花と根

 
  
 東日本大震災が起こって後、被災者を含め日本人が、前代未聞の困難に出合いながら、冷静で沈着で秩序だっていていること、スパーマーケットの襲撃や夜盗などの犯罪に走らない様子を知って、洋の東西を問わず、世界中が、『どうしてなのですか?』と声を上げています。『なぜなのか?』、私も自分に問いかけてみましたら、次男にもらって読んだ本のことを思い出したのです。

 「武士」を、『ぶし』、『もののふ』と読みますが、その誕生を簡単にいますと、農民が、自分たちの家族や田畑や家屋敷の財産を敵の襲撃から守るために、武闘を余儀なくされ、専門職として防備や攻撃の訓練に日頃励む武装集団のことと言えるでしょうか。その後、《荘園》が誕生してきますと、さらに尖鋭化して、強力な集団となていきます。そういった集団の中で有名なのが、関東で誕生した《坂東武士》だといえます。さらに、勢力を貯えて強固な武士集団を形成していくのが、《源氏(第56代清和天皇を祖とし源頼朝が有名)》と《平氏(第50代桓武天皇を祖とし平清盛が有名)》であります。この二つの武士集団の中から、「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅ぼし、鎌倉に武家幕府を開き、《征夷大将軍》に任じられるのが、源頼朝(1147年5月9日~1199年2月9日)なのです。


 この武士の生き方や道理を、「武士の道(もののふのみち)」といいます。札幌農学校(現在の北海道大学農学部)で学び、国際連盟事務局次長、東京帝国大学教授、東京女子大学学長、東京女子経済専門学校校長などを歴任した、新渡戸稲造(1862年9月1日~1933年10月15日)が、1900年1月、アメリカで、「武士道(英語で”BUSIDO THE SOUL OF JAPAN ”)」を刊行します。これが、読んだ本でした。流麗な英語で書かれて、世界中から多くの読者を得ました。日本語に何度か翻訳されていますが、私の手元にあるのは、2000年12月、佐藤全弘訳、教文館で出版されたものです。新渡戸稲造自身、南部盛岡藩の藩士の子として、江戸の上屋敷で生まれ、武士の子(明治以降は士族の子)として厳格に教育されます。なかなかの《硬骨漢》で、ヤンチャだったようです。札幌の学校を終えて、東京帝大に学ぶのですが、その学びにあきたらずに、単身、アメリカに渡り、ジョンズポプキンズ大学(ボルチモア)に留学し、ドイツのボン大学などで学んでいます。農学校時代、クラークの感化を受けた内村鑑三らとの交流を通して、新渡戸が強烈な影響を受けたことから、物静かな紳士へと変えられて行ったことを、内村が書き残しております。

 この本は、新渡戸稲造の生き方を、傍らで見続けてきた妻・メアリーが、『日本ではなぜこういった考え方や習慣が行われているのですか。』との問い掛けが動機となったようです。つまり日本では宗教教育がなされていないのに、高い道徳律を持っている日本人の新渡戸を見て、不思議に思ったからでした。学校で道徳教育を受けた覚えのない新渡戸は、即座に答えられなかったのです。それで、『私の正邪善悪の観念をなしている、いろいろな要素を分析するにいたって、はじめて、それら道徳観念を私に吹き込んだのは〈武士道〉だったと気がついた(上掲書26~27頁に記述)。』と記しています。


 同じような疑問を、東北大震災の後、世界中が発しているようです。新渡戸は、第15章の「武士道の影響」という箇所で次のように記しています。『・・・過去の日本は、サムライのおかげであった。彼らは国民の花であっただけでなく、国民の根でもあった。〈天〉のすべての恵み深い賜物は、彼らを通して流れでた。[武士は社会的には、民衆からは高く身を持していたけれども、民衆の道徳的標準を示し、民衆をその手本で導いた。〈武士道〉には、その内向きの教えと、外向きの教えがあったことが認められる。後者の教えは、一般市民の福祉と幸福を求めるので幸福主義的であり、前者は、美徳を徳それ自身のために実行することを強調するゆえに徳中心であった]・・・〈武士道〉の精神が、すべての社会階級にどのように浸透したかは、またオトコダテ(男伊達)として知られる特定階級の人達、すなわち平民道の天成の指導者たちの発達によっても知られる。彼らは頼りになる男であって、頭の頂きから足の先まで、堂々たる男子の力を逞しく備えていた・・・』とです。

 武士の生き方や価値観が、農民や手工業従事の技術者や商人、さらには女性や子どもにまで、多大な影響と感化を与えていたというのです。彼らの外での仕事、内での生活に、武士の在り方、生き方が浸透していたことになります。。『礼儀正しく授業の仕方が真面目です!』、『日本人は違います!』と、私を評価してくださる中国の学生のみなさんがおいでです。彼らは、「徳」を大変大切にする文化伝統の中に生まれて育っているのです。板書した黒板を消して、教室を後にするのは当然なことですのに、このことまでも、『偉いですね!』と言って、手伝ってくれます。このような百姓(中国語では、「平民」とか「庶民」の意味で使われます)の子である私ですのに、少しは「徳」のある生き方ができ、よい態度をもつことができるのは、「武士道」が、下々にも行き渡って、今日にまで脈々と受け継がれていることになります。この時代の私たちの手柄ではなく、日本文化の継承になるのでしょうか。

(写真上は、「江戸名所図会」、中は、「侍(映画・小川の辺)」、下は、「札幌時計台」です)

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