四倍の祝福

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ハドソンは、外国で働きたいと、母国で準備をしながら、よく貧しい人を訪問していました。日曜日の夕方、アイルランドの家族を訪問すると、5人の子どもがいて、『妻が死にそうなので、助けてください!』と言うのです。

『どうして、他の人を呼ばないのですか?』と聞くと、『18ペンスを払えないのなら行けない!』と言われ、断わられたそうです。しかし、この若者にはクラウン銀貨一枚しか、所持金がありませんでした。それが彼の持っていた全財産でした。

その時、彼に『あなたはお金を持っているのに、それで彼らを助けようとしていないではないか!』との天来の声を聞くのです。心の苦闘の末、彼は持っていたクラウン銀貨を貧しい家族にささげます。それは彼にとっては、きびしい決断と行為でした。

翌朝、一通の郵便が、彼のもとに届いたのです。その封を開けてみると、そこには半ポンド(クラウン銀貨の4倍)が入っていたではありませんか。彼は後に有名なことばを残します。『弱者を助ける者は、決して乏しくなることはない!』とです。

ずいぶん昔の事ですが、お米が一年ほどの間、なくなると与えられ、またなくなると与えられるという事がありました。また、子どもの進学を考えていた時に、結構高額のお金が送られてきた事がありました。それで息子は、進学することができたのです。

この子は、外国から来て、激しい労働をして働き、祖国に送金をし、自分の家族を養っている人たちを、家に呼んではもてなし、何くれとなく助けていたのです。その中に、日本軍によって父親を殺された、年輩の方がいました。

彼は、帰国後、その感謝を、その子の父親である私にも示してくれました。孤児や寡婦や外国人に、優しい手を伸べる生き方は、素晴らしい事です。《四倍の祝福》があるのです。今日は、この息子の「誕生日」です。

(ヴィクトリア女王(ヤングヘッド)の「クラウン銀貨 」1847年銘)

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ガンピ

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小学校で、日本特産の「和紙」の原料になる木が、「コウゾ(楮)」、「ミツマタ(三椏)」、「ガンピ(雁皮)」だと学びました。パピルスや羊皮紙、木板や竹板や粘土板に、文字を書いたり刻んだりしたのですが、筆に墨を浸しても滲まない「和紙」の出現は画期的だった事でしょう。この「和紙」を、留学僧は、長安や洛陽の都に持参し、献上したそうです。

テレビで、「紙漉き(かみすき)」の様子を見た事がありました。それを見ていて、一度、自の手で漉いてみたいと思ったのです。この写真の木は、「雁皮」で、小さな花をつけています。今朝、配信された「里山を歩こう」に、掲載されていたものです。広島県下の芸予諸島・上蒲刈島に咲いていたそうです。

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願い

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観戦して面白いと思うスポーツは、アメリカンフットボールです。近代スポーツとして、実にアメリカ的なスポーツなのです。ラグビーは、自分の立ち位置から前方に、ボールを投げられません。ところが、アメフトは、QB(クオーターバック)が、前方に投げる事ができるのです。

自分は、ハンドボールをやっていたことがあって、ちょっと自慢になってしまいますが、ボールを遠投するのが、けっこう好かったのです。投げたボールが、先の方に行くとヒュッと浮くように飛んでいくのです。それは、監督に言われて、毎晩、お風呂の湯を、手首で何百回となくかいた賜物で、スナップが効く投法ができたのです。

それで、大学でアメリカンフットボールをする様に薦められたのです。QBになれば、花形選手になれたかも知れません。やってみたい気持ちはありましたが、中高と、さんざ走ったので、もういいかと言う事で諦めたのです。兄のチームに、Sと言う"名QB"がいましたし、今話題の日大にも、Oという"名QB"がいました。

優勝チームには、必ず有能な"QB"がいるのです。もし、"QB"に機会を与えないなら、勝つ事ができるのです。《投げさせない》ために、タックルをして防ぐ作戦が必要です。今季の関西学院大学のアメフトのQBは有能の様です。彼に、思いの儘プレーさせない事が、勝つため、優勝するための必要条件だったのでしょう。それが、行き過ぎた<反則タックル>をさせてしまったわけです。

選手は、<駒>で、コーチの作戦に従ってプレーをするのです。卑怯で論外な作戦で、日大の選手が加害者になり、関学大のQBが犠牲者になってしまいました。あのタックルを観て、第一に思いに閃いたのは、太平洋戦争末期の「神風特別攻撃機」のアメリカ艦船への攻撃の様子でした。あれは戦争で、追い詰められた日本軍の最終作戦でした。祖国防衛、終戦、終戦後の講和のために、若き命が犠牲者になってしまったのです。

でも、今回のは、平和な時代の"学生スポーツ"です。1950年代に、中学に入った時、私はバスケットボール部に入りました。そこには、予科練帰りや予科練に憧れた、特攻精神の上級生、高校生、大学生、社会人の先輩たちが出入りして、鉄拳をふるっていました。ああ言った精神が、いまだに大学の運動部に受け継がれて、『潰してこい!』と命令するのですね。命じられた二十歳の学生は、なかなか断れないのです。加害者の彼が被害者なのです。

私を指導してくれたアメリカ人起業家の孫が、関東大学リーグに所属する学生チームのアメフト部に、今春入部しています。先日、帰国中に、彼のお父さんの事務所を訪ねた時、『今日は、京都大学との練習試合で出掛けています!』と言っていました。高校時代に陸上部 で活躍していて、大学ではアメフトをしたいと始めたそうです。父や祖父の祖国で誕生したアメフトを、日本の大学でしているのです。

勇気をもって、相手と相手チームに謝罪した宮川泰介選手が、この一件で<潰されない様に!>、そう願う五月の下旬の週の半ばの夕べです。

(NFLの名QBだった「ジョー・モンタナ」です)

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道草

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小学校の通学途上で、登校の際はしなかったのですが、下校時にしたのが、「道草」でした。田んぼの脇の農業用水の中のフナやザリガニをとったり、里山に上がって、藪を突っついたり、国道沿いでは買い食いをしたりでした。ある時は、酒屋をしてる級友の家に寄って、ジュースをご馳走様になったり、月刊誌の発売日に、級友の家に行って、配達されたばかりの雑誌の封を切って、初めに読んだりしてしまったりでした。

「道草」を「喰う」という言葉があります。その意味は、"馬が道端の草を食っていて、進行が遅れる。転じて、目的地へ行く途中で他のことに時間を費やす。途中で手間取る。「―・っていて帰ってこない」「在学中に病気で一年―・う」(デジタル大辞泉)"です。ところが、「道草」にはさまざまな価値や効用があるのです。『子どもの精神の成長や子供の社会化に役に立っている!』と、環境心理学者の水月明道は言っています。

馬が喰う様に、よく私も「道草を喰った」ものです。人生全体にも、「道草」があるのでしょうか。一体、人生の終着点とは、大臣や社長や学長や資産家になる事なのでしょうか。これらになっても、いつの日か、後進に、その獲得した立場を譲らなければなりません。ついに退職して、役職のない自分に戻ってしまうのです。とすると、それらは人生のゴールではないわけです。

そういったものには縁も資格も能力もなかった私にとっては、すべてが「道草」だったのかも知れません。『如何に死んでいくか?』、それまでの時を、私たちは、「道草」を、まだ喰って過ごしているのかも知れません。誰もが避けられない現実を、やがて迎えるまで、意味と価値のある時を、「道草」を喰いながら過ごしたいものです。

としますと、《在華十二年》の年月は、私の生涯の《6分の1》の時になるのですが、私の精神の成長と、社会性の涵養のための「道草」であるのでしょうか。常識人の願う道から外れてしまったのですが、人として成長するための有為な時であったと、感謝しなければなりません。もしかすると、日本で過ごした年月の方が、「道草」であって、今が寄り道をしない、本道を歩んでいるのかも知れません。

(夏目漱石の「道草」です)

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車軸

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「車軸を流す」とは、"車軸のような太い雨脚の雨が降る。大雨の降るようすをいう。車軸を降らす。車軸をくだす。「雨―・すがごとく切子かな/万太郎」" と、goo辞典にあります。昨夕、軍の病院に入院中の知人をお見舞いしようと、出掛けました。行先の空に、真っ黒な雲が広がってきて、『雷雨になりそう!』と思ったら、病院に着く頃に、パラパラと降り始めたのです。

病室に上がって、肺の病気で治療中の知人は、意識が朦朧とされておいででしたが、耳元に口を当てて、呼びかける声に、頷いておられました。実は、奥様も、市内の他の病院に入院中で、ご夫婦で病を得て、もう2、3年になるでしょうか。お嬢様がオーストラリアに留学された後、北京でお仕事をされていて、看護ができずにいて、親戚のみなさんや、入院中の世話をしてくださる方を雇ったりして、介護おられるのです。

しばらく病室で、ご一緒に過ごしてから、回復を願って、そこを辞しました。玄関から車までの間は、小降りでしたが、大通りに出ましたら、まさに、その「車軸を流すような雨」が、強烈に車を叩きつけ、またたく間に、道路が川のようになってしまったのです。車を減速せざるをえないほど、視界が見えにくくなってしまったのです。

私は、こう言った雨が好きなのです。靴やシャツを脱いで、雨の中に飛び出したいほどなのです。人の目もありますし、何よりも年寄りですから、そんな軽率な行動はできかねたのです。でも気持ちははやるのです。まあ、やっとの事で我慢していました。間も無くわが家のある小区に着き、運転くださった知人を家に招いて、一緒に食事をしたのです。

雷鳴や轟は、激しくなく、《雷雨》と言って好いのでしょうか、強雨、暴雨、豪雨なのです。車の中で感じた雨の強さは、今までの雨に遭った中で、最強でした。この時期、雨傘を持たずに出てしまって、家の近くでしばらく車中で過ごしてしまいました。舗装以前の道路でしたら、馬のひずめの跡や、牛舎馬車の轍(わだち)の跡を、消してしまうような雨脚でした。

こう言った雨の降り方を、「どう降り」と言うそうです。同じ辞書に、"雨が勢いよく降ること。どしゃぶり。 「降出して来ました雨は、-で、車軸を流す様で/真景累ヶ淵 円朝」"とありました。こんな雨、雷雨も雷光も雷鳴の様に、型破りに大きく、激しく、強いのに出遭うと、『ああ中国大陸にいるのだなあ!』と思わされてしまいます。

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いただきます!

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どこの国に行っても、その食卓で聞く事のない「ことば」が、二つあります。これまで韓国、中国、マレーシア、シンガポール、グアム、ハワイ、カナダ、アメリカ、ブラジル、アレゼンチンなどの国を訪ねましたが、そこでは一度も聞いた記憶がありません。それは、私が幼い日から、父と母の家で、食卓について、箸を手に、食べる前に、『いただきまーす!』と言い、食べ終わった時に、『ごちそうさま!』と言う「ことば」です。

私は、父が働いて、それで得た給与で買った食物を、母が調理してくれ、卓袱台(ちゃぶだい)にのった食事を食べる時に、そして食べ終わった時に、その「ことば」を言ってきました。『お父さん、お母さん、ありがとうございます。この食べ物を感謝していただきます!』という意味での『いただきます!』、『ごちそうさま!』なのです。そんな意味が分からない幼い時期から、兄たちがしている様にしたのです。今日でさえも、家内が作った食事、招かれた家で供される食事、レストランでの食事の時に、そう言い続けています。

ある方は、命ある物を、食事としていただくにあたって、肉や野菜の命に感謝しています。また、それに携わった人々への慰労や感謝をします。そしてある人たちは、万物の造物者への畏敬と感謝を込めて、そう言い続けてきています。《礼儀正しさ》を、こう言った形で表してきた、日本人の《美徳》なのでしょうか。この中国から、日本人は「礼」を学んで、生活の中に定着した「文化」をの一つなのでしょうか。

私が招かれたアメリカ人の食卓では、"Thank you!"がありました。招きと食事ともてなしへの感謝を、そう言うのです。これまで、『いただきます!』なしで、食べる事は、ほとんどありませんでした。まあお腹が空き過ぎて、食べ始めてしまった事はありましたが、《けじめ》をつけた生活こそが、日本人の使う「ことば」に表されているのです。

毎週の様に、多くの人と食事をとる事がありますが、自分の皿に食べ物を盛って、食卓に着くと、それぞれに食べ始めていくのに、初めは慣れずにいましたが、それが<中国文化>や<中国方式>なので、今では、それに従っております。でも、《けじめ》がないのは、まだまだ慣れません。<入学式>なしで学校が始まり、<結婚式>なしで生活を共にしてしまう様な生き方が難しいのです。

もう何日も前に、いただいた菓子折りや、食事に招いてくれ、その感謝をしたのに、その後、また会った時には、『先日は、ご馳走様でした!』とお礼を繰り返すのです。まず、こんな<二重の謝礼>をするのは、日本人だけです。もう、それが生活の一部に組み込まれてしまっていて、そうする事で、供した方も、受けた方も安心するわけです。これって<ムラ社会>の遺物なのでしょうか。

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花々

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広島県北広島町の中国山地に咲く花を、「里山を歩こう」が配信してくださいました。
上は、「ヤマリンゴ(オオウラジロノキ)」、実は果実酒に使われるそうです。
中は、「サクラソウ」です。
下は、「リュウキンカ」で、水が流れる場所、湿地の花だそうです。

自然観察って、楽しいのでしょうけど、この様に、撮影してくださった力作を、観させていただいて感謝でいっぱいです。きっと険しい山道を歩いて、谷に下って、撮られたりなさるのでしょう。そんな事を想像しながら、観ています。ありがとうございます。

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いろいろな事

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昨晩、華南の街に、4週間ぶりに戻ってまいりました。大学で経済学を講じる先生で、私たちの若き友人の一人が、空港まで出迎えてくれました。40分ほど高速道路や一般道を運転してくださって、懐かしいわが家に送っていただきました。この方は、名古屋の大学で学位を取られ、勤めておいでの大学の責任ポストを担っておいでです。

やはり暑いのです。昨晩は、旅の荷ほどきをしてし、明けた今日は、最高気温が、39℃の予報で、朝から、もう30℃を寒暖計は示しています。まさに「夏天来了xiatianlaile」です。この分ですと、今夏は、どれ程の暑さになるやら、ちょっと心配になってしまいます。北半球全体、台風やサイクロンや竜巻や暴雨に、見舞われ兼ねません。

さて、今朝、6時半頃に、近くのスーパーに、青物や肉や果物を買いに行ってきました。豊かな食材が、並んでいて、この国は豊かなのです。勤勉に働くからでしょうか、この12年の間に、瞬く間に、豊かさが街に溢れかえって来ています。美味しい"マンゴー"を奮発してしまいました。トマトのキュウリも新鮮で瑞々しいのです。

8月には、満12年の在華を印します。多くの方たちと出会い、交わり、涙も笑いも交わし合うことができた日々でした。もう少し、こちらで過ごし、中国の巷で、活発に、勤勉に働き、学んでおいでのみなさんと、時を共にして過ごして行きたいと願ったところです。少し旅行もしてみたいのです。

このブログも、続けてアップして行きたいと願っています。結構読んでいてくださる方がお出での様です。迎える暑い夏、日本では、その前に梅雨を迎えますが、これにめげずに健康で健やかである様に、心から願っております。

一時帰国中、お会いできたみなさんも、お会い出来なかったみなさんもいらっしゃいました。次回は、もっと大勢の方々にお会いしたいと願っています。成田空港第二ターミナルの出国ゲートで、一人にご婦人が、家内と私を待っていてくださって、見送ってくださいました。15年振りほどの再会で、もうご長女は社会人、下のお嬢さんは、大学生だそうでした。しばらく時を、ご主人とお子さんたちと一緒に過ごした事のあるご家族です。

「おたべ」と言う、京都の生八つ橋などをお土産にいただきました。家内とは、これまで電話のやりとりや再会があったのですが、嬉しい友との再会でした。生きているって素晴らしいですね。もうスイカが、夏の果物の主になって、今朝のスーパーの果物の売り場に、きれいに並べられていました。

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正々堂々

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「正々堂々」、「正攻法」、"スポーツマン・シップ"という言葉があります。日頃、切磋琢磨、厳しい練習を積み重ねて、試合や勝負に臨み、競い合うスポーツでは、強い相手には譽れを献上し、途上の人には激励を、美技には賞賛を与え合う美風が残っています。勝者は奢らず、敗者は次の機会に向けて、さらなる練磨を積むのです。

汚い手や禁じ手を使うと軽蔑されるのです。私の二人の兄と弟と私は、野球を愛した父に倣って、学生時代はスポーツに励んでいました。誰もオリンピックにいけませんし、トップ選手にはなれなかったのですが、みんなスポーツを愛して楽しんだのです。

ここに掲げた写真は、関西学院大学と日本大学のアメリカンフットボールの試合の一場面を撮ったものです。QBの選手に、背後からタックルしている瞬間をとらえたものです。プレーが終わっている選手へのタックルが、物議を醸しています。選手を潰すために、こう言ったプレーを、監督がする様に指示していたそうです。

この様なプレーをして、勝たなければならないのでしょうか。よく野球に、"ビーンボール"があります。たとえお金が絡む"プロ"であっても、これは禁じ手です。また相撲にも"張り手"がありますが、上位の相撲取りがとる戦法ではありません。

関西学院大学のQBは負傷し、全治三週間ほどの怪我だったそうで、選手生命を奪われかねない様な危険性があったのです。それが戦法の一つであったとしたら、この監督には、スポーツを指揮する資格はありません。その指揮に従う選手も言語道断です。アマチュアの世界にも、お金や名誉が動機付けになってきているのでしょうか。

相手の好プレーに、拍手が送れて、"スタンディングオベーション"までする様な心意気で競技に臨んで欲しいものです。何時でしたか、女子サッカーで、負けたチームのキャプテンが、グランド上で落ち込んでいたとき、その選手の肩に手を回して、日本チームのキャプテンが慰め、善戦を讃えている写真を見た事がありました。

そんな試合をして欲しいものです。私の上の兄も、このアメリカンフットボールをしていて、ある年の大学選手権の勝利校のスタメンでした。体は大きくなかったのですが、足が早くて好い選手でした。この兄は、父の誇りだったのを思い出します。"フェアープレイ"を、後輩たちに見せていただきたいのです。

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諭し

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これまで、大勢の人と出会ってきました。一度切りの方がほとんどでしたが、もう亡くなられた方も多くなりました。頻繁には会えませんが、親しく関わった方がいて、時にお会いすることもあります。出会いを意味する言葉に、「邂逅(かいこう)」があります。その意味は、『思いがけなく出会うこと。めぐりあい。 「三年振りで-した二人は/それから 漱石」』と、"ことバンク"にあります。

ニューヨークの学校の教師で、教え子が世界中にいて、彼らを訪問するために、私の恩師の事務所を、たびたび訪ねてきた方がいました。元ボクサーで斜視で、私の髪の毛を散髪してくださるほどに多芸でした。この方が、口を酸っぱくして、『金と名誉と女性に気をつけて、生きていきなさい!』と何度か言ってくれました。この方は、多くの人が、この三領域で失敗して、人生を棒に振ったのを見てきたから、誘惑に堕ちそうな若く、未熟な私に、言い諭(さと)してくれたのです。

先程、浜町の方を散歩して、帰りしなに、水天宮の交差点の際にある薬局で買い物をしてきました。その買い物中に、白色のスラックスで水色のシャツを着て、ハイヒールを履いた女性がいました。チラッと見ただけした(その割りには、随分多くの事が目に飛び込んだわけで、これが私の実態です)。買い物を終えて通りを歩いていると、その女性が、私を通り越して行ったのです。二度見る機会がやってきたわけです。

都会でハツラツと生きる女性でしょうか、だいたい、誘惑というには、こう言ったパターンでやってきます。おじいさんになったら、免疫ができて、なんて言えないのです。私が三十代の時に訪ねた、母とほぼ同年齢の方が、『私は、この歳になっても、女性を犯そうとしてやまない衝動に駆られる事があるのです!』と言われた事があります。それを聞いて、ほんとうに驚きました。

自分が、わざわざ車を運転して、この方にお会いしたいと思って、四国の愛媛にまで出掛けて、表敬訪問するほど、生き方にも思想にも優れた人格者でした。《達観》などないのだ、《免疫》などないのだと、この方は教えてくれていたのです。その正直さが好きでした。そう言った忠告者、優れた生き方をする人がいて、今日まで、道を外さずに、生きてこれたに違いありません。

これまで、限りなく危なっかしい生き方で、家内をハラハラさせてきたのでしょう。お金と名誉は、自分には、それほど誘惑の力は強くなかった様です。でも、湯浴みをする女性を見て、罪を犯し、その夫も殺してしまうほどに強烈な誘惑が、この世にあるのです。人生の成功に自惚(うぬぼ)れてしまってできる、<心の隙間>に入り込んで来るのです。ゴキブリ薬の宣伝ではありませんが、男などは”イチコロ"なのです。

会話も人格的な交流もなく擦れ違う人、自分に忠告するために、何かに押し出されて来る方、自分で好んで近づいた方、誘惑者も有益者も、沢山の方がいました。『机を飛び越え、椅子を蹴って、誘惑者の手から逃げた事があった!』と、生々しい体験談を語ってくれたあの方との出会いは、「思いがけなく会った」のではなく、絶対的な《必然の出会い》でした。あの方のヒゲが、懐かしく思い出されます。

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