『確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(新改訳聖書2テモテ3章12節)』
「偏見」、真実ではなく、偏った見方で、人を見てしまうことなのでしょうか。正直に人を評価できないで、決めつけてしまうことがおうおうにしてあります。また「事実」を歪曲して、自分の都合の良いように判断したり、結論してしまうこともあります。
ロシア人で、イワンという名の青年兵士がいました。ロシア軍の軍隊内で、酷い扱いを受けるのです。それは極めて不条理な拷問で、イワンの身体は膨れ上がるほどで、非人間的な仕打ちでした。この方の姿を写した写真が残されてあって見たことがありました。
イワンは、信仰者でした。神のいますこと、イエスがキリストであると信じ、信仰第一の生活を、軍隊内でも送った、柔和な性格のクリスチャンでした。共産圏では、無神論の上に国家が作り上げられ、神の存在を認めませんでした。唯物論で、人間も、物質にしか過ぎないとしています。人の命の尊厳など認めなられなかったイワンは、反逆思想の罪人として扱われ、独房に入れられ、繰り返し暴力を受けたのです。
ある晩、不思議な体験を、イワンはしたのです。あのパウロが、第三の天に引き上げられたことが、「コリント人への第二の手紙12章2節」に記されてある様に、天に携え上げられる経験をしたのです。その日も、拷問を受けていましたが、神の臨在に触れることのできたイワンは、これから彼が行くべき世界が、どの様な所であるかを体験し、それを書き残したのです。
これは、作り話ではなく、実体験として、ロシア語で書き残されていて、その翻訳文を若い時に、私は読んだのです。それはソヴィエト連邦が崩壊する以前の出来事でした。間も無く拷問で死のうとしていたイワンに、その死の向こう側の世界を、神さまはお見せになったのです。私は、その告白文、証詞を読んで疑いませんでした。無神論者が、どのようなことをするかを聞いて知っていましたし、彼らは神を畏れないからできるのです。
権力闘争、裏切り、失脚劇、粛清などの暗黒史が、ソ連にもルーマニアにも共産中国にも見られました。今も変わりありません。その驚くべき事実は隠蔽されて、神を畏れない人物が、権力者の座に就きやすい社会構造なのです。
神の賜物としてのいのちなのに、物の一つであって、失われても、補充できる、残った人たちでやっていけるという論理の世界です。三億の人口の一億が死んでも、二億が残るなら国家は維持できるという考えです。ですから、人一人のいのちなど、どうでもよいことになります。
激しい試練の中で、神を信じて生きるイワンに、神さまが味方をしたのでしょうか。
♫ やがて天にて 喜び楽しまん 君に見えて 勝ち歌歌わん ♪
また、「地下墓所の殉教者(伝道出版社刊)」という題の書籍がありました。もう絶版になってしまい、古書界では高額で取引されています。ネロ帝の激しい迫害下、ローマの地下にあった共同墓所に、信仰者たちが隠れ家として生活してました。捕まれば、闘技場に引き出されて、キリスト信仰者たちが獣に襲われる様子を、ローマ市民たちは眺めて、娯楽のようにして歓喜していたのだと言われています。その流す血に酔いしれて、日を過ごしていたのです。
また、多くの信仰者たちが銃殺される時、天から冠が降りて来て、彼らの頭の上に留まろうとしていました。ある人は、死の恐怖に駆られて棄教し、その信仰者の中から走り逃れたのです。それを見ていた兵士の一人が、手にしていた銃を投げ出して、処刑者の列に走り込んで、銃殺されました。その天からの褒賞の冠を受けたからだったそうです。
来世への希望を持つなら、死をおじ恐れないという話は、古代でも現代でも同じです。迫害される者への永遠のいのちが与えられるのです。イワンは、これから迎える残虐な経験の前に、素晴らしい経験をしたわけです。
遠藤周作が、江戸期の「島原の乱」以降のキリシタン迫害の事実を題材に、1966年に、「沈黙(新潮社刊)」を書き上げ、刊行されました。それは大きな反響を呼び、映画化もされました。徳川幕府は、キリシタンの台頭を恐れたのです。
敬虔に生きようと願う者たちは、そんな目に遭うこともありますが、永遠への想いを抱いて、耐えた歴史があるのです。人を恐れないで、死も恐れずに、神を畏れたからでした。彼らは、明日に希望をつないで生きたのです。
(Christian clip arts からのイラストです)
.