身だしなみ

.
「御茶ノ水」歌川広重

 こちらで生活しながら、体の異変を感じることがあります。日本では、そのような兆候を感じることはなかったのですが、最近、頓(とみ)にそう感じるのです。大陸気候のせいでしょうか、それとも体の中に原因があるのでしょうか。それは、鼻の中の毛の伸びが早いことなのです。日本では降雨量も多く、緑が溢れているので、空気がしっとりとしています。ところが、私たちの住んでいる街は、乾燥しているのです。ある友人は、地熱が高いことが関係しているといっておられました。長い間、自然環境の整備が行われ、植樹による緑化運動に励んでおられます。それに植物が育つための陽の光も、年間を通じて多いのです。それで国内有数の「緑の多い街」となっているそうですが、それでも街の空気は乾燥しているのを感じています。

 四川省の成都に行った時には、『一年でこんなに晴れた日が続くのは、本当に珍しいです!』と、私たちの訪問時に、地元の方が言っておられました。一年中、どんよりしているのだそうです。また南京を訪ねた時も、町の中の空気が淀んでいて、視界も非常に悪かったのです。それに比べて、私たちが住んでいる街は、晴れの日が多く、青空を仰ぐことができます。ほどほどの雨も降ります。それでも、地熱が高い関係上、雨が降っても、すぐに乾いてしまい、すぐに自動車が砂ぼこりを上げてしまうのです。

 もうひとつ考えられるのは、「白頭掻けばさらに短し」で、自分の頭の髪の毛が薄くなったせいで、鼻の中に栄養が回っているのではないかとも思うのです。わが家に時々顔を見せていた方が、京都の大学に留学し、卒業と同時に、大手の日本企業に就職されました。今、上野のマンショに部屋を借りて、通勤されています。1月に帰国した時に、御茶ノ水で会いましたら、『いつもご馳走になっていますので、今日は僕がおごりますから!』と言って、お昼をご馳走になりました。帰国時に、都内でよく人と合うときに、コーヒーを飲んだり、食事をしているレストランででした。

 彼から、東京での生活、会社での仕事の話などを聞きつつ、ちょっと気になったことがありました。食事をすませて、明治大学の近くで行われていた「講演会」に一緒に出かけ、その後に、町の中を歩いていた時に、薬局に入ったのです。そこで、気になることを解決するために、1つの電気製品を買って、彼にプレゼントしたのです。それは、「電気カッター」でした。大企業に勤めるサラリーマンの「身だしなみ」の一つで、ぜひ彼に、これを使って欲しかったからです。『アッ、そうですね。ここで生活する上では、こんなことも気を使わないといけませんよね!』と言って、喜んで、それを受け取ってくれたのです。
 
 きっと、あれ以降、出勤前に、鏡に向かって、それを使っていてくれるだろうと思っております。私も、時々使うのですが、その頻度が高くなってきているのに気づくのです。これって、「男の身だしなみ」の一つですから。こちらでは妙齢の女性のを見てしまうと、「カッター」をプレゼントしたい衝動にかられてならないのです。自然だからいいのだと思っておられるのに、ちょっとお節介なことでした。

(浮世絵は、歌川広重の描いた「御茶ノ水」です)

電動車

.
「电动车」2

 5階のベランダから、下のバス通りを眺めますと、後ろに子どもをのせた「電動車㊥电动车diandongche」が、いっせいに左のほうに向かって走り抜けていきます。この乗り物は、「電動自転車」のことで、日本のものはスピード制限がなされていますが、こちらのは違うのです。最近では小型化されてきましたが、以前の主力は、125ccほどのモーターバイクのような重量感があります。強力なバッテリーを搭載して走りますので、ずいぶんと高速なのです。しかも、音無しで走るので、今でこそ慣れましたが、こちらに来た当初は、道路を歩いていて、すぐ脇を風を切って走るので、驚かされてばかりでした。 

 朝、7時半ごろからの週日の光景です。小学生、中学生を、お父さんやお母さんが乗せて学校に送るのです。昼前になると迎えに行き、1時半頃にまた学校に向かって送っていきます。夕方、5時頃になると送っていった子どもたちを、今度は迎えに行くのです。日本では、あまりみられない光景です。下校時の学校の近くを通りますと、黒山のような人だかりが、校門の前にできています。そこがバス通りだと、もう動きの取れないな渋滞を引き起こしています。両親やおじいちゃんおばあちゃんが、自転車や電動車、歩きで出迎えているのです。

 時々、上級生や保護者が、先頭になって集団下校したりしていますが、それは珍しいことです。やはり、交通が頻繁などの理由で、こういった送迎が必要なのでしょうか。これも稀ですが、一人で寄り道をしながら帰って来る子を見かけます。ちょうどわれわれの時代の下校風景なのです。田んぼに水を引く農業用の小川があって、フナや蛙やザリガニを捕まえながら、まあのんびり帰ったのですが、あんな風景です。でも、ここは住宅地で、畑や田圃はないのですから、あのような遊びはないようです。地方の農村に行けば、また違っているのでしょうけど。

 日本では、大体3時頃に下校になるのですが、こちらでは、退社時間と下校時間が重なるようで、大変な人やクルマや電動車が行き交っています。先日、繁華街にあるパン屋さんで、昼食をとってしていましたら、高校生が一人、高価なパンとコーヒーを買って、本を読みながら、昼食をしていました。『少なくとも30元ほどになる!』と計算したのですが、たまの贅沢の私と遜色ない食事をしていたのです。今は、こちらで麺類を食べても7元(来たばかりの頃は3元ほどでした)ですから、少々驚きました。『両親の子供時代は、ほとんど肉など食べたことがなかったと聞いています!』と、学生さんが話してくれましたから、豊かになってきているのを感じています。

「きなこパン」

 そう言えば、「一人っ子」ですから、都市部にいれば、両親のそれぞれおじいちゃんやおばあちゃんから、小遣いももらうのでしょうね。「コッペパン」にジャムやマーガリンをつけ、たまに、コロッケを挟んで食べられた私たちの時代にくらべて、好い時代になったということでしょうか。日本では、給食がありますね。私の小学校は、私たちが卒業した翌年から、「給食」が始まって、無給食の時代でした。でもその母校で、中学の時に、一度、その給食をごちそうになったことがありました。母校の校庭に、古代の住居跡があって、その発掘をしていた時に、出してくれたのです。

 わが家の子どもたちが、『わー、今日は《きなこパン》だ!』と、大喜びをしていたのを思い出します。一度、子どもに分けてもらって食べたことがあり、美味しかったのです。来週、孫が第三小学校に上がります。期待と不安で、入学式を迎えることでしょうか。

(写真上は、旧式の「電動車」、下は、「きなこパン」です)

「仕事」

.
「そば畑」長野県信濃町

 長野県下の中央自動車道に、「伊北」というインターチェンジがあります。その近くに、家内と私の行きつけの「蕎麦屋」がありました。飯田の近辺で、英語教師をしていた娘婿たちが住んでいましたので、ちょくちょく訪ねていたのです。その飯田からの帰り道を、高速を走らないで、国道を走っていましたら、一軒の「蕎麦屋」を見つけたのです。食事時だったこともあって、入ってみました。「ざるそば」を頼んでから、メニューをみますと、「そばがき」が品書きにありました。それで、注文してみたのです。きっと素朴なものが出てくると思っていたのですが、出てきた「そばがき」は、もちろん、そば粉を練ったものなのですが、まるでプリンのようでした。胡桃で造られたソースが掛けてあって、350円ほどだったと思います。口の中で溶けるようでしたし、「そば」の香りと胡桃とがほどよく調和して、美味しくいただきました。

 その味に魅せられた私たちは、帰り道を同じようにとって、四、五回でしょうか、そのお店の暖簾をくぐったのです。何度か目に行ったときに、ご主人がいなくて、息子さんが「そばがき」を作って出してくれました。ところが、お父さんのような味が出ていなかったのです。なんとなくザラッとした感じで、その違いが一目瞭然でした。最初に行った時に、『そばがきを自分で作ってみたいので、そば粉を分けていただけますか?』と聞きましたら、直ぐに返事が出なかったのです。『素人の方では、ちょっと・・・』と言葉を濁されたので、諦めて帰ったのです。その意味が、息子さんが作って出してくれたのを食べた時に、分かったのです。単なるそば粉をお湯で溶いたものを、と思っていたのですが、やはり、「職人芸」というのでしょうか、年季が入らないと、あのようなものは作れないのでしょう。あの味を知ったら、「そばがき」は、これしかないことになって、それ以来、よその蕎麦屋に入っても、「そばがき」の注文はしたことがありません。

 このお店で、最初に「そばがき」を食べた時に、調理場から暖簾を押しながら、私たちの「ざるそば」の進み具合を伺っていました。それは、食べ終わって出す頃合いを見計らっていたのです。そんなに細かい心配りがあって、あの「そばがき」を美味しく頂いたわけです。いつ出しても構わないのではなく、そこまで気配りをするというのは、本物の「蕎麦職人」なのだと分かって、とても嬉しかったのを覚えています。『たかが蕎麦、されど蕎麦!』と言うのでしょうか、ご自分の天職に情熱を傾ける心意気というのが、私たちより一回り半ほど年かさの名のない職人さんの内側に宿っているのを感じました。

 こういった世代の技能者が、あらゆる職域にいて、プロ意識を持って、頑固に、愚直に生きてきていたのです。その世代が消えてしまい、次の世代が台頭してきます。この世代は、ほんの短い期間の修行で、独立して一城の主(あるじ)に収まる傾向があるのでしょうか。やはり、前の世代の職人芸には、程遠いのです。かつての「職人」たちは、さしたる高等教育は受けていなくても、仕えた主人の技術を盗んで覚え、会得してきた職人だと聞かされています。這うように修行した人がほとんどだったのです。その仕事をやめたら、次の仕事が待っているような今日日とは違っていましたから、「石の上にも三年」の努力をし、下働きをしながら「仕事」を覚えたのです。ですから仕事への愛着と意識を強固に持っていた世代でした。そういったおじさんたちが、アルバイト先に、何人もいたのを覚えています。みんな「頑固オヤジ」でした。それだからでしょうか、学ぶことが多かったのです。四月朔日、今日から「新年度」でしょうか。新たに社会人になる方の「仕事」が祝されますように!

(写真は、ぶろぐ〈FOTOFARM信州〉の信濃町の「蕎麦畑」です。

夕食

.
DSC02827

 昨晩の「夕食」が綺麗だったので、写真を撮ってアップしました。「日本食」の感じ100%です。味噌汁と梅干し、キャベツの塩もみと菜の花のおひたしと果物が添えられています。健康や食生活に注意しながら過ごしています。ご安心ください。

「夜桜」

.
「目黒川の桜」

 今朝一番で、次男が送信してくれた「目黒川の桜」をアップします。早朝でしょうか、昨晩でしょうか、華の東京の名所の「夜桜」です。上野も綺麗ですが、春の宵を、そぞろ歩きながらの「観桜」は、この川ぞいの堤の桜が最高です。写真で、「桜」を楽しませてくれる気持ちに感謝して! 

「おやつ」

おしるこ.

 「おやつ」は、「御八つ」と書きます。gooの辞書によりますと、『《八つ時(どき)に食べたところから》午後3時前後に食べる間食。また、一般に間食のこと。 』とあります。上流の家庭のお母さんですと、『お三時ですよ!』と呼びかけてくれるのですが、母には、『なにか食べるものある?』と、その時間帯になると、聞いていたでしょうか。育ち盛りの子どもたちには、この時間、つまり、まだ夕食まで、しばらく時間があったり、学校から帰ってくる頃には、お腹が、『グーゥ!』とサインを出している時間帯です。お釜でご飯を炊いていた頃、釜の底に焦げ付いていたご飯を水にひたして、取り出し、平べったい、木製のお鉢にとって、母が外に干していました。それでいろいろな物をこしらえてくれたことがあったのです。これが「ほしいい」だったと思います。昔の人は、物を大事にしたのですね。

 山奥から、都会に出てきたばかりの頃、住んでいた家の近くに小さな小屋があって、そこで小父さんが、今では、『昔懐かしい・・・!』と書いた袋の中に入れて、スーパーで売っているか、もうほとんどなくなってしまっている駄菓子屋にあるような「飴」を、板の台の上で、ひっぱたいたり、手でゴシゴシと伸ばしたりしながら、作っていました。『端っこをくれないかな!』と期待して、その作業を眺めていましたが、もらった試しがなく、行くのをやめてしまいました。キュウリやトマト、いちじくやいちご、庭グミなどが目に入ると、「収穫」の助けをしていました。いえ、盗み食いでした。あの頃の私は、いつでも空腹を感じていましたが、今の子どもたちには、「空腹感」とか「飢餓感」というのを知らないほど、物にあふれた時代に育っているのでしょうか。

 あの頃、一番美味しかったのは、小遣いで時々買うことができた、「落花生」を真っ白な粉砂糖でかぶせたお菓子でした。買えるときは、小銭をポケットに入れて、跳んで行き、小さな紙袋に入れてくれたのを、こっそりと食べていたのです。実に美味しかった!よく行く、こちらのスーパーの壁に、いろとりどり、驚くほどの種類のお菓子が並んでる中に、それがあるのです。懐かしくて、月に一度くらいは買ってしまいます。こんなコーナーの光景は、こちらに来たばかりの頃は、本当に珍しいことでしたが、今では、どこに行っても、食べ物があふれていて、子どもたちが、『モグモグ!』と口を忙しく動かしています。

 さて、わが家でも、今日の週末の午後に、「おやつ」が出てきました。「小豆(あずき)」を砂糖と少々の塩で煮たものに、冷蔵庫に中に残っていた、どなたかに頂いた「お餅」を焼いたのを入れて、家内が作ってくれた、「おしるこ」でした。何の期待もなかったので、驚いたぶん、なお美味しかったのです。一瞬、日本にいるような感覚に陥ったようでした。「舌鼓を打つ」とは、こういったことなのでしょうか。辞書には、『あまりのおいしさに舌を鳴らす。舌鼓を鳴らす。「山海の珍味に―」』とあります。たまには、こういった「甘味」も、心にはいいかも知れませんね。美味しい物には、「お」が付くのですね。そんな美味しい三月三十日であります。

(写真は、「おしるこ」です)

味方

.
春の海

 子どもたちが小さかった頃の話です。「夫婦喧嘩」に、子どもたちが巻き込まれて心を痛めていたことがあったようです。家内は、おっとりでのんびり、いえ慎重に生きる人です。それに反して、私は、せっかちで、気短で、衝動的で短絡的なのです。男ばかりの間で育ったからと言うよりは、「わがまま」に育ったから、そうだったのでしょう。夫婦でも、家族でも、親しい友人の間でも、隠れた思いを隠れ持っていて、苦い思いが心を満たして、何時か〈大噴火〉するよりは、ときどき〈小噴火〉をしたほうがいいと、単純で、気の短い私は、そう思いながら生きてきました。

 あるとき、上の娘が、お風呂に一緒に入りながら、家内にこんなことを言ったそうです。

 『おかあさんをいじめるから、おとうさんきらい?』
 『きらいじゃあないよ。おかあさんは、「あば(?!)」にあいされているから、おかあさんもおとうさんをあいしてるよ!』

 寝る前になって娘が、

 『おとうさん、おかあさんはおとうさんをあいしてるんだよ。おかあさんはおとうさんのみかたなんだよ。おとうさんもおかあさんのみかただね!!』

 そう念を、娘は私に押したのです。子どもたちは、両親が、どう互いを見ながら、評価しながら、一緒に生きているのかを、大きな目を開きながら見て、心全部を向けていたようです。願ったようにしてもらえなくて文句を言い、非難する短気な父親を見ながら、家内の味方をして、両親の間をとり持とうと、悩みながら、考えながら、最大限に知恵をふり絞りながら、執り成そうと努力していたのです。攻撃型の父親と、防御型の母親の衝突は、一方向の争いでした。取っ組み合いの喧嘩をしたことなどありませんでした。もし彼女がヒステリーだったら、「金切り声」を上げて、鳥小屋のような家庭だったことでしょう。

 勝っているのに、私には勝利感がないのです。しかし負けているのに、家内の方は勝利感に溢れているわけです。彼女のほうが大人で、『駄々っ子と一緒に生活をしてきた!』という感じだったのでしょうか。いつでも、子どもたちは母親の味方でした。子どもたちが、みんな出て行ってしまってからは、結局、夫婦の私たちは、「振り出し」にもどってしまったわけです。これまでを総括すると、「オリーブの冠」や「軍配」は、家内、四人の子どもたちの母親に上がるようです。

 後、どれだけ一緒にいられるのでしょうか。もう一つの「振り出し」、どちらかが独りになる時が来るのでしょうね。短い一生で、出会って結婚の契を交わしたのですから、もっと変えられながら、異国の空の下を一緒に生きていくことになります。そんなことを思っている弥生三月も、今日明日で終わろうとしております。こんな両親を、四人は、それぞれ、どう思っていることでしょうか。

(写真は、和(な)いだ「海」です)

「三村マサカズ」

.
「やまぶき」

 『日本語ってむずかしいです!』と、こちらで日本語を専攻する学生のみなさんが言います。確かにそうだと思います。「助詞」、「敬語」、「時制」、同じ表記の漢字の意味の違い(「手紙」は、中国語は〈トイレットペーパー〉。「勉強」は、〈嫌々ながら、無理をして〉)、などをあげています。

 今朝、家内と話をしていて、一つの単語が話題になりました。「強力粉」でした。小麦粉に、パンなどを作るときに使う小麦粉を「きょうりきこ」、山小屋の生活用品や登山者や、その荷を担ぎ上る人のことを「ごうりき」と読みます。この他に、「つよ(い)」とも読むわけですから三種類の読み方があるのです。また「力」は、「りょく」と「りき」と「ちから」と三種類あるわけです。「粉」も、「こな」と「こ」と「ふん」とよみます。こんなやややこしい発音で話される言葉を、「強」と「力」と「粉」の三文字で表すわけです。このように発音をする国語・言語は、世界でも珍しいのではないでしょうか。

 日本には、古来、この国の中で話されていた、「やまとことば」があったわけです。「さわやか」とか「あでやか」とか「はぐくむ」といった言葉です。ところが、私たちの国には、文字がなかったわけです。それで、おとなりの中国の文字を借用したわけです。「漢字」が、それでした。それを「音読み」と「訓読み」で発音して文字で描き表してきています。一番ややこしいのは、「姓名」です。同じ文字でも発音が違うからです。これは中国語では殆どありません。「三村マサカズ」という人気お笑いタレントがいますが、この「三村」という「姓」は、「みむら」と読む場合も、「みつむら」と読む場合もあります。どちらなのかは、本人に聞かなければなりません。外国人の学習者にとっては、これもは最上級の難しさなのだそうです。

 その上に、日本語には、「漢字」から創りだした「仮名」があります。しかも「ひらがな」と「カタカナ」があるのです。これら三つの文字で、日本語を書き表し、西洋数字やアルファベットや記号だって加えて使うわけです。また、たとえば「つ」には、小文字の「っ」があるように、小文字表記だってあります。そんなにややこしいので、明治の御代には、時の文部大臣の森有礼が、英語表記や、国語を英語にしようという考えを持っていたと聞いております。もしそうなっていたら、今頃、日本語は消えてしまって、ブラジルやハワイなどの移民先の外国に残っているだけだったかも知れませんね。

 いつでしたか、ソウルに行った時に、『日本語は詩のように美しい言葉ですね!』と褒めて頂きました。そしてこの方は、『韓國語が演説や講演に向いた言葉なのです!』と語っておられました。たしかに、そうです。小学校の国語の時間に教えてもらった「和歌」を、覚えています。太田道灌が雨の「鷹狩」の中で、雨宿りした家で、一輪の花を少女から受けとったという逸話があります。「蓑(みの、昔の雨避けの合羽)」を借りようとしたのに、花が出てきて、道灌は怒って去ったのだそうです。ところが、歌の心得のある部下が、『蓑がない貧しさを、「山吹(実のない花)」にかけて、その一輪を少女が渡したのです。それは、兼明親王が詠まれた和歌にゆらいするのです!』といったそうです。その和歌とは、

      七重八重 花は咲けども 山吹の 
      実のひとつだに なきぞかなしき

でした。山奥の農家の少女は、それほどの学才があったことになります。これを教えられた時に、『日本語ってすごく面白い言葉だ!』と思ったことでした。それなのに、国語の先生にも学者にもならなかったのは、実に残念なことであります。和歌の真意の解することのなかった無骨の道灌は、それ以来学問にも励むようになったそうです。

(写真は、「山吹(やまぶき)」です)

「かあさんの歌」

 1956年に 窪田聡の作詞・作曲による「かあさんの歌」が発表されています。

     母さんは夜なべをして
     手ぶくろあんでくれた
     こがらし吹いちゃ
     つめたかろうて
     せっせとあんだだよ
     ふるさとのたよりはとどく
     いろりのにおいがした

     母さんは朝いとつむぐ
     一日つむぐ
     お父は土間でわらうち仕事
     おまえもがんばれよ
     ふるさとの冬はさみしい
     せめてラジオ聞かせたい

     母さんのあかぎれいたい
     生みそをすりこむ
     ね雪もとけりゃ
     もうすぐ春だで
     畑が待ってるよ
     小川のせせらぎが聞こえる
     なつかしさがしみとおる

 「凩(こがらし)」とか「囲炉裏(いろり)」とか「土間」が出てきますから、日本の地方の農村を舞台に、子育てをしてくれた、「日本の母」を歌っています。窪田聡は、東京の下町で生まれましたが、戦時中、長野県にあったの父親の実家に「疎開(そかい、gooによりますと、『空襲・火災などによる損害を少なくするため、都市などに集中している住民や建物を地方に分散すること』)」をしたこと、母が家出先に送ってくれた手紙や小包をもらった経験から作詞をしました。歌っていると、絵が見えるような歌で、私も、母や故郷を思い出してしまいます。

 私を育ててくれた家でも、お金が無いこともあったのでしょうか、運動会ではく「足袋(たび)」が買えなくて、母が明日の運動会のために、夜遅くまでかけて、手縫いでこしらえてくれたことがありました。結局、鈍足な私は、賞を取ることが、いつものようにできませんでしたが、『参加に意義あり!』の精神は果たすことができたのです。その母が召されて、ちょうど一年になります。時々思い出してしまいます。生きていたら、『お母さん。大陸の片隅で元気に生きていますよ!』と便りをしたいところです。詠み人のいない手紙は書けませんので、ただ懐かしく、母の手を思い出している、「彌生」の末の週日の朝であります。

(マンガは、「毎日新聞」2013年3月17日付の「毎日かあさん」です)

「江戸しぐさ」

.

 いっとき、「江戸しぐさ(仕種・礼儀作法のこと」ということをよく耳にしました。「礼儀正しい日本人」という高評価を得た私たちは、そのルーツを、江戸時代に求め、江戸の街中、特に江戸の街中で生活をする庶民が、周りの人々に「気配り」をした生き方を、そういったことばで表現したようです。そう言えば、母が、『人さまに迷惑にならないようにするんですよ!』と、よく言っていたと思います。あまり細々としたことを注意しなかった母ですが、さすがに日本の母親として、「処世術」を躾てくれたのだと思います。

 この「躾(しつけ)」という文字は、実に素晴らしく意味深いのに驚かされます。しかし、漢和辞典で調べてみますと、「漢字」にはなく、「国字(我が国で作れた文字)」で、どなたかが、『身を美しく飾りたい!』との願いを込めて作字したのでしょう。町中や農村といった狭い社会の中で生きていくためには、人と人の距離が近いので、相手を気遣わないといけなかったのでしょうか、『ここまで気配りをするのか?』と思うほど、日本人は注意深く生きてきているわけです。

 家族の中では、とくに甘やかされた私は、傍若無人の振る舞いがあったのですが、〈病弱〉に免じて許されていたのです。最悪のケースでした。それで小学校4年くらいの時に、多摩川の河原の土手の上で、父親に説教されました。そもときの光景も、父の表情も、いまだに忘れないのですから、肝に命じたのだと思います。それを契機に反省した私は、気配りが出来るようになったのかも知れません。それでも、結構やりたい放題だったのですが。そんな私を煙たがらなかった兄や弟には、頭が上がりません。

 駅の近くで、甲州街道から少し入ったところに、「銭湯」がありました。家に内風呂があるのに、広い浴槽と、よく滑るタイルがはられていましたので、格好の遊び場でした。手ぬぐいに銭湯代を手に、近所の仲間とよく行きました。下湯を使ったり、静かに浴槽につかったりしないので、しょっちゅう怒られて小言を言われていました。それでも当時のおじさんたちは、制限内で遊ばせてくれる〈おおらかさ〉があったのだと思います。使った桶や腰掛け(これが当時あったかどうか覚えていませんが)を片付けることも教わりましたから、〈実教育の場〉でもあったのだと思います。

 聞くところによりますと、江戸っ子たちが「銭湯」に、入るときは、『冷えもんでございます!』と、一声かけて入ったのだそうです。冷えている体で、お湯の中に入るので、湯加減をぬるくしてしまう無礼を一言詫びたのです。意味は、『失礼をいたします!』でしょうか。そういった「ことば」と「行為」が、集団の中で生きていく礼儀と術(すべ)を身につけていったのでした。それを聞いている子どもたちは、『そう言うんだ!』と教えられたわけです。こちらには「銭湯」はありませんので、こういった経験はないのですが、雨の日に通りを傘をさしてで歩いていますと、向こうから来る人は、江戸の街中で見られた、「傘かしげ」をしてくれます。江戸の「専売特許」と思っていたら、この町の「仕草(しぐさ)」、「所作(しょさ)」でもあるのです。まあ、相手への配慮は、万国共通でしょう。〈ニューヨークっ子〉だって、〈ベルリンっ子〉だって、きっと、そうすることでしょうね。

(絵は、『火事とけんかは江戸の華』の「出初式(江戸/明治・歌川広重画)」です)