こんなラジオ番組がありました

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 「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」、作詞が菊田一夫、作曲が古関裕而、唄が川田正子で、NHKのラジオドラマの主題歌でした。最近、素敵な歌番組で、FORESTA と言うグループが、さまざまな分野の歌を、美しいHarmony で聞かせてくれています。その中に、この主題歌がありました。

1 緑の丘の赤い屋根
とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メーメー小山羊(こやぎ)も啼(な)いてます
風がそよそよ丘の上
黄色いお窓はおいらの家よ

2 緑の丘の麦畑
おいらが一人でいる時に
鐘が鳴ります キンコンカン
鳴る鳴る鐘は父母(ちちはは)の
元気でいろよという声よ
口笛吹いておいらは元気

3 とんがり帽子の時計台
夜になったら星が出る
鐘が鳴ります キンコンカン
おいらはかえる屋根の下
父さん母さんいないけど
丘のあの窓おいらの家よ

4 おやすみなさい 空の星
おやすみなさい 仲間たち
鐘が鳴ります キンコンカン
昨日にまさる今日よりも
あしたはもっとしあわせに
みんな仲よくおやすみなさい

  昭和20年8月15日に、長い戦争が終わりました。父は、軍需工場で働いていましたが、軍が解体して失職したのです。四人の男の子を育てるために、山奥から引いていた索道(さくどう、小型のトラックの荷台のような鉄製の入れ物を吊るしたケーブルカーで石英を運んでいました)を、利用して、県有林の木材の払い下げを受けて、それを切って運び出し、京浜地帯に運んで売る、木材業をしていました。

 戦地に行った父の弟、私たちの叔父は、赤紙召集で、兵隊となって南方に行き、そのまま戦死しています。農村から働き手の男性が戦地に送られて、戦死したり、復員が遅かったりで、田畑の耕し手がいませんでした。そんな理由もあって、何もかも失った日本は食糧難でした。山奥から東京に、私の家族は越して、住み始めましたが、新宿や上野などには、戦争孤児が多くいたのです。

 当時、浮浪児とも呼ばれていた子どもたちは、全国に数万員もいたと言われ、実際の統計には上らない子も多かったはずです。中野に寄った新宿駅近の地下通路にたむろしていた戦争孤児を、多く見かけたのです。

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 そう言った戦争が産み落とした孤児たちのある子たちは、生きていくために、盗みを働いたりしていたのです。ある子どもたちは、駅の出口付近で、靴磨きをしていて、これも新宿で見かけました。私たちよりも少し上の世代、兄たちと同世代の子どもたちが、それでも、そんな逆境に負けないで、懸命に生きていたのです。

 そんな彼らを、教会やお寺や篤志家のみなさんが、見るに見かねて、引き取って、衣食住を提供し、教育を受けさせていたのです。そう言った戦争孤児を引き取った施設を舞台にした歌が、この歌でした。ラジオで放送されたのを、よく聞いたので、今でも歌えます。

 昭和22年(1947)7月に、そのラジオ番組になって放送が始まりました。4年近く放送され、790回にわたって続いたのです。日本中が聞いた番組でした。このお話は、戦地から帰ってきた一人の青年が主人公でした。孤児になった少年少女の戦後を、どうにかして助けたいと思ったのです。それで自分の故郷の長野県の山あいに「少年の家」を立てて、一緒に共同生活を始めます。その少年たちと村の人々との物語でした。安曇野(あずみの)の穂高の村が、舞台だったのです。

 『♫ 父さん母さん いないけど 丘のあの窓 おいらの家よ ♬』と歌詞にあるように、身寄りのない子たち、とくにお父さんのいない子どもたちが、同級生の中に何人もいました。「戦争の落とし子」と言ったりしていましたが、けっこう逞しく生き抜いていくのです。私だって、孤児になる可能性もあったのですが、親のいた私とは、違った戦後を、この子どもたちは生きたわけです。そのような少年たちを助けた方々がいたことも忘れてはなりません。

 また、旧満州には、さまざまな理由で、残留した孤児のみなさんもいたのです。その孤児が、中国で結婚し、生まれた子どもが、私の住んでいた街の大学に留学してきていました。その学生が、私のしていた事業を、いつも助けてくれたのです。わが家を訪ねて来た時に、満州餃子を、何時間もかけて作ってくれました。実に美味しかったのです。

 あの味は、この人の祖父や祖母の味だったのでしょうか。残留孤児を引き取って育てた親がいて、その孫が、平和な時代になって生まれたことになります。その事実を見落としてはなりません。

『父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。(新改訳聖書 ヤコブ1章27節)』

(ウイキペディアによる映画化されたポスター、安曇野の一風景です)

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馬の力を喜ばれないお方

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 散歩道に、戦争のために駆り出されて、軍馬として用いられた、「出征軍馬」の記念碑を見つけました。人が二十歳になると、徴兵検査をされるのですが、父も、その検査を受けたと言っていました。いつでも、一銭五厘「赤紙」で徴兵され、軍隊に入って、戦地に駆り出されて行ったわけです。

 きっと農耕用の馬が、農家に供出を求められ、『アオよ、さらば!』と言って送り出したことでしょう。その記念碑が、もう農村ではなく、住宅地に変わってしまった道路の三叉路の角にありました。大平山をそばに見上げ、富士山や筑波山や男体山を遠くに望み見る、田圃を耕し、収穫後にお米を農協に運んだのでしょうか。多くは大陸に送られ、軍用に鞭打たれて、ついには、連れ帰られることなく、大地に葬られたのでしょう。

 悲しい戦争のあったことを伝えています。父にも愛馬がいたのだそうです。街の事務所の近くには、陸軍の連隊本部があって、その連隊長が、譲ってほしいと願ったほどの馬だったそうです。街や、山の現場までの行き来に乗っていたのようです。

 ある時、馬肉が、我が家に届けられたそうです。戦時下の食糧の少なかった頃でしたから、ご馳走だったのでしょう。食べてしまった後に、父の愛馬の肉だったと知らされたのだそうです。馬の世話をしていた方の息子さんが病気で、栄養をつけなくてはならないと医者に言われ、無断で、潰して肉にしてしまったのです。

 私が大きくなった頃には、馬を見かけたことがなかったのですから、戦時中のことだったのでしょうか。男の子たちの父親だったからでしょうか、事情を察して、不問に付したと聞いています。

 聖書にも、馬が登場しています。聖書の神さまは、こんなお方だと書いてあります。

『神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。(新改訳聖書 詩篇147篇10節)』

 戦争を好まない神は、速度や力量により頼まないお方でいらっしゃるのです。エルサレムに入場されるイエスさまの様子が次のように記されてあります。

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『それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、

言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。

もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」

これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。

「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」

そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。

そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。

すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。

そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」

こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか」と言った。

群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と言った。(新改訳聖書 マタイ21章1~11節)』

 立髪豊かな駿馬にではなく、子ろばの背に乗っていらっしゃったのです。誇り高く、人日頭の遥か上から、人々を見下ろすことをしないで、人の目の高さに、ご自分を置かれたのです。これこそ私たちの救い主イエスさまのお姿、様子なのであります。

(”Christian clip arts”のエルサレム入場のイエスさまのイラストです)

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9月11日の朝顔!

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 秋暑を追い出すかのように、たくさんアサガオが咲いています。昨日の自転車行は、ちょっと大変でした。でも時々雲が遮ってくれましたので、助かりました。「どこまで続くぞ、この暑さ!」の思いでいっぱいです。🍂の来なかった年は、今まで一度もなかったので、必ず来ることでしょう。

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バナナの叩き売りの口上

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 買い物に行く、近所のスーパーマーケットには、バナナの売り場が、けっこう広くとってあります。黄色く熟したバナナは、今では小分けにされ、プラスチックの袋に入れられ並べてあります。子どもの頃は、そう簡単に食べられなかったのです。病気の見舞いに、まるまる「一房(ひとふさ)」、包装紙に包まれたのをもらうと、とても豪華でした。

 産地が近いこともあって、「台湾バナナ」がほとんどだったようです。台北市の北方にある基隆(キールン)港から、今のようにダンボールのない時代に、竹籠に入れられて、船便で送り出されて、おもに門司港に水揚げされていたのです。

 その門司の名物が、この「バナナの叩き売り」でした。中国や台湾では、野菜として青いままで料理して食べられていました。ところが、私たちには、果物なのです。人だかりの中で、腹巻きをしたおじさんが、次のような口上(こうじょう)をしゃべりながら売る姿も、門司名物でした。

春よ三月春雨に
弥生の空に桜散る
奥州仙台伊達公が
なぜにバナちゃんに惚れなんだ
バナちゃんの因縁聞かそうか
生まれは台湾台中の
阿里山麗の片田舎
土人の娘に見染められ
ポッと色気のさすうちに
国定忠治じゃないけれど
ひと房ふた房もぎ採られ
唐丸籠にと詰められて
阿里山麗を後にして
ガタゴトお汽車にゆすられて
着いたところが基隆港
基隆みなとを船出して
金波銀波の波を超え
海原遠き船の旅
艱難辛苦の暁に
ようやく着いたが門司みなと
門司は九州大都会
門司のみなとで検査され
一等二等あるなかで
私のバナちゃん一等よ
<懐かしの口上より一部抜粋>

 今では、フィリピン、エクアドル、メキシコなどの産地から送られて来て、この台湾バナナは品薄のようです。自分としては、この台湾産が好きなのですが、高くて手が出ませんし、最近、家内がバナナ情報を入手して、手当たり次第に食べない方がいいと言ってくれています。

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 バナナの袋ではなく、バナナ自身に、ナンバーリングのシールがない物は避けた方がいいのだそうで、organicの「9」のシールがついた物を買うようにして、と言っています。産地ナンバーなのか、品質ナンバーなのか、有害農薬の使用未使用なのか、そんな意味づけのナンバーリングのようです。

 最近、買い置きを欠かさなかったバナナだったのですが、滅多に食べなくなりました。一年中店頭に並ばせるには、輸入は大変なのでしょう。他の果物は、季節感があるのですが、バナナの年中無休は、何か無理がありそうです。

 今日は、久しぶりにバナナでも買ってみましょうか。牛乳と蜂蜜で、ミキサーに入れて、バナナミルク、バナナシェイクがいいですね。青果会社でアルバイト経験が、私はあります。そこには、あ大きな室(むろ)があって、真っ青なバナナを、保存してるのですが、あるガスを充満する部屋で追熟して、出荷調整をしながら作業をするのだそうです。その会社の取締役の息子さんが、そに作業中に、事故で亡くなられたと聞いたことがありました。

 道端の商いの光景が、以前はたくさん見られたのですが、泥交通法があってでしょうか、、またはそう言った販売法が、古くてされないのか、見られません。あの独特の不調が懐かしい、暑過ぎる九月です。

(ウイキペディアによるバナナの花と門司港税関です)

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令和日本米騒動

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 あの騒動を知らなかった私が、行きつけのスーパーマーケットの米売り場の棚に、5kgの袋が一つあるのを見ました。『よく売れるんだなあ!』と感心していたら、南海トラフ地震の警報注意が発せられて、家庭への必要以上の備蓄が行われたのが原因だ、と知ったのは、その日の夕方でした。

 無くなる頃に買い求めて、何不自由なく、一日One cup の米に、十五穀米を、小さなcup 一杯で、毎朝炊くのです。魚を焼いたり煮たり、肉を焼いたりして、それにお味噌汁、ホーレン装や小松菜のおひたしをし、カボチャなどの煮野菜、佃煮などで済ませます。

 残ったご飯を冷蔵庫に入れて、冷蔵し、夕食に、おじやを作ったり、お餅で雑煮をしたり、蕎麦を食べたり、最近では米粉の包まない餃子を食べる、そんな食生活を続けています。

 お昼は、野菜サラダ、卵を茹でたり目玉焼きにし、家内は芋類を茹でて、私は、パンやシリアルに牛乳をかけて、コーヒーを二人で飲みながら終えます。ほとんど外食はしませんが、宇都宮の病院帰りには、東武宇都宮店駅のフードコートの蕎麦屋に入って、月一度ほどお昼にするのです。

 二、三日分ほど残っていた米を見て、『どうにかなるよね!』と言ってたら、家内の散歩仲間のご婦人が、新米が手に入ったからと届けてくれたのです。久しぶりに、白米に、生卵をかけて食べてみました。美味しかったのです。また若い友人が、米売り場の前から電話で、『お米買ってお持ちしましょうか!』と電話をしてくれました。

 同じように、米が売り場に無くなった時がありました。宣教師さんのお供をして、開拓伝道のをし始めた年に、オイルショックがありました。トイレットペーパーも店から消えた年でした。なぜかあの時、何を思ったのか、煉炭とコンロを買って、自転車につけて家に帰ったのです。生まれたばかりの長男のおしめを乾かすためでした。

 米とかトイレットペーパーを見つけて帰るなら、まだマシなのに、必要のない物を買って、家内に笑われました。結局使わないままで終わり、どなたかに上げてしまいました。

 毎月の必要分でいるならば、潤沢にお米は世間に出回っているのに、パニックに弱い現代人は、買い漁りをしてしまうのです。あの時も米が消えてしまい、政府が、東南アジアから急遽外米を輸入した頃には、普段どうりに需要が、備蓄米で満たされたのです。あの外米は、廃棄したのだ、と後で聞きました。諺の『あわてる乞食はもらいが少ない!』を思い出した時でした。米騒動は、江戸期だけではなかったのです。

 日本だけと思っていましたら、ドイツでもイギリスでも、そう言った現象が、以前にありました。現代人特有の「不安の波及」が原因です。なければないで、どうにかなります。ある家だけ、元気で肥え太っていたら、痩せた欠乏者に、食べ物を狙われてしまうのではないかと、他人のことですが心配しているところです。

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 預言者エリヤは、カラスが、朝晩運んできたパンと肉に養われ、ツァレファテのやもめ(寡婦)の残された一握りのパン粉とわずかな油で焼いたパンで養われたのです(1列王17章)。この寡婦は、息子とふたりで、そのパンを食べて死のうとしていた分を、神の人エリヤに差し出したことで、家にあったかめ(瓶)にパン粉と油が尽きなかったのです。すごいテスト、そして、決断、報いだったことになります。

(ウイキペディアによる「新米」、「パンの一種」です)

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野の花の如く

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 作詞が杉山政美、作曲が小林亜星の「野に咲く花のように」という歌があります。

野に咲く花のように 風に吹かれて
野に咲く花のように 人を爽やかにして

そんな風に 僕達も
生きてゆけたら すばらしい
時には 暗い人生も
トンネルぬければ 夏の海
そんな時こそ 野の花の
けなげな心を 知るのです

野に咲く花のように 雨にうたれて
野に咲く花のように 人を和やかにして

そんな風に 僕達も
生きてゆけたら すばらしい
時には つらい人生も
雨のちくもりで また晴れる
そんな時こそ 野の花の
けなげな心を 知るのです

そんな風に 僕達も
生きてゆけたら すばらしい
時には 暗い人生も
雨のちくもりで また晴れる
そんな時こそ 野の花の
けなげな心を 知るのです

 野に咲く花に、「アツモリソウ」と言う名の花があります。蘭の一種で、平敦盛が背負っていた「母衣(ほろ 武士が矢を防ぐために背中に負っていた袋のことだそうです)」に、花形が似ているので、そう名付けられています。乱獲で、今や絶滅危惧種(特定国内希少動植物種)になっているようです。

 「平家物語」に、悲しくも、戦場で死んでいった、敦盛が、一の谷の戦場で、熊谷直実と一騎打ちをする様子が記されています。逃げようとする敦盛を、敵に背を向けることを、直実が諌めると、敦盛は直実の前に戻り、馬上から引き摺り落とすのです。よく見ると、自分の子と同じ年恰好の若武者でした。

 当時は、戦場で、対決する時に、双方が名乗りあったようです。直実は、『武蔵国熊谷(くまがや)の住人・・・」と名乗り、若武者に名乗れと言うと、『名乗らずとも首を取つて人に問へ。見知らふずるぞ(私が名乗らなくても、首を取って誰かに尋ねてみよ。きっと知っている者がいるであろう)』と答えたそうです。

 首を取るのを躊躇していると、敦盛は、首を差し出すのです。戦場の武士の慣いで、敦盛は、苦渋のうちに、首を取るのです。その故事にちなんで、名付けられています。自分の息子ほどの年嵩の敦盛を打ったことで、後に、直実は出家して、仏門に入るのです。

 平和の時代を生きて来た自分が、父の話によると、武士集団の源氏の流れの源頼朝に仕えた、鎌倉武士の一人の子孫なのだったそうです。直実の祖は、もともと敦盛と同じ平氏の一族でしたが、頼朝が征夷大将軍についた頃には、その従臣になっていたのだようです。

 同族も、天下を取る運命を担って、さまざまな経緯や力関係で、敵味方に分かれてしまう時代だったのでしょうか。戦場を駆け巡り、群雄割拠する時代に生まれないでよかったなと、つくづく思うのです。

 この出来事をもとに、「幸若舞 敦盛」という舞が、武士の間で舞われるようになり、戦国の雄・織田信長が好んだのです。自ら舞う時があったようです。明智光秀に夜襲された時に、これを舞っていたとか聞いたことがあります。

 信長が残した辞世の言は、『人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如く なり。一度生を得て、滅せぬもののあるべきか。』でした。まさに信長は、五十に届かずに死んでいきます。当時の平均余命ほどだったのでしょうか。

 敦盛草は、何か憂いを含んでいるように感じられますが、寒冷地を好む花で、3cmほどの花をつけます。見たことも、手のしたこともありませんが、「特定国内希少野生動植物種に指定されている花です。北海道の礼文島にも、「レブンアツモリソウ」が咲くそうです。

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『きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(新改訳聖書 マタイ6章30節)』

 学校の恩師に、『野の花の如く咲きなむ!』と書いて、卒業祝いに、色紙をいただきました。『名なんかなくていい、偉くならなくていい、ただ蒔かれた所で、しっかりと咲いて、万物の創造者を褒め称えて生きよ!』と、二十二の私は言われたようでした。

 果たして、恩師が願ったように生きられたかを、もう一度顧みながら、自分の越し方を検証したいと思っています。それと共に、どう生きたかを、私の贖い主に、そして、人にも申し上げるようにと思わされております。

(ウイキペディアによるアツモリソウ、礼文敦盛草です)

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秋めいて


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 昨日は、空を、思いっきり仰いで眺めていました。あんなに厚い雲が全天を覆っていたなんて嘘の様な、真っ青な秋空でした。心まで軽やかにされたかの様でした。散歩途中に、サイダーの誘惑にあって買って、懐かしくて飲み干してしまいました。そうしましたら、汗が一気に吹き出たのです。まだまだ油断ならない今日日の気候です。

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明日に希望をつないで生きる

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『確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(新改訳聖書2テモテ3章12節)』

 「偏見」、真実ではなく、偏った見方で、人を見てしまうことなのでしょうか。正直に人を評価できないで、決めつけてしまうことがおうおうにしてあります。また「事実」を歪曲して、自分の都合の良いように判断したり、結論してしまうこともあります。

 ロシア人で、イワンという名の青年兵士がいました。ロシア軍の軍隊内で、酷い扱いを受けるのです。それは極めて不条理な拷問で、イワンの身体は膨れ上がるほどで、非人間的な仕打ちでした。この方の姿を写した写真が残されてあって見たことがありました。

 イワンは、信仰者でした。神のいますこと、イエスがキリストであると信じ、信仰第一の生活を、軍隊内でも送った、柔和な性格のクリスチャンでした。共産圏では、無神論の上に国家が作り上げられ、神の存在を認めませんでした。唯物論で、人間も、物質にしか過ぎないとしています。人の命の尊厳など認めなられなかったイワンは、反逆思想の罪人として扱われ、独房に入れられ、繰り返し暴力を受けたのです。

 ある晩、不思議な体験を、イワンはしたのです。あのパウロが、第三の天に引き上げられたことが、「コリント人への第二の手紙12章2節」に記されてある様に、天に携え上げられる経験をしたのです。その日も、拷問を受けていましたが、神の臨在に触れることのできたイワンは、これから彼が行くべき世界が、どの様な所であるかを体験し、それを書き残したのです。

 これは、作り話ではなく、実体験として、ロシア語で書き残されていて、その翻訳文を若い時に、私は読んだのです。それはソヴィエト連邦が崩壊する以前の出来事でした。間も無く拷問で死のうとしていたイワンに、その死の向こう側の世界を、神さまはお見せになったのです。私は、その告白文、証詞を読んで疑いませんでした。無神論者が、どのようなことをするかを聞いて知っていましたし、彼らは神を畏れないからできるのです。

 権力闘争、裏切り、失脚劇、粛清などの暗黒史が、ソ連にもルーマニアにも共産中国にも見られました。今も変わりありません。その驚くべき事実は隠蔽されて、神を畏れない人物が、権力者の座に就きやすい社会構造なのです。

 神の賜物としてのいのちなのに、物の一つであって、失われても、補充できる、残った人たちでやっていけるという論理の世界です。三億の人口の一億が死んでも、二億が残るなら国家は維持できるという考えです。ですから、人一人のいのちなど、どうでもよいことになります。

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 激しい試練の中で、神を信じて生きるイワンに、神さまが味方をしたのでしょうか。

♫ やがて天にて 喜び楽しまん 君に見えて 勝ち歌歌わん ♪

 また、「地下墓所の殉教者(伝道出版社刊)」という題の書籍がありました。もう絶版になってしまい、古書界では高額で取引されています。ネロ帝の激しい迫害下、ローマの地下にあった共同墓所に、信仰者たちが隠れ家として生活してました。捕まれば、闘技場に引き出されて、キリスト信仰者たちが獣に襲われる様子を、ローマ市民たちは眺めて、娯楽のようにして歓喜していたのだと言われています。その流す血に酔いしれて、日を過ごしていたのです。

 また、多くの信仰者たちが銃殺される時、天から冠が降りて来て、彼らの頭の上に留まろうとしていました。ある人は、死の恐怖に駆られて棄教し、その信仰者の中から走り逃れたのです。それを見ていた兵士の一人が、手にしていた銃を投げ出して、処刑者の列に走り込んで、銃殺されました。その天からの褒賞の冠を受けたからだったそうです。

 来世への希望を持つなら、死をおじ恐れないという話は、古代でも現代でも同じです。迫害される者への永遠のいのちが与えられるのです。イワンは、これから迎える残虐な経験の前に、素晴らしい経験をしたわけです。

 遠藤周作が、江戸期の「島原の乱」以降のキリシタン迫害の事実を題材に、1966年に、「沈黙(新潮社刊)」を書き上げ、刊行されました。それは大きな反響を呼び、映画化もされました。徳川幕府は、キリシタンの台頭を恐れたのです。

 敬虔に生きようと願う者たちは、そんな目に遭うこともありますが、永遠への想いを抱いて、耐えた歴史があるのです。人を恐れないで、死も恐れずに、神を畏れたからでした。彼らは、明日に希望をつないで生きたのです。

(Christian clip arts からのイラストです)

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信じる者になりなさい

 

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 『それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(新改訳聖書 ヨハネ20:27)』

 ドイツの弱冠27歳のダーフィト・シュトラウスが、聖書が記す、イエスさまの生涯の中から、「奇跡」とか「真理」を取り除いて、〈史的イエスの探究〉と言う目標を掲げて、「イエスの生涯」を書きました。1835年のことでした。「聖書」を薄い書物に改変したのです。それはイエスが、「神の子」ではないことを証明しようとして、人間イエスを著したのです。

 不信仰の立場で書き上げた書物で、教会史の中で、非常に悪い影響力を蔓延させた書物でした。衝撃的な影響力を、キリストの教会にもたらしたわけです。でも、この本は、追随者だけが手にするだけで、今はその影響力はほとんどありません。イエスさまは、人の子でありながら、神の子であるからです。

 この人は、ドイツのシュトウットガルに生まれ、子どもの頃から、神学に強い関心を示し、チュウビンゲン大学に進学して、哲学を学びました。ところが、〈直感と感情〉で聖書に向かうシュライエルマッハーに共感して、強い感化を受けてしまったのです。

 『誰から影響を受け、誰から学ぶか?』によって、人は変えられてしまいます。変えられてしまった彼らは、主にドイツの教会の〈聖書批判〉から生じた「新神学(自由主義神学)」を説き、世界に広がらせました。それは日本の教会をも見舞ったのです。ある教会の指導者たちは、その神学に惑わされてしまい、聖書を信じられなくなって、聖書批判に走ってしまったのです。

 私は、単純に、聖書の記すことを信じている母に育てられ、疑うことなく聖書を真正面から教えてくださった宣教師に養われました。それで聖書を、《神のことば》と信じ続けてきました。母や家内や子どもたちが、そして自分が病気した時も、『我はエホバ、汝を癒す者なり(エホバ・ラファ)』と、天にいます神さまを信じて祈ってきたのです。この「祈り」、「祈れること」に感謝して今に至っています。

 主イエスさまが、『信じる者になりなさい。』と、トマスに言われたように、自分にもそう語りかけていたのです。『祈って!』と、幼かった四人の子どもたちが、二親に願うので、その都度、私たちは祈ってきました。今や家庭を持った子どもたちが、家族や親族の必要があると、『お父さん、お母さん、祈って!』と言ってきます。

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 『どうして神がいるのに、こんな悲惨なことが、世界中に起こるのですか!』と、おっしゃる方がいます。幼児が誘拐されて殺され、爆弾が保育所を爆破させ、全身麻痺の子が誕生している人の世の現実に、『だから神はいないし、愛の神だなんて嘘ぱちだ!』と言って、神のいます座に向かって、ツバを吐き、罵りなじります。

 世界に見られる悲惨さの原因は、人にあります。私たちの始祖が犯した罪によって、人類は神の祝福を失ってしまったからです。全ての人類の汚点の原点は、人にあって、神にあるのではないのです。

 悲惨な出来事は、人類共通のことです。誰でも、たとえ長生きしても、死産の子であっても、誰もが、必ず死にます。死にそうな経験を幾度となくしてきた私は、死の問題を他人事にはできませんでした。人に言えない様な酷いこと、罪を犯してきた私は、自分の内に、罪が宿っていて、十分に罪人だと思い続けてきました。地獄に落ちて当然だと認めていたのです。

 母は、神がいますことを、いつも話してくれました。何よりも信仰する姿、生き方を見せてくれていたのです。性格は穏やかで、人の悪口は言わず、困っている人には声をかけ、助ける人でした。家事万端を済ますと礼拝に出掛けて行きました。人のために祈り、聖書を読み、賛美し、パートタイムで働いた分から献金を先ずしていました。救い主キリストのいますことを、人にを伝えていたのです。

 25歳の時に、神のいますことを、単純に私は信じられたのです。十二分に罪人であると認めていた私が、罪からの赦しを信じられたのです。イエスがキリストであり、このキリストが十字架に死なれたのは、自分の罪の身代わりに、十字架に死んでくださったと信じられたのです。私を生かすために、このイエスは、死と墓とから蘇られたとも信じられたのです。今や神の子の身分を与えられ、この肉体は死んで滅んでも、永遠のいのちに預かれると、私は信じています。

 そうでしょうか。ある人たちが思っているように、神は、そんなに意地悪で、酷いお方なのでしょうか。そうではありません。自ら最初の人は罪に堕ち、全人類は、死ぬようになったのです。しかし、憐れみ深い神は、人類の亡びを看過できなかったのです。救いの道を定められました。罪の報酬である死を滅ぼすために、神が人となられて、三十三年半の生涯の後に、イエスをキリストと信じる者たちのために、身代わりに死の刑罰を受けてくださったのです。

 しかし、父なる神は、イエスさまを、死と墓とに放置されずに、蘇らせなさったのです。今は、父の神の右の座においでです。そこで信じる者たちのために、執り成しの祈りをし、助け主聖霊をお送りくださり、私たちを迎える場を作っておいでです。それが完成なる時には、信じた私たちを迎えに来てくださろうとしておいでです。

 シュトラウスは、子どもの日に信じていたキリストを捨てました。でも、彼の生涯の最後に、もし信仰を回復させていたら、彼は救われているのです。人の心の中は、誰もわからないからです。ただ神のみが知るところです。人には、まことの神と救い主に出会う機会が、生きている限りあるのです。

 神は、創造者のもとに帰って来るように願い、呼びかけておいでです。人は誰も、やがて必ず訪れる死、最大の問題を解決していないのです。もし永遠のいのちを信じるなら、死と墓から蘇られたイエスさまを信じたら、死を超えて、永遠のいのちに預かれるのです。

『信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。(新改訳聖書 ヤコブ5章15節)』

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 今週と来週、知り合いの二人の方が、手術を受けられます。明日4日に、隣町の知人のご子息が、腕を骨折されて、自治医科大学附属病院で手術されます。また、来週月曜日に、私を友人として、自治医大病院に医師を紹介してくださった友人が、その病院で、心臓にカテーテル・アブレーションを植え込む手術をされます。

 お二人の執刀医のチームの手に、主イエスさまの祝福をお祈りします。無事に手術が終わり、お二人が元気を回復されますように、併せてお祈りさせていただきます。私は、私の神は、「癒し主」であると信じているから祈って参りました。それで今も、信じる者として祈るのです。

(Christian clip art のイラストです)

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神が禁止されたこと

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『あなたがたは死者のため、自分のからだに傷をつけてはならない。また自分の身に入墨をしてはならない。わたしは主である。(新改訳聖書 レビ19章28節)』

 ヘブル人、とは、「渡ってきた人」と言う、カナンの地の住民が、この一族を呼んだ呼び名だった、と聞いたことがあります。カルデアのウルが、彼らの出身地でしたが、神さまのことばによって、「わたしが示す地へ行きなさい」と、神さまに言われて、アブラム(後のアブラハム)が、やって来たのがカナンの地でした。

 風習や慣習の違った地で、彼らの生活に倣わないで、独自の生き方をしていくのですが、神さまは、カナンの地の言い伝えや因習に真似ずに生きるように願われたのです。その一つが、身体を傷つけることや「入墨」でした。宗教的な祈願や決断によってなされる一切の習俗から、しっかりと距離を置いて、離れるように命じたのです。

 私が育てられた父の家には、仏壇とか神棚とかお札とかの宗教用具が、全くありませんでした。父は、子どもの頃に、育った街の教会に、父親に連れられて、日曜学校や礼拝に出席していたそうです。また母は、14歳で、カナダ人宣教師家族との交わりの中で、クリスチャンとなっていました。

 そんな関係からでしょうか、日本的な行事などには、参加することがありませんでした。ただ私は、興味があって、友人の家の仏壇や神棚を見に行ったことがありまし、街の祭礼や神社に行ったのですが、礼拝行為を一切しなかったのです。母に言われたからではなく、自分で、そうしたのです。

 長く過ごした隣国には、五千年の歴史があると言いますから、唯物論の国で、『宗教はアヘンだ!』と言われながらも、様々な宗教的な習俗が残されていました。華南の街のあちこちに、祠(ほこら)があり、香が焚かれ、蝋燭の火が灯されいました。強固な伝統的な信心が、人々の間には残されていたのです。

 最近目に付くのが、スポーツ選手のファッションなのでしょうか、腕や襟首に、タトゥーが見られます。日本人の有名選手には目立ちませんが、二の腕や胸部、腹部、背中、足首などに入れているとも聞きます。その boom の理由としては「何かを忘れないようにしたり、誰かをたたえたりするため」が69%、次が「自分の信念を示すため」の47%、その次が「見栄えがよくなるから」が32%だと調査されています。

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 男気の表明なのでしょうか、若気の至りなのでしょうか、若い時に体に入墨をした頃には、肌もハリがありましたから、粋だったのでしょう。ところが昔、銭湯で見かけた、お爺さんの物は、元気のない龍や獅子だったのを覚えています。そんな時の経過、加齢など想像もつかない若者たちの間に、今やboom を煽られて流行りつつあるようで、とても心配です。ポルトガル代表のサッカー選手、クリスティアーノ・ロナウドは、『献血ができなくなるから!』との理由で、タトゥーを入れずにいます。

 映画が、斜陽になりつつあった六十〜七十年代の映画界が、社運をかけて、任侠路線に打って出ました。outlaw な映画作りに励んでいたのです。スクリーンは、刺青のon parade でした。スクリーンの上での見せ物でしたが、真似た若者もいたようです。でも、boom にはなりませんでした。でも、今や、ファッション化するほど、若い層の人たちに受け入れられています。

 身体髪膚これを父母から受くで、二親の命を継いだ身体を、墨で汚してしまうのは、親不孝と同時に、いのちの付与者の神さまへの不敬なのです。この時代の子どもたちは、どう思っているのでしょうか。とても心配なのです。私たちは、外面ではなく、心の内面を飾る、つまり見せるためでなく、誇示するのでもなく、品性や人間性を高めるべきなのでしょう、外見もです。

( Christian clip arts によるアブラハム、ロナウド選手です)

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