「ちまき」

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「出雲市今市」昭和一六年撮影

 「子ども」だったころ、毎年、4月の終わり頃に、母のふるさとの島根県出雲市から小包が届きました。その中には。「ちまき(粽)」がぎっしりと詰められていたのです。笹の葉につつまれ、笹の串が刺さっていたでしょうか、米の粉で造られた、実に素朴な食べ物でした。母が蒸かして、砂糖醤油をつけて食べさせてくれた、「こどもの日(〈端午の節句〉と呼ばれていました)」の前後の「お八つ」でした。今のように洋の東西、あらゆる国のお菓子が売られていなかった時代の「ちまき」は、特別でした。四人の男の孫に、『健康に大きく育て!』と願う祖母の手作りの食べ物でした。巡ってくる季節を覚えさせ、古来守り行われてきた季節行事を思いのうちに刻み、『自分一人で大きくなったのではない!』ということを教えてくれる時であったのでしょうか。

 その祖母が召され、母も召され、私たちが孫を持つ時代になりました。家内は、孫たちに「ちまき」を作りません。そのかわり、このたびの帰国には、長男の息子が、小学校に入学しましたので、「入学式」の日に、「ちまき」の代わりに、お寿司を振舞ったといって帰って来ました。孫兵衛は大喜びだったようです。日本では何かにつけ、形式的な行事があります。ところが、在米の次女の子たちは、特別なセレモニーや「食べ物」がないようです。11月の「サンクス・ギビング・デイ」に、七面鳥を食べるくらいでしょうか。何時か、手作りで「ちまき」を、外孫たちに食べさせてあげたいと思っています。

 同じ「ちまき」でも、「粽子zongzi」と呼ばれる、こちらのものは、祖母が送ってくれた形状とは違って、「三角錐」の形をしています。昔、牛乳の紙パックで、「テトラパック」というものがありましたが、あれと同じような形状で、祖母の作ってくれたのは、三角の形状でしたが、細長かったように記憶しています。笹でくるまれているのは同じですが、外がわは「糯米(もちごめ)」で、中身には味付きの具が様々に入れられているのです。私たちが食べていた「米の粉」だけのものとは違って、贅沢なおかず入りなのです。毎年頂いて食べるのですが、お八つと言うよりは、主食になるのでしょうか。

 この「粽子」には伝説があります。曽の屈原(くつげん)という人が、政敵に貶め入れられて、汨羅江(べきらこう)で入水自殺をしてしまいます。この人の遺体が、魚の餌になることから守るために、川に米の飯を投げ込んだのを記念に造られたのが、この「粽子」だったのです。この故事によって、中国では、旧暦の「端午の節句」に、食べるようになってきているのです。日本には、平安時代に、この風習が伝わってきたと言われています。私たちは、「日本の子ども」は、そんな故事を知らないまま、無邪気に美味しく食べていたのです。

 この他に、この時期に、父が買ってきてくれて、「柏餅(かしわもち)」も食べた記憶がありましたが、もともと「供物(くもつ)」だったそうですが、これも無邪気な私たちは、そのような背景を知らないまま食べていました。父が「餡(あん)」でしょうか「あんこ」でしょうか、これが好きで、餡の詰まった「きんつば」が大好物だったのです。美味しそうに食べていたので、私も「大好物」になりました。しかし、「きんつば」は、この街では買うことができないのが、実に残念でなりません。何だか笹の葉の匂いが漂ってくるようです。明日は「ちまきの日」、いえ「子どもの日」です。

(写真は、は祖母や母の暮らした出雲市の繁華街、「出雲市今市(昭和一六年撮影)」です)

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