昨夜(ゆうべ)、PCで調べ物をしていましたら、スカイプのコールが鳴りました。画面を見ましたら、長女と次男が一緒に応答を求めていましたので、そのキーを押してみたのです。シンガポール・東京・こちらの《三者会話》が行われたのです。『いやー、便利な時代になったんだ!』と改めて思ってしまいました。子どもの頃、わが家にあったのは、右手でハンドルをグルグルと回して呼び出す《有線電話》だったのです。右手で持った受話器を耳にあてて、ラッパ型の送話口に近づいて話す、もう今では博物館にしかない電話機が、壁にかけられていました。父が街中にあった事務所と、郡部にあった工場と自宅とを結んで、仕事上不可欠なものだったのです。《有線》ですから、電話線の中を信号に変えられた音声が、行き来する道理は大体は分かったのですが、幼い私にとって、きわめて不思議な世界でした。

 仕事上、あったほうが便利だということで、発売間もなく《ポケベル》を手に入れました。電波の届く距離にいるなら、《無線》での連絡が入って、公衆電話を見つけては、発信先に電話して、用件を聞いたりしましたが、その利用も短い間のことでした。その後に《PHS》を使い始めたのです。いやー、ほんとうに便利だと思ったものです。その後、今のような《携帯電話》になったわけです。昔の映画などを見ていますと、『携帯電話があったら、こんな悲劇は起らなかっただろう!』とか、『もっと意思の疎通ができたのに!』といった場面が出てきて、やきもきしてしまいますが。便利な分、どこにいても電波に追いかけられてしまう、強迫観念に縛られてしまうのは1つの問題ではないでしょうか。静かにしていたいときは、便利さを捨てて、携帯放棄をしたくなる時もありますが、みなさんは如何でしょうか。こちらでは、もう年配の方々も必要不可欠の利器として持ち歩き、家族や友人との間で重宝されているようで、その普及率は、ものすごいものがあるようです。

 近況を分かち合ったり、とりとめもない話がつきなくて、家内と長女と次男と私とで、1時間近くも話していたのではないでしょうか。これを《会議通話》と呼ぶようで、遠く離れた家族の間では、とても優れものです。九十四歳になった母の介護のことが話題になりました。私は三男坊で、今は国外におりまして、母の近くにいてお世話をすることができないので、二人の兄と弟には申し訳なく思っているのです。それで、子どもたちに、『母の面倒をみようと思っているんだけど、どう思う?』と、以前、意見を求めたことがありました。とくに娘たちの考えは、『お父さんは無理!』という結論でした。というのは、『しないでいい!』ということでも、『おじさんたちに任せたらいい!』というのでもないのです。彼女たちは、科学的なのでしょうか、実際的な眼で、祖母の最善の《今》を考えてくれているのです。しっかりと介護の方法を学んで、より良いケアーを提供しようとしてきているプロの集団の中にいることの安全、さらには、介護施設では、毎日一日中、様々なプログラムや行事があって、最期の時を生きる環境としては、家で個人で世話をするよりはよいとの結論なのです。愛がないのではありません。苦労してきた分、彼女たちは総合的に見ているのです。それで、兄弟たちに《提案》をしたいと思って、文書を書き始めました。


 5月16日夜7時半、NHKのニュースの後の「クローズアップ現代」で、介護の問題をちょうど始めていました。その日に限って、普段は見ない「KeyHoleTV」なのですが、たまたまチャンネルを合わせましたら放映していたのです。その番組で学んだのは、(1)失敗や約束を守らないことなどを決して叱らないこと、(2)叱られた感情だけ記憶に残って、傷つき、不安と怖れが増し加わるので注意すること、(3)笑顔で接し、笑顔が母親の日常の表情になるように、(4)面倒みている人の優しさが一番記憶に残るので注意すること、(5)老いることへの恐れと不安に苦しんでいる母親への理解してあげることを学ぶことができました。

 山陰の出雲で生まれ、兄弟姉妹もなく養父母に育てられ、十代の前半で、カナダ人の実業家夫妻との出会いで多くのことを学び、父と出会って結婚し四人の子をなしたのです。子供の頃は、《今市小町》と呼ばれて、お転婆だったと、おばさんから聞いたことがあります。父の仕事の関係上、出雲、松江、京都、山形、甲府、京城(現・ソウル)、東京と転居を重ね、今は、上の兄の家におります。やはり加齢は体力・気力・胆力を衰えさせているのでしょうか、家での介護の限界を、上の兄がたびたび言ってきています。それで、私は、「お母さんの今後について」という《提案》を掲げて、兄弟にメールで書き送ったのです。一番子育てで手を掛けた三男の病弱だった私ですが、年を重ねた母が、人生の最期のステージを、ハッピーで、満ち足りて、平安の中で生きて欲しいと願ったからです。子どもたちも、それぞれに祖母を思う心を知って感謝でした。


 甲州街道際にあった「福島時計店」のおじさんが、通りを歩いている母を、鼻の下を長くして、首を回しながら見続けていた様子を、何故か私は母ではなく、このおじさんを感心して眺めていたのです。『お袋っていい女なんだ!』と、中学生の私は、へんに関心したものでした。その母が94歳、中学生の私が66歳、人生って短いものですね。でも、病気はなく、食欲も旺盛で、まだまだ書も読む母に、今の最善を切に願う、ジィージィーと蝉の暑い鳴き声の聞こえる華南の盛夏であります。

(写真上は、母が乗った「一畑電車(出雲~大社間)」の車内、中は、生きながらえてきた「古木」、下は、日野のかつての「街並(甲州街道)で右側の奥に時計屋がありました)」です)

夏至

 

 二十四節気の一つ「夏至」です。今日は、無花果(いちじく)を食べるといいとか、栄養価の高い果物だからでしょうか。小学校の帰り道、武井さんの家の庭から道り路に枝を伸ばした無花果が、『食べていいよ!』と言っているようで、たびたびご馳走になりました。さて、こちらでは、もうとうに真夏になっていますが、関東地方では梅雨の真っ只中にあって、鬱陶しい天気が続いていることでしょうか。この時期の思い出をたぐりよせてみますと、どうしてもアルバイトに精出してしていたときのことが蘇ってまいります。北海道の会社であった「雪印乳業」が、東京に進出して来て、東京都下にも工場を作りました。八王子から立川に向かって走る甲州街道(国道20号線)から200メートルほど入った所にあった農地を、牛乳工場としたのが、1963年だったと思います。この会社に勤めていたお嬢さんを持つ母の友人から、アルバイトを募集してると聞き、渡りに船で応募して、その夏にアルバイトを始めたのです。

 三ヶ月の間、遊ばないで働きました。授業料の足しにしたり、本を買ったり、実入りの良いバイトを4年間毎夏させてもらいました。200ccの牛乳瓶が45本入った木箱が、製造部からベルトコンベアーで、向こうの壁が霞むほどに大きな冷蔵庫に送られてきますと、そのラインの脇に立って、その木箱を出庫に便が良いように積み上げていくのです。もちろん、なん種類もの牛乳がありますし、明日の天気予報によって製造計画が立てられていますから、指示は、プロの職員から出て、搬出口ごとに、これを振り分けて積んでいくのです。あの電動のベルトコンベアーの金属音と、積み上げたときの瓶と瓶の『カシャッ!』となる音が、今に至るも耳に残っています。最初の夏に、石原裕次郎の歌った「赤いハンケチ(作詞:萩原四朗、作曲:上原賢六、唄:石原裕次郎)」が、映画化されたり流行っていました。

    1 アカシアの 花の下で あの娘がそっと 瞼を拭いた
      赤いハンカチよ 怨みに濡れた 目がしらに
      それでも涙は こぼれて落ちた
    2 北国の 春も逝く日 俺たちだけが しょんぼり見てた
      遠い浮雲よ 死ぬ気になれば ふたりとも
      霞の彼方に 行かれたものを
    3 アカシアの 花も散って あの娘はどこか おもかげ匂う
      赤いハンカチよ 背広の胸に この俺の
      こころに遺るよ 切ない影が

 健康管理上、交代シフトで、何組かに分かれて作業をしたのですが、休憩時間には、だれかが歌い始めると、この歌をみんなで歌ったのを懐かしく思い出します。バイトの時に、ヒゲの生えた大学生たちが、子どものように声を合わせて大合唱していたのですから、あの時代の学生は純情だったのでしょうか。「北国の春」が終わって、真夏になっている北海道の様子を思い描き、旅行も恋もできない淋しさを、「遠い浮雲」を「しょんぼり観て・・」、紛らわせていたのです。そういえば、事務所に、みんなのお気に入りの女子事務員がいて、彼女の「おもかげ匂う」ポケットにラブレターを忍ばせたことがありましたが、それも実りませんでした。

 仕事を終え自転車に乗って、空が明けそめようとしている中を、家まで帰ったのですが、ある時、警察署の前で、警官に呼び止められました。タバコを吸って、人通りのない道を走っていたのですから、職務尋問でした。『バイトの夜勤の帰り!』と言ったら、納得したようでした。夏休み前からバイトを始めて、平常な生産に戻る頃までしたのです。『牛乳は好きなだけ飲んでいいから、瓶をわらないでね!』、『よくやってくれるね!』、『来年も来てくれますか!?』と言ってくれた主任の宇田川さんは、今もお元気でしょうか。今はこの会社名が消えてしまいましたが、美味しかった、「スパー牛乳」や「チョコレート牛乳」の味は、まだノドが覚えているのです。さあ、いよいよ盛りの夏の到来ですね。こちらから、《しょんぼり》して日本の空の夏雲でも思っている、そうお考えでしょうか?いいえ、暑さにもめげずに張り切っていますのでご休心のほどを!


(写真上は、「アカシア」の並木道、下は、「雪印・乳製品」です)

人柱


 『だれが好きか?』と聞かれて、『織田信長!』と答える中国人の学生が、意外と多いのです。ゲームの主人公であることも否めませんが、日本史に登場する人物の評価として、内外を問わずに高いのが、やはり織田信長のようです。日本史を学んでいまして、群雄割拠の戦国時代が実に興味深いものがあります。国同士のせめぎ合い、領地の拡大、親子の確執、養子縁組、姻戚関係の樹立、内通策謀、下克上、立身出世物語、栄達など話題が実に豊富なのです。裏切り、謀反を防ぐために、娘を息子たちの妻に迎えるのは、戦国武将の常套手段でした。信長の妹・お市も、その一人だったのです。近江国の浅井長政に嫁ぎ、後には、柴田勝家の妻になっています。子に、秀吉の側室となった茶々(淀殿、秀吉との間の子・豊臣秀頼がいます)、江(秀吉の甥・豊臣秀勝の妻、後に第二代将軍となる徳川秀忠と正室として再婚)がいますが、その人脈や家系は、こんがらがってしまった綾の糸のように複雑怪奇です。

 政略結婚でありながらも、『女は子を生むことによって救われる!』ということばがありますから、母や祖母としての喜びが、悲しみの狭間にはあったのでしょうか。でも37歳での夫・勝家と共に自刃の最期は、戦国武将の娘ならではの悲しいものがあります。NHKの大河ドラマは、お市と同時代に焦点が当てられることが多いのは、得心がいきますね。私の父の誇りの鎌倉武士の家系は、戦国時代には何をしていたのでしょうか。私がいるということは、何代も何代も前の祖が、それぞれの時を生きて、何かを生業(なりわい)としていたわけですから、不思議な感覚に襲われてしまいます。きっと三浦半島の片隅で、農地を耕して、三浦大根でも栽培したり、菜の花を植えて菜種油を抽出していたか、ミカン園を切り盛りしていたのかだと思われます。父と同じように、『今は土を耕しているが、わが家系は由緒ある鎌倉武士の末裔で・・・・』と言っては、農民の身分に甘んじていたのでしょうか。


 日本史を学んでいて、実に悲しいのは女性の生き方だけではなく、《人身御供う(ひとみごくう)》とか《人柱》になった人たちが多くいたということです。民俗学の研究の中に、東北地方には、「座敷わらし(童子)」という風習が残っています。座敷や蔵を守る精霊、守護神で、幸運や富を来たらせると言って、鄭重(ていちょう)に祀られていたようです。民俗学者の佐々木喜善が、『座敷童子は、圧殺されて家の中に埋葬された子供の霊ではないかと思われる。』と言っています。前に、「水に流す」で取り上げたように、岩手県下を南北に流れる北上川では、口減らしのために間引かれた子どもが川に流されて、流れの蛇行地点には地蔵が多く祀られていることについて触れましたが。ある家では、石臼の下敷きにして殺し、墓ではなく土間や台所などに埋める風習があったようです。そのように死んだ子の霊が雨の日に縁側を震えながら歩いていたり、家を訪れた客を脅かしたりといった話が伝えられ、それで、その迷える霊を鎮めるために神として世話をしてきたのでしょう。うわー、悲しい話の連続で恐縮です。この類の話は世界中にあるようです。

 そういった犠牲だけではなく、たとえば、『雲州松江城を堀尾氏が築く時、成功せず、毎晩その邊(辺)を美聲で唄い通る娘を人柱にした。』という話を、南方熊楠(くまぐすく)が、「南方閉話」で紹介しています。こう言ったことを思い出したのは、福島原発の収集のために、現場に駆り出された従業員の「被爆量」の調査のために、調査対象としてあげられた人の数が、3639人だということがわかったのだそうです。しかし、何と杜撰(ずさん)なのでしょうか、69人の今日現在の所在が分かっていないのだそうです。この種の業務を担当するのは、子会社、孫会社、その下請け、そのまた下請けと、劣悪な賃金と労働条件で働く人達が多く、きちんと名前や住所などの記録を残していないような労務管理が、東電の現場でなされていたことが暴露されたのです。

 まさに、これって平成版の「人柱」、「生け贄」ではないでしょうか。使い捨ての労務者、昔、「タコ部屋」という牢獄もどきの現場に収容されて、極悪の条件下で働かされていた労務者の方々の話を思い出したのです。「背広組」と「現場労務者」との、あらゆる面での格差の大きさが、この企業の収益の根底にあるのではないでしょうか。その杜撰さには、呆れてしまいます。「人柱」のように、働く人があって、想像を絶するような報酬をもらう役員がいるというのは、社会主義者でない私でも腹が立って仕方がありません。腹がたったので、昼ご飯にしようと思います。信長だって、これには怒るに違いありません!ちなみに中国語で、「怒る」を、「生気了(sheng qi le)」と言います。


(写真上は、「お市の方」、中は、三浦半島の海、下は、福島原発に事故現場です)

水無月


 広島と長崎を壊滅させた驚異のエネルギーを、平和利用するには、考えられるだけの危険を、最大限防ぐ必要がありました。少なくとも被爆国として、その怖さを身を持って体験したのですから原子力発電事業を始め、続けていく上で、どうしても万全、万無一失の安全対策をすべきでした。喉元過ぎれば・・・で、その怖さを忘れ、原子力発電事業を始めてからも、危険認識がなさすぎたのではないでしょうか。電力の供給は、私たちが生きて行くための絶対不可欠なもので、公益事業なのですから、企業収益の多くを、必要経費として危険対策費に回さなければなりませんでした。今日の外伝のニュースで、原発全廃を決めたスイス原子力安全局が、この5月5日に、『福島原発事故は想定内のことである!』との報告書を出してしていました。

 (1)緊急システムに 津波防護策が施されていなかった
 (2)冷却用水源や電源の多様化が図られていなかった
 (3)使用済み核燃料プールの構造が内外の衝撃に対して無防備で確実 な冷却機能もなかった
 (4)原子炉格納容器のベント(排気)システムが不十分だった-と指摘されている

とです。ここに報じられているのは、『・・しなかった!』の羅列です。無為無策での軽視、怠慢(中国語の「怠慢(daiman)」の意味は、『もてなしが行き届かない!』で、接待がうまく行かなかったことです)だったことになります。企業は、政治家への《もてなし》が慣例、さだめなのでしょうか、大きな見返りを期待するからなのです。私が、文部省傘下の一研究所に務めたとき、総務的な仕事をさせられました。研修会などを開きますから、事務研修関係の器具や事務用品の購入の経費も相当な額でした。その春、腕を骨折して、そのリハビリに山梨県の増富の温泉に行きました。その時、同宿している客の中に、研究所の近くで事務器具を扱っている会社の社長がいました。『取引させてくださいませんか。その見返りに10%、あなたに個人的に差し上げますが、如何でしょうか!』と誘ってきました。臨時の小遣いが入って、高級車だって手に入りそうな誘惑の話でした。ところで、『不正を憎み、義を愛すること!』を、両親に教えられて育った私でしたから、はっきりとお断りしました。小さな研究所だって、そんな誘惑の罠の中にあるのですから、日本有数の電力会社や委員会や議員たちにとっては、底知れない誘惑の谷が、大きな口を広げて飲み込もうと待ち受けているはずです。


 3月11日の地震と大津波のあと、福島第一原子力発電所が大津波の被害を受けたらしいとのニュースがありましたが、当初は、報道規制がひかれていたので、その厳粛さが、息子の家にいた私にも伝わって来ませんでした。後になって分かるほどの、国や近隣諸国を根底から震撼とさせる事態は感じていませんでした。かつての旧ソ連やアメリカや国内の原発事故のどれよりも、事態は極めて深刻だったのにです。次男は、この初めての経験に身も心も震わせていました。220キロも離れて住む東京都民にとっても、それほど深刻でしたから、福島県民はいかばかりだったことでしょうか。『事実が隠蔽されていて、伝えられていない!』との近隣住民の声が聞こえていましたが、これも無視されていたのです。利害関係、損得、責任回避、根回しなどの思惑が、どす黒く渦巻いていたのが、私の眼にも見え見えでした。

 息子の家に家内といる間、『お父さん、今日は放射線量が多いので、なるべく外出しないほうがいいよ!』と言い残して、次男は渋谷の反対集会、代官山の講演会へと出掛けていき、インターネットで正しい情報を流し続けていました。『お母さんを連れて、シンガポールのお姉ちゃんのところに行ったらいいよ!』と気遣ってくれました。中学生の時にあった、阪神淡路大震災のおりに、学校を休んで給食活動に出かけて行った彼でしたが、社会人となって責任もあって、今回は自由な行動もままならないのですが、先日は、福島の知人を激励に出かけたと言っていました。深刻な原発事故の放射線の空中飛散や海水汚染、土壌汚染の収束、終息は、いつなるのでしょうか。

 『・・・しなかった!』ことの責任はやはり大きいのではないでしょうか。この時代の過誤、怠慢、蔑ろにしたことを、今の子どもの世代が、結果を受け継ぐのですから、厳粛なことに違いありません。こう言った警鐘の声が、外国の専門家から出されているのに、東大や東工大の学者や専門家たちが、公表や公言できない学問の世界の封建制、前近代的な在り方こそが、最も根源的な悪がこんなところにあるのです。そこに一枚、政治の世界の闇が噛んでいるのでしょうね。学者だと自他共に認める学者のみなさん、あなたは学びの途上にある者だとの謙遜な認識が必要なのではないでしょうか。私に影響を与えた老練で義を愛した、その道の専門家は、『学び始めて、やっと少しばかり分かり始めたばかりです!』と言っていましたが。


 家内に昨日、『どう?』と聞きましたら、『気にしないこと!』と名言を漏らしていましたから、禿げないので安心しました。ハゲてもハゲなくても、この事態の収束(終息)を心から願う大陸の水無月の夕べです。

(写真は、福島県「会津の風景」、中は、原発の「建屋の中の惨状」、下は、帝都・東京湾上の「花火大会」です)

ひめごと

 

 だれにでも《秘密(中国語では、mimi)と読みます》があります。昨年秋に家内が発病、入院治療、そして、今年の1月、日本に帰国後、また激痛に見舞われ緊急入院、退院、入院手術と繰り返しましたので、今学期の授業担当を取り消していただいて、ほかの教師に代講をしていただきました。帰国中、息子の家で、NHKテレビで放映されています連続テレビ小説「おひさま」を観始めたのです。朝の時間帯にテレビを観るなんて、これまで殆ど無かったことですが、出勤時間を心配しないでよい私は、こっそりと、この番組を見続けているのです。どうして、ここ中国で観られるのかといいますと、インターネットに「KeyHoleTV」というサイトがありまして、これを偶然見つけて、ダウンロードすることができたのです。私のノートPCで、約8cm×5cmの画面で、とても小さいのですが観ることができます(拡大できますが不鮮明になってしまうのでしません)。最近は音質も画質も、少し良くなってきて、我慢すれば日本の茶の間で観ているような錯覚に陥るのです。

 兵庫県明石の標準時の日本時間と比べて、北京時間は1時間遅れるので、放映時間は、北京時間7時になります。幸い、5時半頃には目が覚めていますので、ゆっくりした早朝のたたずまいの中で観させてもらっています。実に面白いのです。昭和10年代の信州安曇野が舞台で、暗雲急を告げ、戦争の深みに国全体、アジア全体、全世界が沈み込んで行く時代の物語です。戦争中に生まれた私は、安曇野から南東に位置する山梨県下で生まれましたから、さほど遠くない田舎の雰囲気が似ているのかも知れなく、興味はつきません。もちろん安曇野は中部山岳に位置していますが、平野が南北に広がって、ゆったりした自然が豊なところです。もちろん冬は厳しいものがあるのですが。作詞・やしろよう、作曲・伊藤雪彦の「安曇野」という題の歌があります。

    1 大糸線に 揺られて着いた ここは松本 信州路
    安曇野は 安曇野は 想い出ばかり どの道行けば この恋を
    忘れることが できますか せめて教えて 道祖神

    2 湧き水清く ただ一面の わさび畑が 目にしみる
    安曇野は 安曇野は 想い出ばか あの日と同じ 春なのに
    あなたはそばに もういない 恋は浮雲 流れ雲

    3 なごりの雪の 北アルプスを 染めて朝陽が 今昇る
    安雲野は 安雲野は 想い出ばかり あなたを今も 愛してる
    恋しさつのる 旅路です 揺れる面影 梓川
  (midiで聞けます http://www.fukuchan.ac/music/j-sengo2/jsengo2-frame.html)

 先週末から、杏子ちゃんという東京の両親の元から、叔母の家に疎開してきた小学生が登場しています。この叔母が敵役で、杏子ちゃんに少々いじわるなのです。でも彼女は、じっと歯を食いしばって耐えています。病気で入院した父、その看病をする母への理解があって、親元を離れて健気に生きている様子をうかがうことができ、戦時下によく見られた光景なのでしょうか。前回から、その杏子ちゃんに笑顔が戻ってきているのです。クラスメートが、絵の上手な杏子ちゃんに、象の絵を書いてもらうくだりが演じられていました。書き終わったあとに、ニコッと笑う初めての笑顔を、主人公の陽子先生が見つけるのです。頑なな子供から、笑顔を回復させるのですから、陽子先生の学級の雰囲気は極めて人間的な暖かさを持っていることになりますし、そういった学級運営をしている陽子先生も、当時の教育のあり方への違和感を覚えるのですが、子どもたちへの情熱は素晴らしいのです。細かいことに感動して、つい涙を誘われてしまい、よくテレビの悲しい番組を見て涙を流して泣いていた父を思い出してしまいます。


 この杏子ちゃんには妹の千鶴子ちゃんがいて、姉を慕って千鶴子ちゃんが教室にやって来るのです。そうしますと担任の陽子先生は、椅子を杏子ちゃんの隣に並べて、妹を座らせるのです。私の5学年上の兄が、小学校が焼けてしまって、近くのお寺で授業をしていたときに、ノコノコとこの教室にやってきた私は、兄の隣りに座らせてもらって、弁当を分けてもらったり、アメリカの《ララ物資》として送られてきた「粉ミルク」を溶かした牛乳を飲ませてもらったことを思い出しました。今日日の学校では、こんなことは許されないのでしょうね、いたずらな私は座っているというよりは、教室を徘徊しては、兄の級友にチョッカイを出していたのでしょうか。その教室替わりのお寺を、二人の兄と弟と4人で、35年ほど前に尋ねたことがありました。山奥の村里は、変化がなかったのです。その時、消失後再建された小学校も訪ねたのですが、次兄の担任が校長をしていて、その奇偶を驚き喜んでおられました。


 こんなにゆったりした気持ちでテレビを観るなんて、よいものですね!これが私の《ひめごと》でした。ぜひ内緒に!

注記:「ララ物資」とは、(LARA;Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)が提供していた日本向けの援助物資のこと、アメリカの教会が中心になって敗戦国の復興を願って示された愛でした。

(写真上は、「おひさま」のそば畑の一場面、中は、安曇野の「位置図」、下は、昭和24年に昭和天皇がここに来られた時、皇后陛下が読まれた「感謝の歌碑」です)

父の涙


 1964年に開業した新幹線に《ビュッフェ(フランス語で食堂車)》という食堂車が付いていて、それを運営する「帝国ホテル」が、アルバイトを募集しました。東京駅で、入線してくる食堂に食材を積み込む仕事でした。バイト料の高い、とても良い仕事だったのです。仕事の合間には、高級なハムなども食べさせてくれましたから、人気のバイトでした。新幹線のプラットホームで逆立ちをしたり、地上転回をしたり、相撲をとって暇つぶしができました。残念ながら、新幹線に初めて乗った日のことは覚えていませんが、もっぱら学生が鉄道に乗るには、安い鈍行を利用するのが常でした。

 この新幹線ですが、開発を担当された技術者の中に、三木忠直(1909年12月15日~205年4月20日)がいました。戦争中に、「銀河」という高性能爆撃機、また「桜花」という特攻の戦闘機の機体を設計された方でした。初めて東京駅で、新幹線の勇姿を目にしたときに、『あっ、何かに似てる!』と思ったのは、やはり飛行機でした。箱型の電車やくすんだ色の汽車しか見ていなかった私には、その斬新なデザインを見誤らなかったのです。戦争が終わって、三木忠直は、戦時中、自分が設計した専用機で、多くの若者を死なせたことを悔いるのです。「銀河」は1100機も作ったと記録が残されています。罪責感のます中で、平和を考え始めていたようです。ちょうど、「三公社」の一つであった旧日本国有鉄道(現在のJRです)が、戦時中の陸軍や海軍で、技術研究をしていた研究者たちを、国分寺にあった「鉄道技術研究所」に雇入れたのです。その中に、三木忠直もいて、こう考えていました。『とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ。』とです。


 三木忠直が、ある機関誌に、次のような証言を残しています。『私は戦前海軍で飛行機の設計に従事していました。戦闘機なみの速度を持ち、急降下爆撃可能な長距離爆撃機は「銀河」と命名されて1,100余機製造され、戦線に送られました。戦勢が我方に厳しくなってくると「特攻作戦」が行われるようになり、その一つとして双発の爆撃機の下に懸吊し、先頭に1トン爆弾をつけた一人乗り のロケット機が考案されました。我々技術者の反対にもかかわらず、この機は前線の要望と中央本省の命令により設計されることになりました。「桜花」と命名され、前線に送られましたが、米軍の制空権下では大きな戦果もなく、多くの若者が戦死していきました。

 そして敗戦。命令とはいえ、私の設計した飛行機で多くの若人が国のために散っていったことに深く心が痛む日々でした。その折、信仰者であった母と妻の勧めもあり、渡辺善太先生の門を叩きました。私の訴えに対し、聖書の教えとして

     「凡て重荷を負ひて労苦せる者我に来たれ。我汝等を休ません(マタイ伝11:28)」

との御言葉を示されたことが未だに胸に残っています。そして終戦の年の私の誕生日に先生から中渋谷教会で洗礼を受けました。なお、戦後米軍が「銀河」とそっくりの飛行機で直線長距離飛行の世界記録を出しましたが、平和だったら「銀河」で果たせたのにと残念でした。また、「桜花」とよく似たロケット機で、B29から発進し、航空機として初めて音速を突破する記録を作った機があります。私の設計が航空界のために役立ったのではないかと、技術者としていささか慰めともなりました。』 (鎌倉雪ノ下通信より)

とです。この方は、父と同学年で、同じ戦闘機の製造に携わった仲になるわけですから、同じ時代の嵐の中を駆け抜けて、生きてきたことになります。旧軍人だった彼の戦後の姿を、「NHKプロジェクトX~終焉が生んだ新幹線~」で見たことがあります。三木忠直のような脚光をあびる大事業に比べれば、名もない市井(しせい)の人でしたが、歯を食いしばりながら、男の子四人を、母とともに育て上げてくれたのですから、これだって大事業に違いありません。出典を覚えていませんが、私が好きな言葉は、

   父は父なるが故に、父として遇する。

です。『たった一人のかけがいのない父親なのだから、たとえ自分の父親は、栄光も賞賛も勲章がないにしても、ただ父であるという一点で、父として敬い、感謝し、労いなさい!』と言った意味でしょう。今朝、一人のお父さんの涙をみました。息子を殴ったことがあって、それを悔いて泣いておられたのです。そこに息子も夫人も居られました。そういえば、今日は「父の日」でしたね。『お父さんありがとう!』、嬉しい言葉でした。


(写真上は、鉄道博物館に保存されている「初代・新幹線」、中は、三木忠直が設計した戦闘機「桜花」、下は、父の「故郷」です)

ごめんなさい!


 父が生まれたのが、1910年(明治43年)3月23日です。晩婚の父の三男として、中部山岳地方の山村で生を受けた私でした。兄たちは島根県出雲市で生まれ、弟と私は、父の仕事の関係で、奥深い山と山の沢の部落で生まれています。母は、三番目にも四番目にも、男の子が欲しかったようですが、人生ままなならないものですね。父は生きていれば、今年101歳になっているのですが、残念ながら61歳で召されてしまいました。通勤で小田急線の電車に乗っていて、急停車したときにクモ膜下に異常を覚え、入院治療をしていたのです。今日は退院という日の朝、あっけなく召されてしまいました。『雅、いつか浅草にドジョウを食べに行こうな! 』との約束を果たさないままだったのです。食べ物は、どうでもいいのですが、《親孝行》ができなかったのが、心残りで口惜しいのです。

 その父は、秋田の「秋田鉱専(現在の秋田大学鉱山学部)」という学校で学んで、鉱山技師として働いていました。戦争中は、防弾ガラスのための「石英」を掘削する軍需工場に勤務していました。日の丸を鉢巻した従業員たちと、いっしょに写っている記念写真が、母のところに残っています。何年か前に、「ホタル」と「俺は、君のためにこそ死にいく 」という、鹿児島県知覧を舞台にした神風特攻隊の映画がありました。片道の燃料で爆弾を搭載して、沖縄に侵攻していたアメリカ太平洋艦隊の戦艦に体当たり攻撃をした青年たちの物語で、涙を禁じえませんでした。ある方は、前途有為の青年たちの特攻の死を、『無駄な犬死だった!』と言われますが、本当にそうでしょうか。多くの従軍された方々の死を無駄にするかどうかは、平和な時代がやって来たときに、焼土となった国土を立て直し、戦死者を出した家族を慰め、世界平和のために寄与するかどうかだったのではないでしょうか。同じように訓練を受けていながら、戦争が終わって、突撃できなかった方の手記を読んだことがあります。『生き残った私は、戦友たちの死を無駄にしないために、戦後を生きようと堅く心にきめました!』と言っておられました。どうすることもできない戦時下で、ある方は召集で、ある方は志願で、あの戦争に参戦したのですが、銃をとり、特攻機や人間魚雷を駆り、戦わざるをえない立場に立たされた彼らの苦悩や逡巡は、実に過酷なものがあったようです。父のいた私と違って、何人もの級友は母子家庭の子でした。彼らの家に行くと、軍帽、軍服姿のお父さんの写真が掲げられていたのを、何度か見たのです。


 私の父の掘り出した鉱石で作られた戦闘機は、きっと私が今住んでいます華南の街にも飛来して、爆弾を投下したことでしょうか。この街に住み始めて、この夏で満四年になりますが、2007年の暮になってからでしょうか、「日本語文化研究会」を開講しました。学生や社会人の方が集って、一緒に日本語を学び始めましたら、16歳ほどの一人の青年が、友人の紹介でやって来たのです。アニメで学んだとかで、大変流暢に日本語を話すではありませんか。その彼の祖父母が食事に招いてくれ、家内とおじゃましました。お二人は、この街の高台にある閑静な「干休所(退役の軍幹部の宿舎)」に住んでおられたのです。事情があって、彼は祖父母と一緒に住んでいたのです。お話しによるとお二人とも江蘇省の村の出身で、十代の頃から人民解放軍兵士として兵役についてこられ、高級軍人として退役して、今は悠々自適な生活をされていました。話しが進む間に、日中戦争のことが話題になって、『何でもお話していただけますか!』と願ったところ、おばあさまは躊躇しながらぽつりぽつりと話し始められたのです。


 上海から北の方に、だいぶ離れた村にお生まれでしたが、旧日本軍が来襲し、家々に火を放ったのだそうです。その火で多くの家が焼かれたのですが、おばあさまは、その火で火傷を負いました。話が、そこまでいきますと、おじいちゃんが制しなさったのですが、『いえ、ぜひ事実をお話しください!』と、私が願ったので、もう少し詳しくお話下さったのです。それで私は、『真抱歉!(本当に御免なさい)』と謝りました。彼女は私を責めたのではありませんが、私は咄嗟に謝罪をしたのです。『いいえ、あなたが謝る必要ありません!』と、意外と強く言われたのです。その日、その家を辞します時に、おばあちゃんと私は固い握手をし、家内とは強く抱き合っていました。『あっ、赦されたんだ!』と思ったのです。その時、私の肩から、そっと重荷が下ろされるような感じがいたしました。

 この街の南側を流れる河川の岸に、この街の長い歴史が石版に彫り刻まれて、掲出されてあります。おばあちゃんとの交わりの後だったと思いますが、中国人の友人の案内で上流からずっと案内してもらいました。やはり戦時中には、日本軍の空爆があり、300人ほどの死者があったとありました(ごめんなさい、はっきり覚えていません)。『うわーっ、父の作った飛行機から投下されたのだ!』と思わされ、そういった街に、時代が移り、加害者の子である私が住み始めているのだという、厳粛さをも覚えたのです。この7月で、在住五年目に入ります。9月からは、また大学で授業を担当することになっており、何か目的とか務めがあるのだとの思いで、今、準備中であります。あのおばあちゃんの孫の彼は、この4月から日本に留学のために行き、四国に滞在中であります。

(写真上は、「開聞岳」特攻機はこの山を見ながら出撃、中は、「特攻花」、下は、江蘇省の風景です)

山歩き

 

「山男の歌」があります。神保信雄の作詞、作曲者は不詳ですが、歌詞は次のようです。

       娘さんよく聞けよ 山男にゃ惚れるなよ
       山で吹かれりゃよ 若後家さんだよ 山で吹かれりゃよ 若後家さんだよ
       娘さんよく聞けよ 山男の好物はよ
       山の便りとよ 飯合のめしだよ 山の便りとよ 飯合のめしだよ
       山男よく聞けよ 娘さんにゃ惚れるなよ
       娘心はよ 山の天気よ 娘心はよ 山の天気よ
       山男同志の 心意気はよ
       山できたえてよ 共に学ぶよ 山できたえてよ 共に学ぶよ
       娘さんよく聞けよ 山男に惚れたらよ
       むすこ達だけはよ 山にやるなよ むすこ達だけはよ 山にやるなよ

 標高2999メートルの「剣岳」、北アルプス・飛騨山脈の難所の一つで、日本の数ある山の中でも、登山が最も危険だと言われています。この山を題材に、新田次郎が、「劒岳 点の記」として著し、文芸春秋社から1977年に刊行されました。私は、地図を見ることや「時刻表」を見ることが好きでしたし、もちろん山登りも大好きでした。国土地理院の「白地図」を、大きな本屋で買っては、地図上の等高線やさまざまな記号を眺めては、自分がどこにいるのか、自分の関心を寄せている地域の様子を、地図の上で探したりしました。新田次郎の作品に触れて、こう言った地図作りに、命がけで取り組んだ人がいたことを知って、とても感動したことでした。明治40年ころには、地図の作成は、陸軍が国土防衛上の理由から、測量を行っていたようで、「劒岳 点の記」の主人公も、陸軍省の測量部の測量士なのです。

 きっと教育など受けたことのない道案内の山男・宇治長次郎と、軍人として軍の学校で学んだ測量士・柴崎芳太郎の篤い友情、山を愛する者同志の共感と信頼、互いの仕事に対する真摯な姿勢への敬愛、そういったものが感じら、二人の心の動きなどが、山を愛する筆者の手で描かれ、実に面白いのです。なんとなく明治生まれの鉱山技師(青年期)で、秋田、山形、山梨、朝鮮などで仕事をした父の姿を髣髴とさせてくれるのです。
 
 最初の職場の上司が、山好きで、日曜日によく山歩きに連れていってもらいました。当時、土曜日は休日ではありませんでしたから、日曜日の朝に集合しては、奥多摩や中央線沿線の山を歩いていました。日曜日の過ごし方が、その後、大きく変わるのですが、あの時期の山歩きは、創造の世界の厳かさを、小さな人間の脚で踏み歩き、眼でその様子を眺め、天気の移り変わりに心を動かえ慌てたりした、そんな週末を過ごしたのです。その山仲間も、数年のうちにバラバラと、他の職場に移っていってしまい、誰も、その職場に残らなかったのは、何だか不思議な感じがしております。『山に行きましょう!』と誘ってくれたのが、南信の高遠の出身の課長で、私が招聘されて勤めた学校の短大の教授になって、転職してきました。まあ一見したら、どなたも大学教授とは思わないでしょうね。あの「劔岳 点の記」の長次郎然としていましたから、ガニ股の山男そのものでした。国文学を先行されて、俳句や和歌を読み、歌人・古泉千樫 の研究書などを残しておいでです。


 先日、広西壮族自治区に行く機会がありました。広東省の広州からバスに乗って着いたのが、「梧州(Wu zhou)」という街でした。ここに、「白雲山」という小高い山があって、麓から歩いて登りました。ちょうど「儿童节(こどもの日)」で、学校の休みの子どもたちが大変多かったのです。ちょっと息が弾んで休みながら登ったのですが、土地の老若男女、赤ちゃんを抱いたお母さん、初老の夫妻が、黙々と山登りをしていました。驚いたことに、ハイヒールをはいた若い女性がいたのです。たくましいのでしょうか、運動靴がないのでしょうか、オシャレなのでしょうか、日本では、登山者のほとんどは装束をピシッと決めていますから、びっくりしてしまうのです。ちょっと残念だったのは、山頂から四方を見渡すような展望台がないのです。登ってきた道を見下ろす楽しみがないのは、酢を入れない醤油で水餃子を食べるようなものでした。そう云えば、明治の登山者は「草鞋(わらじ)」履きでしたが、私は山好きの弟の勧めで、「地下足袋(じかたび)」で歩くのを常としていました。みなさんは運動具店で買ったキャラバンシューズや登山靴でしたから、ちょっと一線を画した身として、少々得意だったのです。いつか、四川省と貴州省の間の山岳地帯に、連れていってもらいたいのですが、脚力がちょっと心配で躊躇しています。みなさんの足を引っ張ってしまって、手を引いてもらっては申し訳ありませんので。でも、ここには地下足袋はないのでしょうね。

(写真上は、奥多摩・御前山の登山道、中は、梧州の「白雲山」の入り口、下は、「雲海」です)

ミヨちゃん


 「三億円事件」が、1968年12月10日、東京の府中市の「府中刑務所」の北側の塀と住宅地を挟んだ道路上で起きました。この刑務所の道路を挟んだ西側にあった東芝府中工場の従業員のための年末賞与が奪われた窃盗事件でした。 学校を出て、八王子にあった職場に勤務して2年目のことでした。その事件の後、間もなくして、黒塗りの乗用車に乗った、地味な色の服を着た刑事たちが、私たちの職場にも聞き取り捜査にやってきたのです。私の初任給が、国家公務員並みの2万5千円だった時のことです。私も年末手当をもらいましたが、やはり3億円とは、途方もない金額だったので、大変驚いたのを思い出します。どうして、事件現場を、よく知っているのかといいますと、私が犯人だからではありません。事件のあった暮れの10日には、しっかりと勤務していた出勤記録が残っていますし、お金に困ってもいませんでしたから。

 事件現場は、国分寺駅から府中駅に抜ける道路と、西国分寺駅から川崎方面に抜けていく道路を結んだ、府中刑務所の塀際を走っていた道路だったのです。この道は、冬場、霜柱が溶けて使えなくなったグラウンドでの練習に代わって、筋トレとかマラソンをしていたのですが、そのマラソンのコースが、この府中刑務所の壁際だったのです。今年の1月に帰国した折にも、兄の運転する車で、この現場付近を通ったのですが、くすんだ灰色だった塀が、きれいなペンキの模様が描かれて、中に入るのが抵抗なく感じられるような変化が見られて驚いてしまいました。高2の時に、八王子から通学していた一級上の先輩が、前を走っていました。塀の角を曲がったところで、急に消えていなくなるのが話題になっていたのです。一周だけ走って、あとは藪の中に潜んで、忍びの術をやっていたのです。気のいい上級生でしたが、八王子のアーケードのある店で、店番をしていたのを見たことがありましたが、今、どうしているでしょうか。この人がタバコを吸っていて、それが見つかって、わが部は廃部寸前の風前の灯だったのですが、2級上の先輩たちは、国体やインターハイで優勝した実績があって、廃部をまぬがれたのです。この学年と我々の学年の時代が最低迷の時期だったでしょうか、2級下の後輩は、ふたたびインターハイと国体で優勝したのです。

 そうですね、この刑務所の周りを走っていて、願っていたのは、『この中に入ることがありませんように!』ということでした。でも、『どんな風になっているのだろうか?』との興味はつきませんで、走りながら色々と想像していたのです。ところが、その願いがかなわないで、一度入ったのです。しかし懲役刑ではなく、この刑務所に入所されている方を訪ねるためでした。私たちの住んでいる街の南に、バスで2時間ほどのところにある街で、レストランを経営している御夫妻から頼まれまれてでした。ここに入獄している息子さんを見舞ったのです(病気をしていたそうですから)。事務所で係官数人で話し合ってくださったのですが、親族以外の許可は前例がないとのことで、『申し訳ありません!』と詫びられて、許可されませんでした。私が待っている間、何人もの家族が黙して座って居られました。とくに府中は、外国人が多くて、南米系の年配の夫婦が私の前を歩いていて、彼らも刑務所にやってきたのです。カメラを持って行って、息子さんを撮った写真をご両親にと思いましたが、これも叶えられませんでした。ただ、こちらで撮ったご両親の写真だけは、「差し入れ」として刑務官に預けましたので、元気そうなご両親の顔を、この青年は見ることができたでしょうか。


 私の子どもたちも、アメリカで生活していた時期がありましたから、この南米人の夫妻のように、息子や娘を刑務所に訪ねることがなかったことだけは、感謝しているのです。そう言えば、あの忍者の先輩は、お父さんが、組関係の仕事をしていたと聞いたことがありますから、もしかしたら、もしかしているかも知れませんね。彼が、よく平尾昌晃の歌を歌っていました。「ミヨちゃん」の三番を替え歌で歌っていたのです。

    ♯今にみていろ ぼくだって 素敵なシュートを 打ってみせる・・・・・♭

とです。この先輩の素敵なシュートは見ないまま、卒業していきました。ただ、素敵に人生を生きていてほしいなと思っています。天然パーマで、日焼けしていた黒い顔が印象的でした。厳しい運動部の中では、けっこう優しい方だったのです。いっしょに走ったこと、練習中に「ミヨちゃん」を口ずさんでいた先輩でしたから、会ってみたいなと思います。6億円は捕まって解決しましたが、あの事件は未解決のままですね。いーえ、この先輩を疑っているのではありませんので、はい。

(写真上は、中学から6年間乗り降りした当時の国分寺駅、下は、「府中刑務所」周辺の略図です)

おめでとう!


 この6月12日の日曜日に、07級生の「卒業式」があって、その祝福の会食が、鳳凰大酒店で行われ、列席させていただきました。この学年の2年次には、「会話」の授業を担当し、3年次には、「作文」と「視聴説」の授業をさせていただきました。4年次の授業も頼まれたのですが、授業数が多かったのでお断りしましたら、外国語系の主任の教授が聞き入れてくれました。今思いますと、担当したほうが良かったと悔やんでおります。教育関係の仕事を、長い間してきましたが、大学生を教えるのは初めてでした。何度か、日本の東京と地方の大学の講師のお話がありましたが、日本では実現しなかったのです。こちらに参りまして、友人となった方の多くが、大学で教えておられて、そんな関係から紹介していただいたのです。

 日本の大学生の実情を知りませんが、中国の学生は一般的に、知的好奇心が旺盛で、授業態度がよく、熱心に学び、応答もいいのです。しかも高校生のような、純な雰囲気を持って接してくれるのです。『一緒に写真をとらせてください!』と、次から次へと、十二分に女性の学生たち(女子の割合が極めて高いのですが)が、ピタっと体を寄せ、しかも胸も押し付けてくるのには弱りました。私が男であるのを忘れているのでしょうか、お父さんのように、おじいさんのように信用しきって近づいてくれるのです。

 これまで、『你们是大学生,所以・・・(君たちは大学生なんだから、・・・!』という気持ちを伝え、彼らを叱ったことは一度もありませんでした。私は性格的にいい加減なところがあるので、自戒し、大きな責任を委ねられたという覚悟で、家内が心配するほどに、一生懸命に授業の準備をして臨んでまいりました。授業が終わってキャンパスの中を歩いて、東門や北門のバス停まで歩くときに、軽い疲労感と共に、『なんて感謝なのだろう、こんなに充実した機会を与えられ、中国の若者たちに接し、しかも教える機会が与えられて!』といった、感動の思いがたびたび湧き上がってきたのです。

 彼らは、高校までの教育の中で、旧日本軍の侵略について徹底的な教育を受けて、「日本鬼子」という思いを培われてきていたのです。それなら、戦時下の日本人への憎悪、その子や孫たちへの反感は、きっと激しい物があるのではないかと思っていました。ところが、日本語を専攻する学生だからだけの理由ではなく、彼らからは敵愾心や復讐心といったものを全く感じなかったのです。極めて好意的で、戦争責任のことを口にしますと、『現在の日本人と過去の日本人間は違います。』、『軍人と民間人は違ったのです。』、『日本人も大きな苦しみを通ってきたことを知っています。』、『先生は優しくて責任感があって違います!』と、実に理解を示してくれます。そういえば、街を歩いていても、今のアパートに住んでいても、家内や私が日本人だと分かっても、特別な思いをぶつけられた経験は、全くというほどありませんでした。ただ、魚釣島の漁船事件の折には、厳しいものがありましたが、総じて中国のみなさんは、私たちに友好的なのです。

 『先生乾杯!』と、かわるがわる学生が席に訪ねてきました。コーラやスプライトやビールを注いでは、感謝をあらわしてくれましたので、『おめでとう!』と祝福を返したのです。卒業アルバムを持ってきて、サインをねだられました。様々に祝福のことばを書き贈りました。もう十分に大人となったみなさんは、すでに働いている方、これから省の公務員試験に臨む方、また日本に留学を計画している方と様々に、将来に眼を向けていて、大学生最後の夜を、教室では見せたことにない言動で喜び、別れを惜しんでおりました。ある方が、『先生、抱いてください!』と言ってきました。ちょっと息を飲んで躊躇したのですが、『いいよ、喜んで!』と言って、アメリカ人の男女の間でする《ハグ》をしました。そうしましたら、次から次と、要求されて、《ハグ》をしたのです。他の先生方もいましたが、まあ無礼講で許されることと確信し、別れをいたしました。

 人を教える責任、そして教える喜びは大きいものがあります。この9月からの新学年も、授業を担当する旨、卒業生に話しました。彼らの母校で、彼らの後輩を教える私を、彼らは祝福してくれたのです。『みんな、おめでとう!輝いた人生を精一杯に生きてください!』と、心の中で叫んで会場を辞しました。華南の夏の夜風は生温かく、雨がポツリと降り始めていました。彼らの多くは、これから社会人として自活していくことになりますが、2年生の時のあの初々しい表情ではなく、もう確りと大人の決意を顔に表していました。これから何人の卒業生と再会することができるでしょうか。
 
 ただただ祝福あれ!


(写真上は、向こうに教室を望むキャンパス風景、中は、この町の名物の「カジュマル」、下は、東門から西門へのキャンパス内を学生たちとそぞろ歩いた路です)