、この方が証明していたのです。ヨーロッパ圏で国境を超えて侵略したドイツと、アジア圏で隣国を侵略していった日本とは、やはり政治的、外交的にも似ているのかも知れません。『ダンケシェーン(ありがとう)』だけしかドイツ語を知りませんが、片言が話せたらいいなとも思っていますが、まあ、してみたいことが多いというのは、気が若いのでしょうか。困ったものです。

(写真は、ハイデルベルクの街の風景、下は、ドイツの地図で南部にハイデルベルクが位置しています)

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