新聞の名コラム

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 高校3年間の担任が、KOボーイの先生で、卒業して行った3学年違いの兄たちの時の担任もしていて、「オジイ」と渾名されていました。自分ともう一人のI君が、このオジイの怒られ役でした。それで終礼に出たくなくて、グランドに出て遊んでいて、教室に戻ると、みんなが『廣田はどこ行った?』と、オジイが怒っていたと言うのです。『戻ってきたら、職員室に来る様に!』と伝言があったのです。

 これがいつものことで、仕方がなく、職員室に行くのです。すると、オジイは、『おっ、廣田来たか!』と、もう怒っていないで、『頑張れよ!』と、背中を叩くのです。この担任の先生が、朝礼の時に、新聞の記事からの話をされ、よく「天声人語(朝日新聞の名物コラムです)」から引用しておられ、『荒垣(秀雄)さんが!(1946年5月 – 1963年4月の17年間書かれた方です)』と、当時の名執筆者を贔屓(ひいき)にしていて、あんなこんなこと、こんなことを言ってたと言うのです。

 父は、東京ジャイアンツのフアンでしたから、「読売新聞」をとっていて、スポーツ欄や三面記事は読みますが、コラムなどには興味がありませんでした。でも、朝日新聞のコラム、「天声人語」は、長く新聞業界一でした。その中に、稀代の執筆者がいたのです。広島の江田島にあった海軍兵学校の七十八期、最後の入学生で、戦後、大学に進んで、朝日新聞に入社した深代淳郎氏でした。

 この方も論説委員になり、この「天声人語」を三年近く担当されて、46歳の若さで、ご病気で召されるまで、書き続けられたのです。その当時の「天声人語」は、本になって刊行されていて、今でも図書館からお借りして読むことがあります。今は、2冊借り出して手元にあります。

 父の会社に連れて行かれた時、お会いした方のお一人が、その江田島の兵学校の校長をされた方のご子息でした。また母の初恋の人も、そこの学生でした。凛々しい制服姿に憧れたのでしょう。もし海軍があり続け、この兵学校があったら、自分も行ってみたかったし、母は勧めたのでしょう。それで、深代淳郎氏のコラムに関心を向けたのです。

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 そのコラムに動機づけられたのと、次男が熱心に勧めたこともあって、「ブログ」を始めたわけです。「ガジュマルの樹の下で」とか、「恩寵」とかの題で、発行をしていたのです。ところが、お隣の国で続けていましたら、ブロックされてしまったのです。それで、記事の内容を注意深くして、再開したのが、このブログなのです。

 イラストや写真の引用の原則を知らずにしていて、次男に著作権侵害になるので、抹消する様に、十分気をつけてアップする様に言われての今なのです。数年前、以前の分の無許可使用の写真やイラストを、次男が消してくれたようです。で今は、ウイキペディアや著作権フリーからの写真やイラストを使っています。

 さて、恩師が紹介してくださった「天声人語」ですが、今は、会員限定の有料記事になってしまってネットで、自由に読めなくなってしまいました。人気の全国紙のほとんどのコラムが、そう言った傾向にあります。ちほうしの下野新聞、上毛新聞などは読めますが、一人の記者の担当ではなく、当番制になっている新聞が多くなっています。

        

 毎日、あれだけの文章を書き続けた深代淳郎氏のスゴさが偲ばれます。『新聞紙上最高の知性、コラムニストです!』と言われた方なのです。そのためには奥様の助けが、たくさんあったのだろうと、言われています。時代時代、日々の話題を拾いながらの作業だったのでしょう。

 それに引き換え、勝手なことを、気ままに書いてきている自分は、人の書かれた記事にヒントを得たりしても、ちょっと大変な時があるのに、文学作品にでもなりそうな美しい文体、内容のあふれる記事は、新聞記者の矜持(きょうじ)だったのでしょう。

 そこに美しくも、重い文章が溢れています。長く教会の週報の巻頭に、週一でコラムを書き続けました。前の週の説教、連絡事項と共に、思うこと、感じることを書かせていただいたのです。そして、もう長く、「悠然自得」と言う名をつけて、このブログを書き続けています。一般公開をしていて、時々、コメントをしてくださる方もおいでです。記事の内容の誤りを指摘してくださる友人もおいでで、下の娘は、チャットで、読後の思いを書き送ってくれ、内容訂正を進言してくれています。

 もう記事をアップして3400回になりました。残念ながら2年分ほど消失してしまってもいますが、もう少し続けようかと思っています。対象は、自分たちの4人の子どもたちで始めましたが、日記をつける代わりに、書いているつもりもあるのです。次男が管理してくれていて、辞めようとすると、『続けてね!』と言われて、思い返しての続行です。そう、コメントに、海外からのものもあったことがあって驚かされました。

 今朝は、20年も着続けているセーターを引っ張り出して着ました。家内が英語教室をしていて、そのバイト料で買ってくれた誕生祝いのギフトなのです。ありがたいことに、今冬も暖かく過ごせそうです。

(ウイキペディアの慶應大学のシンボルマーク、江田島です)

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蜜蜂がいなくなっている危機に

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 「足長蜂」に、子どもの頃に、3、4度刺されたことがありました。ものすごく痛くて、刺した針を、兄に抜いてもらった覚えがあります。時々やって来ては、二親の様子を見に、次男が来てくれます。親の好物をデパ地下で買って、それを手にしてです。2、3時間の短時間の滞在ですが、ウクレレを弾いて賛美したり、いろいろと話を聞かせてくれるのです。ある時、『世界中で、蜂がいなくなっているそう!』と言っていました。

 この蜂は、集団生活をしていて、その集団には階級や役割が分担されているそうです。子を耳育てていく大家族の中で、それぞれに役割をこなしながら、蜂社会の営みがなされていて、長く人類に貢献しながら生きてきています。

 その集団を支配するのは、「女王蜂」で、生殖の役割をはたしています。配下に、働き蜂がいて、巣を作り、餌となる蜜を収集して、巣の中に持ち帰る任務をし、育児もこなします。女王蜂も働きバチも一年で、その役割を終えて死んでいきます。ただ、その年に生まれた一匹が、女雄蜂になって生き延びて、次世代を産み出していきます。

『神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。  地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。(新改訳聖書 創世記1章11〜12節)』

 しかし役割は、それだけではなく、花に飛んでいって吸蜜する時に、雌しべと雄しべの交配の役割をになっています。風による自然交配もありますが、蜂も、その重要な役割を果たして、果物の結実に寄与するのです。自然界の役割分担とは、実に知恵深いものがあり、神の創造と維持は、その様に神の采配による以外に考えられません。

 私たちは、14ヶ月ほどをかけて、新会堂の建設をしたことがありました。母教会の信者さんのお父さんが、大きめのトラックを持っていて、その車に、家屋を上手に解体した材木や鉄剤を乗せて、運んでくださり、それを利用して会堂を建てたのです。

 そのトラックは、普段は学校の教師をされていたお父さまが、季節季節に、蜂の巣箱を乗せて、あちらこちらと採蜜をしながら、養蜂業もされていて、使っていたものでした。気の多い私は、いつか養蜂業もやってみたい、と思ったほどでした。

 美味しい蜂蜜は、花に応じて名が付けられていて、春先に咲く花に始まり、秋に咲き終わるまで、花を追い求めて、南に北にと出かけるのです。この方は、「移動養蜂家」だったわけです。

 アインシュタインも、こんなことを言っていました。『もしも、地球上からミツバチが消えたなら、人類は4年で滅亡するだろう!』と、警告的にです。今まさに、その危機的な時を迎えているのだと騒がれています。

 『この暑さは異常だ!』と、昨年も、今年も、大騒ぎでしたが、蜜蜂の社会もそう感じたに違いありません。異常な暑さが、どうして問題かと言いますと、ミツバチの大敵の〈ダニ〉が大繁殖していて、蜂について、それが原因で死滅させているのだと、養蜂家が嘆いておいでです。トマト、ナス、メロン、スモモ、りんご、豆類などなど、野菜も果物も、ミツバチの吸蜜時になされる交配ができなくなったら、実ができないのです。

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 自然界の中には、驚くべき大法則が定まっています。その法則は人間が編み出したものではなく、創造主のなさっておられる業なのです。自然や偶然と言い得ない、創造の世界の維持と繁栄を、この神さまが定めておいでなのです。蜂による受粉なしには、今日の農業は成り立たないのです。

 昼ごはんで、家内と一杯ずつのコーヒーを飲むのですが、そのコーヒー豆だって、ミツバチが飛んできて採蜜時の受粉によって、実が実って、ハワイでもウガンダでも沖縄でも豆🫘がつくのです。嗜好品から主要な食料に至るまで、その恩恵に浴さないものはないほどです。

 ところが近年、ダニが大発生して、ミツバチにつき、絶滅に危機にあるのです。吸蜜の量が減り、蜜不足で蜂の幼虫が育たなく、次世代が誕生しなくなる、そう言った危機の中に、はまり込んでいるのです。それは、直に食糧危機につながります。また強い種族のイナゴは、逆に大繁殖し、かろうじて身をつけた作物を、根こそぎに食い荒らしてしまうのです。

 戦争や核危機だけが大問題なのではなく、性愛問題の危機、結婚の危機以上に、いえ同様に、重大危機なのです。同じ様に多くの危機が一並びに、同時進行で現れているのが、現在なのです。自類は生き延びられるのでしょうか。創造主に目を背け、反逆する時代が到来しています。

『神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に、悔い改めを命じておられます。(新改訳聖書 使徒17章30節)』

 自然の営みの中に、深い神の計画と配慮と維持があるのは、神さまが、愛だからです。愛は、〈甘やかし〉とは違います。実に厳しいものなのを、自分も学ばされてきたのです。二十五歳で、その愛がわかり、同時に、その厳しさと厳粛さも知りました。主の憐れみによったのです。自然の再生はできるのでしょうか。

(ウイキペディアのコスモスの花で吸蜜する蜜蜂、採蜜の様子を描いた洞窟壁画です)

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浅草を舞台に

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 「憧れ」、男の子には、英雄が欲しいと言う、強烈な願望があるようです。かく申す私は、幼い日の自分の英雄は、父親でした。一緒に遊んでくれ、お土産を持って帰っては食べさせてくれ、世の中の情報を、子どもにも分かる様に伝えてくれたのです。さらに歴史上の実在の人物、さらに小説や映画の主人公も、英雄になったのでしょうか。

 1966年1月13日、正月が終わった、成人の日の二日前に、「日本残侠伝 唐獅子牡丹」の映画が封切られました。それから間もなくして、同級生に、『どうしてもお前と観たいから一緒に行こう!』と誘われて、その映画を、新宿で観たのです。

 その映画の舞台は、江戸から引き続く日本最大の繁華街、浅草でした。その街に生まれ、義理と人情で、お袋さんを悲しめている博徒で、街の悪と決然として闘う花田秀次郎を、高倉健が演じていました。映画の挿入歌が、次の様に歌っていました。

♬ 浅草(エンコ)生れの 浅草(あさくさ)育ち
極道風情(ごくどうふぜい)と いわれていても
ドスが怖くて 渡世はできぬ
賭場が命の 男伊達(おとこだて)
背中(せな)で呼んでる 唐獅子牡丹 ♫

 映画館は、男ばかりで、大盛況でした。決して自分ではならないだろうし、過ごさない架空のout law の世界、ヤクザが大活躍する物語でした。それでも勧善懲悪で、弱きを助ける潔さは、スクリーンに溢れて、秀次郎を、全観衆が固唾を飲んで見守っていたのです。その小気味の良い姿に圧倒されたのです。

 自分が社会人になった年が、1967年でした。その頃も、世は上げて、と言うよりは、当時の学生たちも、高倉健が演じたヤクザの秀次郎を英雄視し、義理と人情の世界で、悪と戦う映画を観て大喝采を上げたのです。その中に、全共闘の東大生がいたのです。

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 1968年に行われた「東大駒場祭」のポスターに、こんな文句が添えられていました。

『とめてくれるなおっかさん、背中のいちょうが泣いている。男東大どこへ行く!』

 映画で演じた秀次郎の背中に、その唐獅子牡丹のイレズミがありました。その模様を、銀杏の葉に替えて、在校生の橋本治がコピーを、そう添えたのです。まさにヤクザと東大生のミスマッチがよかったのでしょうか、大いに世間受けしたわけです。

 2014年に、83歳で病没した高倉健は、今では、10年も経つというのに、まだ人気は衰えていません。ヤクザにはなろうとは思いませんでしたが、「あんな漢(おとこ)」に憧れたのです。われわれ世代の多くが、この人に、この人の演じた主人公に、好印象を持っていたのでしょう。ヤクザ映画の主人公を降りて、検事を演じた高倉健の映画、「君よ憤怒の河を渉れ」がありました。

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 1978年、文化大革命が収束し、改革・解放政策のもと、中国全土で、最初に上映が許されのが、この映画でした。中国では、「追捕」という名で上映され、中国のみなさんの半分が観たのだそうです。日本への憧れ、出演の日本人俳優、東京のビル群、日本の繁栄を見て、その火が燃え上がったわけです。

 滞華中のある年の師走の時期、ちょうど今ごろでしたが、華南の街の大公会堂で、「第九」の演奏会が開かれたのです。そこに招待してくださった大学教授は、『杜丘冬人を知ってますか?』と、私に聞いてきました。自分は知りませんでした。高倉健が演じ、ヤクザではない「検事」の名前だったのです。『私は青年期に、この映画を3回も観ました!』と、この方が言っていました。中国人社会で、山口百恵と並んで、最も有名な俳優になったのです。

 この高倉健の様にはなれませんでしたが、彼に負けなかったことがいくつかあります。彼は正式の奥さんと離婚し、正式な子どもがいなかったのですが、自分には、神さまからいただいた奥さんが一人いて、五十数年も共に過ごし、四人の子どもと、そして四人のマゴ兵衛がいることです。

 この高倉健は、名優であるばかりに、フアンのイメージを壊さないでいたいと、人を楽しませ、喜ばせたのですけれど、自分はずいぶん不自由な人生を生きたのかも知れません。いつか子どもを相手にするテレビコマーシャルを見ていましたら、高倉健が、子どもが好きだった様子がうかがえたのです。子を持てない寂しさがあったのだろう、と思ったことがあります。大スターの悲哀でしょうか。

 凡々たる人生、無名無冠、それでも生かされた感謝を覚えて、子どもの頃に母の祈りによって、福音の種が、思いの中に蒔かれ、青年期に信じられた神さまに、救い主イエスさまに、自分が感謝できる今が、老いても、弱くなっても最高な今なのです。

(ウイキペディアの浅草の浮世絵、ゲーテの詩に添えられている銀杏の葉、百度の「追捕」の画面です)

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今、世界中で起こっていること

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 「世界的な動向」、その時代に、ある国や地域だけではなく、世界的な規模で、賛成や反対の集会や運動が、同時期に起こるのが不思議でなりませんでした。私たちの青年期に、激しい学生運動が起こった時、国家権力への反抗、反体制、反国家、反大人、反常識な動きが、世界の各地で起こったのを覚えています。

 七十年安保の反対の動きの中で、旧国鉄時代の新宿駅で、線路を支える枕木の間に、クッションや固定のために、「バラスト(敷石)」が敷かれてあったのですが、その石を拾って、反対運動の学生たちが、機動隊に向かって投げていた大混乱の光景を覚えています。そして、学校などの建物や教室に立て籠った反戦学生らによって占拠されていたのです。

 「怒れる若者」が、機を一つにして起こったのですが、機動隊や軍まで出動して、その運動を弾圧していました。しかし、おもに学生たちは屈しませんでした。そういった動きからだいぶ経った頃に、ソ連崩壊のきっかけになった、ベルリン市内の東西を分断する壁が崩壊しました。その壁によじ登った若者たちが、それをハンマーで切り崩していた光景も忘れられません。

 中国では1966〜1976年の間に「紅衛兵」による文化大革命が起き、ほぼ同じ時期に、アメリカではヒッピーによる反ベトナム戦争運動が起きました。またヨーロッパのプラハでは「プラハの春」と言う民主化運動が、やはり若者を中心に起きたのです。

 地上のあちらこちらに、同時期に、同じ様なこと、民主化の要望だけではなく、「権威への反抗」が勃発し、流行したのは、決して偶然ではなく、人や群衆の中には、政治や社会の体制が違っても、また貧富や、さらに人種などの違いを超えた、表現できない力が湧き起こるのかも知れません。さて、

『神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(新改訳聖書 創世記1章27節)』

そう聖書にあります。

 二十一世紀の今、同性愛者による権利主張が、世界的な規模で起きています。法改正やトイレの使用法、公共施設や学校や官庁の中に、彼らのためのトイレ設置の要求、同性婚の要求運動などが、ヨーロッパやアメリだけではなく、今や日本でも韓国でも、世界中で起こって、法改正を求める運動までが起こっています。

 それは、法曹界でも、ビジネス界でも、教育界でも起こっていて、キリスト教界でさえも同性愛者の牧師、神学校教師や校長が出現して来ています。自分たちの自由や権利などが主張され、法改正の要求までも行われてきている現況です。

 私は、差別には反対ですが、《区別》は必要だと思っています。どうしてかと言いますと、神は、その様に男と女を区別して、お造りになられたからです。彼らが権利を主張することで、この社会の中で、保たれて来た秩序が崩されて、その動きに反対する側を、非寛容、不理解、差別だと言い始めています。彼らの権利は正当なのでしょうか。それを認められない者たちを、不寛容だと断罪しています。

『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。

彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、

同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。(新改訳聖書ローマ1章20~31節)』

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 聖書は、差別をしたり、不寛容だと言うのではないのです。はっきり言っているのは、明確に、「恥ずべき情欲」、「恥ずべきこと」、「してはならないこと」なのです。パウロが、これほど厳しい口調で、神さまが定められた、「結婚の契約」を破る者たちへの警告を発する意図を理解して、私たちは、神からの厳粛な言として聞かなければなりません。

 今日日、理解が足りないと言う様な、手心を加える様な、物分かりの良い様な、同情を示す様なことには、聖書、神さまの指針のことばを委ねられたパウロは、全く猶予しないのです。大上段から、いえ神の側に立って、はっきり言い切るのです。

 十字架抜き、贖罪抜きに、さらに罪の指摘なしに、教会が説教を語る傾向があります。『罪、罪、などと言うから教会に人が来ないのです!』、『罪は、集会に来続ける間に、いつか分かればいいことなのだから、目くじら立てて、罪を語るのはやめたほうがいい!』と、ヒューマニズムに従い、聞き心地のよい、繁栄や成功の話にすり替えて語るのです。

 それは、〈仲良しクラブ〉であって、もう、罪を語らないのは、キリストの教会ではありません。パウロの主張は、厳し過ぎ、偏向していると、批判される今日の神学界の傾向があるようです。男と女は、それぞれが役割が与えられて、創造され存在しているのです。それが「自然な用」なのです。それを守らないのは、「誤り」なのであり、「罪」なのです。

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 罪を罪としない、そう言った傾向が見られます。「十字架と飛び出しナイフ」を著した、ニューヨークの“Times Square Center” のウイルカーソン牧師さんが、終わりの時代には教会が二分されると言っていました。エキメニカル派の教会は、宗教合一運動の動きに帯同し、一方、聖霊の導きに従う教会と牧師さんたちは、もう政治活動や道徳運動から身を引き、ただ十字架の福音を語るだけになり、政治的な発言などをしなくなる、そう言われたと思います。今の時代、これからの時代を言い当てていた様に感じてなりません。

 さあ、信仰者はどうあるべきでしょうか。

(ウイキペディアのベルリンの壁崩壊、安保闘争、Christian clip arts の獄中で賛美するパウロ、Times Squareです)

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冬の天空を仰ぎ見て

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 『一度でいいから観たい!』と思ったのは、カナダやアラスカや北欧などに行って、Auroraでした。そこに出掛けて、この眼で観たいと思っていましたら、なんと日本でも、観られるのだそうですね。

 まずは虹🌈ですが、雨上がりの東の空に、西陽がさすと、七色、虹の色は、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫で、これは日本で認識されるのですが、アメリカやイギリスでは一般的に6色(藍色を区別しない)、ドイツでは橙色も区別せず5色となり、アフリカでは暖色と寒色のみ(あるいは明・暗など)で2色と言われています。日本人の色彩感覚は、鋭いのでしょうか。

 あの色彩は、絵の具があるわけではなく、日光が水滴にあたると、発色するのでしょうか。太陽に光は、白色光なのに、七色の光が見られるのです。科学的な分析はともかく、自然界が見せてくれる色彩には、驚きっぱなしです。

 春から真夏にかけては、たくさんの花がベランダで咲きましたし、道端にも、多くの花が咲いていました。真っ黒と言うよりは土色の土の中から、なんであんな色彩を持って、花が咲くのでしょうか。今年も咲いた真っ白な胡蝶蘭の花、朝顔の様々な色、桔梗の紫色や白色、どんなにか慰められ、励まされ、力づけられたか知れません。

 今は、視野の中には、冬の光景が見られるのですが、さすがに色彩が乏しくなってきてしまいました。それでも、わが家のベランダでは、冬の陽を受けて、赤でしょうか赤橙ってあるのでしょうか、そんな色のキンギョソウが綺麗に咲いてくれています。

 その神秘さは、目を釘付けにされて見飽きません。自然界は、どうしてあんなに驚きに満ちているのでしょうか。その虹よりも、“ aurora “ はさらに、驚嘆させられてしまうのです。オーロラの放つ色彩の不思議さや、その形状やを、映像だけで観たのですが、それも驚きの目を向けていました。

『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。(新改訳聖書 詩篇8篇3~4節)』

 高校生の時に、その神秘さに驚かされたのですが、『地球は青かった!』と聞いた時のことでした。宇宙飛行士のユーリイ・ガガーリン氏(1934〜1963年)が、1961年4月12日、108分間、ボストーク1号に登場して、宇宙空間から、この地球を眺めた時の印象を、そう語ったのです。27歳でした。無事に帰還する保証のなかった無謀な有人宇宙旅行計画だったそうですが、奇跡的に帰還できたのです。

 その危うさの残った宇宙に飛び出す様な、宇宙を舞台にした、いわば実験の中で、奇跡的に成功した話を、後に知らされるのですが。宇宙空間から見た地球の「青さ」に驚ろかされたのです。それと共に、その快挙を喜んだ覚えがあります。しかし、1968年3月27日に、英雄だったガガーリン氏は34歳で、普通の飛行機に搭乗中に墜落し、事故死をしてしまうのです。

 この広大な宇宙から、この地球を眺められたら、どんなだろうかと想像してしまいますが、なお、アメリカでのアポロ計画がありました。打ち上げしたロケットが空中爆発をしてしまう光景を、実況中継の映像で見たことがあったのです。その中には、日系の飛行士もおいででした。

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 地球から距離を置いた神威の世界には、いまだに憧れがあります。宇宙船に乗り込んで、振り返って地球を見てみたい思いを持ち続けているのです。一緒に、オーロラを、アラスカに行って観ようと約束をした方がいたのですが、お病気で亡くなられてしまったのです。

 男の浪漫は持ち続けたいのです。地上に起こる事毎があまりにも、悲しく、人の性(さが)が醜いので、どうしても天空を仰いでしまいたくなるのです。そこには、超えがたい神の摂理がうかがえられて、圧倒されてしまう世界が無限大に広がっているのです。

 孤高の光を放って、吸い込まれそうです。天の川も見たいのですが、肉眼で見たことがないのです。ところが、「銀漢の譜」と言う題の小説を、『葉室麟の作品が面白いので、時間がある時に読んでみてください!』と、友人が送ってくれたのです。「銀漢」 とは、蘇軾の「中秋月」に出てくる漢語で、「天の川」のことなのです。

暮雲収尽溢清寒  暮雲 収め尽くでいて 清寒溢る
銀漢無声転玉盤  銀漢 声無く 玉盤を転ず
此生此夜不長好  此の生 此の夜 長くは好からず
明月明年何処看  明月 明年 何れの処にか看ん

 蘇軾は、中国北宋の時代の政治家で詩人でした。李白や杜甫に並び称されるほどの詩人で、中国の最も好い時代に活躍した人なのです。昨晩も、ベランダに出た家内に誘われて、そこから西の空を見上げましたら、三日月と宵の明星が輝いていました。またチッポケな自分を感じ、神の創造の世界である人も宇宙も、その神秘さに、いつも心打たれてしまう自分です。

(ウイキペディアのオーロラ、孫娘が撮ったアメリカ北西部の虹、昨晩の西の空です)

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歩いて来た道を

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 歩き始めて、どれほどの距離を歩いて来たでしょうか。今朝も、近くのスーパーマーケットまで、買い物に歩いて行って来ました。家のすぐ近くに、「例幣使街道」がありますが、その道を横切ってです。群馬の倉賀野宿から、中山道を離れて、日光東照宮に至る街道のことです。京の都から、毎年、徳川家康に、「弊(供物)」を捧げるために「例幣使」の一行が通るために、江戸期初めに整備された街道なのです。

 この日光へは、「日光街道」もあって、江戸から共用の東北道を経て宇都宮から分岐して、代々の将軍や藩主、その代理者が、日光詣をするために整備されました。例幣使街道と共に、徳川幕府の威光の象徴の様な街道でした。

 江戸期の主要な街道は、小学校で学んだ、「五街道」で、江戸の日本橋から日本各地を結ぶ、参勤交代、納税、商用、あるいは観光を目的にした幹線の街道でした。東京に出て来て住むために、父が買い求めた家が、甲州街道の旧道の脇にありました。それを知った私は、この道を数限りない武士、商人、農民たちが往来したことを知って、はるかに思うことが多かったのです。

 日本が、国家とし整備されるために、街道整備が行われ、政治目的のために、都と地方を結んで、地方を治めるために、納税、役人の赴任、商用を目的になされたのです。それが「駅制」であって、三十里(当時の尺度で今の16kmです)ごとに「駅」が置かれていました。この駅路(街道)が、後に江戸五街道にも重なっています。「七道駅路(しちどうえきろ)」と呼ばれ、全国を網羅していたのです。

 1964年に東京オリンピック開催されてから、日本の主要幹線道路は、高速道路にとって代わっていて、そこから、国道に降りたり、乗ったりの役割転換が見られます。それでも地方が機能するために、いわゆる国道、都道府県道、市町村道は、大切な役割を担ってきています。

 畿内(大和、山城、摂津、河内、和泉で、現在の奈良県、京都府中南部、大阪府、兵庫県南東部を合わせています)を起点として、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道を、旧律令制のもとで整備したのです。

 その全国を網羅した駅路の維持や運営を担ったのが、全国で、最も人口比率の高い「農民」たちでした。選ばれた彼らを「駅子」と呼んだようです。駅路には、駅家(江戸期の宿場でしょうか)が置かれ、各駅家を結んで、税(大幣/おおぬき)の荷運びのための馬(駅馬)の飼育をし、その荷を運んだ「駅使」を、駅子は次の駅宿まで運ぶ任務が課せられていたのです。その駅使のための休憩や宿泊や食事の世話もしたのです。

 古代にも官僚制度があって、地方には、「国造(くにのみやつこ)」が任じられ、駅馬は、赴任し移動する中央官庁からの役人を運んだりもしたのです。農民は耕作の他に納税、労役があったのです。歴史の時間に学んだ、租庸調に縛られて、あのじだいからながく、じゅうようなやくわりをは足してきています。でも厚遇はされなかったのです。

 それは、実に重い役割だった様です。中央の税収のために、厳しく制度化されて、その任務が行われていました。江戸の農民の厳しさの走りでもありました。税の使い道が取り沙汰されているいま、当時は声を上げることなどできなかったのでしょう。

 出雲国や常陸国の「風土記(地誌)」などが残されていて、律令制のもとでの地方支配をうかがい知ることができます。とくに「常陸風土記(原本はなく写本が残っています)」には、細かな記録が残っているのです。それは奈良時代後期(AD713年)に編纂されています。この常陸国は、東海道に属していて、今の茨城県の地域です。広大で肥沃な関東平野が広がり、山野の作物を豊富に産出し、水産物の水揚げもあって、豊かな地でしたから、赴任した役人は、その恵みによくしたことでしょう。平安の世には、上総、上野の国も含めて、「親王任国」だった様です。

 栃木市に住み始めた間もない頃に、下野国の国分寺跡や国分尼寺跡を訪ねたことがありました。常陸と上野の国に挟まれて、ここも豊かだったのでしょうか、広大な敷地でした。この地域に遣わされた役人は、畿内からは遠かったのですが、「天下の険」の箱根を越えて、住み始めた地の美味しい物を食す、役得があったことでしょう。

 一度だけでしたが、海水浴に、子どもたちを連れて、この茨城に行ったことがありました。海水浴場のアナウンスで、東北のような茨城訛りを聞いて、真似してみましたが、今住む下野訛りに似ています。奥州(陸奥)の玄関口に、古代の関所跡があって訪ねたりしました。「白河の関」で、福島県境に位置していました。けっこう険しい位置にあったのです。

 この下野国にも、古道が多くあって福島県や新潟県などとは、険しい山道、峠越えがあったっことでしょう。有力な人たちは、京や伊勢にも行ったのでしょうか。同級生の一団が、高下駄を履いて、日本橋から京都の三条大橋までを走破したことがありました。運動部の肝試しでよく行われてきたことで、やってみたかったのですが、誘われませんでした。

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 もう一つ、東京都下に「八王子」があり、一年ほど父の家族で住んだのです。ここに「千人町」があり、将軍のおわす江戸を守る勤務を負う集団がありました。十人の「千人頭(旗本待遇)」の元に、十組ほどあったそうです。この人たちは、火災から東照宮を守る「日光火之番(日光勤番)」もかねていました。

 その勤めのために、拝島、坂戸、佐野などを経て、「例幣使街道」をへて日光に至る道を、「日光往還(おうかん)」と呼びました。こんな特殊な道もあったそうです。弟を可愛がってくださった国鉄線路の踏切番をしていた方は、「千人頭」の子孫だった様です。歴史は興味を呼び起こします。五人組の交代勤務で、この栃木宿で「昼食」を終えて、日光へ草鞋で歩く千人同心の足音が、聞こえてきそうです。

 道の上にも脇にも、たくさんの物語があったのでしょう。泣きながら、笑いながら、様々な感情が行き来したのでしょう。歩いて行きたかったのですが、果たせなかった道もあります。若い頃に、間違って脇道に逸れては、ハラハラさせたのですが、こんな声を聞きました。

『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(新改訳聖書 イザヤ30章21節)」

 その声を聞いた日から、真っ直ぐに、「これが道」と言われる道を歩み続けて来ることができたのです。右に、左に逸れかかる時に、いつもこのみことばに聞き得たことは、感謝に尽きません。大陸の街の公安への道を歩いた時も、私の傍に、主イエスさまがいてくださったのだと思います。もう少し歩む日々が残されているかも知れません。ただ、主の手に引かれ、導かれて、残りの行程を、一足一足歩みたいと思っております。

(ウイキペディアの広重の甲斐の御坂峠、日光往還図です)

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12月2日の朝の日の出

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 もう十二月、日本語では教師でしょうか僧侶でしょうか、忙しく走り回る月、「師走」です。英語では “ December ”で、その名の由来はラテン語で「10」、「10番目」を意味する”decem “ なのだそうです。それなのに、十二月の呼び名になったのは、摩訶不思議で、謎です。

 私の家族の中で、長女の婿殿、長男の娘、次女の娘、そして私の四人が、この月の誕生なのです。けっこう寒い月の誕生ですが、今年は、ピリッとする様な寒さを感じさせませんので、ちょっと拍子抜けです。

 山奥の観光名所に後ほどなる、有名な瀑布、と言ってもこじんまりした滝なのですが、そこに流れ落ちる水となる、井戸の水で産湯をつかってもらったのだそうで、住んでいた村の村長さんの奥さまが、産婆として受け止めてくださったと、母に聞きました。

 父が、井戸で水を汲んで、お湯を沸かしてくれたのでしょうか、水道もガスコンロもない時代で、大変だったのでしょうね。父の当時の手帳によりますと、朝4時半の誕生だったのだそうです。三番目の男の子でしたから、『今度は女の子を!』と願った母は、少々がっかりしたのでしょう。でも母と父に愛されて育ったのです。

 あの「八日未明」に、太平洋戦争が、始まった月です。「春待月」と言う異名を物月だそうで、春待望を願う月なのでしょう。好い月を願いつつ、新しい年に期待して、待ちたいものです。

ロスアンゼルス・ドジャースの輝き

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 『今年のアメリカプロ野球のワールドシリーズは、ロスアンゼルス・ドジャースがヤンキースに勝利し、エンゼルスから昨年12月にドジャースに移った大谷翔平選手も大活躍して、日米のファンの人達は大騒ぎして喜びました。

 ドジャースの選手には、クリスチャンが多いと、前に聞いたことがありましたが、先週時々読む “ God Reports ”というウエブサイトを開くと、「ワールドシリーズに勝利したドジャースにはクリスチャン選手が多い」という記事が目にとまり、読んでみると、ピッチャーのトレイネン選手やカーシュー選手に続いて、「大谷翔平選手もクリスチャンだと言われている。彼は信仰の話をあまりしていないが、日本人は仏教徒が多く、クリスチャンは1%しかいないと聞いているので、これは驚きだ」と書いてあり、私も知らなかったので、驚きました。

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 ほかのサイトの記事にも彼はクリスチャンだとあり、これが本当ならすばらしいことですが、盗塁した時に怪我した肩の手術をすぐしたそうですから、速やかに回復するよう祈ります。

 先月27日のこの欄で横浜のCM先生の奥様がイエス様を信じて、両親からひどく迫害されたが、忍耐して両親が召される前にイエス様を信じるよう導いたという先生の書かれたものを掲載しましたが、千葉先生は大谷選手がイエス様を信じて救われるよう祈り続け、大谷選手に祈っていると手紙を書いて、先生の書かれた本を送ったと聞きました。

 大谷選手に続いて、今週はドジャースの内野手で、ワールドシリーズ第一戦で10回に逆転さよなら満塁ホームランを打ち、このシリーズの最優秀選手になったフレディ・フリーマン選手(35歳)がすばらしいキリスト者であることを同じ記事を読んで知りましたので、お伝えします。
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 フリーマン選手は南カリフォルニアの5世代にわたり救世軍というキリスト教教派に所属する家庭に生まれ、小さい時からイエス様を信じて育ちました。野球が得意で、高校生の時にはオレンジ郡の高校野球で最優秀選手に選ばれ、高校卒業後の2010年アトランタブレーブス球団にスカウトされ、2021年のワールドシリーズでは優勝を経験し、翌年ドジャースに移籍しました。

 彼は高校野球選手の時から「野球が上手になると同時に神様を第一にして生きたい。イエス様が野球をするのを望まれないなら、僕は野球を続けない」と語っていましたが、フリーマン選手はさまざまな試練の中を通されてきました。

 彼は10歳の時に母親を皮膚がんで失っていますが、今年は彼にとって苦しい日々が続きました。8月には3人の男の子の中の3歳のマックス君が重い感染症を患い、緊急治療室で夫人と共に看病して8試合に出られず、子供が回復するのを待ちました。試合に復帰した9月には、右手中指の骨折で一時離脱。さらにシーズン終盤には右足首捻挫で欠場するなど、心身ともまさに満身創痍の状態でした。その痛みに耐えながら、このワールドシリーズで試合ごとにホームランを打つという活躍をしたフリーマン選手は、表彰トロフィーを手に「ここにいるみんなのサポートがなければ、ここにいられなかった。互いに主イエスを信じる信仰をもち、試合ごとに祈ってきたので、優勝できたのは本当にうれしい。」と語りました。

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 カーシュー投手は長い間、コロナの感染でできなかった「ドジャース選手の家族と一緒に楽しむ日」を開いてファンを招待し、信仰の証しをする時を持っています。またリリーフピッチャーのコーペック投手は「僕のキリストとの関係は僕の人生で一番大事な関係だ。僕のするすべてに神の手がかかわっていると感じるし、この世のすべてを支配する方がいると思うと、心に平安が与えられる」と語っています。

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WASHINGTON, D.C., APRIL 24, 2024 

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 ショートストップのベッツ内野手は、「私の家族とファンを神に感謝する!」とインスタグラムに投稿し、同じ内野手のエドモント選手は、「明らかに野球選手としてはワールドシリーズに勝つことが目標だが、僕にとってのゴールは、クリスチャンとしてできるだけ多くの人に神のことばを伝えることだ」と述べています。

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 三塁を守るマンシー内野手は「僕にとって一番大切なことは、クリスチャンであることがどういう意味があるかということを、他の多くの人に伝えることだと思う。そして他の人のしていることを批判しないことだ。イエス様を愛していることをまわりの人に示したいだけだ」と語ります。
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 チームマネジャーのロバーツ監督も「私とキリストとの関係は、私の人生で一番大切なことだ」と話していますが、このようにドジャースには多くのクリスチャン選手がいることは、キリストの福音を伝える大きな証しとなっていると思います。来年の大リーグの試合でも、大谷選手やフリーマン選手を初め、ドジャースの多くの選手達が大いに活躍するよう祈ります。 (IM)』

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 この文章は、毎月送信してくださる教会報の記事で、アメリカのカルフォルニアで、日系教会を長く牧会し続けてこられている牧師さんからのものです。ご夫人とお二人は、私の学んだ学校の同窓の先輩でもあります。五十数年前の家内との結婚式のレセプションの司会をしてくださったのです。

(ウイキペディアのロサンゼルス、ドジャース球場、大谷翔平、フリーマン、カーシュー、ベッツ、マンシー、ロバーツ監督です)

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エフタと忠太郎、そして父を

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 「エレミヤ書」を読んでみますと、やがて預言者となる男の子を産んだことが、母親には悲しかったのではないか。わが子が、同胞の間に争いをもたらし、不穏な事態が起きる元凶になったからではないかと、母は思った様に感じてです。自分が生まれたことが結局は、母を悲しませたのではないか、とエレミヤは思った様です。「涙の預言者」と言われるエレミヤが、その様に、自分の誕生時の母の思いを語っているのです。

『ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。

主は仰せられた。「必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。(新改訳聖書 エレミヤ書15章9、11節)』

 この旧約聖書の箇所を読んで見ますと、預言者のエレミヤはそのような自国のイスラエルの危機に、『どうして、こんな時代の苦難を、預言者として味合わなければならない私を、母は産んだのか?』と、自分の誕生を喜べない思いを語っています。その苦難は、母に原因があるかの様に言うのです。

 多くの子どもが思ってしまう様に、やはり預言者も人の子なのでしょう、正直に自分の生まれを否定し、受け入れたくなかったのです。思わしくない状況下にある自国、そこに生まれた自分、そして預言者として召されたことを受け入れたくないわけです。複雑な心理の動きを見せるているのです。敏感であればあるほど、預言者の心は揺れ動いています。

 この矛盾に、預言者は苦しみます。この矛盾がエレミヤの悲嘆の全体を貫いています。彼は、争いのない、喜ばしい人間関係を願う人となりでしたが、預言者は自分の思いではなく、エホバ(主)である神さまの御旨を語らなければならない務めに任じられていたのです。その人としての矛盾を覚えています。

 しかし、エレミヤを世界に向かって語る預言者として召したのは、主なのです。lip serviceでなく、神の切なる思いを告げねばならばならない、預言者としてのその矛盾です。日本社会の中で、聖書の神を語る伝道者もまた、人の力や能力では不可能です。ただ聖霊なる神さまの示されることを、自分の思いを混ぜずに語らねばなりません。

 そんな中でエレミヤは、エホバへの畏怖と従順を、実は母から受け継いだ人だったのでしょう、母を思い出したのです。『ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。』と、預言者の悲哀を告白するのです。

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 講壇に立って、預言者の如く、神のことばを真っ直ぐに語る説教者が、お隣の国にいました。非合法の教会で、真実を語ったので、十数年の強制収容所に送られてしまったのです。四つの都市で、その様な信仰の困難を通られた四人の神の人に会いました。

 みなさん、様々な困難の中にあっても、主にあって輝いていました。十字架のキリスト、復活のキリスト、再臨のキリスト、審判者のキリストを、大胆に信じつつ語ったので、収容所に送られたのですが、収容所送りを恐れずに、刑期を終えて帰って来ても、また福音を語り続けたのです。

 そこでお会いしたみなさんの世代が、主の元に帰り、次の世代が、同じく語り、その次の世代も現れ、そう語る福音に、多くの若い世代の人たちが、お隣の国では応答しているのです。みなさん、人の子として矛盾を感じても、神の子として立ち続けています。信仰者の母に育てられた方もおいででした。

 みなさんは、父親を知らず、幼い日に、母に捨てられた子の一生を考えられたことがあるでしょか。私はあります。みなさんは、浪曲とか講談には興味がないことでしょうし、縁もなさそうですが、その講談の演目の中で、一組の母子の物語を思い出したのです。大変にお馴染みの演題で有名です。それは「瞼の母」とか「馬場の忠太郎」と呼ばれる講談に登場する、母の面影を慕う、一人の男を主人公にしたお話です。こんな物語です。

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『嘉永2年の師走のこと。渡世のやくざ、番場の忠太郎は金町から江戸へと向かっている。日もとっぷりと暮れた頃、母の噂を聞いた忠太郎は柳橋の料亭、水熊の前まで来る。汚い身なりをした老いた女が、一人の倅(せがれ)みたいな年の男に怒鳴られている。「失せろ、女将さんなんかいない」「乞食婆に用は無い」。男は老婆を突き飛ばして打とうとしている。忠太郎は男の前に立ちはだかる。「こんな年寄りをいじめなさるな」。「痛いところはないか」と忠太郎は老婆をいたわる。老婆は東両国にいつもいる夜鷹婆で、歳は55から60といったところだろうか。「お前、俺くらいの年の子供を持ったことはないか」と忠太郎は尋ねる。老婆はシクシクと泣き出した。「生きていれば31だが死んでしまった。」と言う。

 老婆は、「この水熊の女将さんには忠太郎ぐらいの年の息子がいたが、江州へ置いてきた。」と聞いたことがあると語る。昔はこの女将とは姉妹同然だったが、今はこのように叩きだされる始末である、忠太郎の話を聞いて、「倅が懐かしくなった、今度墓参りでも行ってこようか。」と老婆は話す。忠太郎は「これで糊でも売って暮らしてくれ」と一両の金を老婆に渡す。老婆は去り、それを見送る忠太郎。

 忠太郎は水熊の木戸を叩くと、板前が出て来た。「女将さんがいるなら少しだけでもいいから会わせてくれないか。」と頼むが、そんな忠太郎を板前は大声を出して追い出そうとする。「やけに騒がしいじゃないか」、奥の方から女の声がする。「そんなに言うなら連れてきな。」、忠太郎は女将と対面する。忠太郎は30を少し過ぎ、崩れた風体をした旅人に見える。忠太郎は女将に、「自分くらいの年の子供を持った覚えはないか。」と尋ねる。女将は、昔江州・番場宿の旅籠屋、おきなが屋に嫁ぎ、忠兵衛という者の女房になった、二人の間には忠太郎という倅がいたが、5歳の時に忠兵衛と仲違いして旅籠屋を飛び出したと話す。はるか遠く江州に向かい、「どうかあの子をお守りください。」と今も願ってるという。「あっしがその忠兵衛です」と名乗り出るが、女将はその子は9歳の時に流行病で死んでしまったと聞いていると言う。

 「そうやってこの店に入りこみ、果ては乗っ取るつもりだろう」、女将は言い出した。女将にはお登勢という娘がおり、彼女に身代を譲るつもりであった。忠太郎は、「百両という大金を持っている」と言い返したが、「とっととお帰り」と女将は追い出そうとする。長い間離れていると、心にもこんなに開きができるものか、「もう二度とこの店の敷居は跨がない」と言い残して、忠太郎は水熊の料亭を後にする。

 すれ違いで、一人の娘が入って来た。女将の娘のお登勢である。「今の人はおっかさんによく似ている。いつも話していた江州に残して来たという兄さんじゃないの」、お登勢は言うが、母親はただ泣くだけである。そこへ金五郎という男が入って来た。あの野郎の後を付け、人気のない場所でバッサリやる算段をつけたと言う。慌てて女将とお登勢は駕籠で忠太郎の行った方へと向かう。

 荒川支流の戸田は葦が背の高さにまで生い茂っている。人っ子一人いないところで、男が忠太郎を襲うが、逆にこの男を斬りつけバッタと倒れる。遠くで「忠太郎ゥ」「兄さん」と言う叫ぶ声が聞こえる。ちきしょう、誰が会ってやるものか。目を閉じれば優しいおっかさんの姿が浮かぶ。どこへ行くのか忠太郎。三度笠を被り、中山道を進むのであった。(講談話)』

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 実に悲しい母子物語です。私の父は、海軍軍人の家に生まれています。産んでくれた母親は、家の格に合わないということで、産んだ子を残して離縁されたのです。昔は、よくあった「足入れ婚」の話です。母子分離というのは、その子にとっては悲劇そのものです。私の父は「庶子(しょし)」で、法律上、家督を相続できない子として育てられます。祖父の後添え(父には継母でした)が来て、男の子を産んだことで、私の父には、その継母は、なお厳しく当たったのだそうです。

 『俺だけ、お弁当におかずを入れてもらえなかった!』と、母に結婚当初に漏らしたそうです。父だってヤンチャで、言うことを聞かない反抗児だったのかも知れません。継母だって、自分の妻や母親の立場を守りたかったのでしょうし、姑との間に何かあったかも知れません。でも、そう言った不条理な、大人の都合で、母を奪われると言うのは、成長期の子どもの心には、深い傷を負わせたに違いありません。

 旧約聖書に出てきます、エフタ同様、父も家を出て県立中学校から、東京の私立中学校に転校しています。きっと父にとっては不本意だったことでしょう。そんな思春期を送らざるを得なかったわけです。強そうに見えた父の内に、隠されてあった、悲哀の原因を感じてならなかったのです。

 それでも、その継母が亡くなった時に、なぜか父は、三男の私を連れて、葬儀に出たのです。三人の妹に代わって葬儀を取り仕切るためにでした。父の母違いの弟は、太平洋戦争に出征し、南方で戦死してしまいました。人の思惑など、思い通りにはならないのが現実なのですね。何年か前に、父の末の妹の子、私たちの従兄弟から、私たち兄弟に家財産の相続の話がありました。今更の話で、私は、『要りません!』と言い、二人の兄も弟もそう言ったのです。

 講談に出てくる忠太郎だって、父知らず、母親と生き別れて生きていくのに、博徒になる道しかなかったのでしょう。でも三十過ぎて、母恋しで、母を訪ねたわけです。上手に講談師が語る話に、父を重ねて泣けてしまうのです。父にも、きっとグレてしまった、私たちの知らない若い時があって、そして母と出会って、結婚し、四人の子どもの父として、自分の子どもたちは悲しまないようにと、懸命に育て上げてくれたのです。

 聖書には、母親との悲哀に満ちた物語があり、その主人公がエフタでした。イスラエルの民を導く士師(王の様な政治や軍事に指導者のことです)とされた一人の人物が出てす。聖書は、「遊女の子」と紹介しています。父親が遊女に産ませた子だったのです。正妻の子たちが成長した時に、彼らからのエフタへのつらい仕打ちが、次の様にありました。

『ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。「あなたはほかの女の子だから、私たちの父の家を受け継いではいけない。」(新改訳聖書 士師記11章2節)』

 遊女を母にすることで、そんな仕打ちを受けたエフタは、父ギルアデの家から逃げて出てしまったのです。このエフタは、どんな思いで、生まれ育った家を出たことでしょうか。親に愛されず、邪魔者にされているという経験は、どんなにか辛いことでしょうか。エフタは、自分の誕生を呪ったことでしょうか。また母の背景を恥じたのでしょうか。私の父を産んだ母は、遊女ではありませんでしたが、そんな生業の母親を持つエフタと、私の父が重なって思えてならないのです。イスラエルの国家的危機の時に、エフタは呼び戻されて、「士師(王のような指導者)」となります。

『俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんのおもかげが出てくるんだ――それでいいんだ。逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ。』

と言って、物陰に隠れてつぶやく忠太郎も、同じに違いありません。探し求めて、やっと会った生母に拒まれたことは、どんな辛いことだったでしょうか。エフタや父や忠太郎の味わった、親からの拒絶は、親から愛されて育った私には、想像もつきませんが、父の涙で表された深い思いには、父の悲哀を感じないではいられません。

 忠太郎は、『ちきしょう!』と言って、母と決別するのです。優しかった頃の母を思い出すことで、どうもできない辛くやるせない気持ちを消化しようとしたのでしょうか。

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 以前には継母を、呼び捨てにしていたのに、父は、亡くなる少し前には、《さん》付けで継母を呼んで、『タツエさんは、シュウクリームやオムライスを作ってくれたよ。料理上手で、それは美味しかったんだ!』と、父が言っていましたから、弁当のおかずを入れなかった継母のことを語った話は、父のイジケだったかも知れません。

 私が聞いた父の思い出話は、恨みや欠けに変えて、感謝を懐かしい思い出のうちに言い表したのでしょう。もう、強い被害者意識がなくなっていたのかも知れません。良い思い出で、自分の過去を帳消しにできたのは、素晴らしいことではないでしょうか。

 『俺の腰から聖職者が出るとはなあ!』と、献身する上の兄について、父は母に語ったそうです。それでも、やがて迎える老いていく自分をみてくれる最初の子への期待は大きかったのでしょう。その上の兄は、一流企業であった会社で働いていたのに、辞めて献身してしまったのです。父はしっぺ返しを受けたように、裏切られた様に感じたことでしょう。

 ところが、すぐ上の兄が、義姉と一緒に、二親の住む家に帰って来て、父の最後をみ、父の死後に残された母の老後の世話をしたのです。そのような家族の動きの中で、牧師となった上の兄が、「福音」を語って、病床の父を信仰告白に導いたのです。幼い頃に、父親に町の教会に、連れて行かれたことがあって、父は、「福音」を知っていたのでしょう。

 そうした何日か後に、父は創造者の元に、そうです慰藉者の懐に帰って逝ったのです。義母を赦し、自分も赦したのでしょう、そんな61年の生涯を送り、ついには望みある永生のいのちの約束の「十字架の福音」を信じ、救われたと、私は信じております。

(ウイキペディアのレンブラントが描いたエレミヤ、Christian clip artsのイラスト、チャイナインランド・ミッションの会報、広重描く木曽の馬場宿、父の生まれた街の市花「ハマユウ」です)

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