光陰

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 『もう4年もすると楢山様かな!』、150年も前に、信州か甲州の山里に生まれていたら、息子に背負われて、〈楢山参り〉をすることになるのでのでしょうか。いまだに世界有数の経済大国であることからするなら、想像もつかない時代が過去にあり、恐ろしく悲しくて残酷な習わしがあったことを思い返して、昨日は考込んでしまいました。『お父さん、まだ若いんだから、弱さを告白しないでね!』と娘たちに、よく言われましたが、私の生まれた山と山がせめぎ合った渓谷を深く入り込んだ山里は、米も取れないで、蕎麦か〈黒平十六〉という豆や芋が取れるくらいでした。父の会社に働いていた方の中にも隣近所にも、平家の落人の部落だったに相違なく、〈藤原姓〉の家が多かったのです。そこには姥捨の伝統はなかったと思いますが。

 私が、そこで生まれたときに、その藤原姓の村長さんの奥さんが、産婆がわりに私を取り上げてくれたのだと、母に聞いています。ですから村長の家に行きますと、玄関には、彼らの孫のではなく、私の写真が飾られてあったのだそうです。私の父の会社の鉱石集積場には、山奥から〈索道(ロープウェイ)〉で運ばれた防弾ガラスの原材料である〈石英〉が山積みにされていました。そこからトラックで街の国鉄貨物駅に運ばれて、京浜地帯の工場に搬出されていたのです。兄たちは、その索道に乗って、山を往復したと言っていましたが、幼い私には、その許可を父はくれませんでした。何時でしたか、長野県飯田市の昔の写真を見ていましたら、私がうる覚えのある索道の写真があったのです。


 なぜ、ちょっと考え込んだのかといいますと、深沢七郎原作で、今村昌平が監督をした映画、「楢山節考」を観たからなのです。それで、『もう4年もすると・・・』と思わされたのです。この映画は1983年に、カンヌ映画祭で、「パルムドール」という賞を得て、世界が、日本の映画製作の優秀さに注目することになった秀作だったのです。そこに描かれている習俗、〈姥捨て〉は、どこの国、民族にもあるのでしょうか。貧しさが改善されないで、長生きをすると、〈穀潰し(ごくつぶし)者〉と呼ばれて捨てられるか、自分でそう決めて捨ててもらうかを、なんと七十歳で決めなければならないのです。諏訪湖を通りすぎて間もなく、中央高速から離れて長野道に入って、しばらく行きますと、「姥捨サーヴィスエリア」があります。山梨県生まれの深沢七朗の作品ですが、山梨ではなく長野県にあることを知って、意外だったので驚いたことがありました。山芋の〈とろろご飯〉を、姥捨サーヴィスエリアの食堂で食べたのですが、ちょっと複雑な味がしたのです。〈棄老伝説〉からの命名ですが、その呼称を変えてもらいたいような気持ちがするのは、私だけでしょうか。まあ、なるべく近づかないのがいいのかも知れませんが。

 姥捨の伝説だと、一度は母親を捨てたのですが、村に問題が起こって、その解決のための知恵は、自分の老いた母親にあるということで、母が連れ戻される、そう聞き覚えていましたので、そんな展開を期待していたのです。『何時、連れ戻されるのだろうか?』と思っているうちに、スクリーンが暗くなって、「終」と出てきてしま射ました。期待外れでしたが、どうも私の思い込み違いだったようです。山に神さまがいて、『お呼びになっていいる!』ことなど決してないのに、そう信じ込まされて、家族の迷惑にならないようにそっと身を引く、坂本スミ子演じる老婆の〈おりん〉ですが、私よりも3歳年上なだけなのです(坂本の実年齢は39歳でした!)。ちょっと、ショックでした。若い時に、この作品が刊行されたのを知っていましたが、読もうと思いませんでした。ずっと先の話だと思っていましたから、『年をとったら読んでみよう!』とは思っていましたから、映画鑑賞が読書に先行してしまったわけです。もう一つショックだったのは、〈爺捨て〉もあることでした。大体、統計学的にも生理学的に、女性は長生きで、男は早死ですから、〈爺捨て〉以前に召されるのが一般的なのですが、元気な私は、今、ちょっと怯えております、はい。〈姥捨サーヴィスエリア〉、〈楢山(小説上の山ですが)〉と、なるべく息子たちに近づかないのがいいのかも知れません。昨日生まれたばかりなのに、ああ、光陰矢のごとしです(光阴似箭guang yin si jian)。

(写真上は、「楢山の沢(?)」、下は、映画の「宣伝スチール」です)

違い

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 アメリカ映画で、トム・ハンクスが主演した「プライベート・ライアン」を観たことがあります。ナチス・ドイツの侵攻によって、困難の只中にあったフランスに加担し、ヨーロッパ戦争の終結を期して、連合軍が、ノルマンディーに上陸します。その上陸作戦の中に、特別な使命を託された8人の小隊がありました。その使命とは、〈ライアン上等兵を見付け出して帰還させる〉ことでした。8人が一人の兵士の救出のために危険極まりない最前線に突入するのです。私は、この映画を見て驚かされたのです。日本の軍隊では、終戦間際に、「回天」とか「神風」とか言われて、魚雷や戦闘機で、敵艦に体当たりの肉弾攻撃をしましたから、こういった〈ライアン上等兵救出作戦〉のようなものは、全くなかったのではないでしょうか。

 子どものころに、『なぜ日本は戦争に負けたと思うか?』と言って、ある人(元兵士)がその答えを教えてくれたことがありました。戦時下、軍隊の内務班で日常的に行われていたのが、古参兵による新兵への〈いじめ〉だったのです。国を愛し、父や母や弟妹を守るための〈大義〉に立って、雄々しく戦った兵士たちの勇敢さは知らされていたのですが、理由のない体罰、一人の失敗を連帯で責任を負わされて、鉄拳を見舞われるといったことが、伝統として当然のように、『兵士の志気を高めるためだ!』というおかしな理由の陰で行なわれていたそうです。〈鶯の谷渡り(ホーホケキョと歌いながら柱にしがみつくのです)〉とか〈伝令(机と机の間に腕で立って自転車をこぐ真似をさせ『急げ!』とか言いながらさせるのです)〉といった体罰を加えて、座興にしていたことも、あのおじさんが教えてくれました。何の楽しみもなかったこと、家族から引き離されていること、戦争がいつ終わるのか分からないこと、勝ち目のない戦争であることなどで、焦燥感や捨鉢な雰囲気や諦めが、隊内に満ちていたのです。それで、敵軍と対面しながらの戦闘時に、『銃弾が後ろから飛んでいって、恨みつらみの古参兵を狙撃して、復讐することも稀ではなかったよ!』と言ったのです。これも映画でしたが、「真空地帯(野間宏作、1952年映画化され上映)」で、木村功が演じた日本軍の実態を知らされて、この映画が誇張ではなく、〈皇軍(天皇の軍隊)〉だと言われていた日本軍に、このような恥部が隠されていたのを理解したのです。


 どうして、ライアン上等兵を帰国させる必要があったのでしょうか。彼は4人兄弟で、4人とも従軍していたのです。しかも他の3人の兄弟はすでに戦死していました。それで、軍の上層部が、このことを知って、故郷に残されたお母さんのもとに、ライアンを戻そうと決めたのです。もちろん、米国民への軍のアピールといった面がなかったわけではないのですが。戦死して軍神になる日本軍の戦争哲学とは、西と東の違いほどに大きな相違があったのではないでしょうか。うーん、こう言ったことを考え、実行するアメリカ軍の在り方を知って、太平洋戦争で日本が負けたのは、当然だと思わされたのです。山本五十六のような軍人は、若かりし頃にアメリカを視察した経験がありましたから、その国づくりの堅固な様に驚かされていました。ですから米英を敵にしての戦争に勝ち目のないことを求めて、どうにか回避したいと願っていたようです。

 お母さんは、8人の決死の救出作戦で、無事に帰還したライアンを出迎えて、どんな思いだったでしょうか。日本兵士の両親は、『死んでお国のために尽くしなさい!』と送り出しましたが、心の底では、『必ず生きて帰ってきなさい!』と思っていたのは当然のことでしょう。映画のラストシーンは、〈アーリントン墓地〉を訪ねた老いたライアンの背後に、子や孫たちが映し出されていました。救出された一人から、多くの家族が生まれ出て、アメリカの平和と繁栄を享受している光景は、多くのいのちの犠牲の上に生み出されているわけです。日本の平和も繁栄も、多くの兵士の屍(しかばね)の上に成り立っていることを忘れてはいけません。命、平和、喜び、家族、国家、世界、将来、多くのことを思わされた映画でした。

(写真は上は、連合軍が上陸したの「ノルマンディー(平和な時代)」、下は、平和の象徴「鳩のイラスト」です)

日本語

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平成20年の「国語に関する世論調査(文化庁が毎年実施)」の調査項目の中に、〈日本語を大切にしているか〉があって、
   大切にしていると思う           38.1%
   考えてみれば大切にしていると思う   38.6%
      合計                  76.7%
という結果がでています。今回の調査結果を、前回(平成13年実施)に比べると、とくに若い人たちの〈日本語を大切にしている〉とのポイントが増加しています。総じて40歳代~70歳代は高いのですが、とくに若年層には、日本語を支持する傾向にあることが分かります。もう一つ、〈「美しい日本語」というものがあると思うか〉については、
   あると思う                 87.7%
   ないと思う                  2.5%
と、圧倒的に、『日本語は美しい言葉です!』との答えが多かったのです。これも、前回より増加傾向にありました。では、〈「美くしい日本語」とはどんな言葉か〉に上げられた言葉を七つ列挙してみます。

   1.思いやりのある言葉
   2.挨拶の言葉
   3.控えめで謙遜な言葉
   4.素朴ながら話し手の人柄がにじみ出た言葉
   5.短歌・俳句などの言葉
   6.故郷の言葉
   7.アナウンサーや俳優などの語り方

 前回と比較して、増加傾向にあるのが、〈控えめで謙遜な言葉〉や〈故郷の言葉〉が上げられています。逆に減少傾向にあるのは、〈アナウンサーや俳優などの語り方〉でした。こういった調査からしますと、日本語に対する気持ちは、高まりつつあると言えるのではないでしょうか。

 これまで、『日本の国語を、外国語に替えたほうがよろしい!』と主張した人が何人かいました。明治18年に初代・文部大臣になった森有礼は、〈英語〉の国語化を提唱し、エール大学の教授のホイットニーに手紙を書き送って、相談を持ちかけています。やはり「欧化主義」の流れの中で、そう考えたのですが、薩摩藩士だった彼の背景からしますと、随分と急進的なものの考え方をしたことになります。実現はされませんでしたが、国粋的な人たちからは疎んじられたのでしょうか、43歳で暗殺されてしまいます。もう一人、志賀直哉(「小僧の神様」の著者で、実に美しい日本語を使った作家で〈文章の神様〉との定評があります)がいます。森有礼は〈英語〉、志賀直哉は〈フランス語〉の国語化を提唱したのです。『お嬢さん!』と呼びかけるのを、『マドモアゼル!』と呼ぶことになります。戦後間もなく、そう主張するのですが、彼自身はフランス語を、まったく話すことができなかったと言われています。

 さて、名宰相と呼ばれるチャーチルは、母国語の大切さを強く意識し、それを実行しました。新田次郎(「劔岳・点と記」の著者)を父、藤原てい(「流れる星は生きている 」の著者)を母とした彼らの次男で、数学者の藤原正彦(「国家の品格」の著者)もまた、『小学校における教科間の重要度は、一に国語、二に国語、三四がなくて五に算数。あとは十以下 !』というほどの国語教育の重要性を主張し続けています。彼は、「祖国とは国語」という本の中で、『「国語教育絶対論」国語こそすべての知的活動の基礎だ!』と言っております。理科系の学者で、アメリカに留学した経歴もある藤原正彦が、こういった主張をすることは注目に価するのではないでしょうか。


 フランスの初等教育では、ヴィクトル・ユゴー(1802年‐1885年、「レ・ミゼラブル」で有名な小説家)などの〈詩文〉を、暗記させているのです。フランス語の韻律の美しさを体得させて、自然に身につくような努力を徹底していることになります。日本語も、美しい言語だと思います。以前、韓国に参りましたときに、お宅に招いてくださった夫人が、『韓国語は演説などのスピーチに向いた言葉ですが、日本語は詩的な表現ができる素敵な言葉ですね!』と言っておられました。

 一昨日、日本語科を卒業された教え子からメールがありました。『職場で日本語が上手に話せるようになる秘訣はなんですか?』と聞いてきましたので、『日本語を声に出して読み、それを反復したらいいと思います!』とお答えしました。そうですね、万国共通、万国語共通、〈ことばを声に出すこと〉こそが、言語習得の秘訣に違いありません。

(写真上は、「日本の美・庭園」、下は、「ヴィクトール・ユゴー」です)

★掲載記事の内容の訂正

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 2011年4月8日に記載しました、「国務」の記事に誤りがありました。吉田茂元首相のことばの引用に関して、2011年7月1日付の「頂門の一針(ブログ)」の記事に、次のようにありました。

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 東日本大震災への自衛隊の大規模な救援出動の関連で、以前に吉田茂元首相が語ったというの言葉がネット上で盛んに引用されている。以下の言葉がそれである。

 「君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されり、 歓迎されることなく自衛隊を終わるかも知れない。きっと非難とか誹ぼうばかりの一生かもしれない。 御苦労なことだと思う。しかし、自衛隊が国民から 歓迎され、 ちゃやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。 言葉を変えれば君達が日陰者であるときのほう が、国民や日本は幸せなのだ。 堪えて貰いたい。一生御苦労なことだと思うが、 国家のために忍び堪え頑張って貰いたい。自衛隊の将来は君達の双肩にかかっている。 しっかり頼むよ.」

 ところが気になるのは、ほとんどの引用が出所表現を誤用していることである。「昭和32年2月防衛大第1回卒業式における吉田茂内閣総理大臣の訓示」とか「昭和32年3月防衛大第1回卒業式における吉田茂元内閣総理大臣の祝辞」とかである。

 調べてみると、吉田茂元首相ははたしかに昭和32年3月26日の防衛大第1回卒業式に来賓として出席し祝辞を述べている。ところが、そこに上記に引用した部分は見当たらない。

 引用部分は、正しくは昭和32年2月に大磯の吉田邸を訪れた防衛大1期生の代表3名に吉田元首相が愛念をもって諭した言葉であった。事実、公式の席上で公然と語る性質の言葉ではない。その経緯は代表のひとり平間洋一氏が幸いにも記していた。

「防衛大学校と吉田茂一防衛大生の吉田邸訪問記」

http://www3.ocn.ne.jp/~y.hirama/y h_ronbun_sengoshi_yoshidahoumon.htm

以来56年を経過して、この吉田元首相の言葉が世間で注目されるのは意味のあることだが、自衛隊のいくつかの部隊や国会議員の衆院本会議質問や自衛隊OBの評論家のブログにまで上記のような出所の誤用が見受けられて、今後に出所誤用が定着しかねないので、一筆を執った次第である。(品川 阿生氏)

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お詫びし、訂正します。

摂理

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 『夢を買うんです。当たらないことが分かっているんですけど、やはり年に数回、買うのを楽しんでいるのです!』と言う方がいらっしゃいます。〈宝くじ〉のことです。私は、宝くじを買いません。パチンコも競馬もマージャンも株もしません。中学生の頃に、中央競馬会の調教師の子が、級友や上級生に何人もいましたので、彼らの仲間になって、府中の競馬場に行ったことがありますが、馬券を買ったことはありませんでした。立川の競輪場に行ったこともありますが、中の様子が見たくて、学生のころに一度行ったきりでした。父の家の川向こうに、競艇場がありましたが、そこにも行きませんでした。ただパチンコは、私の育った町に一軒ありましたので、父の後について行って、小学生の私は、拾った玉を入れて遊んで以来、20代の初めまでしていましたが、その後、まったくやめてしまいました。

 株がいけないと言っているのではありません。労働の三要素の1つは、「資本」であり、今日の企業の経営にあたって、株式のシステムは、どうしても必要です。そして、小学生が、これを学ぶのは大切なことです。出資者がいて、企業が運営されるのですからです。ところが、小学生が、お小遣いで、株を買っているというニュースをたびたび聞きます。小額の投機で、多額の利益を上げることに魅力を感じるからなのだそうです。こういった傾向は、社会経験だからと言っても、如何なものでしょうか。

 オランダで首相をしたことのあるアブラハム・カイパーという方が、アメリカの大学に招かれて講演をしました。その1つの講演で、次のようなことを言いました。『カード遊び・・カード自身に悪魔が潜在しているというのでもありません。しかし、この遊び心が心を誘惑して、絶対者より離れさせ、運と〈つき(幸運)〉に依頼させようとする恐ろしい傾向を助長するからです・・絶対者以外のいわゆる偶然、あるいは幸運と称する空想的運命力を軽率に信じる気持ちを養う・・人々は、自分の仕事をこつこつと努力するよりも、幸運の一喜一憂に対して・・心惹かれております・・宇宙の摂理よりも偶然性を強く望むことによって、(感覚の)泉を汚染させてします・・嫌悪せざるを得ません。』と、次のアメリカの時代を担う学生に、いいえ世界中の学生たちに、賭け事が秘めている危険性を知らせ、人間性を不健全にしてしまうものへの信頼に反対して、警告的に語ったのです。


 私たちは、運命の力に弄(もてあそ)ばれるのではなく、摂理に自分を任せるべきなのです。遊び心だと、軽く考えておられても、それが生きる姿勢そのものになってしまい、家族を苦しめてしまい、ある家庭は崩壊してしまう事例も見聞きします。私は〈運〉や〈つき〉に、自分の人生が左右されるこを望んでいませんし、それに任せようとも思いません。状況が悪く感じられるのは、『運に見放され、ついていないのではなく、何かを教えられたり、生き方を注意されているのだ!』と思って、生きることにしているのです。

 将来の結婚や留学の夢の実現のために、また離婚のために貯えられた貯蓄が、他の必要のためにささげられました。夢の実現よりも、公のご計画に賛同し、摂理が理解できたからだったのです。彼女の離婚計画は頓挫してしまいました。しかし自分の良心と社会の前でなされた、その選択と決断は覚えられているのです。人生のどの時期にあっても、『どのようなご計画が、自分の生涯に定められているのだろうか!』と思い巡らして、わくわくと胸を躍らされて今日を、明日を生きていきたいものです。明日がわからないほうが、神秘的でいいのではないでしょうか。人の心は、そのように出来ているからです。もし分かってしまったら、生きるって、随分とつまらないものに成り下がってしまい。『何時、このことが起るのだろう?』と、不安で心を満たしてしまうのです。『明日は明日自身が思い煩うであろう!』、名言です。

(写真上は、スペードの「A(エース)」 、下は、オランダの「チューリップ畑」です)

ジョナサン

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 吉祥寺の駅の近くのガード下に、小さな青果市場がありました。暮のアルバイトで、夜勤で荷受をする仕事をしたのです。昼間は授業、バイトまでの時間つぶし、夜10時からのバイト、終わってからの時間つぶし、授業のある日は、そのまま中央線に飛び乗って学校でした。荷待ちの間、バイト仲間で、どうっていうことのないことを話していました。『若いうちに、思いっきり遊んでおこう。そうしたら大人になったら遊ばないですむからさっ!』といった〈遊び〉が話題でした。自分の父親や、周りにいる大人たちの様々な悲喜劇を見聞きしている学生たちでしたが、〈遊び〉の誘惑を正当化しようといった企みもあったからなのでしょうか。『先輩、バイト料が入ったら何をするんですか?』と、A大の4年生二人に聞いたところ、『バンコックに行って女遊びをするつもりだ!』と答えていました。まだまだ海外旅行などは、学生には高嶺の花の時代でした。成田が出来る前の話で、羽田は信じられないほど小さな国際空港だったころのことです。

 そのような、とりとめもない話を聞いていた初老の従業員(おジイさんにしか見えなかったのですが、今の自分くらいでしょうか!)が、『若い時に遊びたいだけ遊んだって、大人になって遊びが止むわけないよ、君たち!』と、われわれ学生には想像もつかない将来のことを予見して口を挟んだのです。そのおじさんのことばは、48年も前に聞いたのに、これまで重いまま忘れられないものを感じ続けています。〈遊び〉は、年を重ね、量を満たしたら離れられるというのは間違いだということは、明名白白のことであります。どれほど多くの若者が、この罠にかかって滅んでしまったことでしょうか。モニカというお母さんがいました。当時の地中海世界で、最大の街ローマに、息子が遊学したいと願ったのです。そこは酒池肉林(しゅちにくりん)、遊興、肉欲の地獄でした。快楽に誘(いざな)われた息子は、お母さんの静止の手を振りきって出掛けてしまいます。これまで何百何千というお母さんと同じ、いい知れない不安や諦めの思いで、モニカは息子を見送ったことでしょう。ただ、モニカのできたことは、手を合わせて無事を祈ることでした。人の母親の思いに反して、快楽主義者の息子は、素晴らしい人とローマで出会って、人生の方向転換を果たし、歴史に大きくその名を残すのです。この息子こそ、若き日のアウグスチヌスです。


 これまで教えていただいた人生の教訓を総合しますと、『〈酒〉と〈金〉と〈女〉と〈博打〉と〈名声〉とに気をつけなさい!』という結論になります。それはそれは、くどいほどに同じことを繰り返し言われました。なぜかといいますと、彼ら自身が、その誘惑の真只中を潜り抜けて、嵐にさらされ、火の粉を浴びてこられたからなのです。その強烈さというのは、今年、3月11日に東北地方の太平洋岸を襲った津浪のように激しいものではないでしょうか。テレビの中継で見た、大きな船やトラックや飛行機でさえもが、ゴム毬のように翻弄されて、波の上に踊らされ、破壊されていく光景、車や家の中にいた人々、何百年と耕し続けてきた畑地が、一瞬のうちに砕けた波に飲み込まれていく様子を忘れることはできません。受け継ぎ、あるいは築き上げた財産も、自分自身も人生計画でさえも、躊躇なく藻屑のように波に飲み込まれて消えていってしまいました。『夢や映画であったらいいな!』と思わされましたが、決して否定出来ない現実は、日本だけではなく、東北地方でもなく、私への厳しい「警告」となったのです。

 私の知人が、『少年期の自分は〈落ちこぼれ〉だった!』と言いましたが、彼はそこから起死回生、人も羨むような立場と名声を得ました。その経験を本に書いたほどだったのです。負け組から勝ち組に再編入され、その世界では名の知れる人となりました。最近、彼のことを知らされたのです。未処理の問題が、彼を追いかけ、追い越していって、致命的な過誤の中に陥落したと聞きました。生命保険の調査員をしていたハインリッヒが、1つの法則を見つけ出しました。『1つの大事故の前には、29の小事故があり、そして300の予兆がある!』という、「ハインリッヒの法則」です。予兆は、大事故が怒らないための警告なのです。『ヒヤリ!』、『あれっ!』という経験をしたら、その『ヒヤリ!』、『あれっ!』とした分野で、『決定的なことにならないよう、気をつけなさい!』とのメッセージなのです。彼にも、『ヒヤリ!』、『あれっ!』の予兆や警告があったのです。そういった時期が私にもあったことを、ありありと覚えています。でも彼は、それを蔑ろにしてしまったようです。


 ある方にこう言われました。『あなたには、自分のことを包み隠さずに、何でも言える人がいますか?』とです。まだ血気盛んな三十代の前半の頃のことでした。『いなければ、そういった人(英語では”mentor”といいます)を、見つけなさい!』と、彼は付け加えたのです。妻以外の女性からの誘惑、心のなかの騒ぎについても、話せる同性の友のことです。私は、その友のことを「ジョナサン」と呼びたいのです!

(写真上は、「吉祥寺駅(京王井の頭線)」、中は、中国の著名な先生「老子」、下は、「ハインリッヒの法則」です)

花と根

 
  
 東日本大震災が起こって後、被災者を含め日本人が、前代未聞の困難に出合いながら、冷静で沈着で秩序だっていていること、スパーマーケットの襲撃や夜盗などの犯罪に走らない様子を知って、洋の東西を問わず、世界中が、『どうしてなのですか?』と声を上げています。『なぜなのか?』、私も自分に問いかけてみましたら、次男にもらって読んだ本のことを思い出したのです。

 「武士」を、『ぶし』、『もののふ』と読みますが、その誕生を簡単にいますと、農民が、自分たちの家族や田畑や家屋敷の財産を敵の襲撃から守るために、武闘を余儀なくされ、専門職として防備や攻撃の訓練に日頃励む武装集団のことと言えるでしょうか。その後、《荘園》が誕生してきますと、さらに尖鋭化して、強力な集団となていきます。そういった集団の中で有名なのが、関東で誕生した《坂東武士》だといえます。さらに、勢力を貯えて強固な武士集団を形成していくのが、《源氏(第56代清和天皇を祖とし源頼朝が有名)》と《平氏(第50代桓武天皇を祖とし平清盛が有名)》であります。この二つの武士集団の中から、「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅ぼし、鎌倉に武家幕府を開き、《征夷大将軍》に任じられるのが、源頼朝(1147年5月9日~1199年2月9日)なのです。


 この武士の生き方や道理を、「武士の道(もののふのみち)」といいます。札幌農学校(現在の北海道大学農学部)で学び、国際連盟事務局次長、東京帝国大学教授、東京女子大学学長、東京女子経済専門学校校長などを歴任した、新渡戸稲造(1862年9月1日~1933年10月15日)が、1900年1月、アメリカで、「武士道(英語で”BUSIDO THE SOUL OF JAPAN ”)」を刊行します。これが、読んだ本でした。流麗な英語で書かれて、世界中から多くの読者を得ました。日本語に何度か翻訳されていますが、私の手元にあるのは、2000年12月、佐藤全弘訳、教文館で出版されたものです。新渡戸稲造自身、南部盛岡藩の藩士の子として、江戸の上屋敷で生まれ、武士の子(明治以降は士族の子)として厳格に教育されます。なかなかの《硬骨漢》で、ヤンチャだったようです。札幌の学校を終えて、東京帝大に学ぶのですが、その学びにあきたらずに、単身、アメリカに渡り、ジョンズポプキンズ大学(ボルチモア)に留学し、ドイツのボン大学などで学んでいます。農学校時代、クラークの感化を受けた内村鑑三らとの交流を通して、新渡戸が強烈な影響を受けたことから、物静かな紳士へと変えられて行ったことを、内村が書き残しております。

 この本は、新渡戸稲造の生き方を、傍らで見続けてきた妻・メアリーが、『日本ではなぜこういった考え方や習慣が行われているのですか。』との問い掛けが動機となったようです。つまり日本では宗教教育がなされていないのに、高い道徳律を持っている日本人の新渡戸を見て、不思議に思ったからでした。学校で道徳教育を受けた覚えのない新渡戸は、即座に答えられなかったのです。それで、『私の正邪善悪の観念をなしている、いろいろな要素を分析するにいたって、はじめて、それら道徳観念を私に吹き込んだのは〈武士道〉だったと気がついた(上掲書26~27頁に記述)。』と記しています。


 同じような疑問を、東北大震災の後、世界中が発しているようです。新渡戸は、第15章の「武士道の影響」という箇所で次のように記しています。『・・・過去の日本は、サムライのおかげであった。彼らは国民の花であっただけでなく、国民の根でもあった。〈天〉のすべての恵み深い賜物は、彼らを通して流れでた。[武士は社会的には、民衆からは高く身を持していたけれども、民衆の道徳的標準を示し、民衆をその手本で導いた。〈武士道〉には、その内向きの教えと、外向きの教えがあったことが認められる。後者の教えは、一般市民の福祉と幸福を求めるので幸福主義的であり、前者は、美徳を徳それ自身のために実行することを強調するゆえに徳中心であった]・・・〈武士道〉の精神が、すべての社会階級にどのように浸透したかは、またオトコダテ(男伊達)として知られる特定階級の人達、すなわち平民道の天成の指導者たちの発達によっても知られる。彼らは頼りになる男であって、頭の頂きから足の先まで、堂々たる男子の力を逞しく備えていた・・・』とです。

 武士の生き方や価値観が、農民や手工業従事の技術者や商人、さらには女性や子どもにまで、多大な影響と感化を与えていたというのです。彼らの外での仕事、内での生活に、武士の在り方、生き方が浸透していたことになります。。『礼儀正しく授業の仕方が真面目です!』、『日本人は違います!』と、私を評価してくださる中国の学生のみなさんがおいでです。彼らは、「徳」を大変大切にする文化伝統の中に生まれて育っているのです。板書した黒板を消して、教室を後にするのは当然なことですのに、このことまでも、『偉いですね!』と言って、手伝ってくれます。このような百姓(中国語では、「平民」とか「庶民」の意味で使われます)の子である私ですのに、少しは「徳」のある生き方ができ、よい態度をもつことができるのは、「武士道」が、下々にも行き渡って、今日にまで脈々と受け継がれていることになります。この時代の私たちの手柄ではなく、日本文化の継承になるのでしょうか。

(写真上は、「江戸名所図会」、中は、「侍(映画・小川の辺)」、下は、「札幌時計台」です)

ことば


 ”Never give up!”、ドイツのロンドン空襲に際して、オックスフォード大学の卒業式で、当時の首相、ウインストン・チャーチル(1874年11月30日~1965年1月24日)は、これを三度繰り返して、祝辞としました。彼は、イギリスがこの危機を必ず脱することができる、という確信に満ちていましたので、学窓を巣立とうとしている青年たちを、そう鼓舞激励したのです。このことばを日本語に訳しますと、「不撓不屈(ふとうふくつ/中国語ですと、〈不屈不挠buqubunao〉)」が一番いいかも知れません。goo辞書は、『どんな困難にあっても決して心がくじけないこと。「―の精神」』 、とあります。とても意味の近いことばに、「堅忍不抜(けんにんふばつ)」があります。このチャーチルのことばほど、戦時下のイギリス国民を奮い立たせたものはありませんでした。人の語る「ことば(言の葉)」に、どれほどの力が込められているかという証明でしょうか。

 私の義母は、終戦後の食料難の時代に、肋膜を患いました。九州久留米から嫁いでくるときに持参した和服を、西武線沿線の埼玉の農家に出向いては、食べ物と交換して、8人家族を養っていた時期ですが。子ども優先で、本人は食べなかったのでしょうか、発病してしまいました。清瀬に専門病院があって、通院治療をしていたのです。そこに多くの女子大生たちも来ていて、いわば義母の若き病友だったわけです。薬も乏しくて、満足な治療も施せないで捨て鉢になっていた医者が、一人の学生に、『あなたの寿命は長くありませんよ!』と語ったのだそうです。その言葉に衝撃を受けたのか、間もなく彼女は亡くなってしまうのです。それを知った義母は、『先生、不用意なことばを慎んでください。権威ある人のことばには力があるのですから!』と窘(たしな)めたのです。それ以来、「ことばの持つ力」に思いを向けるようになり、この一件が、義母の人生を激励する「力あることば」と出会うことになります。今も、義妹の介護の中で、甲府で生活をしていますが、何と百歳なのです。義母は、自分の語る「ことば」で、どれほどの人に生きる目的や勇気や力を与えてきたことでしょうか、私の母も彼女と出会って励まされた友の一人です。

 このチャーチルに、こんな逸話が残されています。彼は実に聡明な人で、母国語、フランス語、ドイツ語、イタリア語を理解していたのです(学校での成績は芳しくなかったそうですが)。国際会議に出る機会が多く、彼の能力ですと、ヨーロッパ諸国の国際会議に出ても、通訳を必要としなかったほどでした。英語力に難点のある私たちの国の政治家の話が、よく取り沙汰されていますが、実に羨ましい限りの才能ではないでしょうか。ところが彼は、決して相手国の国語を話さないで、必ず通訳をつけたと言われています。その理由を、チャーチル自身が語っています。

 『私は英国の利益を代表している。それなのに、たとえばフランス語を知っているからといって、フランス語で話し始めると、とたんに自分の脳が《偽フランス人》のようになり、フランスの政治文化や価値観に、自分を合わせてしまう。英国の利益を主張するときは、やはり英語で考え、英語で語り、通訳に逐語訳をしてもらうしかない。』

 外国語が分かっても、国の成り立ちの歴史、政治的変遷、文化の成立過程、その国の利益や資源(有形無形の)からなる価値観の違いは超えられないというのでしょうか。日本語のことばの多くが、中国語に由来していますが、だからといって全く意味が同じではないようです。《微妙な意味合い(ニュアンス/nuance)》が、それぞれにあるからです。一国を代表して語り聞くのですから、このことは理解しておかなければなりません。国際結婚をしている次女も、生まれてから15歳まで(高校からアメリカで学びましたから)に身につけた日本文化や価値観によって形作られているのです。一方、生まれてからこれまで、ずっとアメリカ文化と価値観で育った主人との違いが必ずあります。それを認めつつ、二人が共通に持っている文化と価値観と目標に目を向けていくなら、この違いを超えていくことができるに違いありません。


 ドーバー海峡を境にしてそんなに距離のないイギリスとフランスであるので、フランス語を聞いているうちにフランス人のようになてしまう自分をチャーチルは認めて、避けたのでしょうか。うーん、黄海と東シナ海を境にしている日本と中国ですが、互いの国際理解、国際協調、国際交流って、やはり難関があるのかも知れませんね。でも中国に生活している私は、一人の人間として、中国のみなさんとは、実に似た者同士だということが分かるのです。もちろん国土が広い分、箱庭のような日本で育った私との違いは歴然としていますが。『ここは違うなぁ!』と感じますが、『ちょっと!』なのです。これこそ在華6年目を、来月迎えることが出来る理由の一つなのかも知れません。60を超えてからの中国語の学びは、遅々としていますが、人生最後の《挑戦》として、まだまだ諦めてはおりません。

(写真上は、チャーチル、ルーズベルト、蒋介石、下は、「中国からの漂流物」です)

水団


 私の愛読書に、『野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。』、『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。 』とあります。食糧問題が、人口問題や異常気象の問題に関連して、今世紀の世界の最大課題だと言われています。自分のこれまでを振り返ってみまして、『食べ物がない!』といった経験は一度たりともありませんでした。戦争末期に誕生しましたが、田舎に住んでいたこと、さらには軍関係の企業に父が従事していましたので、食料に窮することはなかったようです。『お父さんが東京に出て行くと、頬がこけて帰ってきました。』と、母が言っていましたから、大都会の食糧難というのは甚だしかったようです。

 就学前に肺炎になって、街の国立病院に入院しました。死にそこなって息を吹き返し、退院した私のために、父は、どこから手に入れたのでしょうか、栄養価の高い《バター》を、潤沢に備えて食べさせてくれました。兄たちと弟には食べることを禁じたほどでした。そんな両親の愛のゆえに、私は死線を越えることができたのです。爾来、パンにバターをつけて食べる、といった食生活を離れることができないで、朝食は、それを守り続けているのです。今は、ピーナツバターやジャム(いちごやブルーベリーなど)やチーズも添えられ、紅茶かコヒーを飲むのです。病欠児童だった私は、小学校4年ころから健康児になって、クラスの番長にもなったほどでした。まあ、それは明智光秀の《三日天下》だったのですが。


 世帯を持ってからも、養育を委任された4人の子どもたちに、食べさせるものがなかった食卓の日は一日もありませんでした。今、子どもたちに聞きますと、『うちって、しょっちゅう小麦の団子の入った《すいとん(水団)》だったよね!』と言われます。そのせいでしょうか、脚気にならないで、4人とも標準以上の体格に育ったのだと思われます。贅沢することはなかったのですが、食に困ることなどありませんでした。静岡のアメリカ人の家に招かれたときに、《タコライス》をご馳走になりました。セミナーが開かれて、その日の食卓に供されたものでした。『美味しかった!』の一言につきました。それで、家に帰ってきた私は、それを真似て、子どもたちに作ってあげたのです。それ以来、我が家の《もてなし料理》になり、何かあるたびに、『今日は《タコライス》がたべたいな!』ということで、何度食べたことでしょうか。そのレシピを知っている子どもたちも、今やそれぞれが自分の《もてなし料理》の一つにしているようです。

 もう何年も前ですが、世界の食糧事情を、分数で言い当てた話を聞いたことがあります。『世界の3分の1は、有り余っている。もう3分の1は、ちょうど備えられている。そして残りに3分の1は、足りない!』というのです。戦後の歌謡界で長く歌い続けてきている田端義夫は、母子家庭で育って、学校の昼食に弁当を持っていくことができないで、校庭の片隅に座って、「赤とんぼ」を歌っていたそうです。そういえば、小学校の同級生に、長島くんという子がいて(実際は二歳年上の学年なのですが就学が遅れて私たちのクラスにいました)、一緒に廊下に立たされたことがありました。食べ物がないということで、立たされ仲間にカンパを呼びかけて、彼の手にお金を握らせて、『パンを買ってね!』と言ったことがありました。市長になった同級生もいますが、そんな長島くんのほうが気にかかります。


 そんなこんなで、我が家の家訓は、最初に書きました愛読書のことばなのであります。もちろん、子どもたちの間には、ご多分にもれず、激しい喧嘩もありましたが、よく彼らに話した故事がありました。『奴隷船があって、奴隷狩りをしていた頃に、マサイ族(アフリカのケニア南部からタンザニア北部一帯の先住民 )は、奴隷になって売られていくことがほとんどなかったんだ。なぜかというと、マサイ族の母さんは子どもたちに、常に次のことを言い聞かせて、「それを守るように!」と言ったのです。「食べ物があったら、それを自分ひとりで食べないで、仲間と分けあって食べなさい!」とです。みんなも、そうしないさい!』とです。仲間意識が強かったマサイ族は、奴隷狩りに追われても一致協力して、その罠や追跡を免れることができたのです。これって、我が家の《家訓》に似た実話ではないでしょうか。野菜やかわいたパンを食べて、それを分け合うようになるなら、何時か分けてもらった人から、おいしいステーキがお返しにやってくるかも知れませんね。我が家には、よく食客(しょっかく)が何人かいました。その中には、『おかずはこれだけですか?』と、ご馳走になっているのに、文句を言った人もいますが、彼は今、何を食べているでしょうか。少々気がかりなのであります。

(写真上は、中近東やインドで食される「ナン(パンの一種)」、中は、美味しそうな「すいとん」、下は、「マサイ族の青年たち」です)

コネ


 最初の職場で三年目の暮が過ぎて、年を越した頃、所長に呼ばれました。『私の弟子が、◯◯短大で教務部長をしています。そこに高等部があって、社会科の教師を募集しているので、行ってみませんか!』と言われました。教員免許状を持っていましたし、中学校の3年間教えてくれた担任の影響ででしょうか、『教師になってみたい!』と思っていましたので、二つ返事で、『はい。お願いします!』と答えたのです。その時、大学院を終えて、同じ教師の口を求めていた方がいました。確か日本史専攻で、ある研究所の研究員をしていた博士だったのです。ところが、《コネ(縁故)》というのはすごいもので、ごまんといる学士の私が、正式に教諭として採用され、その博士は、時間講師になったのです。まあ、これは雇い入れる方の決定であって、私の選びとりではなかったのです。ですから世の中は、《縁故(コネ)》というものを大切にするのだということを、実体験で学んだのです。

 採用する側は、誰ともわからない未知の人を職員とするよりは、出所や経歴が分かり、推薦状の付いた人を雇うほうが、組織にとっては安全だということを前提としているのです。公務員は、法律に基づいて公開試験で合格したかたを採用候補にしますが、それでも人物調査(本人の思想や素行、家族の様子など)をした上で、採用を決定します。兄の就職が内定した段階で、我が家に調査員が来られました。家には、父も母もいなくて、高校生の私がいましたので、この方は私に、父のことや兄のこと、家族のことを聞かれて、『ありがとうございました。』と言われて帰って行かれました。その応対と返答が良かったからでしょうか、兄は採用された経緯があります。とても良い会社でした。社会は学歴や成績だけで人を判断するのでないということを、その時に学んだのです。

 私がその学校の面接試問に呼ばれたときに、卒業証明者や成績証明書を持っていかなければなりませんでした。それでしばらくぶりに学校に参りましたら、校門にバラ線でバリケードが築かれていて、その隙間から構内に入ったのです。当時、70年安保反対の学生運動が起こっていた時期で、全国の学校で、『安保反対!』の叫び声が起こっていました。穏健な学校と目されていた母校でしたが、ここも例外ではなかったのです。幕末に開校されて伝統ある母校の校門に、バラ線が巻かれているのを見たとき、本当に寂しい思いをしたのを、昨日のことのように覚えているのです。私は、政治運動や思想運動には、全く関心がありませんでした。社会を騒乱の渦中に投げ込むような暴力には大反対でした。新宿駅の中央線や山手線の線路のレールを、敷き詰められていた小石によって、しっかりと受け止めていましたが、全学連の学生たちによって持ち出され、運び出されていたのです。機動隊に投石するためでした(それ以降、新宿の駅のレールは、コンクリートに支えられているようですが)。

 その時の学生運動の真只中にいたのが、今(20011年6月現在)の首相や前官房長官です。私の弟と同学年だったと思いますが。国家権力を敵に回して、国を混乱に陥れ、社会不安を煽った過去を持つ者たちが、考え方を変えないで、同じ思想と価値観、政治信条を持ちながら、一国の政権を担っているというのは、空恐ろしいものを感じるのですが、私だけでしょうか。私は右翼でも、国粋主義者でもありません。平和な社会を願う一市民です。どんな理由があっても、暴力によっては、国を変えたり、平定したり、発展させたりすることは、絶対にできないことを、歴史から学んだからなのです。あの時のニュースをテレビの中に見ていて、機動隊と安保反対の学生は、同じ世代の若者同志が、憎み合い、反発し合いながらせめぎ合っている《青春の坩堝(るつぼ)》でした。後に、軽井沢で「浅間山荘事件(1972年2月19日に始まる)」が起こって、国家転覆を謀った過激な学生運動が、内部分裂を起こし、仲間同士が殺し合う凄惨な解体劇を演じていたのです。後になって、ハイジャックや拉致に加担していく者たちの仲間です。その仲間が、それと同じ思いを持った者が、現首相や前官房長官なのですから、これでいいのでしょうか。あの頃の世相を悲しんだ私たちの世代としては、二重丸、二十(!?)重丸で疑問を禁じえず、たいそう不安なのですが。


 健全な人が責任を取るのがいいのです。経歴や素行に汚点のない、『この男なら、この人なら!』と太鼓判を押される人が、東北大震災後の日本にあって、昏迷の只中にある日本を導き、国民の命に関わる原発事故の収束、解決を手掛けて欲しいものです。そんな《縁故》の人はいませんか。四十代、せめて五十代に、《人》を見出したいものです。あの西郷隆盛(明治維新の時に40歳位ほどだったのです)のような、冠も地位も金も求めない、《無欲の人》が出てきたらいいですね。たしか彼の愛したことばは、「敬天愛人」だったと思いますが。私の弟は、機動隊側に加わって、暴力革命から国と国民を守り、善戦したのだったと記憶していますが。お陰さまで、平和な時代を迎えられたわけです。さらなる平和を願う《コネ》に恵まれて生きてきた私であります。

(写真上は、全共闘の「安保反対」の学生運動、下は、西郷隆盛筆の「敬天愛人」です)