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父が、『急に老けてしまった!』のを感じた時がありました。父が34歳の時に、三男として生まれた自分でしたが、この自慢の父親は、男五尺強、十六貫で、dandy だったのです。
背丈はありませんでしたが、明治男の標準で、恰幅は良かったのではないでしょうか。東京圏の出身で、都会的な sense を持ち合わせていたのです。身の回りには、日本橋の三越で、誂(あつら)えた背広、Yシャツ、黒川靴、ネクタイ姿で、お洒落に颯爽と電車通勤をしていました。
また持ち物は少なかったのですが、それを大事にする人でした。子ども心に驚いたのは、Yシャツの襟や袖口が擦れてくると、裏返しに出して使い続けていました。しかもクリーニングに出したYシャツに、母にピカピカに磨かせた靴を履いていたのです。
病んで伏せている父を見たことがありませんでした。熱があると、熱いお風呂に入って、鉢巻をして、『ウーン!』と唸りながら寝ると、翌朝は定刻に起きて、朝餉を終えると、着替えて通勤してしまうのです。医者とは縁のない様に見えたのです。
ところが、通勤の小田急電車が急ブレーキをした時に、くも膜下出血を起こしたのです。丈夫だったと自負していたので、自分では軽いと思っていたのでしょう。しばらく放っておいたのですが、けっきょく地元の市立病院に入院してしまったのです。
その頃は、すぐ上の兄のジャンバーを羽織り、運動靴を履いて、退職後の第二の職場に通勤ていたのです。自分の会社をいくつか持っていたのに、それを畳んだか、人に譲ったのか、洒落(しゃれ)男が変わっていく様子に、驚いたのです。もう構わなくなってしまっていました。六十前でしたが、父の変化に驚いていたら、退院する朝に、脳溢血を起こして、そのまま亡くなってしまったのです。それは衝撃的でした。
父が六十一で召されて、父よりも二十近く長生きをしている今の自分を、ちょっと距離を置いて眺めてみると、ずいぶん構わなくなってきたのに気づくのです。着なければならない時のための背広もYシャツもネクタイも残してありますが、着る機会がありません。
この人生の cycle の変化を、しっかりと受け止めなくてはいけないのかも知れません。『もういいよ!』と言わないための努力が必要になってきている様です。ちょっと出かける時も、『好きな娘(こ)に会ってしまう時のために!』と、気配りを怠らなかった頃の思いを忘れずに、世間に対しても、みすぼらしくない様にする努力が必要なのです。
「笑」が何十個もプリントされた物、賛美チームの物、シンガポールの名所をプリントした物、もう何年も何年も着古して、Tシャツは色褪せ、生地が薄くなり、襟元が破れてきています。そんな着古した物を着ている自分も、もう十分に、草臥(くたび)れてきているのです。
ところが、ユダ族のカレブは、モーセに次ぐ指導者とされたヨシュアに、次の様に言っています。
『今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。
しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(新改訳聖書 ヨシュア記 14章10~11節)』
彼は、八十五歳になる自分が、四十歳の時と同じ様に『今も壮健です。』と、カレブは言ました。自分の氏族の受けるべき相続分を、そう言って願い出たのです。人は外観だけでなく、やはり内面なのでしょう。ボロをまとえども、心は輝かせているべきです。
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信長は、「人間(じんかん)五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」と、「敦盛 幸若舞(こうわかまい)」を舞ったのですが、私は、26の時に、人生に永遠の希望を持たせていただいて、半世紀強を生きてきました。恥多いこれまでですが、悔いなし、罪を赦され、死を恐れずに、明日への望みを得て、今を生きられて溢れる感謝でおります。
(ウイキペディアによる父の生まれた街の市章、織田信長像です)
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