花便り

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この花は、「アオダモ」だそうです。その木は、野球の木製バットの材料になるようです。知りませんでした。バットを、削っている様子は、動画で見た事がありましたが、素材になる木が何だか覚えていませんでした。すぐ上の兄が、高校野球の選手でしたから、ずいぶん重いバットを持っていたのを覚えています。

下の花は、「クルマバソウ」で、ヨーロッパでは、ビールやワインの製造時に、香りをつけるために用いるとの事です。自然界には、何と多くの花があって、深く私たちの趣味や嗜好のために使われ、用いられているのを知って驚かされます。

(「里山を歩こう」の紹介の花々です)

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訪問

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帰国して訪ねると、帰りしなに、『また来年来てください!』と言われて、また訪ねるを繰り返して来て、今回の帰国時にも、彼らのお父さん(私のアメリカ人の恩師の友人で私も親しく交流をさせていただいた方)と、若き日に共に過ごした、静岡県下の街を訪問しました。そこに、上のお嬢さんと下の息子さんが、それぞれに日本人の伴侶を得て住んでいるからです。

懐かしい昔話をしたりして過ごし、昨晩、強雨の中を、日本橋の宿舎に帰って来ました。この彼らのお父さんは、私と20才違いで、同じ月の同じ日の誕生日でした。父の世代とも言えるでしょうか。私たちの子どもが小さかった時に、よく呼んでくださって、この方の家で、数日過ごしたのです。私の子どもたちのために、彼らの部屋を提供してくれたのです。

その彼らの子どもたちが、今や、大学生、高校生になっているのです。小学校から、大学まで、日本語教育を受けている最中なのだそうです。その街の彼らの若い友人たちの中にも、私の子どもたちと、米国留学中に、共に過ごしたという方が、何人もいて、家庭を持ち、子育てをしている方たちとも会いました。

若い頃から、頻繁に訪ねましたから、思い出もたくさんがあるのです。よく正月に行きました。海が近くて温暖な気候ですから、山間部から出て来ると、その広がりと海と快晴の空が強烈でした。彼らのお母さんは、アラバマのパン屋のお嬢さんでしたので、美味しいパンやクッキーを焼いて、もてなしてくださったのです。舌と胃袋で感じた味覚というのは、何年経っても忘れないのが不思議です。

歓迎されるって嬉しい事ですね。最後の訪問を終えた私たちは、明後日、これも素敵な友人たちの住む街に帰る事にしています。今日は晴れるでしょうか。昨日は、「母の日」でしたから、家内は、カーネーションを一輪いただいて、大事に持ち帰って来ました。週末に、下の息子が訪ねてくれ、新しい"iPad"をセットアップしてくれ、一緒に昼食をとりました。今日は、上の息子の家族を訪ねる予定です。

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踊子草

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この花は、「オドリコソウ(踊子草)☞「里山を歩こう」から」だそうです。花を見ていますと、踊っているように見えるのですから、命名者のインスピレーションは素敵ですね。春の陽光を浴びて、花が踊り出すように咲き出しているのでしょうか。人が訪れそうもない、広島県天釈峡の山野では、大自然の讃歌の声が聞こえてくる事でしょう。

中国地方では、岡山市と倉敷市、そして福山市を訪ねた事がありました。岡山駅の駅前の果物店で、<10000円>の値札のついた、「マスカット」を買った事があります。その頃、母が入院中で、<子宮癌>の宣告を受けて、<余命半年>だと言われての闘病中でした。まだ、3万円の月給しかもらえなかった頃でしたが、奮発したのです。好きな瑞々しい果物を食べて、癌を克服して欲しいと願ってでした。母が50歳ほどでした。

ところが、95才まで母は生きて、天に凱旋しました。母の主治医は、その治癒を信じる事ができなかったのです。何度か検査をしたのですが、病根は消えていました。《奇跡》とは主治医は言いませんでしたが、こんな事は、これまでなかったそうです。母の心の内側には、何か強いものがあったからでしょうか、病魔に立ち向かう力を宿していたのでしょうか。

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山と海

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2001年に、「21世紀に残したい海の歌」というアンケート調査を、「海洋政策研究財団」が行っています。その1位が『うみ』で、2位は『我は海の子』、4位『浜辺の歌』だったそうです。

『うみ』は、林柳波が作曲し、井上武士が作曲した小学校唱歌でした。

1 うみはひろいな 大きいな
月がのぼるし 日がしずむ

2 うみは大なみ あおいなみ
ゆれてどこまで つづくやら

3 うみにおふねを うかばして
いってみたいな よそのくに

私は、中部山岳の山の中で生まれ育ち、その後、35年間、その生まれ故郷に戻って、アメリカ人の事業を受け継いで過ごしました。父は、日本の良港の一つ、横須賀の港を眺める高台で生まれ育った人でした。潮騒を遠くに聞きながら、東京湾の入り口の海で、よく泳ぎ、遠泳もしたと言っていました。父の血でしょうか、山育ちながら、それで海が大好きなのです。

それでも不思議なのは、巡りが山で育ったせいで、関東平野の真ん中に立つと、落ち着かないのです。山々に抱かれて保護されている感覚を身につけてしまったからでしょうか 、山のそばにいると、"つっかえ棒"の様で落ち着くのです。でも、それだけでは、私の血と魂は満足しないで、フト海が見 たくなり、後先を考えずに、海に向かって車を走らせたことが何度かありました。

四方を海に囲まれた日本列島は、屋台骨に山脈が連なり、そこから流れ下る急流が、平野でなだらかになって、海に注ぐという地形で、山海の景観と幸に恵まれた国を形成したわけです。その川は、滋養溢れる成分を海に運ぶので、近海では魚介類が豊かに育まれているのです。そういった立地が独特なので、独特な国民性、精神性を培ってきたのかも知れません。

創造の業の中で育まれた、木や草や藁、そこから作られた紙が、日本の文化を形作ってきているのです。一時帰国の友人の会社の宿舎は、畳と床板で、それらに触れる裸足の感触が懐かしいのです。畳は、ちょっと古いので、あの井草の香りはしませんが、直接寝そべる感触は、実に好いものです。

一昨日(5月7日)の午後に、弟の家を訪ねました。先ず、日本の「ほうじ茶」を淹れてくれて(緑茶と共に、このお茶を父がよく飲んでいました)、「柏餅」を弟が出してくれました。次に、『お湯が沸いたのでお風呂に入って!』と言うので、風呂の蓋を開けると、何と「菖蒲湯」でした。やがて、人生に「勝負」をする男の子たちが、逞しく育つように願って、古来日本人は、「菖蒲湯」に、子どもを浸させ、湯浴みさせてきたのです。その伝統と季節の湯を用意してくれたわけです。

この季節に訪ねてきた兄を、受け継がれてきた伝統の味を、舌と肌で味合わせてくれたのです。子どもの頃に、意地悪をした兄なのに、遠い国から帰って来たからと、この様に、精一杯の歓待をしてくれたのです。向こうで、来客に振る舞うために、持ち帰る"カレールウ"などを小一万円買ったですが、彼が、カードで払ってくれくれました。いや、好い弟を持ったものだと、感謝しているのです。本来なら、逆で弟を世話をすべきなのにです。作ってくれた 夕食も朝食も、美味しかった!

(「菖蒲湯」です)

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中国の大学の「日本語学科」で、「特別講義」を頼まれた事がありました。何をしようか考えていた時に、NHKで、ハーバード大学のサンデル教授の「白熱教室」が、東大の講堂であり、それを放映していたのです。その講義のDVDを買い求めて、学んでいた時期でした。それで、講義に出席する学生のみなさんに、「故障した路面電車」の話で、授業を始め、どちらかを選んでもらって、賛否両論の論戦をして欲しかったのです。その提題としたのは、次の様な事件でした。

『君は路面電車の運転手で、時速100kmの猛スピードで走っている。君は行く手に5人の労働者がいることに気付いて、電車を止めようとするが、ブレーキが効かない。君は絶望する。このまま進んで5人の労働者に突っ込めば、5人とも死んでしまうからだ。ここでは、それは確実なことだと仮定しよう。君は、何もできないと諦めかける。が、その時、脇にそれる線路、『待避線』があることに気づく。しかしそこにも、働いている人が一人いる。ブレーキは効かないがハンドルは効くので、ハンドルを切ってわきの線路に入れば、1人は殺してしまうけれども、5人は助けることができる。ここで最初の質問だ。正しい行いはどちらか?』

人間の「命の重さ」について論戦して欲しかったのです。<5人の命>を犠牲にするか、<一人の命>を犠牲にするか、中国で、日本語を学ぶ学生たちが、どんな結論を下さすか期待したのです。やはり、<5人の犠牲>よりも、<1人の犠牲>を選ぶ学生が、圧倒的に多かったのです。しかし、私の思惑と違って、両者による論争をして欲しかったのですが、期待した結果にはなりませんでした。きっと、母国語ではできたのでしょうが、3年ほど学んできた日本語の語学力では、無理でした。「哲学科」の授業になるでしょうか。

小学校から高校まで、中国の教育を学び、大学でも学んできた学生のみなさんの考え方を知りたかった事もあってでした。結果は、日本やアメリカの大半の学生は、<一人の犠牲>を選んだ様に、中国のみなさんも同じでした。ただ、私の期待は、自分の選んだ事と、他者の選んだ事で、活発な意見の交換や論争を聞いてみたかったわけです。『どんな基準での選択か?』、『命とは何か?』などを聞きたかったのです。

こう言った選択の機会は、もしかしたら、誰にでもあるかも知れないのです。とっさに、どちらにするか迫られる時、短時間で判断を下さなければならない事態が、やってくるかも知れないのです。自分の命と他者の命、1人の命と多数の命、近い関係の人の命と見知らぬ人の命、そう言った様に区分できるのでしょうか。

自分の命を永らえるためには、どんな手段でも選んで良いのでしょうか。人の命はどうなのでしょうか。昔、「塩狩峠」で、長野さんという国鉄職員が、非番で列車に乗っていた時に列車事故が起きて、自らの命を投げ出して、暴走列車を止めて、乗客を救った事故があったのを、三浦綾子の小説で知りました(実話を小説にしたのです)。長野さんには、家族がいたのです。この犠牲を、どう理解するか、これも一人一人に問われている事なのかも知れません。
(映画の一場面、JR北海道の「塩狩駅」付近の近影です)

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野生のフジ

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広島県呉市の「灰ケ峰」に咲く、「フジ」、「キンラン」、「ゴガクウズキ」です。「里山を歩こう」が送って楽しませてくださる様に、こんなに多くの種類の野生の草花があるのには、驚かされます。枯葉を踏んで山道を歩くのが大好きだった私には、花を見て山道を歩くことはありませんでした。もちろん奥多摩の山道の花に目をやったことはありました。

"フラワー・ウオッチング"をしながら、山道を歩きたくなりました。今回は、難しいかな・・・・。来年は、そんな願いを叶えたいと思っています。

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交流会

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今朝、送信ししてきた、次女の家の花壇の花の写真です。昔、「テキサスの黄色いバラ」という題の映画を観ていて、サウンドトラックで流れていたのを聞いたのだと思います。いわゆる"country songs"で、1930年代に、アメリカで流行ったそうです。だからでしょうか、カリフォルニアの出身の次女の婿のおジイちゃんが、育てていた"ROSE"だそうです。愛でた花は、おジイちゃんが召された後も、株分けしたのを植えた庭で、咲き続けているのです。

下の写真は、「いちご」の花で、間も無く実をつけて、食卓に上ることでしょう。いつでしたか、次女を尋ねた時に、郊外にある「ブルーベリー」や「ラズベリー」などの果樹園に連れて行ってもらって、実を摘んだことがありました。多くの種類の「ベリー」の畑がある地方です。多くの家が、瓶詰保存をして、楽しむのだそうです。

昨日は、二人の兄と下の弟と、4人の兄弟の「交流会」があって、1年ぶりで懐かしい話に花を咲かせていました。あいにく次兄は、その日の朝一で、診察を受けていて、即刻都内の病院に入院になってしまいました。念のための入院だそうです。それで、3人の集いになってしまいました。サラダと果物を兄嫁が、煮物と味噌汁を次兄の姉嫁が、寿司を弟が用意してくれました。

そんなこんなで、診察後帰って来て、一緒に食事会をする予定でしたが、次兄の食べ物は、みんなで分け合ってしまったのです。ケンカばかりの兄弟でしたが、今は仲良く、こう言った交わりを、私の一時帰国に合わせて持ってくれているのです。

会のはねた後、義姉と弟と3人で、入院の必要品を持って、見舞いに出かけたのです。"念のため入院"ですので、一週間とのことでした。今は、北半球では、どこでも"百花繚乱"の季節の到来ですが、《平和の花》が、地球上に乱れるほどに咲くのを、心から願っています。花を咲かせる自然界も、花好きな人が丹精しながら咲かせる花も、《平和》への願いが込められているのでしょう。昨日今日と、東京は寒く、寒が戻ってきた様です。

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春望

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「杜甫」の詠んだ詩に、「春望」があります。

国破山河在 城春草木深
感時花濺涙 恨別鳥驚心
烽火連三月 家書抵萬金
白頭掻更短 渾欲不勝簪

✳︎読み下し文
国破れて 山河在り (くにやぶれて さんがあり)
城春にして 草木深し (しろはるにして そうもくふかし)
時に感じて 花にも涙を濺ぎ (ときにかんじて はなにもなみだをそそぎ )
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす (わかれをうらんで とりにもこころをおどろかす)
烽火 三月に連なり (ほうか さんげつにつらなり)
家書 万金に抵る (かしょ ばんきんにあたる)
白頭掻いて 更に短かし (はくとうかいて さらにみじかく)
渾べて簪に 勝えざらんと欲す (すべてしんに たえざらんとほっす)

✳︎訳文
国都長安は破壊され、ただ山と河ばかりになってしまった。
春が来て城郭の内には草木がぼうぼうと生い茂っている。
この乱れた時代を思うと花を見ても涙が出てくる。
家族と別れた悲しみに、鳥の声を聞いても心が痛む。
戦乱は長期間にわたって続き、家族からの便りは
滅多に届かないため万金に値するほど尊く思える。
白髪頭をかくと心労のため髪が短くなっており、
冠をとめるカンザシが結べないほどだ。

「詩聖」と言われた「杜甫」でしたが、優秀な人のわりには、恵まれない一生を送っています。なかなか任官が叶わない時を過ごし、安禄山らによる反乱、戦乱の中にあった時に、祖国の実情、長安の都の荒廃を嘆いて、この「春望」を、杜甫が詠みました。芭蕉が共鳴する様な、唐代版の「わび」とか「さび」を感じさせるものを詠み込んでいたのでしょうか。

江戸の喧騒を離れて、深川に居を移した芭蕉に、四川省の成都に、草堂を構えて詩作に耽った「杜甫」の生き方が感じられます。何年も前に、その成都を訪ねた事がありました。訪ねた時の成都は、先週、隅田の流れの河畔の深川の「芭蕉庵」を訪ねた時と同じく、大都市の風情がして、「鄙(ひな)びた」風情などありませんでした。

「杜甫」は、唐の時代、芭蕉は、江戸初期の人で、千年ほどの時の隔たりがあるのですが、何か共通したものが、この両人にはありそうです。「詩」や「俳句」を詠み、その作品が人の心を打ち、今日でも愛誦されているのです。私にとって最も身近な中国の人は、この「杜甫」であり、中学生になったばかりに、初めて触れた大陸の文化は「春望」でした。また江戸文化を身近に触れたのは、中学1年で学んだ、芭蕉の「奥の細道」でした。

搔くほどの毛がなくなってしまいましたし、「杜甫」や芭蕉よりも長生きできている私には、彼らの感じた「悲哀」がないとの違いを感じています。隅田に架かった橋を渡り、河岸を歩いて、「芭蕉庵」に行ける距離にいながら、ちょっとばかり芭蕉や「杜甫」の心の動きに、思いを向けてみたい心境の"連休明け"であります。

(成都にある「草堂」に近くに竹の生い茂った道です)

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鉛筆

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去年、今年と2年連続で、"春のゴールデンウイーク"を、日本で過ごしています。去年は、札幌で、術後のリハビリをしていました。今年は、次男の婚礼で、四月中旬に帰国して、品川の式場で、門出をする二人を祝福する事ができ、そのまま居残っています。五月の中旬には、戻ろうと計画しているところです。

一昨日は「憲法記念日」、今日は「子どもの日」です。ネットで記事を読んでいましたら、一昨々日の「5月2日」は、"えんぴつ記念日"だったそうです。何にも、記念日になる傾向があるのですが、高校までは、筆記には、この<鉛筆>を使っていました。12年間も、あの縦長の<六角錐>を握りしめて、教師の板書を帳面に書き、四百字詰の<原稿用紙>に作文をし、手紙やハガキも、その鉛筆を使っていました。

いつ頃からでしょうか、<ボールペン>が登場し、書き損じたら消せないのですが、瞬く間に、筆記用具の主流になってしまいました。ところが、<ワープロ>が登場し、そして<PC>が登場すると、その画面上に書くという筆記方法が、これまた主流になってしまい、ボールペンは脇役になり、鉛筆は、ほとんど使わなくなってきています。

今や、音声を文字化する事が主流になりつつあるのでしょうか。『近くのパン屋さん?』という私の声を聞き取って、画面に店の名前と地図が出てくる時代になりました。もう少しすると、思ったり考えたりした事が、文字化したり音声化したりする時代がきてしまうのではないでしょうか。ちょっと怖い感じがしてきています。

それでも、私の机の上の<ペン入れ>には、六角錐の鉛筆と、丸型の2色ほどの色鉛筆があります。時には使うことがあるからです。見たり、聞いたり、書いたりした学校時代が懐かしくなってきました。出さなかった、初めて書いた「恋文」も、鉛筆書きだったのです。コーリンとか三菱のメカーの名前も覚えています。

鉛筆に必要なものがありました。鉄製の小刀の"肥後守(ひごのかみ)"で、鉛筆削りをしたのですが、折りたたみ式のナイフが出てきて、そして手動の鉛筆削り機、電動の鉛筆削機で削ったのです。紙で巻いてあって、それをむくアメリカの鉛筆ももらったことがありました。そう言えば、その"肥後守"で、チャンバラの木製の刀を作ったのです。その時の刀傷が指や手のひらに、幾つも残っています。(5月5日記)

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予定

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もう、南の方からは、「入梅」の便りが聞こえてきました。めぐる季節の移り変わりの早さに、驚かされます。この花は、「レンゲソウ」です(「里山を歩こう」の最新レポートです)。実に鮮やかで美しいです。昨夕から、雨が断続的に降っていて、前線が広がっている様です。これが、もう少し日が経つと、梅雨前線になるのでしょうか。

一時帰国の終盤になりました。まだ人を訪ねなければなりませんが、帰国前に予定した計画を、全部果たせない様で、言い訳はしませんが、申し訳ないなと思わされています。家内の叔母は、102才になるでしょうか、どうしても、この方は訪ねなければなりません。午後、出掛ける予定でおります。予定をこなせないのは辛いものです。

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