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小学校の通学途上で、登校の際はしなかったのですが、下校時にしたのが、「道草」でした。田んぼの脇の農業用水の中のフナやザリガニをとったり、里山に上がって、藪を突っついたり、国道沿いでは買い食いをしたりでした。ある時は、酒屋をしてる級友の家に寄って、ジュースをご馳走様になったり、月刊誌の発売日に、級友の家に行って、配達されたばかりの雑誌の封を切って、初めに読んだりしてしまったりでした。
「道草」を「喰う」という言葉があります。その意味は、"馬が道端の草を食っていて、進行が遅れる。転じて、目的地へ行く途中で他のことに時間を費やす。途中で手間取る。「―・っていて帰ってこない」「在学中に病気で一年―・う」(デジタル大辞泉)"です。ところが、「道草」にはさまざまな価値や効用があるのです。『子どもの精神の成長や子供の社会化に役に立っている!』と、環境心理学者の水月明道は言っています。
馬が喰う様に、よく私も「道草を喰った」ものです。人生全体にも、「道草」があるのでしょうか。一体、人生の終着点とは、大臣や社長や学長や資産家になる事なのでしょうか。これらになっても、いつの日か、後進に、その獲得した立場を譲らなければなりません。ついに退職して、役職のない自分に戻ってしまうのです。とすると、それらは人生のゴールではないわけです。
そういったものには縁も資格も能力もなかった私にとっては、すべてが「道草」だったのかも知れません。『如何に死んでいくか?』、それまでの時を、私たちは、「道草」を、まだ喰って過ごしているのかも知れません。誰もが避けられない現実を、やがて迎えるまで、意味と価値のある時を、「道草」を喰いながら過ごしたいものです。
としますと、《在華十二年》の年月は、私の生涯の《6分の1》の時になるのですが、私の精神の成長と、社会性の涵養のための「道草」であるのでしょうか。常識人の願う道から外れてしまったのですが、人として成長するための有為な時であったと、感謝しなければなりません。もしかすると、日本で過ごした年月の方が、「道草」であって、今が寄り道をしない、本道を歩んでいるのかも知れません。
(夏目漱石の「道草」です)
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