枇杷

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「枇杷」季節の花300

 『ウワーッ!こんなに高いの!』と驚いて、ほとんど買って食べたことがなかったのが、この時期の旬の「枇杷(びわ)」でした。四つか六つ入ったパックの値段を見て、買うのを控えてしまったことがありました。家内が、無事にビサ(査証)を取得してこちらに戻ってきましたら、寒暖の温度差が大きくて、少し体調を崩してしまいました。それで、お見舞いに訪ねてきてくださった方が、大きな袋にいっぱいの「枇杷」を買ってきてくれたのです。しかも、一級品で、知り合いの果物商から買ってきたと言っていました。そして、スプーンで上手にビワの全面をなぜて、皮をむきやすくして、手渡して、『食べてください。肺にいいんです!』と言って家内と私に進めてくれました。果肉が厚く、果汁もたっぷりで、こんなにたくさん食べたのははじめてのことでした。

 実は、働いていた事務所の庭に、「枇杷の木」がありました。実が小さかったのですが、味は抜群に美味しかったのです。ところが、食べごろになると、大群の鳥がやってきて、またたく間に、ついばんで食べてしまうのです。彼らと競争で取り合ったものを食べましたが、種が大きくて実はほんのわずかでした。この枇杷の葉が、「抗癌作用」があるというので、『葉を少し分けていただけますか?』とおっしゃる方がいました。そんなことを思い出して、今週は、枇杷を堪能しております。そのせいでしょうか、家内が元気を取り戻して、台所に立てるようになりました。もしかしたら、訪ねてくださった方の「愛」と「優しさ」に効用があったのかも知れません。

 この枇杷は、中国原産で、日本には、すでに六世紀頃に、大陸からわたってきたと言われております。枇杷ずきな大陸人が、行った先で栽培して、この味を楽しもうと思って種を荷物の間に忍ばせて、大海原をわたってきたのでしょう。これが果物として市販され始めたのは、そんなに昔ではなかったと思うのですが、長崎の茂木産のものが多かったように思いますが、形状はいいのですが、あまり美味だとは言えませんでした。ところが、この数日食べているものは、やはり本場物というのでしょうか、実に美味しいのです。なんだか羨ましがらせてしまって、申し訳ありません。今朝、スーパーへ、家内に変わって買出しに行き、「冷凍秋刀魚」を買ってきて、大根おろしで、今、食べたところです。外は薄暮、これから、「枇杷」を楽しもうと思っております。

(写真は、”季節の花300”の「枇杷」です)

『最後に一番良い仕事がある!』

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「レンギョウ(連翹)」

 一時期、住んでいた家の玄関の脇に、「連翹(れんぎょう)」が植えられてありました。早春に、まっ黄色の花をつけて、実に見事でした。花などに、まったく感心を向けたことのなかった私でしたが、山歩きに誘われて山道を歩いている間に、『この花は◯◯!』と教えてくれる方がいて、そんなことで花に関心をもつようになったのです。季節季節に咲く花は、『わたしは、こんなに美しく装って生きているのだから、あなたも一花咲かして生きなさい!』と言われているように感じたのです。

 花にまつわる話で、一番印象的だったのは、一人の教師が、卒業の時に、色紙に書いてくれた言葉です。『野の花の如くに生きなむ。』とです。獄窓から見える日陰に、小さな花が咲いていて、それを眺めて慰められたのだそうです。きっと、『生きるんだぞ!』とでも語りかけてくれたのでしょうか。詳しい話を聞かずじまいでしたが。

 ここ華南の地は、まさに「百花繚乱」、様々ないろどりの名を知らない花が咲き誇って、春の訪れを告げてくれています。花を見るにつけ、「一花」咲かすこともなく幾星霜が過ぎてしまったことに思い至ります。それでも、し残したことがあるような責めを感じることもなく、今を生きています。結構充実している日々を送っていて、手持ち無沙汰などという感じはありません。若かった頃のように、時間に追われ、あくせくすることが、もうありません。子どもたちを育てる責任からも解放され、静かに過ぎている時間を、ゆったりとして生きられるのは、実に感謝なことです。「読人しらず」の文章に、こんなことが書かれてありました。

 『この世の最上のわざは何?楽しい心で年をとり、働きたいけど休み、喋りたいけど黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に・・・・人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり・・・最後の磨きをかける・・・最後に一番良い仕事がある・・・』

 そんなことが書かれていました。今日の日曜日の朝、バスに乗って出かけましたが、つり革にぶら下がっていますと、一人の青年が肩を、『トントン!』と叩きました。無言で、『座ってください!』と席を譲ってくれたのです。それで、『謝謝!』といって座らせてもらったのです。日本では、『私を年寄り扱いしないで欲しい!』といって、若い方の好意を拒むケースが多いのだそうです。長男が生まれて、お兄さんとばかり思っていたのに、『おじさん!』と言われて、『どうしておじさんなの?』と聞くと、『だって、赤ちゃんがいるじゃん!』と答えていました。そう、初めて席を譲られた時に、躊躇したのですが、すぐに座らせてもらってから、もう断ったり、若ぶったりしない、「おじいちゃん」なのです。

 そう、「楽しい心」で生きること、これに尽きますね。父が61で召され、どんな思いで「老い」を迎え、受け入れていたのかなど、考えたことがありませんが、父が思ったように、今の私も思っているのでしょうか。「最後の仕事」が何か、今わかりはじめています。帰りのバスは空席があって、座って帰って来ました。アパートの中を歩いていたら、きれいな花が、『お帰り!』と言ってくれたようでした。

(写真は、早春に開花する「連翹(れんぎょう)」です)

「ちまき」

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「出雲市今市」昭和一六年撮影

 「子ども」だったころ、毎年、4月の終わり頃に、母のふるさとの島根県出雲市から小包が届きました。その中には。「ちまき(粽)」がぎっしりと詰められていたのです。笹の葉につつまれ、笹の串が刺さっていたでしょうか、米の粉で造られた、実に素朴な食べ物でした。母が蒸かして、砂糖醤油をつけて食べさせてくれた、「こどもの日(〈端午の節句〉と呼ばれていました)」の前後の「お八つ」でした。今のように洋の東西、あらゆる国のお菓子が売られていなかった時代の「ちまき」は、特別でした。四人の男の孫に、『健康に大きく育て!』と願う祖母の手作りの食べ物でした。巡ってくる季節を覚えさせ、古来守り行われてきた季節行事を思いのうちに刻み、『自分一人で大きくなったのではない!』ということを教えてくれる時であったのでしょうか。

 その祖母が召され、母も召され、私たちが孫を持つ時代になりました。家内は、孫たちに「ちまき」を作りません。そのかわり、このたびの帰国には、長男の息子が、小学校に入学しましたので、「入学式」の日に、「ちまき」の代わりに、お寿司を振舞ったといって帰って来ました。孫兵衛は大喜びだったようです。日本では何かにつけ、形式的な行事があります。ところが、在米の次女の子たちは、特別なセレモニーや「食べ物」がないようです。11月の「サンクス・ギビング・デイ」に、七面鳥を食べるくらいでしょうか。何時か、手作りで「ちまき」を、外孫たちに食べさせてあげたいと思っています。

 同じ「ちまき」でも、「粽子zongzi」と呼ばれる、こちらのものは、祖母が送ってくれた形状とは違って、「三角錐」の形をしています。昔、牛乳の紙パックで、「テトラパック」というものがありましたが、あれと同じような形状で、祖母の作ってくれたのは、三角の形状でしたが、細長かったように記憶しています。笹でくるまれているのは同じですが、外がわは「糯米(もちごめ)」で、中身には味付きの具が様々に入れられているのです。私たちが食べていた「米の粉」だけのものとは違って、贅沢なおかず入りなのです。毎年頂いて食べるのですが、お八つと言うよりは、主食になるのでしょうか。

 この「粽子」には伝説があります。曽の屈原(くつげん)という人が、政敵に貶め入れられて、汨羅江(べきらこう)で入水自殺をしてしまいます。この人の遺体が、魚の餌になることから守るために、川に米の飯を投げ込んだのを記念に造られたのが、この「粽子」だったのです。この故事によって、中国では、旧暦の「端午の節句」に、食べるようになってきているのです。日本には、平安時代に、この風習が伝わってきたと言われています。私たちは、「日本の子ども」は、そんな故事を知らないまま、無邪気に美味しく食べていたのです。

 この他に、この時期に、父が買ってきてくれて、「柏餅(かしわもち)」も食べた記憶がありましたが、もともと「供物(くもつ)」だったそうですが、これも無邪気な私たちは、そのような背景を知らないまま食べていました。父が「餡(あん)」でしょうか「あんこ」でしょうか、これが好きで、餡の詰まった「きんつば」が大好物だったのです。美味しそうに食べていたので、私も「大好物」になりました。しかし、「きんつば」は、この街では買うことができないのが、実に残念でなりません。何だか笹の葉の匂いが漂ってくるようです。明日は「ちまきの日」、いえ「子どもの日」です。

(写真は、は祖母や母の暮らした出雲市の繁華街、「出雲市今市(昭和一六年撮影)」です)

休み過ぎ

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「ニホンミツバチ」2

 今日は5月3日、春の「ゴールデンウイーク」も、日本ではもう2日を残すのみとなりました。こちらにも、中国版の「黄金週間」があって、4月29日から5月1日の三日の連休でした。5月1日は「労働節(メーデー)」の祭日でした。そのために、その週の27日の土曜日と28日の日曜日は登校日で、振替授業を行ったのです。私も、『火曜日の授業を日曜日にすることになっています!』という連絡で、授業を2クラスしました。こちらでは連休するために、そのようなやり繰りをしているのですが、実質的には「一日」だけの休みなのです。このようなことは、日本ではみられないことです。

 今年の場合、日本では、4月の27日から、5月5日の「こどもの日」まで、何と九日間もの連休があるのですね。外から見ていますと、『羨ましい!』と言うよりは、『日本は大丈夫なのかな?』と思ってしまうのです。かつて、《勤勉な日本人》と言われて、働き蜂のように、休むことも倦(う)むこともなく、働き続けてきたのに、現在では、休み過ぎで、操業停止、多くの会社の「生産ライン」は止まってしまっていることになりますね。というか、「生産ライン」を国内に置かないで、中国や東南アジア、さらには中南米などの「国外」に置いているので、本社機能のある日本は、問題が無いのでしょうか。1億2780万人(1911年統計)が生産活動をしないで、消費だけを行なっているような感じになっているのでしょうか。もちろん第3次産業と言われたサーヴィス業は大忙しなのかも知れませんが、しかし生産がなされていないというのは、これで大丈夫なのでしょうか。

 消費の中の「食物」だって、外国頼みになっていて、外交問題が、今以上にこじれてしまったら、中国からの輸入ができなくなる可能性があるわけです。いつも驚くのですが、台湾系のスーパーに行きますと、今まで中国のみなさんが食べることのなかった、「ごぼう」が売られていて、それを手にしているお客さんをたびたび見受けます。その商品には、「牛蒡 ごぼう」と日本語で印字されたビニール袋に入れられているのです。以前は、葱やセロリを食べ寝ているテープにも、日本語が印字されていたのが使われていました。ということは、日本への輸出用が、中国国内に流通していることになっているのです。

 ニュースによりますと、加工された物で、日本向の農産品は、驚くべき種類と量だとのことです。知らされないで、日本人が口にしている多くの食品は、多くが中国産なのです。こんなに依存しているのに、外交問題が生じてしまい、輸出停止になったら、日本人は何を食べていけばいいのでしょうか。そんなことを心配しているのです。『スーパーに行けば何でも買える!』というのは、外交努力がなされているからであって、一日にして出来上がったことではない事を忘れてはいけません。しかし、積み重ねてきた努力を、一日にして、一人の人の行為によって壊す可能性だってあるのです。

 「イトーヨーカ堂」が、北京と四川省の成都で展開していますが、並の努力で、今日を迎えていないことが、最近出版された本に書かれているそうです。そういった努力が、様々になされて今日があるのです。今日は「憲法記念日」、ゲップが出るほどに休んでいる国を遥かに思い、『こんなに祝祭日の多い国は、日本だけではないのか?』と、心配になってつぶやいてしまいました。

(写真は、 「ニホンミツバチ」です)

八十八夜

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「茶の花」季節の花300

    夏も近づく八十八夜
    野にも山にも若葉が茂る
    あれに見えるは茶摘みぢやないか  
    あかねだすきに菅(すげ)の笠

    日和(ひより)つづきの今日このごろを
    心のどかに摘みつつ歌ふ
    摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
    摘まにゃ日本(にほん)の茶にならぬ

 この歌は、文部省唱歌の「茶摘み」です。この歌の作詞者と作曲家は不詳のようです。静岡に知人がいたり、夏には海水浴のためによく出かけ、「茶畑」の間を、たびたび車で走ったことが思い出されます。歌謡曲にも、『清水港の名物は お茶の香りと・・・(「旅姿三人男」の歌詞ですが)』と歌われる、お茶の名産地です。

 いつでしたか、おみやげで頂いたお茶が、美味しくて、『こんなに美味しいお茶があるんだ!』としきりに感心して、感謝したことがありました。森町のお茶でした。地元の人は、どこの、どの時期のお茶が美味しいかを、よく知っておられるのですね。そう言えば、『これは、《岩茶》と違って、特級のお茶です!』と言っていただいたことがありました。武夷山の数本しかないお茶の木から生産されるもので、政府御用達の銘茶でした。こっそり値段をお聞きしたら、『一万元(日本円で15万円です!)』と、そっと教えてくれました。口が曲がりそうで、いまだに飲めなくて、茶箪笥の中に仕舞い込まれています。100グラムの容量です。

 今日は、「立春」から数え始めて八十八日目、「八十八夜」にあたります。季節季節に、様々な農作業や行事があって、日本は独特に風情のある国ではないでしょうか。木や草や紙で造り上げられた家に住んで、細やかな感情を大事にしてきた民なのです。美しいく穏やかな大自然の「機微」に触れて、独特な人情や感性を育てられてきたことになります。もちろん厳しさも知っていますし、たびたび大災害にも見舞われてきました。自然への畏怖や敬意も忘れていません。小川の岸に、名の知れない花を眺めては、春を感じさせられて生きてきたことになります。

 このような風情や情緒を、孫やひ孫の世代に残してあげたいものですね。幾度も迎えた春を、今、異国の地で迎えて、母なる祖国の山や川を思い出しております。棚の引き出しに、鹿児島県産と伊右衛門のお茶の二種類がありますが、今宵は、しみじみと、「緑茶」を飲むことにしましょう。

(写真は、”季節の花300”の「茶の花」です)

コラム

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「朱印船」復元

 時々、「新聞コラム」を読むことがあります。毎朝、配達されてくる新聞の紙とインクの独特の香りを嗅ぎながらではなく、ネットで読むことができるのです。全国紙や地方紙、夕刊や外国紙などが、自社の立場にたって、独特な所見を述べています。「コラム」を、gooの辞書で調べてみますと、『新聞・雑誌で、短い評論などを掲載する欄。また、囲み記事。 』とあります。どの新聞にも、「コラムニスト」と呼ばれる記者がいて、毎朝欠かすことなく書き上げておいでです。

 高校の三年間、担任をしてくださったN先生が、新聞のコラムから答礼で話をしてくれたのを覚えています。慶應ボーイで英語を教えてくれました。あの頃、一番人気は、朝日新聞の朝刊の一面の広告とニュース記事の間に掲載されていた「天声人語」でした。いつ頃からでしょうか、まとめられて本として刊行されていました。わが家は、父の「巨人贔屓」によって、「読売新聞」を読んでいましたから、「編集手帳」というのがコラム名でした。友人の息子さんが、「毎日新聞」の記者になられて、そんな関係で、その新聞を購読するようになりましたが、コラム名は「余録」でした。各社のコラムを読み比べることができますし、大きな出来事があった翌日は、全国紙が一様に、同じテーマで書き上げているのが分かるほどです。それでも各社の強調点の違いが、興味深いと思ったこともありました。先月の29日の「東京新聞」の「筆洗」に、次のようなコラムがありました。

<遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし>。昭和十五年、日中戦争の報道写真を見て、新聞記者で歌人の土岐善麿がつくった歌である▼命を二つ持つ者はいない、と生命の尊さを詠んだだけなのに右翼から攻撃され、戦時下は隠遁(いんとん)生活を送る。敵国の兵士に同情したと思われ ると、袋だたきに遭う時代だった▼その時代に戻ることはないと信じているが、「嫌中・嫌韓」が声高に語られる風潮には危うさを感じる。それを政治家があ おっているのだから尋常ではない▼閣僚の靖国参拝に対する中韓両国の抗議を安倍晋三首相は「わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない」と突っぱね、「侵略の定 義は国際的にも定まっていない」と過去の侵略戦争や植民地支配を正当化するような発言を重ねた。経済優先の「安全運転」に徹してきた首相の「地金」がむき出しになってきた▼その歴史認識に米国側から反発も出てきた。米紙ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズは「歴史を直視していない。これまでの経済 政策の成果も台無しにしかねない」「敵対心を無謀にあおっているように見える」と社説で批判した▼<あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ>。戦時中は好戦的な歌もつくった善麿の昭和二十一年の歌だ。戦争は遠くなり、勇ましい声が再び戻ってきた。

とです。記事の中に引用された「短歌」を詠んだ土岐善麿は、読売と朝日に勤務した新聞記者で、短歌を詠んだ歌人でもありました。このコラムの記者は、最近の「嫌中・嫌韓」の傾向に、警鐘を鳴らしています。かつて日本の社会は、『ノー!』と言えなくなかった時代があリ、《言論統制》が行われていたことがありました。二月の帰国時に、息子と話をしていて、『ネットに流す意見も、取締まられる傾向があるんだ!』と言っていました。何でも自由に表現できない時代になってきているのかも知れません。もちろん表現する人にも責任があるべきですが。闘って勝ち取った「自由」ではないので、ちょっと危ういのかも知れませんね。「筆洗」の記者は、隣国と、より好い関係を築くことを願っているのでしょう。

(写真は、復元された「朱印船」です)

柳絮

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「柳絮」
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  先日、日本の桜の開花時期に、学生のみなさんに「国花」に関する作文を書いてもらいました。日本では、春の「桜」、秋の「菊」が「国花」に指定されていますが、中国の「国花」は「牡丹」だと思っていました。ところが、この「牡丹」と「梅」とが、「国花」の候補に上げられていて、実際には、まだ決められていません。中国の北部では「牡丹」が、南部では「梅」が好まれているようで、みなさんの意見も二分されていました。「清」や「中華民国」の時代には、「牡丹」が国花に指定されていたようですが。「梅」は、日本人にとって、桜に先駆けて咲き出しますから、感じることが多いようです。  

 街中を歩いていますと、あちらこちらでブーゲンビリアが咲き、ハイビスカスが一輪二輪と咲き始めています。「春酣(はるたけなわ)」とは、こういった風情なのでしょうか。ブーゲンビリアは、日本では鉢の中に植えられていて、花屋さんで売っていましたので、一鉢買ってベランダにおいていたことがあります。しかし、こちらでは生垣でしょうか、植え込みでしょうか、あちこちに咲き乱れているといった感じです。色づいて様々な色の花に見えるのは、実は葉であって、「花」は葉の中央に白い物であるようです。こちらでは、「九重葛」、「三角梅」、「叶子花」とか言っているようです。日本では、「筏葛(イカダカズラ)」と呼ばれますが、原産はブラジルだそうです。やはり、ギラギラする南国の陽の光に咲く、南国の花ですから、見事なものです。

「柳絮」2

 天津にいました時に、白い「わたげ」のようなものが、街中に飛んで、幻想的な光景を見せていたことがありました。ちょうど今頃の季節だったと思います。タンポポが咲き終わった後に飛遊するような光景に似ていますが、規模が違って、街いっぱいにあふれるといった感じでしょうか。こちらでは「柳絮(りゅうじょliuxu))」と言い、北京や天津など東北地方の風物詩なのです。まるで雪が降っているようように感じられ、吹き溜まりには、真っ白なワタの球のようなものがあちこちに見られました。

 日本では見たことのない光景に、しばらく足を止めて、柳絮の飛んでいる様子を、目で追い続けていたことがありました。「春節」が暦の上での春の到来を告げるのですが、本物の春の到来を告げるのは、天津では「柳絮」なのでしょうか。中国に、「柳絮之才」という諺があります。普の謝安が、『雪は何に似ていますか?』と聞いたところ、姪の謝道韫(XieDaoyun)が、『未若柳絮因風起』と答えたのです。女性の才が長けていること、「非凡な女性」のことを、そういうのだそうです。太田道灌に、「山吹」の一枝を手向けた少女の話に似ていますね。

 自然界は毎年毎年、心変わりすることも、躊躇することもなく、きちんと訪れてくれます。春を造られ、春の風物詩を楽しませてくださる造物主に、心から感謝しております。明日からは、「早苗月(さなえづき)」が短くなって、「皐月(さつき)」と呼ばれてきた五月です。「田植え」の時期なのですね。雨の中に、かっぱを着ながら、田植えの手伝いをしたことがありました。

〈写真は、”写真集手賀沼”から、柳の木の「柳絮」です)

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真の学徒

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村川信勝さん

 大阪府和泉市に、「桃山学院大学」があります。この大学に、99歳の聴講生がおいでです。週に2日、電車とバスを乗り継いで2時間かけて、東成区のご自宅から通学をされているそうです。大学では、「国際政治史」や「国際法」を受講しており、《名物大学生》として、だれよりも真剣に90分の授業を受けておられるのです。

 お名前は、村川信勝さん(大正2年12月生まれ)です。『中学校に進学して学びたかった!』のですが、経済的な理由で、旧制の尋常小学校を卒業して、すぐに働き始めたのです。それでも、夜間の商業学校に進学の願いがあったそうですが、お父様に許してもらえず、涙を飲んだのだそうです。貧しい時代でしたから、中学校、専門学校、旧制の高等学校、いわんや大学で学ぶことができるのは、限られた人たちだけに許された機会でした。それでも「向学心」を失わなかった村川さんは、聴講生として、これまで、「日本史」や「世界史」などを受講してきておいでです。

 東京の四谷駅の近くに、「上智大学」があります。東京では私立の名門で、優秀な教授陣がおられ、多くの逸材を世に送り出している大学です。田舎で働いていたいた私は、週一日、特急電車に割引回数券で乗車して、何年か通ったことがありました。私は村川さんとは違って、豊かな昭和、戦争のない時代に育ちましたので、父に大学に行かせてもらえましたが。それでも、『もう少し学びたい!』という願いがありまして、時間と仕事のやりくりをして学んだのです。一緒に学んで人たちの中で、私が一番の遠距離通学をしていたのですが、みなさんが、やはり「向学心」にあふれておいででした。とても充実していた日々が懐かしく感じられます。

 『なんで自分が生き残れたのかわかりません!』と、戦時中にビルマの戦線に、衛生兵として従軍された村川さんは、多くの兵士たちが、戦闘や飢餓や病気で亡くなっていく中で、生き残って、故国の土を踏みしめられたことを、そう述懐されておられるのです。復員後は、紳士服の縫製の仕事をされ、退職後も技術指導などを続け、85歳で退職されたそうです。そして、93歳のときに同大学の聴講生になり、子どもの頃からの夢、『勉強したい!』を実現させたのです。私の父は、明治43年、母は大正6年ですから、村川さんは、私の亡くなった両親とほぼ同世代になるのです。背を伸ばして、講義に耳を傾けておられるお姿は、実に凛々しく感じられます。

 『よーし、俺も帰国したら、何はさておき、もう一度学び直そう!』と、まだまだ気の多い私は挑戦されております。村川さんが大学で聴講され、学び続けている理由は、《尽きない好奇心》だと言われています。歴史に関心がおありですが、ご自分が体験した戦争、『なぜ起こったのか-その背景を明らかにしたい!』との思いがあるからだそうです。これまで学んでこられた村井さんは、『国際的な対立は、戦争ではなく、外交的努力で回避すべきです!』と提案しておいでです。

 何となく、年寄り臭くなって、考え方も溌剌としなくなってきている自分を、最近感じています。今年の暮には百歳になられる老学徒・村川信勝さんに倣って、背筋を伸ばして、凛々しくしようと決心した、五月の連休前の週末の朝であります。

(写真は、通学途上の村川信勝さんです)

『明るい話をしようよ!』

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「太陽光」

 「マスメディア」と言いますと、新聞とか雑誌とかテレビ、今ではインターネットが注目されていますが、昨晩、招いてくださった「食事会」で、日本のマスメディアのことも話題になりました。その交わりには、日本に留学したことがある大学の教師が3人と、東京大学の大学院に留学経験があり、こちらの女子大で英語を教えている五十代の男性のアメリカ人教師、そして中華系のフィリピン人の女性英語教師と私の六人でした。英語と日本語と中国の入り乱れる話しでしたが、結構話題が沸騰していたようです。

 『日本のマスコミが取り上げる中国の話題が、否定的過ぎないか!』というのが、大方の意見でした。マスメディアというのは、本来は、「事実報道」をすることが本文であるのに、スポンサーもいますし、読んでもらわなかればならなないので、広告主と読者を喜ばすことが先行してしまい、報道が偏って、結局は非難や批判などになっているようです。放っておいたほうがいいのに、最大の案件でもあるかのように、尾ひれを付けて報道する傾向が、どうも見られるのではないでしょうか。判断は、読者が決めるような情報提供がなされていないで、「鵜呑み」で、その情報を信じこんでしまうのです。

 戦争の時には、事実の報道ができなかったと聞いています。検閲され、記事の書き換えが要求され、事実の隠蔽(いんぺい)がありました。新聞を読者が読んで、そう信じていたら、後になって、事実とは甚だしく違っていたことがあったようです。あの事の責任は、どうなっているのでしょうか。紙にインクで印刷して、日にちが過ぎてしまえば、その記事に責任を取らなくていいのでしょうか。「事実」を書くと、犯罪人になってしまう時代だったのです。今も、「筆を曲げる(goo辞書によりますと、『事実と異なることを承知で書く。自分の利益のために嘘を書く。曲筆。 』とあります)」ことが、往々にして有りそうです。

 家族で話をしている間に、それを聞いていた、まだ幼なかった次男が、『ねえみんな、明るい話をしようよ!』と、よく言っていました。つい暗い話題になってしまう時に、そういった話を聞きたくなかったのだと思うのです。世の中には暗いこと、失敗談、心配事などはあふれていますから、気を付けないと、そういった話題が、家族の団らんに入り込んできてしまうのです。これと同じように、『こんなことを記事にしないほうがいいのに!』と思うことをよく感じています。だから、相手の人でも、団体でも、国でも、『よい所を見つけて、ほめてあげたい!』と、思うことにして、今、生きています。誰にも、どの団体にも、どの国にも、問題があるからです。

 心をげんなりさせ鬱陶しくするような情報に、眼や耳や思いを向けないことです。私の愛読書に、『・・・悪い知らせを恐れ・・・』るなと書いてあります。『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い!』という諺があるようですが、何でもかんでも欠点探しをしては、良い関係を構築したり、回復させていくことなどできません。互いのよい所をほめ合っていれば、欠陥に気づいて、きっと改めるようになるのです。これって「関係構築の秘訣」なのです。私を教えてくださった教師方のほとんどが、そういった人でした。それで、今日も大手を振って、この欠点だらけの私が生きられること、『生きていていいんだ!』と思わせてくれたのです。何と感謝なことではありませんか!

(写真は、雲間から光る「太陽光」です)

窮鼠

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「ミヤコワスレ(都忘れ)」

 「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」という諺があります。gooの辞書で調べますと、『《「塩鉄論」刑法から》追いつめられた鼠が猫にかみつくように、弱い者も追いつめられると強い者に反撃することがある。 』とあります。どのような敵対関係にあっても、相手を追いつめすぎて、逃げ場がなくなってしまい、常識的に、論理的に判断できなくなって、考えられないような行動をとってしまうことがあります。

 戦争中に、松の根を掘り起こす「学徒動員(日中戦争以後、国内の労働力不足を補うために学生・生徒を工場などで強制的に労働させたこと。昭和13年(1938)年間数日の勤労奉仕が実施されて以来、戦況の悪化につれて動員体制が強化され、昭和19年(1944)には通年動員となった。 )」の作業が行われたのだそうです。松の根から、それを「樹脂」を取り出して蒸溜し、決定的に欠乏していた石油に変わる燃料を作るためだったそうです。「松根油」といいました。どうして、学徒を働かせて、そんなことをしていたのかといいますと、当時の日本は、石油を輸入する経路を完全に遮断されてしまったからです。それは、軍国日本への国際的制裁だったのです。

 そのために、東南アジアに石油を求めて、軍事力を行使していきます。仕方がなかったとの言い訳をしているのではありません。人でも国でも、追い詰められと何をするかわからない行動に出るのです。結局、勝つことのできない戦争を始めるといった、行動に出てしまうのです。その結果、「敗戦」という憂き目を、日本は喫してしまいます。そう言えば、戦争後でしたが、「木炭バス」が走っていて、乗った記憶があります。釜の中で薪を燃して、その温水を利用してバスを走らせていたのです。ですから、車の横に煙突が出ていて、黙々と煙を吐きながら走っていたのですから、さながら蒸気機関車のようでした。石炭も石油もそこをついていたのですから、片道の燃料を積んで、敵艦に体当たりをしたゼロ戦の悲劇はあまりにも深刻です。

 私が心配しているのは、「朝鮮民主主義人民共和国」のことです。国際社会が、経済的な面で追い詰めないようにすべきです。完全に救援物資を遮断してしまうことは、悪循環をもたらして、信じられないような行動に出させてしまうからです。長年の悪政の結果が、様々な問題を露呈させています。聞くところによりますと、多くの国民は飢餓線上にあるそうです。信じられないようなものを食糧にしている人たちが、海を渡った隣国にたくさんおられるのです。私は、食べられないという経験をしたことがありませんから、その苦しみの大きさを知りません。しかし想像はできます。窮鼠にならないような、人道的な援助がなされるようにと、願っている週日の昼前です。

(写真の花は、「ミヤコワスレ(都忘れ)」です)