トイレ事情

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 食事時に、このブログを読まないで下さい。

 一昨日の午前中のこと、道路の際で車を待っていた時、おじいちゃんに連れられた二歳前くらいの女の子が、道路を横切って来ました。渡り終わって安心したのか、独りで歩き始めて、ちょっとした突起物につまずいて倒れてしまったのです。腹ばいになった彼女のおしりが、何と丸見えになってしまいました。ジェントルマンの私は、幼いレディーから目を逸らしてしました。

 まだおしめが取れない年頃には、日本では、おしりがぼこぼこっとしているのですが、こちらは、おしめを使わないで、すっきりしているのです。その代わりに、いつでもできるように、おしりの部分が開いているのです。脱がさないですむようにしてあるのです。実に賢く細工された幼児服が、ほとんどです。ところが、ゴミ箱だろうが、道路の上だろうが、構わずに、お母さんはおばあちゃんがさせるのには、ちょっと驚かされるのです。おおらかといえばおおらかですが、不衛生といえば不衛生極まりないのです。初めて目撃した時には、唖然としてしまったのですが。

 これも文化習俗の違いですから、私たち外国人が、とやかく非難すべきことではないのです。ついでに、公衆トイレの話ですが、日本のトイレの構造は、向こう向きに作られていますが、こちらはドアーに向かって顔を向けて座るのです。田舎に行くと仕切りもドアーもありません。最初は抵抗がありましたが、こればかりは、『嫌だ!』と言うわけにはいきませんので、だんだんと慣れてきています。誰もがすることなのですから、人の目を気にしないのです。天津にいた時に、郊外に行きました。一緒に学んでいたオランダ人の若い女性が、この習慣を身につけて、何でもない素振りでいたのには驚いてしまいました。いえ、家内から聞いた話ですのでご安心を。

 そう言えば、中学の時に、アメリカン・スクールに、バスケットボールの親善試合に行った時に、トイレのドアーが、上と下が開いていて、真ん中だけに仕切りがあったのには驚きました。ちょっと抵抗があったことを思い出すのです。日本は、《密室》になっているのですが、これも日本文化なのでしょうか。中国で驚いたのは、仕切りも何もない、だだっ広いところに、幾つもの穴だけがが開いているだけのトイレもありました。今はないかも知れません。それに今でも困ることは、近代的な建物の水洗トイレに、ペーパーが備えられてないのです。本当に困ってしまった経験があって、それ以来、必ずポケットやカバンの中には携帯しております。

 そんな中で、一番爽快で素晴らしかったのは、四川省の山間部に行った時に、途中で寄ったトイレでした。コンクリート製の側溝式のものでいた。水が流れているのです。座るのに丁度良く作られていて、まさに《自然水洗トイレ》だったのです。見ないですむのは感謝でしたが、前にいる人のものが流れてくるのには、閉口しましたが。

 ごめんなさい、少し臭い話になりましたが、これも生きていて毎日、どなたも健康であるなら関わる話しなので、こちらに来て驚かないようにと、文化習俗の予備知識のために書いてみました。

(写真は、「シャクナゲ」の花です)

『袖すり合うも他生の縁!』

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 上海で乗船した「蘇州号」の客室で、いくつか年上の方と同室になりました。お聞きすると、上の兄と同学年で、大阪人でした。学校を終えられてから、東京の会社に就職されたそうです。工場から排出される工業汚染物質を取り除く、「環境浄化」の製品を扱う会社に、長く働かれたとのことでした。退職後、故郷の大阪に戻り、すぐに蘇州に移り住んでおられるのです。蘇州では、日本語を教えたり、NGOの働きで、日本を紹介されてきているそうでした。3ヶ月に一度、上海と大阪を往復されておられ、その帰阪の船で、この方と《袖すり合わせること》となったわけです。

 とても話好きな方で、多くのことをお聞きして、とても好い時を過ごしました。これはぎゅうぎゅうに詰められて、人との距離が窮屈なほどに近過ぎる飛行機を利用したのでは、決して叶えられない交わりなのです。海風に当たることができ、のんびりとした旅ができる利点も、船旅なのですが、こういった人生の先輩や同輩や後輩たちから学べる機会というのは、実に素晴らいいものだと知ったのが、去年の夏のことでした。往復の船で、何人もの方と話し込んだのが、実に有意義で、楽しかったわけです。「船上学校」とでも言ったらいいのかも知れません。その味が忘れずに、この冬の帰国時にも、船を利用したわけです。船頭任せの旅で、急ぐ必要もありませんから、何くれとなく話し合えたわけです。

 この方が、昭和20年の大阪の空襲で、お母さんの手に引かれて、焼夷弾の炸裂し、燃え広がる大阪の街を逃げまわった経験を話してくれました。橋が落ちてしまった淀川を、大きく迂回しながら渡り、大阪駅にたどり着き、そこからお父様か、どなたかの故郷の東北の街に疎開をして行かれたのだそうです。私は生まれたばかりでしたし、山の中にいましたので、そういった経験をしませんでした。そんな九死に一生を得るような戦争体験を聞いて、今さらながら戦争の怖さを思い返したわけです。私の兄は、山の中から眺めた甲府の街が燃えていて、空が真っ赤に焦げていたのを覚えていて話してくれたことがあります。そうしますと、この方は、いわゆる《焼け跡派》と呼ばれる世代の方であり、戦争の実体験を持たれた方なわけです。

 多くの人が亡くなられた中を、生き延びてきたのですから、やはり生命力の強さを感じ、何があっても動じない、柔軟な生き方を、このKさんから感じさせられたのです。不思議なのは、昨夏、その「蘇州号」で、大阪に帰る折に、お会いした方も同じ体験を話してくれたのです。お母様の手に引かれ、横浜空襲の中を逃げて、行き別れたお父様を亡くされたことを話してくれたのです。2012、3年の今、戦争が終わったのが1945年ですから、68年も経っているのにもかかわらず、生々しく戦争の記憶をお持ちの方がいて、そういった方々が、企業戦士として、戦後の荒廃した日本を復興され、生きてこられたのだということを思わされたのでした。

 『袖すり合うも他生の縁!』でしょうか、時には、嫌な人もいなくはなかったのですが、同じ時代の静風の中、風の中、嵐の中を生きてきた者同士、『人生とは出会いだ!』と、つくづく、そう思わされております。お元気に過ごされることを願っております。

(写真は、菱川師宣筆「見返り美人」です)

アリランの歌

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 朝鮮民族の望郷の歌である「アリランの歌」を、目を閉じた父が懐かしそうに歌っているのを何度も聞いたことがあります。戦前、京城に住んで、仕事をしていたことがあった若き日の父には、かの地での出来事を思い起こさせる歌だったのでしょう。ところが、この歌の替え歌を、上の兄が歌っていたことがありました。悪意からではなかったのですが。それは朝鮮半島から、仕事の機会を得るためにやってきた労働者を侮辱した歌詞でした。運動部の仲間から教えられて、そうしていたのです。

 なぜ日本人は、隣国の朝鮮半島や大陸のみなさんを侮辱するのでしょうか。インスタント・カメラのことを「バカ○○○カメラ」と言うのですが、『バカでも○○○でも写せるカメラ!』との意味なのですが、多くの人は知らないで、このことばを使っています。侮蔑用語ですから、決して使ってはいけません。

 記録を残すための文字が無い、着る物も持たないで裸、食べ物を栽培する術も知らなく空腹だった我々の祖先に、文字も、糸をつむいで織って布を作る技術も、穀物や蔬菜の栽培法も、錬金術も、みんな教えてくださった人たちの祖国の方々なのにです。しかも、多くの方々は日本に帰化したのです。ですから、私たちの体には、朝鮮民族や中華民族の血が、色濃く流れているに違いありません。私たち日本人が「純血種」だと言うのは、民族的にはありえません。能力も容姿も肌の色もまったく変わりがありませんし、若い女性がはにかむ様子は全く同じです。もちろん能力も資質もですが。

 それなのに豊臣秀吉は、「朝鮮征伐」と銘打って朝鮮半島に派兵して、この国を蹂躙しました。まったくの暴挙でした。また日清戦争に勝ったと錯覚して以来、この中国の資源や市場を奪おうと、軍隊を駐屯させ、物資の運送の鉄路を敷き、工場を建設し、石炭やさまざまの資源を略取し、ついには戦争までしでかしたのです。東南アジアも同じようにされたのではなかったでしょうか。

 私たちの愛唱する演歌だって、その始まりは、大陸や朝鮮半島にあると言われています。いつでしたか、私たちの町にある大学の大学院に留学していた方が、「北国の春」を、きれいな中国語で歌ってくださったことがあります。これは逆輸入でしたが、悪びれずに喜んで聴かせてくれたのです。謙遜にも日本人教師から工学を学び、流行歌も覚えてくださり、冷ややかな目を向ける人たちの目も気にしないで、何年も学んで学位を得て、帰国された方でした。この方とは、まだ交信が続いております。

 東アジアの諸国は、すべての事々のルーツを共有しているに違いありません。昨晩、韓国人の若い女性の個人的な家庭背景の話を聞きました。女に生まれたばかりに、つらく暗い子供時代、思春期、青年期を生きてきたのです。彼女の祖父母が「男の子」の誕生を期待していたのに、そうでなかったからです。『生まれてこなければよかった!』と、男装して生きてきた彼女だったそうです。しかし今は、自分の心の傷が癒され、その祖父母でさえも赦しておられます。自分が綺麗な女性に生まれたことをしっかりと受け止め、感謝して生きてると言っておられました。このようなことは、日本にも昔、あったような話ではないでしょうか。

 いま、困難な関係の中にありますが、それぞれの民族の出自を思い返しながら、そこにある共通項を確認し合いなが、明日に向かって共に歩んでいこうではありませんか。互いを受け入れ合うことが可能だと信じるからです。

(写真上は、「アリランの歌」のレコード盤、下は、1926年に公開された映画「アリラン」のポスターです)

パン

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 これまで帰国して、こちらに戻るときに、必ずといって買って来ることにしていた物があります。風邪薬とかチーズとか衣服ではありません。何かといいますと、「食パン」なのです。「イギリスパン」と言うと思うのですが、頭が、コックさんがかぶるような丸みを帯びた独特に歯応えのある、生地で焼いた食パンなのです。なぜ買ってくるのかといいますと、こちらにはないからです。2斤ほど買ってきて、家内と、毎朝一枚ずつ食べて1週間しか食べることができないのですが、買ってきてしまうのです。

 ところが、最近は、それをしなくなったのです。パンが嫌いになったのかと思われるでしょうか。いいえ、パンは依然と大好物で、一日三食パンでも、私は大丈夫ですから、食卓になければ、涙は流しませんが、寂しくて仕方がないほどです。それで、買って帰らなくなったのは、こちらで、美味しいパンと巡り合ったからです。この街の繁華街のバス停の近くに、カナダから輸入した小麦粉を使って、日本の製パン機で、日本の技術を収得された職人さんが焼いているパンです。これを、マレーシア人の知人から紹介されたのです。次男の家の近くの代官山のパン屋に勝るとも劣らないパンなのです。

 家内が、週に一度は、バスに乗って買い出しに行ってくれるのです。ところが、このパン屋さんのオーナー夫妻と、昨年の暮になって、知り合いになったのです。今日も、個人的なお世話になりましたので、お礼にお店に行きましたら、「チーズ・ケーキ」と「ラテ・コーヒー」を出して下さり、ご馳走になってしまいました。この「チーズ・ケーキ」も、新宿のデパートで買って食べるような味で、美味しいのです。ニコッと幸せを感じるほどの味、これが今一番の楽しみになっているのです。

 食べることって、「下衆(げす)」なことでしょうか。いいえ、大切な営みだと思っております。人の生命を支える摂取物、美味しい物を美味しく食べられるというのは、健康だからではないでしょうか。まあ健康のバロメーターとして、このパンを味合うことにしようと、今、心に決めております。このお店からの帰りに、食パンを二斤、フランスパン一本、サンドイッチ二人前を買い、その店の近くの「日本食品店」で、納豆と醤油を買って帰りました。トーストした食パンに、納豆をのせて食べるのも、実に趣があって美味しいのです。明朝は・・・、一度お試し下さい。

(案内は、この3月に大阪南港で行われる「国際製パン製菓関連産業展・MOBAC」です)

上海

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 昭和14年に、北村雄三の作詞、大久保徳二郎の作曲で、ディック・ミネが歌った「上海ブルース」と言う歌が発売されました。私の生まれる何年も前の戦時歌謡曲だったのです。戦時中を懐かしんで誰かが歌っていたのを私が聞いて覚えたのか、なぜか歌うことができるのです。父が歌謡曲を歌っていたのを聞いたことがありません。息子たちに、愛だ恋だのと、親が流行歌(はやりうた)を聴かせるのをよしとしなかったからでしょうか。

1 涙ぐんでる上海の
  夢の四馬路(スマロ)の街の灯
  リラの花散る今宵は
  君を思い出す
  何にも言わずに別れたね 君と僕
  ガーデンブリッジ 誰と見る青い月
2 甘く悲しいブルースに
  なぜか忘れぬ面影
  波よ荒れるな碼頭(はとば)の
  月もエトランゼ
  二度とは会えない 別れたらあの瞳
  思いは乱れる 上海の月の下

 この1月21日に、上海の「碼頭(码头matou)」、日本語では「波止場」とか「船着場」というのがいいのでしょうか、そこから大阪行きの船に乗りました。この波止場の近くの「四馬路」には、日本人街があったのだそうです。初めて上海に行きました時に、中国語と日本語を巧みに話す初老の韓国人の方が案内してくださって、「東方明珠テレビ塔」の展望台で、『あの辺りに日本人が住んでいました!』と指さして教えてくれたのです。父に聞きませんでしたが、きっと父も、この上海を訪ねたことがあったのではないかと思っているのです。戦後の日本人がハワイに憧れたように、戦前の日本人、とくに青年たちにとって「上海」は、一度は訪ねたかった「憧れの街」の一つだったからです。

 現在では、東京よりも多くの人口を持ち、さらに増え続けている上海は、アジア一、いえ世界一の近代都市になっています。昨年の夏に、しばらく街の中を歩きましたが、私の住んでいる街に比べて、少し違った雰囲気が残っているのを感じたのです。戦前には、欧米や日本の「租界」がありましたから、外国人の居住者の多い国際都市で、その名残があるからなのでしょう。この街で、1932年と1937年に、二回の「上海事変」がありまして、日本軍の支配下に置かれた時期がありました。その様な過去のある街、上海に、現在では3万人ほど(2011年の集計)の日本人が住んで、ビジネスや勉学をしているようです。彼らは戦争を知らない世代ですから、過去のわだかまりを知らないことになります。私の長女の会社の支店もあるようで、なんとなく親近感を感じております。

 この歌に出てきます、「リラの花」は、ライラックとも呼ばれていまして、実に美しい花です。今朝、若い友人がお二人おいでになり、しばらく交わりの時を持ちました。お昼になりましたので、友人の一人が、『今日は私がおごりましょう!』と言って4人で連れ立って昼食に出かけました。レストランまでの道の街路樹に、25度の初夏のような気温に、「辛夷(こぶし)」の花が、実に美しく花開いていました。もう春なのかも知れませんが、予報をみますと、今日は特別の高温だったようで、もう少し寒さを感じることになりそうです。

(写真は、「ライラック(リラ)の花」です)

『こんな地球にだれがした!』

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 息子の家で、「核燃料」の廃棄物の処理についてのテレビ番組を観ていました。同じ「ゴミ」でも、台所から出る生ごみは、高熱焼却炉で処理が可能で、その熱で沸かした温水をプールや風呂に利用している自治体だってあるようです。ところが、原子力発電に用いて出てくる「ゴミ」は、こういった処理ができないこと、時間と共に劣化していかないのです。永久に、どこかに厳重に格納して置かなければならないわけです。そうしますと「ゴミ」などと呼べる代物(しろもの」)とは違います。子々孫々までも処理できないままにされていくわけです。

 中学校の遠足で、茨城県東海村に行ったことがありました。そこには、1956年6月に、「原子力研究所」が設置され、原子力研究を行う中心地だったからです。その二年後、中2だった私たちは、バスに乗って見学に出かけたのです。画期的で最先端の燃料革命の研究事業の様子を、次代を担う私たち中学生に見せようとしたのです。あたりが閑散としていて、何もないところに大きな建物が建っていたのが印象的でした。その研究の成果があって、この東海村の動力試験炉で、原子力発電が行われたのが、1963年10月26日のことでした。

 それ以来、現在では、原子力発電炉が54基もあります。これまでの「使用済み核燃料」の「廃棄物」の総量は、2007年度の時点で、何と14870トンにも登るのです。しかも、それらは未処理のままにされているのだそうです。さらに、世界中の「廃棄物」が、同じ状態のまま、未処理のままにされているのです。日本では青森県の六ヶ所村で、再処理が行われてきましたが、最終処分場が、いまだないというのが現状なのです。さらに、各発電所には、使用済み燃料は、水槽内に残されたままなにされています。一昨年の津浪で、福島第一原発の貯蔵槽が、津浪のアタックを受けて放射線が漏れ出して大問題となり、その被害の実情は報告されていませんが、致命的な情況にあるに違いありません。このことを知るにつけ、驚きを禁じえません。

 最終処分ができないまま、「ゴミ」を出し続けているというのが、原子力発電の問題の核心なのです。電力エネルギーとして利用してきたかげで、問題を封じてきたことの責任が問われるのではないでしょうか。原子力発電の「安全神話」は、このことを見ても、全く根拠がないわけです。欠けがいのない地球が、このような「ゴミ」でいっぱいにされていくことに恐れを感じてしまうのです。

 人口激増、生産活動の爆発的拡大、物の消費量の増大など、様々な動きの中で、「電力」の需要は増しています。『原子力発電は仕方が無いんだ!』ではなく、人間の知恵を寄せ集めて、良い解決をしていかないと、この地球に住めなくなってしまうのではないでしょうか。このままでしたら、東シナ海の水平線に沈んでいく太陽の神秘さを、息を飲みながら眺める楽しみがなくなってしまいます。あの美味しいドリアンや水蜜桃だって食べられないのです。毎朝近くの木に飛んできて朝を知らせてくれる小鳥のさえずりだって聞けなくなってしまいます。『こんな地球にだれがした!』と全被造物が叫んでいるのではないでしょうか。

(写真上は、nasaが撮影した青い「地球」、下は、宮古島からのぞみ見る「水平線」です)

「戦争」の起こらないことを願う

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日本は、ふたたび「軍事大国」になっていくのでしょうか。そうなることが、国として不可欠なことなのでしょうか。もちろん、メソメソした国であることを願いませんが。しかし、剣や銃を振るった《強面(こわもて)の国》になることも願わないのです。私は父親が生きていて育ててもらいましたが、何人もの級友たちは、父親を戦死で亡くしていて、母子家庭で育っていたのです。私の「戦争観」というのは、子育てに励まなければならない父親を失わせるもの、家庭から父親や兄を奪うものといったものであります。

私の好きな政治家に、石橋湛山という方がいました。戦後間もない時期に短期間でしたが総理大臣を務めた方だったのです。日本が、欧米の列強に伍していける「大国」になろうとや躍起になっていた時に、新聞社の主筆をしていた若い時に、彼は「小国主義」、「小日本主義」を唱えたのです。国は世をあげて「大国日本」の建設に取り組む中での、この主張は勇気ある発言でありました。みんなに同調することなく、信ずることを主張し続けたという点で、私は石橋湛山が好きなのです。

多くの人は、「他と違う私」であることを恐れるのです。少数者の側に立つことによって、疎まれ嫌われ憎まれることを、誰もが願わないからであります。私は日本人の歴史を学んできて、『日本人とは何か?』との問に、『小心者!』と答えたいのです。いつも周りを気にして、びくびくとして生きてきたのです。『今日は何を着て出かけようか?』と考えると、窓を少し開けて外を眺めます。道行く人の服装を見てから、その日の着物を選ぶのです。ということは、「みんなと違う私」であることを恐れるからです。私に歴史を教えてくれた中学の時の担任は、『日本人は、鎌倉時代には、溌溂さと剛毅さを持って、生き生きととしていた!』と教えてくれました。

欧米人が、個人主義で生きていて、みんなそれぞれに個性的に生きているように見えるのですが、実は内心では、私たち日本人と同じです。「感謝祭」には、タ-キーをみんなが食べるので、『私の家でも食べます!』ということに決めます。食べなかったら、みんなから浮き上がってしまうので、それを恐れるのです。「降誕節」には、クリスマスツリーを飾ります。自分の家にないことを恥じるのです。人の行為の動機づけというのは、大なり小なり、こんなことに帰するのではないでしょうか。

私が勤めていたのは私立校でした。ある時、待遇改善を願って組合のようなものをつくろうとしたのです。30人ほどいたでしょうか、そんな中で、25才の私一人、これに加わらなかったのです。「宙に浮く」というのが、その時の私の置かれた情況でした。いじめられたり無視はされませんでしたが、好奇の目で見られていました。「圧力団体」に加わりたくなかったのはもちろんのこと、教育に専心しようとする青年教師の心意気が強かったからです。悩み抜いて、そうしたのではありませんでした。自分の信念に立とうとしたのです。そんな生き方ができた私は、結局、家も財産も名もなく、今を迎えています。家内が、私の生き方、歩みに同伴してくれるのは嬉しい限りです。

一昨年、大津波で家も車も記念館も、すべてがさらわれてく光景を、テレビで観ていました。人の築き上げた物が何もかも、一瞬にして奪い去られていくのを眺めながら、『こういった俺の生き方もまた良いことなのかも知れない!』と思わされたのです。今回の帰国で、私の弟が借家住まいをやめてマンション購入の計画を話してくれました。私と家内には帰る家がなく、子供たちにも実家がないので、『俺の家を実家にしていいよ!』と言ってくれました。その気持ちに、深い兄弟愛を感じて、こちらに戻ってきたわけです。老後に住む家よりも何よりも、それらを吹き飛ばしてしまう「戦争」の起こらないことを願い、平和を希求する、2013年の「春節」の渦中であります。

(写真は、「朝鮮戦争」で被害にあわれた家族の様子です)

踏青

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 春の季語に「踏青(とうせい)」と言うことばがあります。俳句を詠む心のゆとりなど、ついぞなかった私ですが、春の野辺に萌え出た青草を踏んで、嬉々として走り回った、幼い日の光景を思い出させてくれます。あの日の浮き浮きした早春の気分を、今も同じように感じさせられて感謝で一杯であります。まだ幼かった子どもたちが、春を感じて、『お母さん、春を見つけに行ってきま~す!』と出かけて行き、野花や名も無い雑草を摘んで帰って来た日のことが、昨日のように懐かしく思い出されてなりません。

 私の恩師が、戦時中、治安維持法違反の嫌疑で捕えられて、獄舎につながれている時、獄窓の隙間から、青い空と白い雲、雑草の中に咲いている野の花を見て、『生きているんだ!』と言う実感を覚えさせられたと述懐されていました。この恩師が、卒業して行く私たちに、『野の花のごとく生きなむ!』と色紙に書いてくれたのです。長く牢につながれて、拷問を受けたのでしょうか、足を引きずって歩いておられたのが印象的でした。自由が与えられて、学校に復職して、学部長の重責を果たしておられてました。聞くところによると、先生は大学教育を受ける機会を奪われたのだそうですが、いわゆる無資格の学者で、その道では権威だったようです。

 真冬のような塀の中で、『ここを出たら、自由の身になって、好きな学問をしよう!』と願ったり、『思いっきり幼い日に駆け回った野山で、また春を感じてみたい!』とでも思ったのでしょうか、実に穏やかな人柄の方でした。

 踏まれても、なじられても、野の草や花は強いのですね。時代を憎んで、人を憎まないで生きることが出来た方でした。この方の奥様が、内村鑑三の弟子の妹さんであったことは、卒業して何年もたって知ったことでした。

 人を強くさせ、支えているものがいくつかあるようです。幼い日の懐かしい思い出や人の激励のことば、感動した話などです。でも人を真に強くさせるのは、造物主を知ることに違いありません。自分が、どこから来て、今していることの意味を知り、やがてどこに行くかを知っている人は、自分を知る人なのです。

 それにしても、毎年毎年、忠実に訪れてくる春は、いくつになっても、生きているいのちの躍動を感じさせてくれるものです。この2月10日は、ここ中国では「春節」、新しい年の始まりの伝統的な祝日なのです。この大陸では、春の到来の喜びは、何にも勝って貴く、欠け外のないもので、全国民一丸となって喜び迎える最大限の喜びなのです。帰国した夕べも今朝も、「爆竹」が、けたたましく鳴り響いておりました。春を喚起し、呼びこもうとする切々たる思いを感じて、騒音が、心地好く感じられるのは、在華七年目を迎えたからに違いありません。

 近いうちに「踏青」、川辺の土手を、萌え出でた青草を踏みながら散歩をしてみようと思っています。なぜなら自然界の復活の季節を肌身に感じたいからであります。

(写真は、春の代表的な草花の一つ「蒲公英(たんぽぽ)」です)

エスコート

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 今日の天気予報によりますと、気温は19℃、温かい一日なることでしょう。やはり「陽の光」の中に春が感じられるようになってきているにちがいありません。といっても今朝は曇天、太陽は顔を見せてくれません。昨晩、帰宅しました。3週間ほどの留守で、「住めば都」の言葉通りに、住み慣れた異国の街の借家が、「自分の棲家(すみか)」だと、改めて思わされています。祖国に帰国し、弟や息子の家に滞在し、居心地の好い接待を受けたのですが、決心して住み始めた、こちらの家を本拠としているのですから、里心を捨てて、ここを第一にしない訳にはいかないことになります。「第二の故郷」とはよく言ったもので、それぞれの理由で祖国から離れ、追われた人々にとって、いつまでも故郷は心の奥にしまいこまれているのですが、父が去り、母が逝ってしまった祖国の今は、思い出の中にだけあるようです。

 先月の21日の午後、友人の車に送られて、町の北にあるバスターミナルに向かい、そこから長距離バスに乗り込みました。余裕で上海に着くと思いきや、どこだか確認しませんでしたが、杭州の近くのインーターの近くに、そのバスが停車して、5時間ほど運転手たちが仮眠し始めたのです。『いつ出発するんだい?』と問われても、彼らは上の空でした。杭州で乗客を降ろし、上海に向かったのですが、船のチェックインに間に合うかどうか、心配で心配でなりませんでした。結局、乗船客の最後で、ギリギリに間に合ったのです。薄い頭が更に薄くなってしまったと思って、船の洗面室の鏡に頭を写してみたのですが、さほどん変わりようはありませんでした。

 同室になったのは、上の兄と同じ学年の方で、退職後、蘇州に住んで十数年といっておられました。3ヶ月に一度の帰国をしてきている大阪在住の方で、話し好きでした。名刺を交換したので、何時か訪ねてみたいと思っております。S大学の学生と風呂で一緒になり、交換留学を終えて、北京から上海に来て、そこからの帰国でした。なかなかの好青年たちでした。他人任せの旅には、もうコリゴリだなと思った私は、帰りの船便を1年オープンにして、帰路は大阪から飛行機にしたのです。

 その飛行機の中で、トイレから席に戻ろうとしていた老婦人が、乱気流の中でヨロリとしたのを見て、隣の席の今風の中国人青年が、すくっと立ち上って、そのおばあちゃんをエスコートして席に連れていくのを見ました。実にさわやかで、情愛のこもった行為をみて、『人って、上辺ではなく、心なんだ!』と思うことしきりでした。この中国人社会には、こういった感心する青年たちが多くいるのを目撃して、「孔孟の教え」が二十一世紀の今にも、脈々と生きていて、とくに青年たちによって実行されているのを知らされるのです。素晴らしいことではないでしょうか。

 夕闇の中、厚い雲をついての着陸でしたが、レーダーというのでしょうか、コンピューター操作で着陸できる時代だということを、改めて思い知らされました。「懐かしさ」、着陸してこの街の土に足が触れた時に、それを感じさせられたのです。多くの方々の善意で、念願の「査証」も発給され、もうしばらく、ここにいることが導きとの思いで、新たな一歩を記した次第です。東京の街に比べて、少々暗い夜でしたが、家内の待つ我が家にたどり着いて、ホッとしたのは家内も同じだったようです。

(写真は、飛行中の深セン航空の飛行機です)

《抑制の美学》

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1969年の大阪場所で、横綱・大鵬が、戸田と対戦した時のことです。戸田が横綱を破って金星を挙げた一戦でした。しかし、この判定は行司の誤審で、大鵬の右足が土俵に残っていたのです。その時、大鵬は、『横綱が、物言いのつく相撲をとってはいけない!』、と語って、勝ちを主張しなかったのです。NHKの相撲実況をしたアナウンサーで、相撲ジャーナリストの杉山邦博が、『これは《抑制の美学》だ!』と、書き残しているのです。まさにこれは、《王者の貫禄》ではないでしょうか。

私たちの住んでいた街に、「相撲」がやってきたことがありました。通っていた小学校の校庭に、土俵が設えられて、いわゆる「地方場所」が行われたのです。その相撲興行を行ったは、「二所ノ関部屋」でした。それ以降、兄たちの贔屓(ひいき)の相撲取りは、二所ノ関部屋の玉の海、琴ヶ浜になったのです。私も兄たちに倣って、彼らのフアンになったのです。娯楽の少なかった時代の相撲は、今のサッカー人気以上があったと思われます。この二所ノ関に所属していたのが、プロレスで有名だった「力道山」でした。

そして一世を風靡(ふうび)した、「大鵬」も、この二所ノ関部屋の力士で、「昭和の大横綱」と言われた人気力士でした。ウクライナ人の父親を持ち、その肌の白さや、外人のようなマスクに、子どもや女性から圧倒的な人気があったのです。一番上の兄と同年生までした。昨日のニュースで、この大鵬が亡くなったと報じていました。「平成」が、もう25年にもなりますから、また「昭和」が遠ざかっていくのを感じています。『決してえばらなかった方でした!』と言われ、日本を元気にしてくれた大横綱の死は、やはり寂しいものを感じさせられます。

(写真は、大鵬の出身地の近くにある、初夏の「摩周湖(弟子屈町)」です)