懐かしさを思い起こさせ、感謝や恩義を覚える歌があります。私たちの時代に、卒業式に歌った、ちょっと季節外れの「仰げば尊し」です。意味がわからない歌詞があったのですが、長年教えていただいた先生への感謝や敬意の思いが綴られているのは分かったのです。
🎶 仰げば尊し わが師の恩
教えの庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾し(とし) この年月(としつき)
今こそ別れめ いざさらば
互いに 睦(むつみ)し 日頃の恩
別れるる後にも やよ忘るな
身を立て 名をあげ やよ励めよ
今こそ別れめ いざさらば
朝夕慣れにし 学びの窓
蛍の灯火(ともしび) 積む白雪(しらゆき)
忘るる間(ま)ぞなき ゆく年月
今こそ別れめ いざさらば ♬
ここに出てくる「さらば」と言う、別れ際に用いる言葉があります。映画で、鞍馬天狗が、角兵獅子(大道で芸をして謝礼を得る子どもで多くの場合孤児や捨て子でした)の杉作のもとを去っていく時に、『さらばじや!』と言ったのを覚えています。
まさに人生には、多くの「別れ」があります。親との死別、好きな女性との別れ、恩師との別れ、級友との死別、恩ある人との死別、これまで多くの別れの時がありました。歳をとるにしたがって、その機会が多くなるわけです。
それでも一番悲しかったのは、二親との別れでした。父の腰から出て、母の胎に宿った自分が、生を受け、育ててくれた父と母には、感謝な思いばかりの今です。
さらに、私には、感恩を謝したいと願う方が三人おります。一人は外山先生、田舎から転校してきた私を小学校2年の2学期から担任してくださった方です。幼稚園も行かず(山奥でなかったからですが)、病気がちで登校日数の極めて少なかった私は、登校した日には、嬉しかったのか、じっとイスに座ることができずに、立ち歩いては同級生にちょっかいを出していました。
今で言う多動性の問題児だったのです。国語の授業の時でした。教科書の記事の擬音を、『電車の切り替え線で起こる音です!』と答えた私を聞いて、『よく分かったわね!』と、山内先生は褒めてくれたのです。それから自分が変わったのを覚えています。褒めるって、褒められるって、すごいことに違いありません。
もう一人は、中学の三年間担任をしてくれた大机先生です。髪の毛が薄くて、明るい目を眼鏡の下に見せていた方で、社会科を担当していました。この方は、朝礼や終礼、授業の開始と終了時に、挨拶を交わす時に、私たちが立つ床に降りて、深く頭を下げていました。
『まだ産毛の残る私たちを、一人の人として敬意をもって接してくれている!』と思わされたのです。そんな経験から、教壇に立つ機会が絶えられた時に、この先生に倣って、初めと終わりの挨拶を致しました。三つ子の魂、60までですね。
さてもう一人は、アメリカ人の宣教師です。狭量で、井の中の蛙のような、日本主義に凝り固まった小生意気な私を、世界に通用するひとりの人間に矯正してくれたのです。一民族の優秀性を棄て切れずにいた私に、すべての人種・民族・国家が独自の優秀性を持つことを教えてくれたのです。妻の愛し方もです。どう考え、どう思索し、何を構築すべきかもです。
つまり、聖書の読み方や解釈の仕方だけではなく、《人間》を教えてくれたと言えるでしょうか。この方は、先生と呼ばれることを固辞されたのですが、敢えて私は言葉を変えて、「恩師」と呼びたいのであります。2002年に召されたのですが、年月が過ぎていくに連れ、この方への感恩は増し加わるのです。
『あなたなら、この教えを理解してくれるでしょう!』と言われて、彼の書き表したチャートとビデオを、渡されたのです。自分には、歯が立たないと、長くしまい込んであったものです。間もなく、読書の秋に、このチャートを紐解くのは、時宜を得たことのように思えてなりません。彼の夢・幻の追随者でありたいと、改めて身を引き締めて覚悟を決めた朝であります。
『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(新改訳聖書 ヨハネ14章26節)』
さらに、三で一つの神でいらっしゃって、第三位格の神さまである「聖霊」は、教師であるのです。学んだこと、聞いたこと、読んだことなどを、必要な時に思い起こさせてくださるお方です。そればかりではなく、聖霊なる神ご自身が、教えてくださったり、禁じたり、静止したり、促してくださるのです。
教え導いてくださった方々は、もうおいでになりません。様々な場面で、窮したり、困惑したり、悩んでしまい、不可解な事態に直面した時に、誰に聞いたらよいのでしょうか。聖霊は、「助け主」でいらっしゃって、その意味は、「あなたの傍(かたわら)におられるお方」なのです。私たちを励まし、訓戒し、責め、「真理」が何かを教えてくださいます。救い、罪、再臨、終末など、私たちの経験、学び、常識、そして知性を超えた領域の不理解なことを、理解させてくださいます。
傍にいらっしゃるので、あの先生たちに質問した時の様に、「聞く」なら答えてくださるのです。『これが道だ。これに歩め。「旧約聖書 イザヤ30章21節)』と言ってです。『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから・・・』語られる声を聞くことができるのです。
今日も、その声を聞きながら一日を過ごしたい思いでおります。未曾有の暑い日が続き、想像を超えた雨量の雨が降り、時々地が揺れていますが、私たちの責任は、今日を生きることです。明日の心配をしないで、今日です。「明日は明日自身が思い煩う(マタイ6章34節)」ので、今日を感謝して生きようと決心したところです。
(Christian clip artsのイラストです)
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