とにかく遠くに行きたかった頃

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 「青春の讃歌」と呼べる歌が、私には三つほどあります。一つは、立川の日活の映画館で、裕次郎を観ました。「風速40メートル」と言う映画でした。あの時代に青春のシンボルなのでしょうか、カッコいい兄貴のような裕次郎の歌を、足を引きずりぎみにして歩きながら、口づさんだのです。1958年、生意気盛りの中学生だったでしょうか、作詞が友重 澄之介、作曲が、上原 賢六でした。

(セリフ)何だいありゃ
(
セリフ)何、風速40?アハハ

風が吹く吹くやけに吹きゃァがると
風に向って進みたくなるのサ

俺は行くぜ胸が鳴ってる
みんな飛んじゃエ 飛んじゃエ
俺は負けないぜ

(セリフ)おい風速40米が何だってんだい、
(
セリフ)エ、ふざけるんじゃねえよ

風が吹く吹くやけに吹きゃァがると
街に飛び出し 歌いたくなるのサ

俺は歌う 俺がうなると
風もうなるヨ 歌うヨ 俺に負けずにヨ

風が吹く吹くやけに吹きゃァがると
風と一緒に 飛んでゆきたいのサ

俺は雲さ 地獄の果てへ
ぶっちぎれてく ちぎれてく
それが 運命だョ

(セリフ)◯◯野郎、
(
セリフ)風速40米が何だいアハハ

 風速40メートルなんて、風の強さは想像することができませんでした。「太陽族」と呼ばれた湘南の若者たちの物語の映画音楽でした。父の生まれ故郷と目と鼻の先で、なんとなく馴染み深さを覚えていたようです。裕次郎が普段着の顔のようで、夏の海浜を思い出させてくれた歌でした。ちょっと捨てばちさが、十代には強烈だったかも知れません。

 2つは、作詞が永六輔、作曲が中村八大の「遠くへ行きたい」で、まるで不良少年のような感じのジェリー藤尾が、1962年に歌っていました。

知らない街を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい

知らない海を ながめてみたい
どこか遠くへ 行きたい

遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅

愛する人と 巡り逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

愛し合い 信じ合い
いつの日か幸せを

愛する人と 巡り逢いたい
どこか遠くへ 行きたい
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 とにかく、「現状打破」 、新しさへの憧れ、大人になりかけた年頃で、父の家を出て独立したいけど、父の援助なしでは、まだ生きてはいけない自分の未熟さがわかっていたのですが、とにかく「逃亡」とか「脱走」願望が強く、〈だれか〉との出会いたい思いが強かったのです。道への憧れの強かった頃の歌でした。

 3つは、作詞が伊野上のぼる、作曲がキダ・タロー、歌が北原謙二で、「ふるさとのはなしをしよう」でした。1965年に発表されていた「昭和の歌」です。

砂山に さわぐ潮風
かつお舟 はいる浜辺の
夕焼けが 海をいろどる
きみの知らない ぼくのふるさと
ふるさとの はなしをしよう

縁日の まちのともしび
下町の 夜が匂うよ
きみが生まれた きみのふるさと
ふるさとの はなしをしよう

今頃は 丘の畑に
桃の実が 赤くなるころ
遠い日の 夢の数々
ぼくは知りたい きみのふるさと
ふるさとの はなしをしよう

 自分にもあるふるさとの光景と、砂山の潮風、夜店のともしび、丘の畑の柿の実とは違いますが、木通(あけび)取りに、兄たちの跡を追って山の中に入って行って、実をもいだり、家の前の小川で泳ぐ魚を追う兄たちがいました。あの木通をもいだのを手にしたのか、家に帰って、米櫃の中に入れて、追熟して、ほのかに甘い果実を食べた味が忘れられません。どんな秋の味覚よりも、懐かしさからすると、それが秀逸なのです。だれにもあるふるさとの歌でした。

(“DANRO” からです)

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稲穂が波のように揺れて

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 散歩道の途中に、いくつもの小学校があります。市内の設立の古い学校の庭には、やはり金次郎像が置かれているのです。ある学校は正門脇に、ある学校は庭の隅に置かれて、《勉学励行》の勧めを無言の内にしています。

 薪と言うよりは、柴(しば)を背に担いで、「四書」の一つで、中国の朱子学の「大学」を読んで歩く像なのですが、その本に刻まれているのは、『一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興り、一人貪戻なれば一国乱を作す。その機かくのごとし。』なのだそうです。

 尊徳の死の翌年の1857年に、二宮尊徳の高弟で相馬中村藩士の富田高慶(1814年・文化111890年・明治23)が著した「報徳記」があります。この書をもとに、幸田露伴が、「二宮尊徳翁」という書を表していて、これらを題材に、「二宮金次郎像」が作られ、全国の小学校で作って置かれるようになったのです。

 海外進出が、日本の生命線だという時代の「富国強兵」の旗印を掲げつつ、「勤勉」を勧める教育行政の一環で、昭和7年(1932年)に金次郎像の設置を推し進めた中での運動だったのです。私が学んだ小学校にも、中学校にも、この像が置かれてありました。どのような時代でも、この「勤勉」は意味のあるものなのです。

 校長の勧めで、入学当初には毎朝、登校すると、立ち止まって、脱帽して、礼をしていた自分でした。神社礼拝などしない両親、キリスト者の母の影響で育ったのですが、思い返すと、鋳物の像に、敬礼をしたことは、キリスト者の家庭としてはふさわしくなかったなあと思い、校長よりも、聖書に従おうと、敬礼をやめました。

 二宮金次郎の出身地である神奈川県の小田原市や、農業の振興で手腕を発揮した地である栃木県の真岡市や日光市などには、芝を背負う二宮金次郎像ではなく、立派な大人となった姿の「二宮尊徳像」が見られます。その二宮金次郎、尊徳を、「代表的日本人」の一人として、海外の読者に紹介したのが、内村鑑三でした。

 二宮金次郎像や二宮尊徳像を見たり考えたりする時、この人の生き方、あり方に目を止めていくことなのです。小田原の人が、この下野国で、農業開会や振興に尽力し、農業用水を他にひいて、稲作を推し進めたのは、当時の農村に活力を与えたことは、驚くべきことででした。

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 それほどの高い評価を受けた二宮尊徳(金次郎)が、農作を導いた、「真岡」には、「報徳田」」が残されてあります。尊徳は小田原藩主・大久保忠真公に、農作の手腕を認められた人で、「野州桜町(現・真岡市の一部)」の復興の命を受けています。1823年に赴任し、自ら先頭にたち用水路や堰や橋の改修を行ったのです。

   桜町での働く様子は、村人にとってまさに超人的であったようです。早朝4時に起床し、村内を見回り、開墾や改修を行い、陣屋へ帰って夕食を散った後には、1日の反省や、明日の計画などを練ったそうです。それで寝るのは、12時過ぎで、毎日の睡眠時間は4時間ほどだったのは有名な話です。

 その尊徳自身が米作りを行っていた水田跡が残されていて、それを発掘、復元したのが、この「報徳田」でした。そのために市民などの多くのみなさんが集まって、列になって一定の間隔を保ちながら、苗を丁寧に手植えたりしたようです。

 やはり有言実行の人で、勤勉な人や労苦して働く村民には、報奨金を与え激励したようです。人の先頭に立って、尊徳自らが働く姿こそが、教えの根幹だったのでしょう。ご自分の出が、「百姓」だということを忘れずに、百姓の悲哀をよく知っていたからこそ、善政を行い得たのでしょう。県北で、農の基本を実践している方たちがおいでです。

(二宮の住宅兼住居の陣屋が保存されています)

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こんなにウマイもんが

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 『こんなにウマイもんがあるのか!』と、子どもの頃に思った物が、3つほどありました。1つは、東京の国鉄・神田駅前にあった鰻屋の鰻、2つは、肉の万世のカツサンド、3つは、横浜駅で売っていた崎陽軒のシュウマイだったでしょうか。

 まだレストランとかは、私たちの育った街にはありませんでした。蕎麦屋が2軒、パン屋が一軒ほどあったでしょうか。そんな頃、時々、父が、お江戸から買って帰って来て、『さあ喰え!』と言っては、食べさせてくれたのが、上の三つでした。

 後になって、母は、カツを揚げたり、餡かけのカタ焼きそばを作ってくれたり、ハンバーグをフライパンで作ってくれたり、色いろんな具材を混ぜたちらし(ばら)寿司などを作って食べさせてくれました。あの時代、時々でしたが、けっこう贅沢な食卓だったのかも知れません。食べている四人の顔を、母は満足そうに眺めていたのです。

 その上、自分の会社のあった東京から、食パンに、みじん切りにしたキャベツをのせたソース味のサンドイッチを買ってきてくれたのです。だからでしょうか、今でも、パン屋に行くと、カツサンドが目について仕方がなく、たまーに買ってしまうのです。あの味には比べられませんが。

 また、串に刺して炭火で焼いた鰻を買ってきてくれ、炭火で焼き直して、丼のご飯の上にのせて、タレとサンショをかけて食べたのです。今、この住んでいる街の南に、有名な鰻屋があるそうですが、完全予約で、〈お重8800円〉だそうで、とても手が届きませんし、まあまあの庶民の贅沢だった物が、高級ステーキ並みになっていて驚きです。でも、この鰻は、入院中に父に頼まれて神田の昇亭まで行って買って、父に届けたことがありました。同室の方に頭の方を上げて、自分は尻尾の方を食べていました。あの後、すぐに父は召され、父の最後の鰻だったのです。

 もう一つは、崎陽軒の焼売(しゅうまい)です。陶器の醤油差しがついていて、からし醤油で食べたあの味は、高い物ではないですが、抜群に美味しかったのです。何個入りだったのでしょうか、きっと母の分を残さずに食べて、自分が一番多く食べて、みんなに嫌われていたのでしょう。それは、競争社会の中で生き抜く逞しさでは、どうもなさそうでした。

 蛇足ですが、崎陽軒の創業者は、餃子の街・宇都宮に近い鹿沼の出身だそうで、なにやら、ここでは焼売で町興しがなされているのだそうです。48もの食堂などが、シュウマイを出してくれる、〈焼売地図〉まであります。しばらく、カツサンドも鰻も焼売も食べていないのです。そういえば、《食欲の秋》の到来、ちょっと唾液腺が動き始めてきているようです。

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ガザ地区病院爆破の原因

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 「10月18日のガザ地区病院爆破はイスラム聖戦発射と判明(ブリッジ フォー ピイスからの速報記事)」

 ガザ地区の病院爆破が大きく報じられていますが、ミサイルはイスラエルのものではなく、ガザ地区のテロ組織イスラム聖戦のものであることが、カメラ映像やイスラエル軍の作戦と照合した結果、明らかになりました。カメラには、爆発が起きた前後、ガザ地区から連射されたロケット弾の一発が、ガザ領内に落下した様子がとらえられています。

 ガザ地区のテロ組織は、以前にも、イスラエルの空爆と偽ってガザ領内に向けて意図的にロケット弾を発射したことがあります。今回のような落下や誤爆を含めると、何千発と発射されるロケット弾のうち、どれほどの被害がガザ領内でも起きていることでしょうか。

 彼らの目的は、ガザ住民の犠牲を利用し、国際的な非難をイスラエルに向けさせることです。ガザの人々はまさに「人間の盾」であり、人質ともいえます。

 この病院の爆破事件に対し、レバノンのヒズボラは報復を口にしている他、アラブ諸国の間で反発が広まっています。イスラエルに対する諸外国の理解や心象が今後変化していく可能性もあります。

 イスラエルはガザ北部の市民に、南部へと避難するよう引き続き呼び掛けていますが、ハマスらはその避難を妨害するだけでなく、それを逆手にとって南部で活動を活発化させる恐れも出てきました。

 ガザ市の人々を人間の盾にして、人道状況を悪化させて苦しめているのはハマスらテロ組織に他なりません。引き続き、ガザの一般市民がテロ組織の手から守られ、安全を確保できるように、人道状況の回復のために、国際社会が問題を見極めて対処する知恵が与えられるようお祈りください。

『主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。(詩篇18篇2~3節)』

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終わりの朝顔が

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 今季、きっと最後の朝顔の花かも知れません。もう溢れるほどに咲き、これまでも蚊と咲き続けたのですが、種を残して、朝顔劇場の幕が降りたようです。種を残そうと思っていますが、数年前から、「肥後朝顔」に魅せられた私は、これに挑戦してみたいのです。きっと、タネの入手も、育て方も難しそうですが、ちょい線に値するような、見事な、「肥後六花」の一つです。

 今年の夏は、異常な暑さに見舞われ、何もが焦げてしまいそうな感じがしていましたが、この朝顔の葉の緑と、三色が次々に咲き続けてくれた赤、紫、桃色の花びらの開花に慰められ、励まされました。

咲きあふれ 暑さ忘れし 朝顔ぞ

 華南の借家に咲いていた朝顔は、日本から持っていった種を植えたのですが、亜熱帯の暑さ、中国でも極めつけの暑さの地で咲き、正月まで、裏のベランダで咲き続けたのには驚きました。次女家族が来た時、そのベランダを箒で、水を流しては綺麗にしてくれたのです。そこから移り住んだ住宅で、ただ一軒だけ、向こうの棟の八階で、「喇叭花(朝顔の中国名です)」の咲いているのを認めましたが、小規模栽培でした。

 春に、家内が、シンクタンク(流し)の下の冷暗所で、発芽させたか細い苗を、私が苗床を作って、植えた朝顔でしたから、ちょっと寂しい思いがしてまいります。日本には、中国から、観賞用よりも「薬草」として伝わり、まさに、わが家では《精神安定薬》の役割を担ったと言えるのです。孫たちが近くにいないので、もっぱらの関心は、この《薬》だったかも知れません。

 最後に、「朝顔の花言葉」は、愛情、愛情の絆、結束、結びつき、平静、明日もさわやかに、私はあなたにからみつく、などがあるそうです。まあよくからみついて咲いていた朝顔でした。《創造の美》、神の創造の世界でありました。

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日光

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 江戸時代、この地の代官をされていた方の子孫が、嘉右衛門町に住んでいて、その頃のさまざまな道具や家具や書類、駕籠(かご)まで残っていて、代官屋敷の門扉の中の様子が、一般公開されています。

 お代官の名前は、岡田嘉右衛門で、今も、そのお名前を継いで、栃木駅前で医院を開業されておいでです。住居は、この屋敷内なのです。お母さまが健在で、この屋敷の敷地の中にお住まいで、いろいろと説明をしていただいたことがありました。日光例幣使街道沿いに位置していて、この門前を歩いたり、駕籠に乗ったりして、日光の行き帰りを、例幣使も諸国の大名も庶民も、行き来をしたのでしょう。

 2年前に、水上町の「須川宿」を訪ね、そこでも記念館に行ってみました。越後国の諸大名の参勤交代で宿となった村です。雪深い三国峠は難所だったようで、『この三国街道沿いの温泉にも、旅人は入ったんだろうなあ!』と思ってみました。歴史ある養蚕農家の家並みが見られ、往時を偲ぶことができました。

 栃木宿とは違って、代官屋敷跡は見られなかったのですが、ここにも本陣とか脇本陣などがあって、山を登る人は覚悟をし、降りてくる人は、ホッとしたのでしょうか。長岡藩発行の「通行手形」も残っていて、車で、汽車、そして電車、そして新幹線で越えられる今は、旅情緒は全く違ってしまったのでしょうか。

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 週に何度か、この栃木の例幣使街道を歩いているのですが、先日、この代官屋敷の付近で、「防火用水」と彫られた水かめを見かけたのです。きっと戦時中のものなのかどうか判別できませんでしたが、なんか時代を感じてしまいました。この街も何度か大火もあったようです。
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 この道は、歴代の天皇の代理が、徳川家康の命日に、幣帛(へいはく/神に捧げる供物を言います)をもって遣わされた日光例幣使が、京都から中山道を経て、倉賀野宿から、ここ栃木宿を経て日光に至った街道でした。221年もの間、毎年励行されていたのだそうです。それほど日光、すなわち神とされ埋葬された家康の威光が大きかったということになります。

 先日、市民大学教養講座がありまして、出掛けたのです。今回のテーマは、その「日光の歴史」についてでした。元栃木高校の地理の教師をされた講師が講義をしておいででした。この日光は、古来、神秘的な土地柄とされてきており、とくに仏教の寺院が多くあった地で、「権現」となった家康の墓所とされた地なのです。かつて四万人ほどの人口があったのに、今は、その三分の一ほどになっているようです。

 一度も、家康は訪ねることのなかった地に、初めに埋葬された久能山から、改葬されています。風水という方位に適っていたという理由で、江戸の北方の下野国日光の地が選ばれたのだそうです。わが家のある栃木市から北に位置していて、日本にある多くの山並みと変わらなく、4階の玄関に立ちますと、その日光連山が眺められます。奥多摩や丹沢あたりも山並みに似ているように思われるのです。

 以前住んでいた町の家の大家さんが、家を新築した時に、一旦、別の地に移り住み、そこから越してきて、住み始めたのです。方位に拘る人は、そんなことまでするのを知って、ちょっと驚いたのです。まさに家康の自分の死後についての指示も同じでした。

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 死期を感じた家康は、『遺体は駿河の久能山に葬り、葬儀を江戸の増上寺で行い、(中略)一周忌が過ぎてから、日光山に小さき堂を建てて勧請せよ・・・八州の鎮守となるだろう。』と遺言しています。この八州とは、関東八カ国を指しています。

 「小さき堂」ではなく、莫大な資金を投入して、秀忠が東照宮を建て、家光は、それを取り壊して、荘厳な宮を新しく建て直しています。死しても江戸を守り、諸国に君臨したい願いが家康にあり、そう進言した、天台宗の僧の天海の思惑があり、彼の進言があって、家光が、祖父のために、徳川支配のために改築を断行したのです。

 この東照宮の存在が、現在のキリスト教伝道を妨げている霊的な要塞であって、それを打ち砕くことが必要だ、と言う主張を、以前聞いたことがあります。私には、この宮の表通りを、バスや車で何度か通りながら、参拝している人や観光客の様子を見ても、日光白根山の爆発で焼失したり、必死になって、この聖地とされる地に建てられた建造物を保つために、色を塗り替え、増改築や修復を繰り返して、霊験あるさまに保っている区域にしか思えないのです。

 『人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言2925節)』

 死者を必要以上に意識することこそが、妨げであって、土に帰ってしまったものの霊的な影響力など、決してないのです。〈恐れる思い〉こそが、伝道を阻んでいるのであって、十字架に死なれて蘇られた、今も生きておいでの救い主イエスさまを、もっと知ること、ほめたたえることに精出すほうが健全なのではないでしょうか。

 大陸から伝来した、風水や方位の問題で、日光に、それを当てはめて、聖地にしようとした人たちには、こじつけや矛盾があるように感じています。〈初めに風水ありき〉で、日光の地形に当てはめても、不都合、合致しない点があるようです。そのようなあやふやさを持つものを気にしたり、恐れる必要はないのです。

 東西南北を定め、天の星々、星座を作り、その運行を定められた創造の神の御業を認め、賛美したほうが良いのではないでしょうか。日常の、自分の魂を委ねた群れ、教会の中で、多くの信仰者が作った讃美歌を歌い、「新しい歌」で賛美し、立てられた牧師の日曜日ごとの講壇から語られる説教を聞いて、礼拝を守るのです。週日は、日常の自然的な業に励み、家族を愛し、隣人を愛すること、これが一番ではないでしょうか。

 センセーショナル(sensational)な新しい啓示や運動が、人を落ち着かせなくさせて、振り回されてしまい、生活のリズムを狂わせ、日常を狂わせてしまうのことの方が、問題なのです。イエスさまは、「行って」と何度か言われています。それこそは、《日常の決まった生活をきちんとしていくことの勧め》なのです。

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 コロナ騒動の直前に、華南の街の友人夫妻が家内の見舞いに来られて、このお二人が、同じ街で出会った京都在住の同労者の方の通訳で、地元出身の方に誘われて、この日光を訪ねたのです。日光見学で、その東照宮の近くに、明治末期に、聖公会のガードナー宣教師が「日光真光教会(前身は、西参道付近に「変容貌教会」を建てています)」の会堂を建てていて、その教会堂を見て驚いていたのです。神として祀られた家康埋葬の地で、この聖公会は、明治8年には、《まことの神》の礼拝を始めていたという事実も知ったからです。隣国の基督者、同労者夫妻が驚いた地でもあります。

(表日光連山、例幣使街道栃木宿、防火用水、北斗星、日光真光教会です)

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昔の日々を思い出し

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 父が関わっていた会社の一つが、旧国鉄の車両のパーツを納品していたのです。電車の制動関係の部品で、車輪にブレーキをかけるための大切な部分の製品だったのです。そんな関係で、父の知人の国鉄の役員が、国政に出るために、選挙戦に立候補したことがありました。選挙戦が繰り広げられる中で、父は、全国を飛び回って、応援の仕事を担当していたのを覚えています。

 父としては、会社の命運のかかった取引先の役員の出馬で、その当選を期して協力をしていたわけです。その働きの甲斐があって、見事、立候補をされた方は国会議員に当選していたのです。まだ高校生ほどだった自分にも、国の成り立ちのある面は分かっていたと思うのです。

 たまたま東京に出て来て、二度目に住んだ街にも、国鉄の主要の路線が走っていて、日本通運の作業の引き込み線があって、その作業を、近くの空き地で遊びながら見て過ごしていたのです。また線路の保線区があったり、踏切があったり、同級生の家族が住む国鉄職員の社宅もあったりでした。

 上の兄の同級生が、お父さんが国鉄職員の関係で、「蛙(かわず)の子は蛙」で、国鉄職員の養成のための岩倉高校(運輸科だと思います)に通っていて、卒業して、電車の車掌をしていていたのです。小さい頃に、『準坊!』と呼んでくれて、一緒に遊んでくれた方でした。一度だけ、彼の乗車していた電車に乗ったことがありました。『格好いいなあ!』と思ったのです。

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 子どもの頃に乗った、蒸気機関車の吐く白い蒸気の色と音、車軸が回転して出力を増し加えていく様子、そして時々鳴らす汽笛の音に、とてつもない力強さを感じたのです。まだ、立川から奥多摩に行く線に、蒸気機関車が走っていて、立川駅の一番端にあった、その路線のプラットホームで、ジーッと眺めていたことがありました。よく、汽車や電車の運転手にならなかったものだと、今でも思うほど、〈国鉄オタク〉だったのです。

 そんなことで、浅田次郎原作の小説が、1999年に映画化され、「鉄道員〈ぽっぽや〉」が上映された時に、普段映画館などに出入りすることなかった私でしたが、” Nostalgie “ でしょうか、もう興味深く観たのです。その映画で、蒸気機関車の『ぽっぽっぽー!』の音、車輪を回す蒸気の排出、黒煙、車軸の回転が、子どもの頃の情景をスクリーンに蘇えってきたのです。

 不思議なことに、今は、JRの両毛線、東武電鉄の日光・宇都宮・鬼怒川線(延伸の野岩鉄道や会津電鉄があります)の駅の近くに住んで、同じ鉄道の音や匂いを感じて、朝一番電車が、南栗橋方面、東京に行く光景も見られます。子どもの頃の光景が思い出されてならないのです。今年は、ここの駅から鉄路でつながる会津若松駅から、新潟県の小出駅までを結ぶ、JR只見線が、復旧開業しているのです。

 実は、この沿線が、〈昔の鉄道風景〉を残しているとかで、乗り継いでみたい思いに駆られて、満を持しているところなのです。男の “ sentimentalism “ なのでしょう。子どもの頃に、目に焼き付いた光景というのは、時が流れても、薄れはしても、消えてしまわないのかも知れません。きっと、もう車を運転することがなくなってしまったこともあって、鉄路への “ Nostalgia ” が沸々と持ち上がっているのでしょう。

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 東武電鉄の日光線と鬼怒川線の分岐駅が、「下今市駅」と言いまして、そこを時々、上下車してきたのですが、この駅に、蒸気機関車の週末運転を記念した「駅弁」が売られているのです。その駅弁に、スプーンがついているのです。この冒頭の写真ようなものです。きっと、蒸気機関に石炭を焚べるために使っている、シャベルを模したのだと思われます。

 『私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。 (詩篇1435節)』

    煤煙や煤の蒸気機関車は、かつては男の子の憧れだったのですが、歳を重ねた今でも、リニアに乗りたいなどと願いませんが、この蒸気機関車で、長い鉄路を旅をしてみたい思いは消えないのです。今日日、鉄路の 継ぎ目がなくなってしまい、心地よい『ガタンゴトンキィーン!』の音が聞こえないのには残念至極です。

 これからの時期、ローカル線は、もう何年かすると廃線で、バス路線になってしまいそうで、「只見線」だって例外ではなさそうな危機感を覚えています。どれほど自分の日が残されているか分かりませんので、この秋には、無理を言って、出かけてみたいと、積年の願いをと思うのです。

(「奥会津を行く蒸気機関車」、「只見線沿線の秋景色」、「スプーン」です)

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無線士が転じて

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 父の事務机の上に、「打電機(電鍵)」が置いてありました。それは、モールス信号で、情報を送信する装置でした。軍需工場の秘匿の情報を、軍部との間で交わすためには、電話ではなく、この装置を用いるほど、機密性を大切にしていたのでしょう。

 戦争が終わっても、父の机の上には、それが残されて置かれてあったのです。それが、どんなものか学校に上がる前に、不思議でならなかったのです。ツーツートントンツウこのモールス信号で、情報を受け取り、送ることができるのを、この上もない装置だと思ったわけです。

 父が、街中の事務所に、『桂、電報持って登って来い!』と連絡していたのを覚えているのです。子どもの私は、その「電報」が、「鉄砲」に聞こえて、覚えているのです。いつまでも兄たちにからかわれました。そんなことで、社長になったり、博士になるなんて考えずに、船に乗って「無線士」になろうと考えていたわけです。まだ56歳ほどで、それほど、将来の職業志望を強く願っていたのです。

 それが中学に入ってから、担任が社会科の教師で、小学校でも社会科が好きで、興味津々だった私は、俄然、その教えに殴られたようになったのです。地理だったと思うのですが、「水に流す」と言うことを、長い時間をかけて説明してくれたのです。岩手県の北にある「弓弭の泉(ゆはずのいずみ)」から流れ下って、石巻に流れてくる北上川(旧北上川)は、蛇行している河川だと言うのです。

 その蛇行の地点に、地蔵が、多く置かれているのです。それが、天候異常の冷害で起こる飢饉で、それでなくとも東北地方の貧しい農村部では、食べることに窮して、生まれてくる子どもを、どうしても育てられないで、口減しをしていたようです。どうするかと言うと、北上の流れに流してしまったのです。

 そのようにして流された嬰児の亡骸が、蛇行地点にとどまっていたのを、その周辺の地の住民が、その亡くなった命を弔う意味で、地蔵を作って置いたのだそうです。「日本のチベット」と呼ばれた地域の悲しい東北地方の歴史を学んで、私は衝撃を受けたのです。担任の担当教科の社会科で、貧困や疾病、人柱や自殺、様々な社会の暗部を教えられたのです。

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 それが切っ掛けだったのでしょうか、この担任のような、社会科の教員になろうと考えたのです。この担任は、地理を教えるときも歴史を教えるときも、教材の掛け軸などを、両手に持って、教室にやって来て、淡々と教えてくれたのです。先輩から聞くと、東大出だそうでしたが、偉ぶることもなく、テカテカになった背広を着ていました。この先生の家に、級友たち45人で訪ねた時は、吉祥寺のお兄さんの家の二階にお住まいでした。りんご箱の上に、奥様がお茶を淹れ茶碗を置いてくれたのを思い出すのです。

 昭和30年代の初めでしたから、まだまだ日本は貧しい時代でした。後に校長となられた担任の先生でしたが、悪びれずに、生意気盛りの中学生を迎え入れてくださったのです。難しい本を読むように推薦してくれたことが何度かありました。何年か前に、無くした、一冊の本を読みたくなって、古書店から買って、読み直したこともあります。可能性を見て、子ども扱いをされない、叱る時は叱り、落ち込んでると、呼んで励ましてくれた先生でした。

 『三つ子の魂百までも!』と言われますが、一度立てた志は叶えられて、教員になることができたのです。これも能力ではなく、コネ( connection )ででした。コネだって、人生の財産かも知れません。もう一生懸命に授業の準備して、教室に行き、生徒の前に立ちました。そして精一杯教えたのです。あんなに充実していた日々はなかったほどでした。

 しかし、17歳の信仰告白後の曖昧な生き方から、真正のクリスチャンになったのです。パウロやペテロがそうであったように、主に仕える生き方に導かれてしまうのです。25歳の時でした。そんなこと、一瞬たりとも思ったことのない、キリスト伝道のために生きる願いでした。資格や能力を度外視した、不思議な迫りを感じたのです。ちょうど、ガリラヤ湖で網打つ漁民だったペテロたちが、『イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マルコ117節)』と、人の意思を度外視した、突如の招きによって、キリストの弟子とされたようにでした。

 宣教師の後の教会を、家内と共に,訓練期間と伝道牧会を34年ほどし、61歳になって、海を渡ったのです。省の大学の日本語学科で、日本語を教えながら、主の働きをさせていただきました。それも、驚くほど、考えられないほどの尊い経験でした。家族のように、彼の地の兄弟姉妹に支えられ、励まされて、13年を過ごせたのです。中学3年間の担任が、挨拶を交わす時、教壇から降りて、生徒と同じ高さにこだわったように、それを日本でも隣国でも、教室で励行しました。

 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ289節)』

 ああ、人生とは、何と神秘的ではないでしょうか。神の恵み、恩寵は何と素晴らしいことでしょうか。母に宿った信仰を継承したこと、幼い日の願いを二転三転させて、主に仕えることができ、意味ある生を、糟糠の妻と共に送れたのは、望外の祝福でした。こんな私にも、子や孫にも継承され、限りない憐れみ、溢れかえる恩寵、一方的な選びに預かることができたことに、衷心よりの感謝を覚えるのです。

(「打電機」、「北上川」です)

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主の赦しと祝福と栄光と

 

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 ルターが、「信仰義認」を掲げて、宗教改革の動機を始めた時に、旧勢力は、異端だとして排斥し、新しく誕生する教会のリーダーたちを、神への反逆、教会への不従順として弾圧し、死罪に定め、断頭台に送ったのです。そうして誕生した福音主義、聖書主義を掲げた教会も、内紛、とくに神学や教理の違いで、反目し合ってしまいます。例えば、ジュネーブで牧会をしたカルヴァンも、「三位一体論の誤り」を理由に、ミシェル・セルヴェを、親しい友であったのに、「火刑」にしています。

 寛容、恩寵、忍耐、和解など、そう言った教会の主の教えとは真反対に、神学上の違いで死罪にしたことは、「時代の誤り」だという追随者の言い訳ではなく、どんな言い訳もできない非寛容な、自分だけを正統とする、憎悪に燃えた罪であったことを忘れてはいけないのです。そう言ったことは、カルヴァンにだけあったのではなく、すべての人の思いの内にあることを覚えなければなりません。「異端」の判別や裁きは、教会の主であるイエスさまだけができること、「キリストに座の裁き」と「最後の審判」に任すべきだからです。

 また、「浸礼」で洗礼を施すことを主張し、後にバプテスト派が誕生した時、旧勢力は、バプテスマを施す教職者を、水の中に抑え込んで溺れ死にさせたことも、教会の歴史の中にありました。さらに、「異言」を語り始めた教会や神学校を、旧勢力は、異端として攻撃しました。教育を受けていない者たちの極端な信仰の表明を、コリントの教会の問題と被らせたからでしょう。そして「カリスマ派」というグループが出てきて、賛美礼拝で、同じ歌詞をしつこく繰り返したり、賜物とか油注ぎなどと非難して、非正統のレッテルをつけて、嫌悪してきています。

 私は、個人的な信仰体験として、1970年の秋に、母教会の夕方の特別集会で、「聖霊のバプテスマ」を受けました。異言が口から、まさに突いて出てきたのです。アフリカに、福音宣教のために遣わされた教え子を訪ねる途上、羽田空港に降り立った、ニューヨークの神学校で教壇に立つ、説教者の按手によってでした。

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 17で信仰告白をし、22でバプテスマを受けていたのですが、煮え切らない back slider で、曖昧だった私の信仰を確かなものにしたのが、その体験でした。その時、イエスさまの十字架の死が、自分の罪を赦すためだということが、突如として分かったのです。信じた神が、「自分の父」だと信じられたのです。それは驚くべき信仰の体験でした。

 これっておかしな、異常なことだと言えるでしょうか。そのパウロが、『私は、あなたがたの誰よりもはるかに多く異言で話せることを私の神に感謝しています(「インターリニア ギリシャ語新約聖書」から)。』と言っています。これは、どのような批判をこえていて、「異言」を肯定しているのではないでしょうか。

 ある著名な牧師が、パウロに、尊敬のあまりでしょうか、『パウロ先生!』と言われた説教を聞いたことがあります。私たちを導いた宣教師のみなさんや、彼らの友人の牧師さんたちは、ご自分を、〈ジャック〉、〈チャック〉、〈トム〉と、先生抜きの名前で呼ぶように願っていました。私は、〈ヒロタさん〉、〈ジュンさん〉と呼ばれてきました。みんな「赦された罪人」であって、兄弟姉妹だからです。

 『もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。 (ロマ1415節)』
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 福音を信じて、義とされ、聖とされ、子とされ、やがて栄光化される人たちを、パウロは、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」と言っています。聖書解釈や教理の違い、「異言」を語ることで、その人を嫌ってはいけないのでしょう。新しい賛美を歌うクリスチャンを、正しく評価できるでしょうか。そのような体験に導いてくださった器は、驚くほどの人格的に優れた方でしたし、聖書理解も、その説教も優れておいででした。

 宣教師や英語教師が幕末以降、我が国にやって来た時に、彼らの宣べ伝えた福音を聞いて、昨日まで神々に手を合わせ、仏教や儒教の教えを信奉していた人々が、すぐに十字架を信じることができたことは、神の「恵み」でした。

 例えば、国際連盟の副次長を務め、「武士道」を著した新渡戸稲造は、15歳で札幌農学校に入学します。その学校の教授と殴り合うほどの荒くれ男で、「アクチーブ(行動派)」と仇名されていたのです。それが、福音を信じてから、今度は級友たちに「モンク(修道士)」と呼ばれるほど劇的な変化をしています。スリが劇的に変えられて善人になったり、極道や香具師が、瞬間的に回心して牧師になったりするように、福音には力があり、それは聖霊の働きによるのです。

 『わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。(ヨハネ1711節)』

 それぞれ違った方法で、さまざまな背景から、人は基督者になっています。そして様々な教派が生まれてきています。歴史性があって、縹渺する特徴点が違うからです。宣教師の出身国や出身教会によっても違いがあります。そんな違いがあっても、それぞれに補い合い、助け合うのは良いのです。ですが、その違いで争わないで、「一つになること」こそが、教会の主の願いなのです。

 ジュネーブの教会の牧師のカルバンは、生涯の終わりに、『わたしは非常な苦しみを経験するでしょう。わたしは十分死のつらさを受けるでしょう。それでもなお心は確かであると思います。・・・神の御旨を待ちつつ、慎ましく楽しむために。』と言い残しています。そして、1564年5月27日に、55年の生涯の全てを主の手にお任せし、罪の赦しを確信して、罪の呵責から解き放たれて、主の元に帰ったのです。

 人は過ちを犯しますが、それでも、人は赦されて、主に栄光を帰します。そして贖われた教会も、栄光を、主にお帰しするのです。主が、「第一のお方」でいらっしゃるからです。

(「水のバプテス」、「聖霊降臨」、「ジュネーヴの風景」です)

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