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新年快楽!
おめでとうございます。
ここ中国では、「春節」を迎えました。
「農暦(旧暦)」の《元旦yuandan》です(新暦の2月16日)。
昨日の「大晦日」は、初夏の様な暑さでした。
友人のご家族と、この街の北の山中にある「梅園」に行ってきました。
馥郁(ふくいく)たる紅梅と白梅が、観梅のために整然と植えられていて、実に綺麗でした。
多くの家族連れで賑わいを見せて、花も顔もほころんでいました。
いつもの年ですと、ビザの都合で、一時帰国をするのですが、2007年、天津で「春節」を迎えて以来の爆竹と花火での「过年guonian/越年」です。
多くの人が故郷に帰省し、両親や祖父母や兄弟姉妹とともに、新年を迎えるのです。
この小区に「実家」があるみなさんは、こちらのご両親を訪ねてきている様です。
過ぎ去った日本の正月風景、正月の雰囲気が思い出される様です。
15日後の「元宵節yuanxiaojie/小正月」までが、日本で言う「松の内」です。
晴れ着を着て、ご馳走を食べ、親族や友人を訪問し合うのです。
中国の祝福を心から願います。
友人たちと、そのご家族の祝福と健康を、心から祈念します。
元旦の零時をす過ぎましたら、轟々たる花火の炸裂音と閃光が、街中、国中に響き渡って、煌めいています。
さすが火薬を発明した国です。
新年への期待の叫びなのでしょう!
好い年をお過ごしください。
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国姓爺
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中国の南方に、「泉州(quanzhou)」と言う、かつて海外貿易で栄えた港町があります。ここに教え子がいて、招かれて訪ねた事がありました。お父さんが、市内を案内してくださって、その貿易で使った巨大な木造船の骨組みが、記念館に残されていたり、イスラムの寺院があったり、かつて貿易港として繁栄した名残を感じさせられたのです。
その時、市内を見下ろす小高い丘の上に連れて行っていただき、巨大な銅像を見上げたのです。それは、馬上に跨る「鄭成功(ていせいこう)」の勇姿でした。馬の上から、台湾本島を望み見ている姿なのです。明朝から清朝にかけて活躍した武将で、台湾でも、未だに尊敬され続けている人物です。
この成功は、近松門左衛門の「国姓爺合戦(こくせんやがっせん)」の人形浄瑠璃や歌舞伎で演じられる人物でもあるのです。1624年に、中国福建省の貿易商・鄭芝龍を父に、長崎の平戸の生まれの母・田川マツから、母の故郷の「平戸」で生まれています。幼名を福松・鄭成功は、7歳の時に、単身で海を渡って、父の祖国を訪ねています。21歳の時に、明の隆武帝より、明王朝の国姓である「朱」をもらっています。それで、人々は彼を「国姓爺/この「爺」は尊称です」と呼んだのです。
父親は、清に投降しますが、成功は「抗清復明」の立場を死守して、清と戦います。戦いが不利になって、彼は台湾に渡ります。そこで台湾を支配していたオランダ人を追放するのです。台湾の金門島に、本拠地を置き、政府を興し、法律を定め、耕地の開拓を行い、台湾の人々に尽くすのです。大陸での戦いの最中、泉州に、移り住んでいたお母さんは、泉州城が陥落する時に、敵に降伏することなく、泉州城内で自刃して、日本女性の心意気を示したと伝えられています。
1662年に、39才の若さで、鄭成功は病没しています。ですから、台湾の人々は、彼の功績を忘れずに今もいる様です。中日双方の血を引く鄭成功は、良好な日中関係を期す双方にとって、今も高い評価を得ているのです。歌舞伎で見た事はありませんが、人としても武人としても、あの丘の上の銅像の様に、大きな人物であった様です。
誇らしく、教え子のお父さんが、この鄭成功の武勇伝を話してくれたのです。金門島は、泉州の隣り町の「厦門xiamen/アモイ」から、高速船で30分、今は台湾領になっています。もう凌霄花(ノウゼンカズラ)が、一足も二足も早く咲いています。海を隔てていますが、日本と中国の交流の歴史は長い事が分かるのです。
(鄭成功の直筆の書、泉州の丘の上の「鄭成功」の銅像です)
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忘年会
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日曜日の夕方、夕食の支度を家内がしてると、電話がかかってきました。『みんなで鍋を囲むので、一緒にどうですか?』と言う誘いで、家内は包丁を置いて、『はい! 』と返事をしてしまいました。20分ほどで車で迎えに来てくれたのです。大学で法律を教えている女性が、最近アメリカ車を買って、その車を運転して、迎えに来てくれました。
いやー、手を握って汗をかきっぱなしでした。それでなくても三車線を四車線で走っていて、横入りや、スレスレで追い越して行く車の走る中で、ヨチヨチ歩きの赤ちゃんの歩行の様に、おぼつかない初心者運転で、ハラハラの連続でした。隣にこの方の同僚が座って、自動車教習所の教官の様に、運転指導をしながら、やっと「鍋屋」に着いたのです。
車の運転免許証を、グアム島で取得した私が、それを持って、県の免許センターに行ったのですが、それでは、日本の免許証を書き換えてもらえなくて、結局、教習所に行き、やっと日本の運転免許症を取得したのです。運転し始めて間もなく、私の師匠のアメリカ人起業家が、東京に用があり、私も用があて、一緒に出かけたのです。『準、あなたが運転してください!』と言う事で、おぼつかない運転で高速道路を走ることになりました。
助手席に座った師匠は、本を読み始めたのです。ところが、ページをめくらないでいるではありませんか。運転を任せていたのですが、彼はハラハラの連続だったのでしょう。昨夕、その時のことを思い出したのです。中国に住み始めて、自分で運転することがなく、いつも乗せてもらうだけでいますので、助手席や後ろの座席にブレーキがないのに、いつもブレーキをかけるように足を踏ん張ってきています。タクシーでも、友人たちの運転する車でも同じで、<中国民間ルール>は、常にヒヤヒヤなのです。
でも、「海鮮鍋」は美味しかったのです。海老や魚や貝や練り物、野菜もマトンも牛肉もついてきて、結構安かったそうです。これが、<中国版忘年会>で、親しい者同士が、鍋をツッツキながら談笑するのです。やはりここにも、<鍋奉行>がいて、取り仕切っていました。五人のに二人が大学の先生でしたから、指導が身についていて、昨夕は、<二人奉行>でした。私たちは、『美味しい、美味しい!』だけ言って、箸を動かしていました。
今週金曜日から、「春節」を迎えます。この時季、私たちは、ほとんどの年に一時帰国をしていたのですが、今年は、こちらに残ることにいたしました。一昨日あたりから、小区の中でも、爆竹が鳴り始めています。けたたましい音には慣れずじまいです。今週は騒音のピークになることでしょう。それをしないと正月を迎えられないほどの伝統文化なのです。きっと花火も上がることでしょう。
忘年会から帰ってきたら、パンの会社の社長さんから、正月用のお菓子が届いたのです。その中に、「銅鑼焼き(どらやき)」が二箱もあって、お正月は楽しめそうです。全く日本の物と同じなのです。ご馳走になったりして、みなさんによくしていただいて、私たちも「新しい年」を、満腹の内に迎えられそうで、嬉しい限りです。
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拙者
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東京日本橋に、「室町(むろまち)」という一角があります。昭和初期までは「按針町(あんじんまち)」と呼ばれていて、江戸初期に「三浦按針」が住んでいたので、そう呼ばれていたのです。この人は、徳川家康に重んじられて、名字帯刀を許され、「旗本」に取り立てられたほどの人物で、国籍はイギリス、名前は"ウイリアム・アダムズ"でした。船の航海士として、豊後国臼杵(ぶんごのくにうすき)に、彼が漂着したのが、1600年の事でした。
家康が興味をもって江戸に招き、当時の国際情勢や造船・航海術、天文学や数学等の見識を、高く評価されたのです。その功績で、相模国(現在の神奈川県横須賀市)に領地を与えられ、江戸には、邸宅(屋敷)が与えられています。対外的な制限が加えられる以前、家康は、海外に関心を向けていて、そのまま交易や文化交流が続けられていたら、日本の歴史は大きく変わっていた事でしょう。しかし徳川二代、三代将軍によって、その制限が強化され、230年の間、日本は内に籠ってしまったのです。
船の設計士でもあった彼の技量を知った家康は、伊豆の伊東で、「帆船(はんせん/帆をつけた船です)」の建造を要請し、日本最初の造船所が、その伊東にあったのです。「浦賀(横須賀)」では、スペインなどとの交易も行われ、按針が貢献しています。さらに平戸には、対英貿易の商館(後に「長崎・出島」に移管されます)があって、これにも按針が関わっています。按針は、1620年に55才で、この平戸で亡くなり、葬られています。
家康に帰国を願い続けながら、それが許されずに、按針が日本で没してしまったのは、やはり数奇な一生をたどった事になります。この室町(按針町)に、父の会社があって、何かを届けるために、小・中学校の頃に、二度ほど行ったことがありました。三越日本橋店の近くにあって、東京のビジネス街の一角だったのです。その頃、按針を知っていたら、日本の歴史を、もっと身近に感じられていた事でしょう。
中国人の友人の「老家laojia/故郷」が、内陸部にあって、そこには百五十年も前に、欧米人が訪ねて来ていて、医療や文化などの面で、大変助けてもらった過去があると、話していました。ここ中国も、徳川時代と同じ時期が、「清朝」であって、孫中山(孫文)による「辛亥革命(しんがいかくめい)」が起こるまで、国を閉ざしていたのです。
同じ様な歴史をたどってきた中日両国には、似た背景が、多くある様です。こちらに来たばかりの頃、街角で、女の子たちが、「ゴム跳び」をしているのを見かけて、《子ども遊び》も、結構似ているのを感じたものですが、昨今は、"Game"の全盛で、《外遊び》を見かける事がなくなってしまっています。むかしは、こちらでも、きっと稲刈りを終えた田圃や街角や村外れで、子どもたちの声が聞こえていた事でしょう。臼杵や平戸や横須賀や日本橋で、そう言った子どもたちの姿が見られたのでしょう。アダムズは、『拙者(せっしゃ)は三浦でござる!』と言ってたのでしょうか。
(横須賀の観音崎です)
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宇宙
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1961年、まだ自分が高校生の頃でした、ソ連の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリン大佐が、「有人飛行」に成功したのです。そのガガーリン大佐が、『地球は青かった!』と、その印象を語った言葉が有名でした。「青い地球」は、予想外だったのですが、大佐が語ったロシア語を、そう意訳したのですが、直訳だと『空は非常に暗く、地球は青みがかっていた!』なのだそうです。
手塚治の「鉄腕アトム」の夢が、実現した様で、ぐっと太陽系の惑星や宇宙が近く感じられたのを覚えています。当時は、米ソ間の「冷戦」の時代で、相互に敵視したりの激しい競争が繰り広げられていた時でした。その競争に加わる事ができない日本でしたが、小さなロケットを打ち上げつつあったのです。テレビで見る米ソのロケットと比較すると、日本製のロケットは国力や財力の違いが歴然としていました。
でも、臆せずに、国力に応じて開発を積み上げて、今では、日本は、世界に引けを取らない水準に達している様です。地球の保全などのために、そう言った開発が用いられる事は素晴らしい事です。宇宙への夢が、私になかったわけではないのですが、高い空の上から、地球を観測でき、気象予報に大きく貢献できているのは、嬉しいことです。
また先日は、優れた性能の望遠鏡が作られ、近いうちに南米チリの山上の天文台に設置され、宇宙観測をして行くのだと、ニュースが伝えていました。どこまで見え、何を発見できるのでしょうか、一度覗いて見たいものです。地球上の課題も山積していて、温暖化や食糧や環境の問題も多そうです。21世紀の課題は、多そうです。
(気候変動観測衛星「しきさい」が撮影し合成されたオホーツク海周辺の画像(JAXA提供)
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悠久
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こちらでの生活が、思いの外に長くなって、すっかり適応し、習慣化してしまって、何か外国に住んでいる様な意識が少なくなってきている自分に、時として驚かされる事があります。電気やガスや水道、バスや電車などの交通、毎日の食事、友人や訪問客、そして倶楽部や住む家など、何不自由なく備えられて、快適に過ごせている事に、大変感謝しているところです。
間もなく「春節」が始まり、何億という人たちが移動をされるそうです。知人たちも、それも何組ものご家族にが日本旅行、とりわけ「北海道旅行」に出掛けるのだそうです。そのお目当は、「札幌雪祭り」だそうです。東京や京都を巡り歩いたみなさんが、次に目指すのは、「北の大地」の様です。中国の東北のハルピンでも、氷の芸術作品が見られるのですが、異国の景観に興味があるのでしょう。
かつては、「蝦夷(えみし/えぞ)の地」、北の大地は、大和朝廷が、そう呼んで名付けられたそうです。源頼朝が、朝廷から「征夷大将軍」に任じられたのですが、その「夷」は、辺境の異民族の事を表し、「尊皇攘夷」にも「夷」という字が使われています。蔑んだ意味がある様です。その「蝦夷」が、1869年に「北海道」と命名されています。この名付け親は探検家の松浦武四郎だそうです。
この松浦は、先住民のアイヌにみなさんの助けで、蝦夷地を何度も調査しています。よく探検家が、原住民と同じような生活をしながら、様々な調査をしてきた様に、この松浦も、アイヌの人々と寝食を共にしながら、6回もの調査をしたそうです。アイヌの人々の信頼を勝ち取った松浦は、アイヌの長老から、多くの事を学んでいます。
その長老に聞いた「北加伊道」、「カイ」と言うのは、「この地で生まれたもの」というアイヌ語だそうです。その発音を「海」にして、「北海道」とした訳です。先住民のアイヌの人々は、内地人から差別されたり、搾取されたり、追われたりした過去があります。松浦は、そう言ったアイヌのために、様々に彼らの立場を擁護した人だった方だそうです。
昨年、札幌の病院に入院していたときに、同室になった方から、「オホーツク文化」が、樺太、カムチャッカ、鴨緑江(アムール川)を経て、大陸から伝えられ、その流れに「アイヌ文化」があったと聞いたのです。その遺跡が、網走市の網走川河口(「モヨロ貝塚」が有名です)や北見市や紋別市など、北海道のあちこちにある事も知らされたのです。悠久の歴史を刻んだのも、「北海道」の特徴であり、興味が尽きません。
その寒冷地に人が住みついて、文化を育んだ事を知って、今年の様に寒い冬を経験すると、どんなにしてオホーツク人が暖をとって、酷寒の冬を過ごしたのか心配になってきます。子どもの時期に、開拓民たちは、雪を被りながら寝ていたという話を聞かされて、もう春になった札幌で、桜の花が咲いていた頃でしたが、寒がりの私は震えてしまいました。それにしても、今季は寒い!
(オホーツク人も見た網走の景観です)
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国鉄時代
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小学校の2年から、大学の2年まで住んでいた、家は、国鉄(JR)の線路から40メートルほどの所にありました。今は、繋ぎ目のない一本の鉄路になっていますが、そのころは、その繋ぎ目があったり、本線から貨物作業場への切り替え線があって、そこを通過する車輪が、"ゴトゴトゴト!"と音を立て、時々、汽笛が聞こえていました。家からも聞こえる音で、ちょっと「子守唄」の様でもありました。
駅も近くにありましたから、低速で電車が行き来していたので、"ゴーッ!"という騒音ではありませんでした。首都圏への通勤通学の路線でもありました。それでも甲府や松本への急行電車も走っていたのです。しかも子どもの頃の遠距離の汽車は、蒸気機関車が牽引していました。手動の遮断機の開閉式の踏切もあって、『邪魔だから、あっちに行って!』などと言われないで、上下開閉の作業を手伝わせてもらえたのです。そう言ったことが許され、できた時代でした。
その駅の近くに、「保線区」があって、線路の補修点検が行われていて、その土間の作業上にも入れてもらって、様々な作業道具を触らせてくれたのです。どうして、それができたのかと言うと、同級生のお父さんが、国鉄の保線区の作業員だったから、出入り自由だったのです。ただ改札は、駅の最前部にあって、最後部に踏切があったのです。父は、この踏切番のおじさんに、よく食べ物の付け届けをしていて、弟がその当番をしていました。そこから、父は近道でホームに入るための算段だったのです。
小学校の音楽の授業で、"ドイツ民謡"を「唱歌」として歌った「夜汽車」がありました。
1 いつもいつも とおる夜汽車
静かな
ひびききけば
遠い町を 思い出す
2 やみの中に つづくあかり
夜汽車の
窓のあかり
はるかはるか 消えてゆく
こう言った、上野と秋田や青森や新潟を結ぶ遠距離の鉄路を走る、「夜汽車」の情緒はなかったのですが、竹製の遮断機の重さを、まだ手に覚えています。踏み切り番のおじさんは、弟を可愛がっていて、ご自分の家に遊びに招いてくれるほどでした。昔は、そんな専門職が、子どもたちに優しい眼差しを向けてくれていたのを思い出します。
(富山地方鉄道の始発・電鉄富山駅の近くの「手動踏切 」です)
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春二題
保土ヶ谷あたりまで
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一度挑戦してみたい事の一つは、東海道を歩いて走破してみたいのです。『その年で?』と、声が聞こえそうです。日本橋から「五十三次」で、京都の三条大橋まで、この年齢で、何日かかるでしょうか。旧街道ではなく、国道1号線を、草鞋をウオーキングシューズに換え、「振り下げ荷物」をザックに換えて、「旅籠」ではなくビジネスホテルに泊まりながら、その土地、その土地の名物で外食しながらだです。そうすると、"百万円"ほどかかってしまうかも知れませんね。
箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川
それだったらザックにテントや寝袋を入れて、それを背負いながら歩いて、野宿しながら、「のり弁」や「シャケ弁」でも食べて歩けるでしょうか。野良犬や蚊に攻められる心配もありそうです。着替えなど、江戸時代の旅人は、どうしていたのでしょうか。何やら、難しそうな事ばかりがありそうです。もう多摩川を渡ったあたりで、靴擦れができてしまって、"ベソ"をかいていそうですね。
学校に行ってた頃、友人が仲間を引き連れて、「高下駄(朴葉/ホオバ、朴の木で作った下駄)」で、「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」をした事がありました。「二十歳の奇行(!?)」だと思って、笑っていましたが、羨ましさで彼の姿を見ていました。それ以来、心の中に仕舞い込んでおいた願いが、数年前からフツフツと湧き上がってきているのです。
「老いの戯れ言」でしょうか。結構出来そうにも思うのですが。でも便利さの中にトップリと浸かって生きて来ましたから、弱音を吐きそうです。でも、「思い立ったら吉日」と言いますから、失敗覚悟で、日本橋のたもとから始めてみましょうか。そうそう、日本に引き上げてからにしましょう。少なくとも2ヶ月はかかるかも知れませんから。
赤チンに包帯、下痢止めや痒み止め、栄養ドリンクやチョコレート、ビタミン剤なども必要でしょうか。そんな事言ってたら、江戸の旅人に馬鹿にされ、笑われてしまう事でしょう。箱根は、大学駅伝を観戦するだけで、上り坂では息切れしそうです。大井川も天竜川も「川止め」はないのですが。これをお読みの方は、もう初めから、『できっこない!』と言っていそうですね。では、取り敢えず保土ヶ谷あたりまでやってみましょう。
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甲州街道も中山道も日光街道も奥羽街道も、山道が多くあって大変そうですが、一番短いのは日光街道でしょうか。昔の人は、足が強かったのでしょうね。こちらの女性の歩き方が早いのには驚かされます。こちらが遅すぎるのかも知れませんが、いつも追い越されてしまいます。『すぐそこ!』を間に受けてると、驚くほど遠いのです。車に乗り慣れて、こちらに参りましたから、歩き専門です。感覚の"ズレ"があって、困らせられる事が多いのです。でも、ここも車社会になりつつありますから、みなさん、脚力が落ちてしまうかも知れません。
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最善
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『私はほんとうぬ死ぬつもりなんだぞ!』と言い続けた方が、先日、多摩川で入水自殺をしたと、ニュースが伝えていました。この方のお話を、私は聞いた事があって、こう言った人生の締め括りをする事に驚いたのです。それが人として最善だとは思えないからです。「自裁死」と言う最期(さいご)が、この方の考えを高く評価してきた若い人たちに、よい事の様に思われなければいいなと感じたのです。
イスラエル民族に伝えられた故事の中に、一人の自殺者の話があります。ダビデ王の顧問で、驚くほどに知恵のある人でした。ある時、ダビデの子が謀反を起こすのですが、その時、アヒトヘルは、仕えてきたダビデを見捨てて、そのアブシャロムの助言者となり、主君を裏切るのです。
日の昇る勢いのアブシャロムに加担する道を、彼は選んだわけです。こう言った生き方をする彼が、挫折を経験するのです。イスラエル人の心を盗んだアブシャロムを支持する民が増え、彼らの心がアブシャロムになびいてるのを知って、ダビデは、王宮から逃げ出したのです。
ダビデの家来で、もう一人の助言者が密命を受けて、アブシャロムに仕えるのです。アブシャロムがダビデ討伐を考えていた時に、アヒトヘルは、驚くほどの知恵で助言をしました。ところが、そのフシャイにも、アブシャロムは意見を求めたのです。彼は『この度のアヒトヘルの助言はよくありません!』と言って、自分の策略を、アブシャロムに提言したのです。何とアブシャロムは、天から託宣を受けて助言するかに見えたアヒトヘルの進言を退けてしまいました。
その人生初めての拒絶体験に、アヒトヘルは耐えられなかったのです。彼は、故郷に帰って、家の整理をして、あっけなく死んでしまいました。それが潔い死なのでしょうか。そう言った死に方を選んだ、このアヒトヘルの考え方や生き方に、決定的な弱さがあったのです。挫折や失敗で、自らの命を断とうとする代わりに、知恵者の知恵が、その事態で役に立たなかった事になります。
それで命拾いをしたダビデの家来が、アブシャロムを打つのです。この国の戦国時代の物語は、日本のそれに似ているのですが、21世紀の今日でも、「下剋上(げこくじょう)」もあり、挫折も失敗もあります。ところが、ダビデの家族間に抗争や多くの問題をもたらした原因が、ダビデ自身にありました。部下の妻に横恋慕し、子を宿らせてしまいます。さらに部下を戦いの最前線で戦死するように画策して、死なせたのです。ダビデは、《人の道》を踏み外してしまいます。
そんなダビデが老齢になって、「冷え性」で寝られなくなった時、部下が、乙女に添い寝するように段取りをするのですが、ダビデは、この娘に触れようとしなかったのです。最晩年に、ダビデは,《賢王の生き方》を取り戻していたわけです。そしてダビデは老いて、弱って、人の世話を受けて死んで行きました。
西部邁氏は、そう言った《老いゆく惨めさ》を嫌い、《病んで人の世話になる介護》を拒んだのでしょうか。謙って、老いや病を受け入れ、生き続けて欲しかったのです。少しも潔い死に方ではありません。人は、必ず死の時を迎えます。夫人の癌の闘病を看た事は大変だったのでしょうし、死別の悲しみも大きかった事でしょう。それも受け入れていく様に、人はあるのでしょう。
ご自分も病んで、子どもたちの世話になりたくなかった様です。でも、《老醜(ろうしゅう》を晒しながらでも、人は生き続ける、《最期の務め》があるのです。私は、『華々しく最後を飾りたい!』なんて考えていません。今まで迷惑をかけて生きてきた、そのついでに、もう<ひと迷惑>を、家族にかけながら生きて、カッコ悪く「自然死」の時を迎えたいと思っています。人生の最善は、『生きよ!』と言う声を聞いて、飽くまで《生きる事》にあるからではないでしょうか。
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