仕事

これまで、多くの業種の仕事をさせてもらってきました。別に貧乏学生ではなかったのですが、どちらかというと、学業よりも、実社会で学ぶ機会のほうがだいぶ時間的に多かったのでではないかなと思います。つまり本分である勉強を、あまりしなかったことになりますが。働いた時間だけバイト料が多いという実益があり、世の中の変化や面白さがあり、『よくやってくれるね、君たちは!』と煽てにのせられますから、どうしても単純な私にとっては、アルバイトに比重が偏ってしまったのです。いろいろな人と出会って、様々なところに出掛け、社会の仕組みの一面を覗き見られたことなど、お金には替えられない、学校では学べないことを学べたと、まあ言い訳しております。

そんな私には、一つの信条、決心がありました。兄の友人たちが、アルバイトをして学業放棄をして中退していく様子を見聞きしていましたから、彼らの轍を踏むまいとして、あることを心に決めたのです。それは《水商売》では働かないという決心でした。で、体を使う力仕事をしたのです。兄の友人が、失敗したのは、女性でした。恋に落ちたのか、誘惑に負けてしまったのか、それらが勉強への関心を薄れさせてしまうか、様々な理由で学校を続けられなくなって、学問を諦めたからです。

何時でしたか、地方の大学で教壇にという話があって、学長と面談したことがありました。20頁ほどの小論文を持参して行きましたら、『あなたは、これまで何を学んで来られましたか?』と問われて、『私は2つのことを学んできました。』と、答えたのです。その1つというのは、人間が生来もつ《可能性》を教わったことです。『僕が、琵琶湖にある施設でボランティアをしたときに、重度の心身に障碍を持っている方が、普段は何の感情も表現しないのに、お風呂に入ったときと、日光浴をしたときに、なんとも言えない喜びの表情を見せるんだ。君たち、人間には、どんな情況に置かれていても、誰にでも《可能性》があるんだ。その可能性を信じて、人と接していくこと、これが教育であり、福祉であり、命の道なのだ!』と、三十代なかばの専任講師が、顔を紅潮させながら、烈々と訴えたのです。そのことをお答えしました。

その講師の話を聞いた時、自分の《可能性》を信じて、それを引き出そうとしてくれた先生たちの顔が、この講師の顔にダブったのです。席に落ち着いて座っていられないで、教室をうろうろし、いたずらをして廊下だけではなく、校長室にでさえ立たされた小学時代がありました。10番以内を確保していたのに、魔の中2に、タバコを覚えて非行化して、国鉄の通学駅で盗みをして捕まって、学校に通報されたり、ピストルを暴力団を介して手に入れようとしたことも発覚し、まったく勉強が手に付かなくなった私を、処罰する代わりに激励して、3年になってから立ち直らせてくれた担任がいました。『そうだ、だれだって可能性が溢れているんだ!』そんなこんなで、高校の教師をさせて頂いたことがありました。

もう一つは、私たちの学校に「百番教室」という学内一の座席数の多い教室でしたが、そこを満堂にしていた30代後半の、ひげ剃りあとの青々とした、目の澄んだ痩せて凛々しい講師が、ある講義の時に、『みなさん。みなさんは《詩心》を忘れないで生きて行きなさい!』と講じたのです。私は、その学長に、この二つのことを話したのです。

この言葉だけが、その4年間で記憶に残った教えでしたが、それは卒業後のずっとの間、私の心の思いから離れませんでした。難解な学問的な教義ではなく、だれにでも言える言葉でしたが、それはお二人の講師の人格とは不分離だったからで、若かったからもあって、強烈に迫ったのでしょうか。その生き方が、結婚し、子どもが一人、二人と四人与えられて、徐々に分かって来たようでした。何だか、重いテーマを負わされて、『このことを考えながら生きていきなさい!』と挑戦を感じたのです。これを聞いた学長は、『あなたは、まだそんなことを言われるのですか!』と意外さと、驚きを表していました。そんな青臭い信条を持つことの甘さがいけなかったのか、本業がありましたから、それを犠牲にしてはいけないとの声なき声なのか、その講師への戸は開きませんでした。

そんなこんなで、アルバイト経験と、この二つの金言を携えて、私は社会人となったのです。いまだに青臭いものを持ち続けて生きているのですが、教育効果というのは、驚くべき力を持っているというのが実体験です。学問を学ぶというのか、学問を教える人の人格に触れるというのか、教育とはなんなのでしょうか。私の人生の残りの部分に、再び教壇に立つ機会が与えられて、中国の大学生に、人生ではなく「日本語」を教えさせていただいています。彼らの日本観を変えたいというのが、私の内なる願いですが。制限もあって、思想や宗教倫理をテーマにはできませんが、『こんな日本人もいるのだ!』と見てくれるようにと、このことはいつも忘れずに、教壇に立たせていただいています。私の中学3年間の担任が、教壇を降りて、私たちと同じ床に立って、挨拶されたのに倣って、私も教壇の下に降りて、彼らの足が踏んでいる床の上から挨拶をさせてもらっています。変でしょうか?そういえば、あの二人の講師が、白髪を戴いて、NHKのテレビに出ているのを、それぞれに見たことがありました。目の輝きと澄んだ様は、全く変わっていなかったのが印象的でした。

(写真上は、「琵琶湖」、は、よくアルバイトをした「やっちゃ場(青果市場)」です)

白髪三千丈

李白の詩の中に、「秋浦曲」という有名な詩があります。

白髪三千丈  白髪三千丈
縁愁似個長  愁に縁(よ)って個(かく)の似(ごと)く長し
不知明鏡里  知らず明鏡の里(うち)
何處得秋霜  何れの處にか秋霜を得たる

『白髪は、三千丈にもなってしまった。それは憂愁が原因してしまって、これほどの長さなってしまったようだ(白髪の長さというよりは多さを誇張して、そう言ったのでしょうか)。曇のない鏡のような川の水面に、秋の冷たい霜が映っている。あゝ、私も人生の晩年にいたって、思いの中に憂いが広がっていくのが分かる!』との思いを詠んだのでしょうか。杜甫も、「春望」の中で、髪の毛の薄さにこだわり、李白は、白髪の多さを言い表しています。人生の来し方を振り返って、この二人の詩聖(李白は「詩仙」とよばれます)は、想像もしなかった老境の現実に、戸惑いを見せているのようです。

若い日の李白は、老いを想像することなど、まったくありませんでしたから、豪放磊落、水の流のように奔放な生き方をし、若さや力強さを誇り、酒や女を愛し、杜甫のように諸国を流浪して、詩を詠み続けました。40を過ぎた頃には、長安の都で、朝廷詩人としてもてはやされます。しかし社会性が乏しかったのでしょうか、ふたたび浪々の身となるのです。浮沈の多い生涯を生き、一説によると、酒によって船から落ちて亡くなったとも言われています。

日本人は、この李白の詩を好みます。「早發白帝城」や「静夜思」を、漢文の時間に学んだことがありました。私は、それほどの素養はありませんで、中学や高校で学んだ範囲ですが、「漢詩」が大好きです。無駄を省いたことばの簡潔さがいい、日本語で読んでも歯切れが良く、韻をふむ小気味良さが伝わってきていいのです。「望郷」の思いが込められているのも、日本人の「ふるさと回帰」につながり、太陽の光よりも「月光」を好み、「山の端の月」を望み見たい心情も、共感と共鳴を呼び起こして、うなずいてしまうのです。「早發白帝城」の「猿声」ですが、私は、中部地方の山懐の深い山村で生まれて育ちましたから、聞き覚えがあって、李白が聞いたように聞けるということも楽しめるわけです。

さて、洗面所の鏡に映る私の髪の毛も、少なくなり、細くなり、白くなっているのが歴然としております。父が、トゲ抜きで、白髪を抜いていたのを思い出しながら、父のあの心境がわかる年頃になったようです。でも、年を重ねるのは後退と衰退だけではないのです。『より輝いて生きたい!』という願いをなくなさないようにしていたいのです。イスラエル民族の著作の中に、『老人の前では起立を!』と、記されてあります。昨日も、バスに乗りますと、学生がスッと立ち上がって、席を譲ってくれました。最近は、会釈したり、『謝謝!』と言って好意を受けています。それでも、初めて席を譲られたときに、戸惑ったりしたのを思い出します。『俺って、そんな年に見えるの?』と思ったからです。とかく言われる中国と中国人ですが、《敬老の心》、《敬愛の情》、《母国への誇り》などには、感心させられております。

杜甫や李白の詩作の心境に共感を覚える私ですが、財布の中には、『俺にだって、こんな時代があったんだぜ!』という証に、中学入学の時に、兄に撮ってもらった一葉の写真をしまってあるのが、私のはかない老いへの抵抗でもあります。

(写真の上下は、百度による「詩仙」といわれた「李白」です)

卯建(うだつ)


『あ の人は、何時まで経っても、《うだつがあがらない》な!』という言葉を聞いたことがあります。辞書で引いてみますと、『出世したり、金銭に恵まれたり しない。良い境遇になれない。[家を建てて、棟上することを、「梲が上がる]といったことから。また、梲が金持ちにならなければ作れなかったことから も]』とありました(大辞林)。

私たちの住んでるところからバスに乗って、鼓楼の近くの「南街」というバス停で降り、大通りから路地に入りますと、そこに「三坊七巷」 と呼ばれる古い街並みがあります。何と、唐代(618~907年)に建てられたといわれる古蹟ですから、千年から千四百年もの時を超えてきた街並みで、華 南では有名な旧跡なのです。今、観光名所として建て替えが行われ、整備されています。これまで何度か、この街並みを散策したことがありますが、最近、「ス ターバックス(星巴克珈琲)」が新規開店しまして、授業のなかった昨日、ちょっと懐かしくて、若い友人と二人で入ってみました。天津や成都でも、コーヒーが飲みたいの と、物珍しさで利用したことがありますが、この店は、なかなか居心地がよいのです。もしかしたら、これまで、子どもたちのいる東京やオレゴンやシンガポー ルにあった店よりも、居心地が、はるかに良いかも知れません。きっと、こういった《スタバ》と若者が略称する雰囲気を持つ空間が、この街には、これまでなかったので、 ことさら、そう感じたのかも知れませんね。


ほぼ満員の店内で、学生らしき若者たちが数人、テーブルにPCを 置いて、その脇でスタイル雑誌を開き、コーヒーを飲みながら操作している様子は、ホノルルでもポートランドでも見かけた、お決まりの若者の所作であり、ア メリカ的な文化のニオイがしていました。目黒の駅前や、渋谷の道玄坂や、新宿の東口にあった喫茶店にたむろして、試験前になるとノート写や勉強の真似事を した頃を、懐かしく思い返しながら、年を忘れて、その雰囲気や文化を楽しんでしまいました。気持ちは、大学生だったでしょうか。この店は、新しい観光ルー トの中ほどにあって、その路の両側には土産店や食べ物屋が軒を連ねていました。外側は中国風の作りでしたが、店内は《美華折衷(中国語でアメリカは「美 国」といいますので)》で、とても気の利いた店内装飾がなされていて、実に寛げて3時間も、その友人と話をしてしまいました。

さ て、この旧跡の街の中に、《梲》が残されているのです。司馬遼太郎が書き著した「街道を行く」で、揚子江(長江)の南に位置して、「江南」と呼ばれる華南 の地域が取り上げられています。その記事の中に、《梲》を上げた家々があると言っていましたが、まさにその実物が、見上げた軒の上に、残されていたのです (写真をご覧になってください)。司馬遼太郎は、「卯建」という漢字を当ていますが、この漢字の方が、意味が伝わりそうですね。『卯(ほぞ穴)を建てる!』と読めるのですから。これは江戸の町にも見られた建築様式で、中国、とくに華南の地域に倣ったことが分かるのです。中国語では、「防火墙(墙は壁とか塀とか仕切りのことです)」といい、火事が起こったときに、密集している街中で、隣家への延焼を防ぐための、生活の知恵であったわけです。

文字ばかりではなく、このような《生活上の実際的な知恵》も、この国から学んだことを思って、この中国は、私たちにとっては《父なる国》だという証を、また知らされた次第です。私は昨日、この《卯建》を見上げて、写真を撮りながら、父の家を出てからの年月を思い返していました。借家住まいを続けてきて、自分の家を持ったことがないのです。そうしましたら、だれかが、『雅、お前は、いつまでたっても《卯建》の上がらない男だな!』と、囁くような声が聞こえるようでした。何も持って行けないのですから、家を建てようと思ったことは一度もなかったのです。だから、帰って行っても家のない日本には未練がない、そう強がってみたいのです。ただ、居場所がないだけなのです。それでも年老いた母と、子どもたちと孫たち、愛する者たちには、切に会いたい気持ちは本物ですが。そう、もう一つありました、伊北の中央道の出口の近くにあって、たびたび食べに寄った、プリンのような舌触りの「蕎麦がき」だけには執着があって、食べに帰ってみたいと思う、年の暮れです。

(写真上と中は、「三坊巷」に街並みの《卯建》、下は、「スターバックス」、一番下は「スタバの室内装飾」です)

裸の王さま

ずいぶんのことですが、「裸の王さま」の話を、自分で読んだか、誰かに読み聞かせしていただいたことがありました。『見えない者は愚か者なのです!』という仕立て屋の言葉にだまされる王が主人公だったと思います。特別な人にしか見えないという豪華な布で、仕立て屋は特別仕立ての素晴らしい服を縫い上げその洋服を王に献上します。それを喜んだ王は得意満面で着たのです。そして国民が見まもる中を、誇らしく城下を闊歩するのです。家来も国民も、『なんと素晴らしくお似合いでしょうか!』とほめるのです。ところがお愛想なんか言うことのない正直な一人の子どもが、『王さまは裸です!』と言いました。その一言によって、自分の裸の現実・事実を、王も国民も認めるのです。『変だ!』とは思っていましたが、「愚か者」になりたくなかったので、言はれるままに王は着続けてしまったわけです

だれでも人は、「愚か者」と思われたくないのです。ですから、おかしいのが分かっていても、人の目や言葉を気にするあまり、この王さまのような行動を取ってしまう傾向があります。人の目を気にするのですが、その奇異な行動がもっと人の目をひきつけてしまって、大恥をかいてしまうことになります。この王さまのことを考えていて、思わされるのは、『王さま、あなたは裸です。だまされているのです!』と、はっきりと指摘し忠告してくれる妻や子ども家来や国民、そして友を持っていなかったことが、彼の一番の不幸なのではないでしょうか

今年、日本が誇る高級車の欠陥が原因で、アメリカの高速道路上で、死亡事故を起こすといったニュースが伝えられました。我が国だけでなく、多くの国の自動車会社が、欠陥箇所の部品交換や取替を公告しているのをニュースサイトで、たびたび見ます。《人の命を無事に、遠くに運ぶ》だけでいい文明の利器が、速度や技術革新で、あまりにも複雑なメカニズムで作られるようになってきています。ちょっとした操作の違いやミスで、これまで想像しなかったような原因で、事故が起きているのです。販売競争の激化が、一番大切な《安全性》を蔑ろにして、外形や性能に重きが置かれている傾向が続けば、想像を絶した大事故が起こるのは避けられないのではないでしょうか。

日本の自動車業界で名を馳せた本田宗一郎氏が、『私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった。しかし、全世界の覇者となる前には、まず企業の安定、精密なる設備、優秀なる設計を要する事はもちろんで、この点を主眼としてもっぱら優秀な実用車を国内の需要者に提供することに努めてきた・・・』と言っています。彼は「安定さ」、「精密さ」、「優秀さ」を求めたのです。そして自動車生産の相手である「需要者」に焦点を合わせて、企業努力を重ねたのです。業界の覇者になるのは、本来の目的や意味を第一にして、誠心誠意で製造していくなら、後から付いてくることだと、考えを改めたのでした。今、それが忘れられて、販売台数、売り上げ額、従業員や工場の数などの多さ、つまり業界第一位の地位への飽くことのない野望が、初心を忘れさせているのが現状でしょうか。どの業種にも、このことは言えるようですね。

私は、人の命に関わる仕事に従事している生産現場の人たちに、《生命第一》の切なる思いが残されていることを知って安堵しているのです。ある会社の欠陥自動車が死亡事故を起こしたときに、その欠陥を告発したの内部者だったと聞いたからです。『黙っていればいいのに!』と思われるでしょうか。会社やユーザーや家族を愛するがゆえに、言わざるを得なかった、その社員の苦渋の選択と決断と勇気をほめたいのです。凶器にも変わる自動車を作り、売る者が持っている当然の社会的責任を果たしたわけです。しかし、そうさせない組織の重圧、嫌われ者になりたくない!』との誘惑だってあったことでしょう。でも、『これ以上、このような事故を起こしてはいけない!』との内なる声を消さなかったことを褒めたいのです。利用者だけではなく、きっと、育てている子どもたちに《正直なオヤジ》であることをを知ってもらうためにも、内部告発たのではないでしょうか。その決断こそは、良心の声を消さなかったということでもあるに違いありません。

これまで、罪や過ちや欠点を指摘して、叱責してくれた師や友や妻がいたことを、私は感謝したいのです。もう一線を退いて、社会的な責任から解かれた私ですが、私が師と仰いだ多くの方々が召されてしまっている今ですが、それでも、『雅仁、あなたは裸ですよ!』と言ってくれる友が、まだまだ必要なのを感じるのであります。

(写真上は、「裸の王さま」、下は、昔乗ったことのある「ホンダ・初代スーパーカブ」です)

霞ヶ浦

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好きな作家に、城山三郎がいます。「落日燃ゆ」で、政治家・広田弘毅を取り上げたのですが、その人物描写に感銘した私は、すっかり広田弘毅の人間性に魅了さ れてしまいました。『こういった人物が、戦時ではなく、平和な時代に政をしてくださったら、誇れる日本を築き上げてくれたのではないだろうか!』と思うこ と仕切りでした。

私 の父は、港を見下ろす横須賀で生まれ育ちました。海軍の軍人の家庭でした。そんな関係からでしょうか、戦争を知らない世代の私なのに、海軍に憧れて少年期 を過ごしたのです。かつての少年たちの愛国主義や軍国主義といった思想的な動機ではありませんせんでした。本を読んだり、聞かされたりして、単に《格好良 さ》に憧れたのです。でも、そればかりではなかったかも知れません。

土 浦の自衛隊基地に隣接して、「予科練記念館」がありますが、そこを訪ねましたときに、父や母や弟や妹を守ろう、その命を捧げた少年兵たちの潔さに、言い表 せない感動がこみ上げてきたのです。時代の子といえばそれだけですが、彼らは純粋な動機で、その時代が要請した務めを一途に果たしたのだろうと思うので す。ここを訪ねたいと願ったのは、少年期だったのですが、実現できたのは、新婚旅行で結婚相手とともに訪問した時だったのです。土浦から、霞ヶ浦を船で 下って潮来に行ったのですが、かつて戦闘機の機影を映した水面を下ったときにも、同じような感覚を覚えたのです。

また、好きな俳優が、鶴田浩二でした。中学の時に、役者の彼が私たちの学校に来て、「不良化防止」のパホーマンスで不良に扮して演じてくれたこともあって、彼のフアンになったのです。しかしそればかりではなく、彼が予科練で特攻隊の生き残りだということを聞いてでした。たしかに鶴田浩二は格好良かったのですが、格好だけでは予科練にはなれませんね。この鶴田浩二と同じように、城山三郎も海軍の軍人の過去を持っているのです。海軍特別幹部訓練生として志願して、「特攻兵」の訓練中に終戦を迎えたそうです。お会いしたり、講演も聞いたことはありませんが、お顔や、お嬢様が著された。「そうか、もう君はいないのか」によると、勇猛な軍人というよりは、やはり「文人」といった雰囲気を持たれた方だと思えるのです。作風からしますと、受洗されていたことも納得させられますが。

膨大な資料をもとに城山三郎の筆で書かれた、「広田弘毅伝」ですが、この稀有な政治家が、自ら裁かれたときに、決して自己弁護や言い訳をしなかったことこそ、広田弘毅の真骨頂ではないでしょうか。「益荒男(ますらお・武人の意)」だと言われていた大将たちが、女々しく自己弁護に躍起になっていたときに、石屋の息子の彼でしたが、同じように裁かれている人の不利になる証言を拒否したのです。

つねづね思うのですが、戦争で隣国から奪ったのは命や物や夢は甚だしく多いのですが、「失ったもの」の多さにも、目を止めなければなりません。大国主義の悪夢から覚めたのはよかったのですが、あの時に逸材を失ったのが、今日の昏迷と停滞と後退の最大の損失ではないでしょうか。彼らの高い理想や夢や幻が分かち合われていたら、次の世代の人材を養い育てることが出来たに違いないと思うのです。きっと豊かな心を育ててくれたことでしょう。

『それにしても、どうして新婚旅行に土浦、霞ヶ浦だったのかしら?』と、来春40周年になるのに、いまだに解せない妻であります。

(写真上は、福建省の「霞浦」、下は、http://news.livedoor.com/article/image_detail/3387282/?img_id=295161の「霞ヶ浦」です)

実感

《頭を丸める》というのは、謝罪とか反省のしるしだとされていているようです。長髪を切ってボウズ頭になることですが、実は、2005年の春に、腱板断裂の怪我をして入院手術を受けたときに、この丸刈り頭にしてしまいした。それ以来、電気バリカンを買った私は、自分で髪の毛を切りながら、ずっと坊主頭を続けております。整髪料は要らないし、汗をかいたらすぐに拭けるし、洗髪も楽です。別に何か悪いことをして反省したわけではありませんが、嫌っていた家内も、見慣れたのか、今ではもう何も言わなくなりました。

先週末、散髪をしました。きれいに刈れたのだと悦に入っていましたが、翌日、頭のてっぺんの左側の髪をつまんでみますと、そこだけ長い《虎刈り》でした。それに気付かなかった私は、月曜日に、そのままで学校の4コマの授業に出かけてしまいました。後ろ向きになって板書をするとき、学生たちには、私の左後頭部のいただきの《虎》には、気づかなかったのか、何も言われませんでした。これに気付いたその晩、きれいに掃除してしまったバリカンを取り出して、もう一度丁寧に髪を切り直したのです。頭の後ろには目がないのは不便なものだと思わされました。

先日、知人が東南アジアを回って、香港を経由してわが町にやって来ました。大きなリュックを背負って遠距離バスに乗ってでした。会いたくなって訪ねてきてくれたのです。その日の夜9時過ぎの始発で、16時間もかかる汽車に乗って香港に帰って行きました。この彼が高校の2年間、我が家で、家族の一員として生活したのです。名門の高校に通い、ラグビー部に籍を置いていたのですが、少々問題がって私がお世話することになったのです。その彼が、問題を起こして一週間の停学処分になりました。学校のきまりで、《頭を丸める処罰》を受けたのです。その彼と同じようになってあげたくて、自分も、当時、まだフサフサだった髪を切って《ボウズ》になったのです。そうしましたら、それを聞いた級友たちやクラブの仲間が、『どんなおじさんだろう?』と興味津々、我が家に大挙してやってきたのです。それ以来の付き合いですから、30年以上になるでしょうか。

実は、5年前の《丸刈り頭》の決行には1つの理由がありました。人と会ったり、人の前で話をしなければならないことが多かったのですが、意を決して、決行したのです。私の病室に、同じ年の同じ月に生まれ、幼少期を同じ山里の沢違いで育った◯人さんが、坊主刈りになったのです。事故にあって歩けないばかりか、右手は効かず、左手だけが不十分ですが使えるような情況でした。そんな彼の配膳や片付けを、歩けて左手は使える私は、お手伝いをしていたのです。『同病相哀れむ』だけではなく、何か近いものを感じた私は、病友の彼に友情を感じたのです。その彼がきれいに散髪したときに、『僕も!』と看護師さんにお願いして、切ってもらったのです。それを知った長女が、『◯人さんのせいで、お父さんがボウズになったんだから、どうしてくれるの?』と、冗談半分の抗議をしたのです。彼は苦笑いをしていました。

それ以来の坊主頭に、私は満足です。ある方が、中国に行こうとしていた私に、『日本兵を彷彿とさせるからやめた方はいい!』と言ってくれましたが、そのような心配がなく、5年目の北風が吹き始めましたが、帽子をかぶりますと、まったく問題はありません。そんなことを思っていましたら、杜甫の詠んだ「春望」を思い出してしまったのです。

国破山河在   国破れて山河在り
城春草木深   城春にして草木深し
感時花濺涙   時に感じては花にも涙を濺ぎ
恨別鳥驚心   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月   烽火 三月に連なり
家書抵万金   家書 万金に抵る
白頭掻更短   白頭 掻けば更に短く
渾欲不勝簪   渾て簪に勝えざらんと欲す

中学1年で学んだ時には、まったく分からなかった、この『白髪頭は薄くなって、カンザシを付けるのに、もう充分な髪がないほどの年齢になってしまった!』、杜甫の気持ちですが、今まさに、それが分かるだけではなく、実感している、中国の初冬であります。

(写真は、詩聖「杜甫」です)

当番表

『いつまでもあると思うな親と金!』、これは父が常々言っていた言葉です。子どもをさとす実際的な格言と言えるでしょうか。そう言わないときに、父は、『金が木になるとでも思ってるのjか?』とも言っていました。正しく経済的な観念をもって生きるように願った父を、北風が木の葉を拭き落とす初冬の華南のちで思い出しております。

そんな父でしたが、中学に進学する前の年の暮れに、何を考えたのか、『雅、〇〇中に行け!』と、説明なしに一言いったのです。大正デモクラシーの自由な風が、教育界にも吹きこんで、新しい理想に燃えて建学された私立の中学に入って学ぶようにと、六年生の私に挑戦したのです。当然、兄たちが学んでいた地元の中学に入るものだとばかり考えていたのですから、寝耳に水の話でした。父が冗談を言ってると思わなかった私は、小学校の教科書や参考書を入念にみなおしながら、いわゆる進学準備にとりかかったのです。昭和31年の12月だったと思います。

この中学の校訓は、「健康・真面目・努力」でした。暁の星が暗闇の中から踊り出て、世界を照らし、輝かせ、暖かくすることができる人材を育成することを願って建てられた中学でした。たまたまでしょうか、100人ほどの入学者の列に加えてもらって、合格することができました。この中学校は、幼稚園から高校まであって、今では四年制大学もあります。ですから小学校から持ち上がってきた20人ほどの級友も、この他にいました。私が学んでいた小学校から、私立の中学に進学したのは、もう一人、同じ街で会社を経営する社長の娘でした。同じクラスの彼女は、私が入学した中学の女子部に入ったのです。同じ敷地の中にありました。そんな男女別学の学校も、時代の趨勢にみ合って、今では、男女が机を並べた共学校になっています。

その学校で、中学高校と6年間、のんびりと過ごすことが出来たことは、大きな感謝の一つです。まだまだ経済的に力のなかった時代に、私立中学に息子を進学させることは大変なことだったのだと思うのです。同級生たちは、中央競馬会の調教師や、医者や社長の息子たちでした。

そんな父に倣って、私も四人の子どもたちに教育を受けさせることができ、一応の社会人として自立した彼らを送り出すことができたのです。親業を卒業したと判断し、ほっとした私は、『今度はわれわれの番だ!』と一念発起して、天津の語学学校で中国語を学び始めたのです。それが2006年の秋でした。健康にも恵まれて、五年目の秋を華南の地で迎えた今月、家内が「胆石性膵炎」を発症し、市第二医院に入院してしまったのです。

軽率というのでしょうか、脳天気というのでしょうか、幸い健康が与えられて、病気になるということを想定しないで生きてきた私たちにとっては、その軽卒さから目覚めさせる発病と入院でした。『備えあれば憂いなし!』との格言が、思いをよぎるのですが、もう若くない自分たちの軽率さで、4人の子供たちに心配をかけてしまったことを、ほんとうに申し訳ないと思っております。

家内が猛烈な痛みと戦っています時に、私たちの友人が三人、車で駆けつけてくださって、医院(中国では病院を医院といい医院を診療所といいます)に、支えか抱えながら連れていってくれました。点滴を受けながら、救急外来の担当医は、『入院したほうがいいでしょう!』とのことで、急遽入院になった次第です。14日の日曜日のことでした。入院しましたら、日本のように完全看護ではありませんから、私たちの友人が「当番表」を作って、1週間分の表を作成し、それに従って、19日の夕方の退院の時まで、途切れることなく夜昼、交代しながら、一人、二人、三人と介護してくれたのです。

「魚釣島」の一件が起こり、中国各地で反日・抗日のデモの噂が高まっている中、かつての侵略者「日本鬼子」の末裔の私たちを、温かく支えてくださったのです。点滴が一週、間断なく行なわれていましたから、夜間に眠ることなく、無くなると看護婦を呼び、家内の下の世話、乾ききった唇をぬらし、手や顔を拭くといった愛の行為を続けてくださったのです。『遠くにいる家族よりも近くの他人』という諺がありますが、歴史的に、感情的に最も距離のある彼らが、家族にするように接してくれたことは、万感胸を打って感謝に耐えないのであります。

発病する前に、面識のある中華系のマレーシア人の方から、お金が送られてきていました。それを、病院に払い込むことによって、診察が開始され、投薬が始まったのです(中国では精算払いではなく、入金を確認しないと治療が始まらないのです)。感謝な出来事でした。また、ある方も経済的に援助してくれました。だれが、敵の子を援助するでしょうか、でも彼女たちは、『あなたたちは、私たちの家族だ!』と言って助けてくれるのです。

一応の治療を受けた家内の、これからの治療についても、四人の子供たちは、中国で治療を継続する派、日本に帰ってきて治療すべき派と双派に分かれていますが、こちらの友人たちも心配してくれています。この金曜日は、一人の友人叔母さんの知人が、大きな漢方薬局をしているそうで、そこに連れていって下さり、医院での治療の経過を聞きながら漢方薬を調剤してくれるというのです。そんな、もったいないほどの愛に、蒼白だった家内の顔に赤みが戻り、食欲も出てきております。愛には国境も、過去のわだかまりもなく邪魔なものの一切を押し流してしまう力があるのでしょうか。つくづく『この国に来てよかった!』と思わされる、「勤労感謝の日(日本)」であります。

(写真上は、「お見舞いの花篭」、下は、友人たちがつくって貼り出してくれた「介護当番表」です)

笑顔

「一衣帯水」を、qooの辞書で検索すると、「意味 一筋の帯のように、細く長い川や海峡。転じて、両者の間に一筋の細い川ほどの狭い隔たりがあるだけで、きわめて近接しているたとえ。▽〈衣帯〉は衣服の帯。細く長いたとえ。〈水〉は川や海などをいう。 出典 『南史(なんし)』陳後主紀(ちんこうしゅき)」とあります。これは、こちらの大学の「日本語弁論大会」で、よく聞かれる言葉です。日本と中国が、帯のように長く、時間と国家間を繋いでいることを例えることができるのでしょう。それほど緊密であるという意識から、『親子のような、兄弟姉妹のような親密な関係が、これからもさらに続いて欲しい!』と願う、こちらの学生たちが好んで用いているのです。海を隔てた中国から、私たち日本は、数えきれないほどの有形無形の物をもらい受けて、日本文化を形作ってきたことは、自明のことであります。戦争という悲しい出来事によって、壊滅的な分断がありましたが、今では多くの学生が、日本語を学んで、中日友好のために尽くしたいと願っているのです。

今、上海では、「世界博覧会(万博)」が開かれています。この国慶節の休みに出掛けた学生に聞いてみると、『4時間もならんで日本館を見てきました!』と言っていました。数ある展示館の中でも、極めて人気があるのだそうです。8月下旬、その日本館で、一つのイヴェントが行われていたようです。「梅屋庄吉と孫文」と銘打った特別展です。長崎出身の実業家の梅屋庄吉は、『中国革命の父!孫文。』と香港で出会い、国境を超えた友情で二人は交流し、孫文を経済的に援助した人でした。読売新聞の9月8日の記事(次兄が時々送ってくれます)によりますと、この特別展を見た学生が、『感動的だった。一部の悪い面だけを見て、その国を論じるのは間違っている(河南省・魏さん)』、『中国人は二人の交流を通じ、日本の軍国主義と友好的な人とは違うと知る必要がある(広東省・文さん)』と感想を述べているそうです。

『外出を控え、日本人だけで集まったりしないように。』というメールや電話がありますが、一般市民の対日感情は、それほどの厳しさを感じることはありませんので、ご安心のほど。今日も、たどたどしい中国語で「中国建設銀行」の口座を開設したのですが、いつも、どこでも無愛想な応対が普通なのですが、初めての契約の私たちを、担当行員の陳さん(既婚の若い女性)が、丁寧な事務をしてくださったので、『謝謝!』と感謝を口にしましたら、ほころびるような笑顔で、『不客気(ブ・グウ・チ、どういたしまして)』と言っておられました。今迄見たことのないような笑だったのです。

過去のことを様々に聞きますが、この時代の、特に若いみなさんは、本物の親切で接してくれています。もちろん、私たちの態度も関係があるのですが。 『もしかしたら、「一衣帯水」の「帯」は、《臍の緒》ではないだろうか!』と思わされてならないのですが。DNA鑑定を受けたら、中国と朝鮮半島のみなさんに連なるものを、自分の血の中に、きっと発見するに違いありません。そんな血の近さを覚える国で、大陸の秋を迎えております。

(写真は、百度の「霞浦」の海浜です)

三面記事

ある時、葛(くず)羊羹を食べながら、ある方と家内とで談笑していたときに、子ども時代の食べ物が話題になりました。食べ物の欠乏していた時代に、幼少年期を過ごした我々の世代としては、当然のことなのですが。学校から帰って、おやつがないときには、台所の乾物入れから、片栗粉か葛粉を見つけて、湯飲み茶碗に入れて、少量の砂糖を加ええて、お湯を注いで作った「葛湯」を、しばしば飲みました。液状ですが、歯ごたえを少し感じられるので、飲むと言うか食べると言うか、微妙な感触で胃袋の中におさめたのです。畑道を通ると、キュウリやスイカがなっているときには、あたりをうかがって、そっと頂いてしまいました。イチジクやイチゴやグミや桑の実(ドドメと呼んでいたのですが)などは、どこにいつ頃成っているかを知っていて、それらをおやつ代わりにしてしまいました。

少年期を過ごした町に、「キヨちゃん」という駄菓子屋がありました。おばさんが後ろを向いた隙に、店に並んでいたものを失敬したことがたびたびでした(これは30年近く前に3000円を持って行って謝って精算しましたが)。それでも、私の父親は、『四人の息子たちが盗みをしないように!』とでも思ったのでしょうか、喜ばそうとしたのでしょうか、日本橋や新宿や浅草の職場から帰ってくるときに、餡蜜セットとかカツサンドとかケーキとかソフトクリーム(ドライアイスを入れて)などを買って来てくれたのです。その町には、まだ売っていなかった頃のことです。そんな盗み防止の父の思惑が外れたのを、父は気づかなかったと思います。食べると、それは消化して、またすぐにお腹はすいてしまうからです。「盗んではならない」と言われていましてたし、自分の良心も、そう言っていましたから、盗みがいけないことは知っていたのですが、知っていても、空腹の誘惑のほうが強くて、抑止力にはならなかったのです。父には、申し訳なかったのですが。

あるとき、幼い長男を連れて、家内の兄夫妻のいた松本を訪問したことがありました。その週の日曜日の晩に講演会がありました。その講師が「万引きをした女校長」の話をしていたのです。退職間近の校長が、警察に捕まったというのです。彼女は、若い頃に数度万引きをしたことがあったのだそうです。教師になり、社会的に責任があったときには誘惑を拒むことができたのですが、退職が迫って不安な精神状態になったときに、つい手が出てしまったのだそうです。それを聞いたとき、衝撃を覚えたのです。

幼少年期に習慣化されたことが、正しく処理されていないと、何かの非日常的な出来事、恐怖体験などと相まって、再犯させてしまうのではないかとの恐れでした。この年になって、新聞の三面記事に載ったり、テレビのニュースで放映されたくないものです。思い巡らしてみますと、二つ、三つ未精算の過去があるのに思い付きますが、早いうちに・・・・・・。

(写真は、石川五右衛門を演じる市川小団次〈1857年作〉です)

ノラ

野良猫が、自転車置き場の近くに出没していました。人影を察知すると、さっと逃げ去って行くのです。彼が安全圏に入り込むと、深く沈みこんで、おびえた目をこちらに向けてうかがうのが、いつものパターンでした。それは捨てられた猫が負った、逃れられない宿命なのでしょうか。彼は、人は信用できないことを知っているからです。彼にはえさを備えてくれる飼い主がいませんから、毎日、自分で調達しなければならないのです。大変な人生、いえ《猫生》を生きなければならないのです。父が犬好きでいつも我が家に、犬が飼われていましたので、犬は好きなのですが、猫は好きになれないままでした。泣き声も、鋭い視線も、エサにするために人様の食物を盗む習性も嫌いなのです。

ところが次女の家で猫を二匹飼い始めたのです。彼女の主人が、職場の高校からの帰りに、捨てられていた、生まれたばかりの猫を拾って来てから飼い始めたのです。この猫が黒毛で、大きくなって来ましたら、あの野良猫と実にそっくりになりました。南信・飯田にいるはずなのに、甲府に来ているはずがないし、区別がつきません。真そっくりです。もちろん黒毛の猫はみんな同じに見えるのですが。この二匹を比べてみて、ずいぶんと違った生を生きて来たのだと、つくづく思わされて仕方がなかったのです。二匹とも、野良猫が野良で生んだか、飼い主によって邪魔で捨てられるか、どちらかだからです。片方は誰にも拾われないで、自活しています。次女たちが飼い始めた猫は、愛情いっぱいに飼われていて、水もエサも供給され、お便所の砂も換えてもらい、首にはバンダナを巻いて、ちょっとイキな感じを見せていたのです。

この猫の名前が、タッカー(彼らはタッキーと呼んでいますが)で、しばしば我が家に連れて来るうちに、私は猫が好きになってしまいました。実に可愛いいのです。彼は尻尾で、私にタッチしてきたり、からかったりもして来るのです。ところが、彼らは、もう一匹、道端から拾って帰って来て飼い始めたのです。彼女はスティービーと呼ばれていました。この二匹と遊んでいますと、拾い上げられた私の人生の祝福を思い起こさせられたのです。あの野良猫のような人生を生きていて当然だった私を思い起こさせられたからです。彼のように素早しこく、生命力旺盛だったら、生きることができたかも分りません。彼だって餓死したり、自動車に轢かれるか、腕白坊主に棒で殴られるかして死んでしまったかも知れないことを考えると、自分が生かされて今日を得ていることは、驚くほどの祝福だと思ったのです。タッカーは、決しておびえた目をしませんでした。スティビーのわがままに、いつも譲っていたのです。愛された猫の特徴なのでしょうか、個性的に面白く育ってきていました。

2005年の夏に、次女夫婦が帰国することになり、この二匹を私たちが飼うことになったのです。脱走したり、隣の家に入り込んだりするタッカーの世話は、けっこう大変でした。でも、彼らを飼う楽しみもありましたが。ところが2006年の夏、今度は、中国行きを決めた私たちの手では飼うことができなくなって、この二匹の猫を、「動物保護センター」に引きとってもらわざるを得なくなったのです。それは辛い別れでした。彼らをとても愛していた家内の留守に、それを強行しました。道々、悲痛な鳴き声を上げていたのが、いまだに耳に残っています。

いま、隣の家で猫が飼われていて、我家の庭で日向ぼっこを時々していますが、この猫を見るたびに、あのタッカーとスティービーを思い出してしまうのです。大きな犠牲があって、私と家内が、ここにいることを思うのは、ただ秋だからだけではないようです。

(写真は、wannyancoolの「パンダナ」です)