白髪三千丈

李白の詩の中に、「秋浦曲」という有名な詩があります。

白髪三千丈  白髪三千丈
縁愁似個長  愁に縁(よ)って個(かく)の似(ごと)く長し
不知明鏡里  知らず明鏡の里(うち)
何處得秋霜  何れの處にか秋霜を得たる

『白髪は、三千丈にもなってしまった。それは憂愁が原因してしまって、これほどの長さなってしまったようだ(白髪の長さというよりは多さを誇張して、そう言ったのでしょうか)。曇のない鏡のような川の水面に、秋の冷たい霜が映っている。あゝ、私も人生の晩年にいたって、思いの中に憂いが広がっていくのが分かる!』との思いを詠んだのでしょうか。杜甫も、「春望」の中で、髪の毛の薄さにこだわり、李白は、白髪の多さを言い表しています。人生の来し方を振り返って、この二人の詩聖(李白は「詩仙」とよばれます)は、想像もしなかった老境の現実に、戸惑いを見せているのようです。

若い日の李白は、老いを想像することなど、まったくありませんでしたから、豪放磊落、水の流のように奔放な生き方をし、若さや力強さを誇り、酒や女を愛し、杜甫のように諸国を流浪して、詩を詠み続けました。40を過ぎた頃には、長安の都で、朝廷詩人としてもてはやされます。しかし社会性が乏しかったのでしょうか、ふたたび浪々の身となるのです。浮沈の多い生涯を生き、一説によると、酒によって船から落ちて亡くなったとも言われています。

日本人は、この李白の詩を好みます。「早發白帝城」や「静夜思」を、漢文の時間に学んだことがありました。私は、それほどの素養はありませんで、中学や高校で学んだ範囲ですが、「漢詩」が大好きです。無駄を省いたことばの簡潔さがいい、日本語で読んでも歯切れが良く、韻をふむ小気味良さが伝わってきていいのです。「望郷」の思いが込められているのも、日本人の「ふるさと回帰」につながり、太陽の光よりも「月光」を好み、「山の端の月」を望み見たい心情も、共感と共鳴を呼び起こして、うなずいてしまうのです。「早發白帝城」の「猿声」ですが、私は、中部地方の山懐の深い山村で生まれて育ちましたから、聞き覚えがあって、李白が聞いたように聞けるということも楽しめるわけです。

さて、洗面所の鏡に映る私の髪の毛も、少なくなり、細くなり、白くなっているのが歴然としております。父が、トゲ抜きで、白髪を抜いていたのを思い出しながら、父のあの心境がわかる年頃になったようです。でも、年を重ねるのは後退と衰退だけではないのです。『より輝いて生きたい!』という願いをなくなさないようにしていたいのです。イスラエル民族の著作の中に、『老人の前では起立を!』と、記されてあります。昨日も、バスに乗りますと、学生がスッと立ち上がって、席を譲ってくれました。最近は、会釈したり、『謝謝!』と言って好意を受けています。それでも、初めて席を譲られたときに、戸惑ったりしたのを思い出します。『俺って、そんな年に見えるの?』と思ったからです。とかく言われる中国と中国人ですが、《敬老の心》、《敬愛の情》、《母国への誇り》などには、感心させられております。

杜甫や李白の詩作の心境に共感を覚える私ですが、財布の中には、『俺にだって、こんな時代があったんだぜ!』という証に、中学入学の時に、兄に撮ってもらった一葉の写真をしまってあるのが、私のはかない老いへの抵抗でもあります。

(写真の上下は、百度による「詩仙」といわれた「李白」です)

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