春満喫

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「ハナミズキ」

 先週の火曜日、5時40分の授業を終えて、キャンパスを東門に向かって帰路をとっていました。その門の前にバス停があって、私の住んでいるアパートの近くを通るバスに乗るためでした。門を出ますと、工業路の街路樹の「ハナミズキ」が一斉に花を開いていたのです。前の週には、「花冷え」の日が続いていて、ちらほらと咲いていただけでしたが、その日の気温が30度ほどあったので、『ソレッ!』と咲き始めたわけです。実に綺麗でした。こちらの街路樹は、花をつける木が多く植えられていて、実に爽快です。

 この街で一番多く植えられているのは、「カジュマル」で、私たちの国では沖縄で多く見られる木ですが。この木は、枝や幹からヒゲのような根が、おびただしく出ていて、これが実に特徴的なのです。面白い習性を持っているのは、地面から水分を吸収しようとしているのでしょうか。大通りの交差点の中に、大きなカジュマルが切り倒されないで、鎮座しているのが、アチラコチラで見られるのです。切ってしまったら、交通がスムーズになるのに、車や人の方が避けて通るように、カジュマル優先も、この街の特徴であります。

「ハナミズキ」白色

 「緑」は目にも心にもやさしく、何だか歌い出したくなるような気持ちにさせてくれないでしょうか。また、『生きていることは素晴らしいことです!』と語りかけられているようにも感じます。緑に、これほどの濃淡の種類があるものだろうか、と感心させられること仕切りです。日本人も、四季の中で「春」を、十二の月の中では「四月」を一番好むのだそうです。「春」、「四月」、「桜」、「入学(入社)式」と四拍子が揃って、揃い踏みですね。快活で、意気揚々として、希望と命にあふれていますから、つい微笑んで、鼻歌が出てきそうです。そう言えば、こちらの人は、よく鼻歌を歌っているのを聞くのです。楽天的なのでしょう!

(写真は、「ハナミズキ(花水木)」です)

四川で地震!

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「成都北駅」1960年代

 今朝、四川省で、M7.0の規模の地震があったと、ニュースが伝えていました。地震の多発する日本では、毎日のように地面が揺れていると、連絡をとるたびに聞きます。「天府の国」と言われる、四川盆地も地震多発の地帯だと言われているのですが、被害が少ないことを願っています。

 最近、世界中で、地震が多発しているニュースを耳にします。『ガタガタッ!』と地震で揺れて、物音がすると、真っ先に立ち上がって、『窓を開けろ!』と号令をかけて、玄関から出ていた父の姿を思い出します。この父の孫に当たる、私の次男も、ビルの間に住んでいますから、一昨年来の地震のたびに、玄関に走って部屋から出て、建物の外に、必至で出ていました。血は争えないものだなと思ったのですが。

 どなたでしたか、『東京に大地震が起こるのでは!』と言われた方がいました。それは脅かしではなく、細心の注意を払って生活をするようにとの勧めなのです。いつ起こっても不思議ではないのですが、地球が、天空に浮かぶ一つの惑星だということを思うとき、何でも起こりうるのでしょうか。四川省の被災地のみなさんが慌てないで、それでいて、注意深く生活をしていただきたいと思っております。

 先ほど、成都の教え子の友人から、『大丈夫だそうです!』とメールがありました。

(写真は、略半世紀ほど前の「成都北駅」のものです)

春雷

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「夕立」鈴木春信画

    忽ちに月をほろぼす春の雷 草城

 昨夕、にわかに空がかき曇ったかと思いますと、雷光がきらめき、雷鳴が轟き、豪雨が激しく地面を叩き始めました。それは凄まじいものでした。腸(はらわた)に響き渡るような大音響に、まるで体が持ち上げられそうな感じがしました。生まれ育った村で聞いた雷鳴は、まるで赤子の泣き声ように感じられ、大陸の「雷」は「つんざく」ような勇猛、勇壮、雄渾でした。西の空から東の空に響き渡るのです。

 雷は、幾つもの太鼓を背負っている姿で描かれてきたのですが、そんな小さな太鼓で、あれほどの音響を奏でることはできません。空全体が大鼓(おおづつみ)のように想像されるのですが。子どものころに、よく『雷が鳴ったら、ヘソを隠せ!』と言われました。雷が「臍」の蒐集家で、子共のヘソを集めているから、気をつけろというのは、脅かしで、低気圧の影響で雨が降り、気温が下がるので、お腹を出していると風邪をひくから、『お腹を温めるんだよ!』という意味なのでしょうか。

 この雷鳴が、私は大好きなのです。昨夕は、雷鳴を聞くやいなや、ベランダに出て、しばらく雨しぶきにあたりながら、その音と光と、車軸を流すような雨を見ていました。もちろん、アスファルトの道路ですから、車軸はありませんでした。そこに叩きつける雨足は、跳ね上げりが凄まじかったのです。あれほどの雨だったのに、一夜明けた今朝は、外のバス通りを見ますともう乾いてしまっています。

(絵は、鈴木春信の「夕立」です)

好み

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「にぎり寿司」

 『犬を連れ、桜を愛(め)でて、寿司を食う!』、日本人の好きなものを調査した、NHKの「放送文化研究所」の榊原一所長は、日本人を端的に、そう表現しています。2007年3月に行われた調査の結果は、現代の日本人の特徴を捉えているようです。動物では「犬」、木や花では「桜」、食べ物では「寿司」という答えは、男女差と年齢差のない、おしなべて日本人の総体的な好みなのです。

 そう言えば、『何か食べよう!』と思うとき、無難な選択は、「寿司」のようです。近くの商業施設(モールのほうがいいでしょうか)の中に、二軒も「回転寿司」が開店営業していますから、大通りを渡って越えて行くなら、ものの5分ほどで行ける範囲で、少々味が本場とは違っていても、食べたあとの満足感は、殊の外であります。たまの外食には、ここに足が向くというのは、私が一般的日本人であるということになるでしょうか。動物には、「ネコ派」と「イヌ派」があるのだそうです。父の家では、「犬」を飼っていて、猫は飼ったことがありませんでした。「泥棒猫」のイメージが強いのと、生臭い肉食なので好きではなかったのです。ところが、娘の飼っていた猫の世話を頼まれて預かり、アメリカに引き上げるので飼えなくなった猫を引き取ることになって、飼い始めたのです。しかも二匹でした。飼っているうちに情が移ってきて、可愛くなっていくのには驚かされました。

 一匹は黒猫のオスで、去勢手術をしていたのです。仲間から異端猫扱いをされて、仲間になれない孤独な猫を生きているうちに、同情も湧いてきたのです。結局、私たちが日本を離れることになって、市の愛護センターに連れていってしまったのです。一番の犠牲は、そのタッカーとスティービーでした。可哀想なことをしてしまい、悲しい思い出であります。「桜」は、いうまでもありません。次男が、目黒川の近くに住み始めて、ここを知ってからは、どの名所よりも贔屓の観桜スポットになってしまいました。

「卤面」

 そして、日本人の好きな音楽家は、「モーツアルト」でした。これも私の好みですから、極々私が日本人であることになるのでしょう。好きなデザートが、アイスクリームで、八ヶ岳の「清泉寮」のソフトアイスクリームを贔屓にしたのも、一般的日本人の嗜好であったわけです。この日本人という垣を超えていない自分であることを認め、よく7年も生まれた国を離れて生活をしてきたものだと、感心してしまうほどです。家内と、ちょくちょく行く店は、「卤面lumian」の専門店で、これが好物になってしまいました。「卤」というのは、片栗粉のことで、ドロドロしたつゆの麺類なのです。肉と小さな牡蠣と何種類かの野菜、キノコ、そして、もう2元出すとエビが二匹つくものなのです。先日、メニューが新しくなって、最低価格が8元になっていました。こちらに来た当初は、3元か4元だったのですから、物価の高騰は庶民の味にも及んでいるのです。店によって味が、相当違うので、行きつけは、私たちのアパートの中の大通りに面したところにある店です。

 師大で日本語を教えておられた先生が、『日本のラーメンに似た味ですよ!』と紹介していただいて食べ始めてから、病みつきになってしまったわけです。この方は、今は帰国されてしまわれたのですが、何度も一緒に食事をして交わりを持った方でした。同じ大学の少し後輩の方でした。そして、好きな漢字は「心」、好きなことばは「ありがとう」という調査結果でした。犬を連れ、桜を愛でて、寿司を食べて、『ありがとう!』と感謝して、「心」を満たすなら、日本人を生きていることになりますね。

(写真上は、江戸前の「寿司」、下は、「卤面」です)

臘梅

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臘梅3

 芥川龍之介が、大正14年5月に、「臘梅(ろうばい)」という一文を発表しています。

 わが裏庭の垣のほとりに一株の臘梅(らふばい)あり。ことしも亦(また)筑波(つくば)おろしの寒きに琥珀(こはく)に似たる数朶(すうだ)の花をつづりぬ。こは本所(ほんじよ)なるわが家(や)にありしを田端(たばた)に移し植ゑつるなり。嘉永(かえい)それの年に鐫(ゑ)られたる本所絵図(ほんじよゑず)をひらきたまはば、土屋佐渡守(つちやさどのかみ)の屋敷の前に小さく「芥川(あくたがは)」と記せるのを見たまふらむ。この「芥川」ぞわが家(や)なりける。わが家(や)も徳川家(とくがはけ)瓦解(ぐわかい)の後(のち)は多からぬ扶持(ふち)さへ失ひければ、朝あさのけむりの立つべくもあらず、父ぎみ、叔父(をぢ)ぎみ道に立ちて家財のたぐひすら売りたまひけるとぞ。おほぢの脇差(わきざ)しもあとをとどめず。今はただひと株の臘梅のみぞ十六世(せ)の孫には伝はりたりける。
  臘梅(らふばい)や雪うち透(す)かす枝の丈(たけ)

 この文章は、「青空文庫
(http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3819_27355.html)」からの転載です。龍之介の家系は、徳川に仕えた家臣の末裔だということに、この文章で触れています。新しい時代を迎えた明治を、戸惑いながら生きていた家系の子だったのでしょう。残念なことに、35歳の若さで自死しています。『僕の将来に対する唯ぼんやりした不安』ということばを彼が残しています。「生きること」は、先がわかっていないので、面白いのではないでしょうか。わかってしまったら、実につまらなくなってしまうに違いありません。

 多くの友人たちがいたのに、どうして助けられなかったのでしょうか。友人や家族の助けが、私たちを支えてくれるのにです。天涯孤独でも、しっかり生き抜いた人は五万といます。大切なのは、「ぼんやりとした不安」が、巨人化しないことですね。「ぼんやり」といえば、春霞がかかったような光景を、何度か日本で経験したことがありますが、こちらでは、経験できないようです。学生さんの作文に、「臘梅」の花のことが書かれていたので、ネットを検索しましたら、芥川の作品に出会いました。雪の中を健気に咲く花は、素晴らしいですね。逆境に咲く花なのでしょうか。旧暦の十二月に咲く冬の花なのですが、「桜」の好きな日本人の私も、この中国原産の「臘梅」の花に、魅力を感じてしまいます。

(写真は、「臘梅」です)

ライバル

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Tシャツ「燃えろ!アタック」

 2002年に、中国のある動物園で、鹿の赤ちゃんが生まれました。この小鹿に名前を公募しましたら、何と、「小鹿純子」と、日本名が名付けられたのです。この名前は、日本のテレビ番組、《燃えろ!アタック》の主人公のバレーボール・プレーヤーの「小鹿ジュン」からとられたものでした。この番組は、1979年から1980年にかけて、日本のテレビ(朝日テレビ系列)で放映され、若者たちに人気番組でした。この番組は、1982年に、「排球女将」という題名で、中国の放映されたのです。それは、国民的ドラマとなって、大反響を呼びます。30年ほど前の番組ですが、そのころ十代、二十代であった中国の40代、50代の女性の記憶に残るものなのだそうです。

 その頃の中国は、スポーツ振興のキャンペーンがなされていて、それと密接に関係して、大人気を呼んだという、社会的な背景があったようです。当時の日本女子バレーは、破竹の勢いで、世界の王者でした。1981年、大阪で「ワールドカップ」の大会が行われました。その時、王者を破ったのが、中国チームだったのです。中国にとって、この優勝は歴史的な大きな出来事となったのです。鄧小平元主席の日本訪問で、『外国に追いつけ、追い越せ!』との経済発展が叫ばれていた時期に、中国は、まずスポーツの世界で世界一を手にしたことになります。経済でも、スポーツでも、当時の中国の《ライバル》は日本だったのです。

「おしん」DVD

 徹底的に相手の日本を研究して、ついに追い越す時代を、今、中国は迎えたわけです。このことがあってから数年した1985年3月から、週二回のペースで、ある日本のテレビドラマが放映されます。それが「おしん」でした。中国名では《阿信》という題で、吹き替えで放映されたのです。当時の平気視聴率(北京市)は、75.9%、最も高かった時には、89.9%の信じられないほどの驚異的な支持をえたのです。

 このブームを、『日本がどうしてあの無残な廃墟から今日の経済大国になったのか。中国の経済学者、日本問題研究科はいろいろ研究しておりました。しかし、「おしん」の、まさにその生きいきとした人物のイメージを通して、日本がどうして経済大国になったのか、ということがわかりました。』と、社会学者の李徳純氏が語っています(劉文兵著「中国10億人の日本映画熱愛史」188頁)。少女時代の可憐さはもちろんのこと、、貧しさの中からの「立身出世」の成功物語、つまり『今は苦しいが、頑張ろう!』との《おしん精神》が共鳴を呼んだのでした。

 日本には、同じ時代に何千もの「おしん」がいたのでしょうか。その中国版の「おしん」の自営業者のみなさんが、今日に中国の繁栄を築いてきたことになります。このブームは、中国のみならず、特に東南アジア諸国でも、同じような現象を起こしたと言われています。ちなみに、2006年には、中国の衛星放送で、「おしん」の再放映がなされています。遥か昔、中国に学んだ日本が、今や中国のモデルになり、今度は日本が、謙虚になって中国に学ぶ時が再びきてるのではないでしょうか。そんなことを思っている、四月の中旬の週末であります。

(写真上は、DVD「おしん」のカバー、下は、「燃えろ!アタック」の一場面です)

入学式

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「山桜」飯田市

    さくら さくら   やよいの空は   
    見わたす限り   かすみか雲か
    匂いぞ出ずる   いざや いざや  見にゆかん

 いつも乗るバス停の後ろ側、アパートと大道の間にこんもりした林のような、植樹されてある所があります。その木々に芽が出てきたと思いましたら、日に日にうす緑の葉が大きくなっていくのが、はっきりと分かります。アパートの脇に植えられた草も木も、一斉に花をつけています。やはり、中国の春は、「春節」のおりには「心」に、自然界の春は、北風が弱まって、陽の光が強くなってくる、3月から4月にやってくるのでしょう。

 こちらの有力なニュース社の「新華社」の記者が、「桜」について、こんなことを書いています。

 『どうして日本人は桜が好きなのか。桜の花は常に、葉が出る前に咲く。 「何もない時に花が咲く」ことで、古くから生命力の象徴として見られてきた。桜が日本人の精神の象徴である理由は、桜が突然開花し、そして突然いさぎよく散り去るところが、日本人の精神性と共鳴しているからである。桜が咲く姿は、力のすべてを出し切っているように見え、生命力の強さを感じさせる。そして満開から散り去る過程も、人生や享楽や美といったものが、あっけないものであると思わせる。潔く散るさまこそ、桜の最も美しい瞬間だと考えられてる。・・・桜の花びらは、平凡に見える。しかし これらが集まると、壮観な情景を形成する。これもまた、日本の集団意識と符号する。日本人は集団において個性が埋没する。しかし非常に強いチームワークを発揮し、大きな力を作り出す。現在、桜の花は日本人の精神の象徴とされることが多いが、法律による国花の規定はない。とはいえ、皇室の象徴である菊の花と共に、国花同様に位置付けられている。最近では、桜の花が散るのを惜しむだけでないよう・・・』

とです。改めて、「桜」を考えますと、小学校の時にかぶった帽子の徽章にも、制服のボタンにも「桜」が刻み込まれていました。江戸の国学者・本居宣長は、

    敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花

と詠んでいます。まだ「ソメイヨシノ」が、まだなかった時ですから、黒ずんだ山肌に、陽を受け自生の「山桜」を見つけて、春の到来を知ったのでしょうか。故郷の懐かしい食べ物よりも何よりも、やはり「桜」の様子が一番郷愁を誘うようです。今日あたり、日本の桜前線は、どこまでの北上して行ってるのでしょうか。今週、長男の長男(孫)が小学校に入学しました。彼の学校教育の開始に、「桜」が寄り添うようにしていますから、まあ日本人は、どの花にも増して、強烈な印象を持って一生を過ごすことになるのでしょうか。これからの長い学校教育の上に、心からの祝福を祈ります。 (4月10日前後で仙台から盛岡当たりでほころび始めているようです)

(写真は、ブログ”桜ん坊”から飯田市の「山桜」です)

饅頭

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「饅頭」

 夕方になると、『マント、マント!』と、呼びかけながら、「饅頭(まんとう)」を、リヤカーを曳きながら売る声が聞こえてきます。小麦粉で作った拳ほどのものを蒸かしたもので、甘みを加えたものもありますが、実に素朴な食べ物です。朝など、これをかじりながら道行く人を、よく見かけるのです。『こんな、栄養のないもので大丈夫なのかな!?』と、つい思ってしまうのですが、朝食としては伝統的な食べ物なのかも知れません。きっと、起き抜けで家を出てきて、道すがら、この饅頭を一個買って、頬張るのでしょうか。

 実は、この饅頭が、家内も私も大好きなのです。二つに切って、トーストして、バターやピーナッツバターを塗ったり、チーズを挟んで食べたりするのです。これに、キューリとトマトと紅茶、これが、いつも変わらぬ朝食なのです。『同じものを食べ続けて、飽きないの?』と言われそうですが、飽きないで何年も何年も続けているのです。たまに、「フランスパン」を手に入れたときは、これに換えるのですが、「定番」はマントウです。

 冬場は、蒸篭(せいろ)から湯気を出して道端の店で売っていて、冬の風物詩なのです。私が育った街では、道端で物を売っていることは、全くなかったのですが、こちらは、一日中、道端に自転車やリヤカーをとめたり、道端にしゃがんで売っている人たちが多くいます。様々な食物、例えば菜っ葉やじゃがいもや漬物、日用品や薬などもあります。店がなかった時代に、こういった形で物が売られていて、その名残が今日まで続いているのでしょうか。

 テレビで、「輪島の朝市」を見たことがありますが、あんな光景です。あれほど整然と並んではいないのですが、道のあちこちに、自営の店が開かれています。ドラム缶を半分に切って、鉄板を載せた上に油を引き、卵や葱を入れた薄焼きなどが、売られています。これからの日は、「衛生問題」で、きっと禁止されるのではないかなと思っております。シンガポールの昔を知りませんが、きっと、以前は、ここと同じだったのだと思うのです。今では、「フード・コート」が街中のあちこちにできて、政府の管理のもとで、衛生的に商いがなされています。そんなシンガポールのようなことに、こちらも近いうちになるのかも知れません。今夕も、売り声が聞こえてくることでしょうか。

(写真は、「饅頭」の一種類です)

個性的

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「コスモス」高遠

 『この字は、あなたが書いた字だ!』と、アメリカ人の知人に言われたことがありました。漢字を学んだことがなく、書いたこともないのに、そう断じたのです。嬉しいのか、歯がゆいのか不思議な思いで、彼の言葉を聞いたことがありました。ということは、私の字には特徴があるということなのかも知れません。歌舞伎に使うような、落語家が演題や演者を紙に書くような「文字」に似ているのだそうです。故意に真似ようとして書き始めたのではないのですが、そんな風になってしまいました。

 中学一年の「国語」を教えてくれたのが、2年の担任で国語教師だったS先生でした。隣町で住職をしながら、教壇に立っておられました。歯切れのよい言葉の人で、眼光がキラっと光った、実に頭のよさそうな先生でした。「国語」ですから、字を書かなければなりません。私の提出物を見た、この先生が、『こんな字を書いていたら、絶対に出世しないぞ!』と言ったのです。坊さんだから占いをしたのでも、宗教家だから「預言」をしたというわけではないのですが、『字を改めないと、こんな字を書いていては、世の中では通用しないぞ!』と言ってくれたのでしょう。結局、その注意を聞かずに、今日を迎えております。

 習字も、からっきし駄目なのです。同じ中学の「書道」の先生も坊さんだったと思いますが、厳しい先生でした。一生懸命に書き、清書したものを床に落として、スリッパで踏んでしまったのです。破り捨てたらよかったのに、労作だったので、「スリッパ痕」のついものを提出してしまったのです。この先生は怒って、最低の点をつけたのです。それ以来、「習字」は苦手になり、筆が走らなくなってしまい、そのひねくれた思いが、字に現れていったのかも知れません。「仰げば尊し」の歌詞の中に、『身を立て、名を上げ、やよ励めよ』とありますが、そういったこともなく、出世とは程遠いところを生きてきました。

 人なみに、野心がなかったわけではありません。「成功」や「富」を夢見たり、「有名」にもなりたい気持ちもありました。でも読んだ本や出会った人の影響や感化からでしょうか、「母校」のためにも、「廣田家」のためにも、いわんや「日本」のためにも、役に立つ人とはならなかったのです。でも、もう一度やり直せても、きっと同じ道を歩むのだろうと思うのです。九割九分九厘の人が、そういった「凡人」だからです。故郷に記念館を建ててもらったり、故郷の駅に胸像を設置してもらっても、遺族や縁故のある人には意味があるのでしょうけど、100年も経ったら、『この人だれ?』ということになるのでしょうか。

 JRの恵比寿駅から、駒沢通りを歩いてきて、横道に入ったところの、ビルの玄関脇に、ご夫婦と思われる「胸像」が並んであります。『この方は、どなたですか?』と聞いてみようと思うのですが、聞いても詮なきことで、そうしませんが、多くの通行人が、そんな思いで見て通って行くのでしょうか。作って置かれた方には、思い入れが強烈なのでしょうけど、人の功績など、そんなものなのかも知れません。こちらの大きな川の畔にも、この「胸像」があります。この街の功労者であることは確かですが、なんとなく寂しそうでなりません。たとえ記念館や胸像はなくとも、ただ、悔いなく個性的に生きたい、そう願うこの頃であります。そういえば、先日、道端に「コスモス」が、もう一、二輪咲いていました。

(写真は、長野県高遠町に咲く「秋桜(コスモス)」です)

四‐四

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__アポロ14号月着陸船アンタレス1971年2月5日

 日本人が好きな「数字」を、NHKがアンケートで調べた所、「7」がトップでした。欧米の《ラッキーセヴン》から来ているようです。かつては、「末広がり」の「8」が好まれていたのですが、欧米文化の影響でしょうか。ここ中国では、「8」です。「發財(商売繁盛の意味)の「發(発)」の発音《fa》が、「8」に似ているからです。もう一つは、「9」で、「永久(永久に続くの意味)」の「久」の発音《jiu》が、「9」に似ているのです。しかし日本では反対なのです。「9」の発音《く》が、『苦しむ!』ことを連想するので、これを嫌うのです。中国のみなさんが嫌いな数字は、日本と同じで、「4」です。「死」の発音《si、スー》が、「4」に似ているからで、日本語の「四」の発音《し》が、「死」を連想されるので嫌ってきたようです。

 だったら、「4」を、《よん》と発音したら問題はなくなるのではないでしょうか。中国も日本も、こだわり方が似ていて「悲観的」、それに比べて、ヨーロッパ人は、「楽観的」なようです。それでも、キリスト教圏でも、「13」を嫌う人も稀にいるようです。キリストの受難が、「13日の金曜日」だからだと言われています。人間の一生が、「数字」や「日にち」や「方角」に支配されることなどありません。地球は丸いので、日本の「4日」は、アメリカ大陸では、まだ「3日」ですし、「9日」は「8日」なのです。

 1971年4月4日に、私は家内と「結婚式」を挙げました。「四」が2つ並んだ日だったのです。「縁起」を気にする人が嫌っている日を、ひねくれ者のようにして選んだのではありません。日曜日でもあり、桜の花も咲く頃でしたし、しかも春休み中でしたので、そうしたのです。今日は、その42回目の記念日なのです。昨晩、友人たちと話をしていたら、私たちの結婚の日が話題になり、『実は、明日私達の結婚記念日なのです!』と言ってしまったのです。そうしましたら、『明日の夕方、近くのホテルで結婚記念パーティーをしましょう!』と、その家の夫人が言ってくれ、今夕、家の近くにある大きなホテルでしてくださることになったのです。

 実は、今夕、二人で、「日本料理店」に行って、「にぎり寿司」を食べる約束をしていたのですが、急遽、変更することになりました。『42年も忍耐してくれてありがとう!』と、今朝、家内に言いましたら、『私の方こそ忍耐してくださって・・・』と返事がありました。もう、朝の9時の今から、「夕方」のことを思って、そわそわしている私であります。

(写真は、1971年2月5日、アポロ14号月着陸船アンタレスが撮影した「月面」です)