真の学徒

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村川信勝さん

 大阪府和泉市に、「桃山学院大学」があります。この大学に、99歳の聴講生がおいでです。週に2日、電車とバスを乗り継いで2時間かけて、東成区のご自宅から通学をされているそうです。大学では、「国際政治史」や「国際法」を受講しており、《名物大学生》として、だれよりも真剣に90分の授業を受けておられるのです。

 お名前は、村川信勝さん(大正2年12月生まれ)です。『中学校に進学して学びたかった!』のですが、経済的な理由で、旧制の尋常小学校を卒業して、すぐに働き始めたのです。それでも、夜間の商業学校に進学の願いがあったそうですが、お父様に許してもらえず、涙を飲んだのだそうです。貧しい時代でしたから、中学校、専門学校、旧制の高等学校、いわんや大学で学ぶことができるのは、限られた人たちだけに許された機会でした。それでも「向学心」を失わなかった村川さんは、聴講生として、これまで、「日本史」や「世界史」などを受講してきておいでです。

 東京の四谷駅の近くに、「上智大学」があります。東京では私立の名門で、優秀な教授陣がおられ、多くの逸材を世に送り出している大学です。田舎で働いていたいた私は、週一日、特急電車に割引回数券で乗車して、何年か通ったことがありました。私は村川さんとは違って、豊かな昭和、戦争のない時代に育ちましたので、父に大学に行かせてもらえましたが。それでも、『もう少し学びたい!』という願いがありまして、時間と仕事のやりくりをして学んだのです。一緒に学んで人たちの中で、私が一番の遠距離通学をしていたのですが、みなさんが、やはり「向学心」にあふれておいででした。とても充実していた日々が懐かしく感じられます。

 『なんで自分が生き残れたのかわかりません!』と、戦時中にビルマの戦線に、衛生兵として従軍された村川さんは、多くの兵士たちが、戦闘や飢餓や病気で亡くなっていく中で、生き残って、故国の土を踏みしめられたことを、そう述懐されておられるのです。復員後は、紳士服の縫製の仕事をされ、退職後も技術指導などを続け、85歳で退職されたそうです。そして、93歳のときに同大学の聴講生になり、子どもの頃からの夢、『勉強したい!』を実現させたのです。私の父は、明治43年、母は大正6年ですから、村川さんは、私の亡くなった両親とほぼ同世代になるのです。背を伸ばして、講義に耳を傾けておられるお姿は、実に凛々しく感じられます。

 『よーし、俺も帰国したら、何はさておき、もう一度学び直そう!』と、まだまだ気の多い私は挑戦されております。村川さんが大学で聴講され、学び続けている理由は、《尽きない好奇心》だと言われています。歴史に関心がおありですが、ご自分が体験した戦争、『なぜ起こったのか-その背景を明らかにしたい!』との思いがあるからだそうです。これまで学んでこられた村井さんは、『国際的な対立は、戦争ではなく、外交的努力で回避すべきです!』と提案しておいでです。

 何となく、年寄り臭くなって、考え方も溌剌としなくなってきている自分を、最近感じています。今年の暮には百歳になられる老学徒・村川信勝さんに倣って、背筋を伸ばして、凛々しくしようと決心した、五月の連休前の週末の朝であります。

(写真は、通学途上の村川信勝さんです)

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