日光

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 江戸時代、この地の代官をされていた方の子孫が、嘉右衛門町に住んでいて、その頃のさまざまな道具や家具や書類、駕籠(かご)まで残っていて、代官屋敷の門扉の中の様子が、一般公開されています。

 お代官の名前は、岡田嘉右衛門で、今も、そのお名前を継いで、栃木駅前で医院を開業されておいでです。住居は、この屋敷内なのです。お母さまが健在で、この屋敷の敷地の中にお住まいで、いろいろと説明をしていただいたことがありました。日光例幣使街道沿いに位置していて、この門前を歩いたり、駕籠に乗ったりして、日光の行き帰りを、例幣使も諸国の大名も庶民も、行き来をしたのでしょう。

 2年前に、水上町の「須川宿」を訪ね、そこでも記念館に行ってみました。越後国の諸大名の参勤交代で宿となった村です。雪深い三国峠は難所だったようで、『この三国街道沿いの温泉にも、旅人は入ったんだろうなあ!』と思ってみました。歴史ある養蚕農家の家並みが見られ、往時を偲ぶことができました。

 栃木宿とは違って、代官屋敷跡は見られなかったのですが、ここにも本陣とか脇本陣などがあって、山を登る人は覚悟をし、降りてくる人は、ホッとしたのでしょうか。長岡藩発行の「通行手形」も残っていて、車で、汽車、そして電車、そして新幹線で越えられる今は、旅情緒は全く違ってしまったのでしょうか。

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 週に何度か、この栃木の例幣使街道を歩いているのですが、先日、この代官屋敷の付近で、「防火用水」と彫られた水かめを見かけたのです。きっと戦時中のものなのかどうか判別できませんでしたが、なんか時代を感じてしまいました。この街も何度か大火もあったようです。
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 この道は、歴代の天皇の代理が、徳川家康の命日に、幣帛(へいはく/神に捧げる供物を言います)をもって遣わされた日光例幣使が、京都から中山道を経て、倉賀野宿から、ここ栃木宿を経て日光に至った街道でした。221年もの間、毎年励行されていたのだそうです。それほど日光、すなわち神とされ埋葬された家康の威光が大きかったということになります。

 先日、市民大学教養講座がありまして、出掛けたのです。今回のテーマは、その「日光の歴史」についてでした。元栃木高校の地理の教師をされた講師が講義をしておいででした。この日光は、古来、神秘的な土地柄とされてきており、とくに仏教の寺院が多くあった地で、「権現」となった家康の墓所とされた地なのです。かつて四万人ほどの人口があったのに、今は、その三分の一ほどになっているようです。

 一度も、家康は訪ねることのなかった地に、初めに埋葬された久能山から、改葬されています。風水という方位に適っていたという理由で、江戸の北方の下野国日光の地が選ばれたのだそうです。わが家のある栃木市から北に位置していて、日本にある多くの山並みと変わらなく、4階の玄関に立ちますと、その日光連山が眺められます。奥多摩や丹沢あたりも山並みに似ているように思われるのです。

 以前住んでいた町の家の大家さんが、家を新築した時に、一旦、別の地に移り住み、そこから越してきて、住み始めたのです。方位に拘る人は、そんなことまでするのを知って、ちょっと驚いたのです。まさに家康の自分の死後についての指示も同じでした。

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 死期を感じた家康は、『遺体は駿河の久能山に葬り、葬儀を江戸の増上寺で行い、(中略)一周忌が過ぎてから、日光山に小さき堂を建てて勧請せよ・・・八州の鎮守となるだろう。』と遺言しています。この八州とは、関東八カ国を指しています。

 「小さき堂」ではなく、莫大な資金を投入して、秀忠が東照宮を建て、家光は、それを取り壊して、荘厳な宮を新しく建て直しています。死しても江戸を守り、諸国に君臨したい願いが家康にあり、そう進言した、天台宗の僧の天海の思惑があり、彼の進言があって、家光が、祖父のために、徳川支配のために改築を断行したのです。

 この東照宮の存在が、現在のキリスト教伝道を妨げている霊的な要塞であって、それを打ち砕くことが必要だ、と言う主張を、以前聞いたことがあります。私には、この宮の表通りを、バスや車で何度か通りながら、参拝している人や観光客の様子を見ても、日光白根山の爆発で焼失したり、必死になって、この聖地とされる地に建てられた建造物を保つために、色を塗り替え、増改築や修復を繰り返して、霊験あるさまに保っている区域にしか思えないのです。

 『人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言2925節)』

 死者を必要以上に意識することこそが、妨げであって、土に帰ってしまったものの霊的な影響力など、決してないのです。〈恐れる思い〉こそが、伝道を阻んでいるのであって、十字架に死なれて蘇られた、今も生きておいでの救い主イエスさまを、もっと知ること、ほめたたえることに精出すほうが健全なのではないでしょうか。

 大陸から伝来した、風水や方位の問題で、日光に、それを当てはめて、聖地にしようとした人たちには、こじつけや矛盾があるように感じています。〈初めに風水ありき〉で、日光の地形に当てはめても、不都合、合致しない点があるようです。そのようなあやふやさを持つものを気にしたり、恐れる必要はないのです。

 東西南北を定め、天の星々、星座を作り、その運行を定められた創造の神の御業を認め、賛美したほうが良いのではないでしょうか。日常の、自分の魂を委ねた群れ、教会の中で、多くの信仰者が作った讃美歌を歌い、「新しい歌」で賛美し、立てられた牧師の日曜日ごとの講壇から語られる説教を聞いて、礼拝を守るのです。週日は、日常の自然的な業に励み、家族を愛し、隣人を愛すること、これが一番ではないでしょうか。

 センセーショナル(sensational)な新しい啓示や運動が、人を落ち着かせなくさせて、振り回されてしまい、生活のリズムを狂わせ、日常を狂わせてしまうのことの方が、問題なのです。イエスさまは、「行って」と何度か言われています。それこそは、《日常の決まった生活をきちんとしていくことの勧め》なのです。

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 コロナ騒動の直前に、華南の街の友人夫妻が家内の見舞いに来られて、このお二人が、同じ街で出会った京都在住の同労者の方の通訳で、地元出身の方に誘われて、この日光を訪ねたのです。日光見学で、その東照宮の近くに、明治末期に、聖公会のガードナー宣教師が「日光真光教会(前身は、西参道付近に「変容貌教会」を建てています)」の会堂を建てていて、その教会堂を見て驚いていたのです。神として祀られた家康埋葬の地で、この聖公会は、明治8年には、《まことの神》の礼拝を始めていたという事実も知ったからです。隣国の基督者、同労者夫妻が驚いた地でもあります。

(表日光連山、例幣使街道栃木宿、防火用水、北斗星、日光真光教会です)

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