『それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(新改訳聖書 ヨハネ20:27)』
ドイツの弱冠27歳のダーフィト・シュトラウスが、聖書が記す、イエスさまの生涯の中から、「奇跡」とか「真理」を取り除いて、〈史的イエスの探究〉と言う目標を掲げて、「イエスの生涯」を書きました。1835年のことでした。「聖書」を薄い書物に改変したのです。それはイエスが、「神の子」ではないことを証明しようとして、人間イエスを著したのです。
不信仰の立場で書き上げた書物で、教会史の中で、非常に悪い影響力を蔓延させた書物でした。衝撃的な影響力を、キリストの教会にもたらしたわけです。でも、この本は、追随者だけが手にするだけで、今はその影響力はほとんどありません。イエスさまは、人の子でありながら、神の子であるからです。
この人は、ドイツのシュトウットガルに生まれ、子どもの頃から、神学に強い関心を示し、チュウビンゲン大学に進学して、哲学を学びました。ところが、〈直感と感情〉で聖書に向かうシュライエルマッハーに共感して、強い感化を受けてしまったのです。
『誰から影響を受け、誰から学ぶか?』によって、人は変えられてしまいます。変えられてしまった彼らは、主にドイツの教会の〈聖書批判〉から生じた「新神学(自由主義神学)」を説き、世界に広がらせました。それは日本の教会をも見舞ったのです。ある教会の指導者たちは、その神学に惑わされてしまい、聖書を信じられなくなって、聖書批判に走ってしまったのです。
私は、単純に、聖書の記すことを信じている母に育てられ、疑うことなく聖書を真正面から教えてくださった宣教師に養われました。それで聖書を、《神のことば》と信じ続けてきました。母や家内や子どもたちが、そして自分が病気した時も、『我はエホバ、汝を癒す者なり(エホバ・ラファ)』と、天にいます神さまを信じて祈ってきたのです。この「祈り」、「祈れること」に感謝して今に至っています。
主イエスさまが、『信じる者になりなさい。』と、トマスに言われたように、自分にもそう語りかけていたのです。『祈って!』と、幼かった四人の子どもたちが、二親に願うので、その都度、私たちは祈ってきました。今や家庭を持った子どもたちが、家族や親族の必要があると、『お父さん、お母さん、祈って!』と言ってきます。
『どうして神がいるのに、こんな悲惨なことが、世界中に起こるのですか!』と、おっしゃる方がいます。幼児が誘拐されて殺され、爆弾が保育所を爆破させ、全身麻痺の子が誕生している人の世の現実に、『だから神はいないし、愛の神だなんて嘘ぱちだ!』と言って、神のいます座に向かって、ツバを吐き、罵りなじります。
世界に見られる悲惨さの原因は、人にあります。私たちの始祖が犯した罪によって、人類は神の祝福を失ってしまったからです。全ての人類の汚点の原点は、人にあって、神にあるのではないのです。
悲惨な出来事は、人類共通のことです。誰でも、たとえ長生きしても、死産の子であっても、誰もが、必ず死にます。死にそうな経験を幾度となくしてきた私は、死の問題を他人事にはできませんでした。人に言えない様な酷いこと、罪を犯してきた私は、自分の内に、罪が宿っていて、十分に罪人だと思い続けてきました。地獄に落ちて当然だと認めていたのです。
母は、神がいますことを、いつも話してくれました。何よりも信仰する姿、生き方を見せてくれていたのです。性格は穏やかで、人の悪口は言わず、困っている人には声をかけ、助ける人でした。家事万端を済ますと礼拝に出掛けて行きました。人のために祈り、聖書を読み、賛美し、パートタイムで働いた分から献金を先ずしていました。救い主キリストのいますことを、人にを伝えていたのです。
25歳の時に、神のいますことを、単純に私は信じられたのです。十二分に罪人であると認めていた私が、罪からの赦しを信じられたのです。イエスがキリストであり、このキリストが十字架に死なれたのは、自分の罪の身代わりに、十字架に死んでくださったと信じられたのです。私を生かすために、このイエスは、死と墓とから蘇られたとも信じられたのです。今や神の子の身分を与えられ、この肉体は死んで滅んでも、永遠のいのちに預かれると、私は信じています。
そうでしょうか。ある人たちが思っているように、神は、そんなに意地悪で、酷いお方なのでしょうか。そうではありません。自ら最初の人は罪に堕ち、全人類は、死ぬようになったのです。しかし、憐れみ深い神は、人類の亡びを看過できなかったのです。救いの道を定められました。罪の報酬である死を滅ぼすために、神が人となられて、三十三年半の生涯の後に、イエスをキリストと信じる者たちのために、身代わりに死の刑罰を受けてくださったのです。
しかし、父なる神は、イエスさまを、死と墓とに放置されずに、蘇らせなさったのです。今は、父の神の右の座においでです。そこで信じる者たちのために、執り成しの祈りをし、助け主聖霊をお送りくださり、私たちを迎える場を作っておいでです。それが完成なる時には、信じた私たちを迎えに来てくださろうとしておいでです。
シュトラウスは、子どもの日に信じていたキリストを捨てました。でも、彼の生涯の最後に、もし信仰を回復させていたら、彼は救われているのです。人の心の中は、誰もわからないからです。ただ神のみが知るところです。人には、まことの神と救い主に出会う機会が、生きている限りあるのです。
神は、創造者のもとに帰って来るように願い、呼びかけておいでです。人は誰も、やがて必ず訪れる死、最大の問題を解決していないのです。もし永遠のいのちを信じるなら、死と墓から蘇られたイエスさまを信じたら、死を超えて、永遠のいのちに預かれるのです。
『信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。(新改訳聖書 ヤコブ5章15節)』
今週と来週、知り合いの二人の方が、手術を受けられます。明日4日に、隣町の知人のご子息が、腕を骨折されて、自治医科大学附属病院で手術されます。また、来週月曜日に、私を友人として、自治医大病院に医師を紹介してくださった友人が、その病院で、心臓にカテーテル・アブレーションを植え込む手術をされます。
お二人の執刀医のチームの手に、主イエスさまの祝福をお祈りします。無事に手術が終わり、お二人が元気を回復されますように、併せてお祈りさせていただきます。私は、私の神は、「癒し主」であると信じているから祈って参りました。それで今も、信じる者として祈るのです。
(Christian clip art のイラストです)
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