出会い

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 作詞が寺山修司  、作曲が加藤ヒロシで、「戦争は知らない」は、1968年に歌われていたでしょうか。

野に咲く花の名前は知らない
だけども野に咲く花が好き
ぼうしにいっぱいつみゆけば
なぜか涙が涙が出るの

戦争の日々を何も知らない
だけど私に父はいない
父を想えばあゝ荒野に
赤い夕陽が夕陽が沈む

いくさで死んだ哀しい父さん
私はあなたの娘です
二十年後のこの故郷で
明日お嫁にお嫁に行くの

見ていて下さいはるかな父さん
いわし雲とぶ空の下
いくさ知らずに二十才になって
嫁いで母に母になるの

野に咲く花の名前は知らない
だけども野に咲く花が好き
ぼうしにいっぱいつみゆけば
なぜか涙が涙が出るの

ララララ ララララ・・・

 作詞者の寺山修司のお父さんは、太平洋戦争の折、南方のセレベス島で、戦病死をしています。多感な少年、青年、成年の時代を、異端児という評価を得て通り過ぎて行った非凡であったからでしょうか、常軌を逸したり、途方もない形で、演劇を編集し、実演し、公開した演劇人でした。

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 戦争や、アルコールが原因で、父親を亡くしたことと、彼の生き方とは無関係ではなさそうです。私は、彼の挑戦や挑発には応答しませんでした。寺山と同じ年に、ジョージア州で生まれたアメリカ人の宣教師に出会い、この方と8年間、共に過ごしたのです。聖書をどう読むか、どう解釈するか、どう説教するか、時の動きをどう読み取るか、妻をどう愛するか、子をどう育てるかなどを教わったのです。

 そう言った出会いと感化に導かれたことを、今振り返って見て、ただ感謝を覚えるだけです。多くの人が戦争に飲み込まれ、生き方を変えねばならなかったことでしょう。夢だって捨てた人が大勢いたことでしょう。ただ食べるだけだった時代、それでも知識や言葉や活字や思想に飢え乾きを覚えていた人たちが、多かったのです。

 知り合いの宣教師が、なぜ日本に来たかを聞いたことがあります。『戦場で、残忍な行為をした日本兵に必要なのは福音、十字架だと思いました。それを語るために、教会の主に遣わされて日本に来ました!』とです。

 私たちの群れに、しばらく集っていたフィリピン人の方たちがいました。上の息子がアルバイト先で出会って、彼らを助け、交わりをし、教会にお連れしたのです。その中に、私と同じ年齢の方がいて、お父さんを日本兵に殺されたと言っておいででした。彼は基督者でした。帰国した彼から、フィリピンの礼服が送られてきました。感謝の気持ちを込めてでした。憎しみは憎しみを生み出しますが、赦しは赦しを生みます。赦しと共に感謝が生まれること、それらがウクライナとロシアとの間にも起こることを願いつつ。

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恐れない

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 まさに、寝ばなをくじかれる様な、昨夜の地震でした。東日本大震災の時の揺れよりも大きかったし、驚き加減も酷かったので、大きな被害が起きる様に思ってしまいました。でもラジオニュースを聞いて、慌てた厳粛な様子がしませんでしたので、被害状況がわかる前に、ちょっと安心した次第です。感じた様に、被害が少なかったのは幸いでした。

 古来、日本人は、地が揺れるたびに、同じ様な不安に駆られてきた民族なのでしょう。自分もその一員なのだと思わされました。1923年9月1日の関東大震災では、母は山陰出雲で、父は相模横須賀で、大きな揺れを感じたそうです。その父は、地震で揺れるたびに、子どもたちに大声で号令し、『玄関や戸を開けろ!』と叫んでいたのを覚えています。

 それで、昨夜は、鉄製の玄関の戸を開け放って、次の揺れを警戒してしまいました。親爺の子はオヤジで、叫ばずに、自分で玄関を開けました。地震が来るたびに、聖書の記事を思い出してしまいます。

 『大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。(ルカ2111節)』

 そんな時代の直中に、私たちはいそうですね。でも、恐れずに、これから、神さまが何をするかを思っていたいものです。

(“イラストAC”による地震です)

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 『 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録214節)』

 いつ頃だったでしょうか、寺山修司の詩で、「時には母の ない子のように」を、カルメン・マキという歌手が、悲しそうに歌っていたのを覚えています。

時には母の ない子のように
だまって海を みつめていたい
時には母の ない子のように
ひとりで旅に 出てみたい
だけど心は すぐかわる
母のない子に なったなら
だれにも愛を 話せない

時には母の ない子のように
長い手紙を 書いてみたい
時には母の ない子のように
大きな声で 叫んでみたい
だけど心は すぐかわる
母のない子に なったなら
だれにも愛を 話せない

 世には、父を亡くした子だけではなく、母を亡くした子もいます。死別だけではなく、虐待されたり、捨てられたり、心理的に放てられてしまった母のない子が、多くいそうです。

 『帰ってくれ。この幸せを壊さないで!』、これは、母が17歳の時に、奈良にいると、親戚のおばさんに言われた実母を訪ねて行った時に、玄関先ででしょうか、そこで言われた言葉でした。どんな思いで聞いたことでしょうか。どんな思いを引きずりながら、奈良、福知山を汽車に乗って通過し、出雲の街に帰ったことでしょうか。

 実の子の来訪を喜んでもらったり、優しく語りかけられたり、詫びや謝罪の言葉を聞かないで、実母の元を去るというのは、どんなに辛かっただろうかと思うのです。三十代の半ばの生母としては、精一杯の断腸の思いで、娘に語った言葉だったのでしょう。人生ってなかなか思った様には、上手くいかないものです。

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 でも起死回生、どんでん返し、失ったものが、かえって素晴らしいものを生み出すことがあるのです。母は、実母が亡くなった時に、妹の招きで葬儀に出席したのです。その時、祖母のまくらの下に、一様の写真が隠されていたのです。長男が大学生、次男が高校生、三男が中学生、四男が小学生の時に、街の写真屋で、父に言われて撮ったものでした。

 母が、従姉妹にでも送ったのが、何かのきっかけで、祖母の元に届けられていたのでしょう。きっと、繰り返し繰り返し、見ていたのでしょう。『おばあちゃん!』と言われることのなかった孫たちの成長を、きっと悔いながらも、心の中で願っていたのでしょう。

 それよりも何よりも、友だちに誘われて、教会学校に行き、カナダ人宣教師の愛を受け、その仲良くかかわっている家族に接しながら、聖書に記される神が、「父」であることを、母は知るのです。父無し子、産みの母に捨てられた母が、真正の神を、『お父さま!』と呼び掛けることができたのです。この神は、頬に流れる涙の意味をご存知です。この神を信じ続けて、一生涯を基督者として生きたのです。

 自分の生まれを不条理に感じながらも、それを許された神と出会い、その神を信じられて、昭和を走り抜けた母に、産み育て、最前な道び導いてくれたことを感謝しているのです。この地上にある間は、〈悲しい出来事〉は避けられませんが、それを通して、創造者に出会えるなら、素晴らしいことになります。このお方は、目の涙を拭ってくださる神であります。

 今でも、戦争で父を、母を、子を、祖父母をなくす悲劇が生まれています。悲しくて、ニュースを聞いていられません。神がいないからではありません。人が愚かだからです。ただの人でも、平和を愛し、戦争を憎むことができます。一刻も早い停戦、終結を願ってやみません。

(”キリスト教クリップアート“の賛美する教会です)

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外人部隊

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作詞が大高ひさを、作曲が久我山明の「カスパの女」は、次の様な歌詞の歌でした。1955年(昭和30年)」、小学校6年の時でした。

涙じゃないのよ 浮気な雨に
ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
ここは地の果て アルジェリヤ
どうせカスバの 夜に咲く
酒場の女の うす情け

歌ってあげましょ わたしでよけりゃ
セーヌのたそがれ 瞼の都
花はマロニエ シャンゼリゼ
赤い風車の 踊り子の
いまさらかえらぬ 身の上を

貴方もわたしも 買われた命
恋してみたとて 一夜(ひとよ)の火花
明日はチュニスか モロッコか
泣いて手をふる うしろ影
外人部隊の 白い服

  よくラジオで流れていた、こ歌の中に、『♯明日はチュニスかモロッコか・・・外人部隊♭』と言う歌詞があって、その語句が強烈に思いの中に記されているのです。年配の女性歌手が、少し気だるく歌うのですが、まだ思春期前夜、恋だとか愛に関心の湧くちょっと前のことです。

  『アルジェリアってどこ?』、『チュニスってどこ?』、『モロッコってどこ?」』、『外人部隊ってなに?』、そう思って、地図帳で調べたのです。地中海に面したアフリカ大陸の北に位置していて、もう直ぐに、『行ってみたい!』と言う思いに駆られていました。

  ウクライナへの攻撃のニュースを聞いて、世界中から、その「外人部隊」への志願があると、ニュースが伝えています。ゼレンスキー大統領の要請に応えて、日本でも、自衛隊員だった方たちが、大使館に願い出たそうです。彼らを「義勇兵」と呼ぶのだそうです。

  戦争を避ける人、戦士として祖国のために戦う人、外国から戦争に参加する人、様々な想いが錯綜している今、病人や幼子などが犠牲になっているニュースには、居た堪れないものがあり、どうすることもできないジレンマも感じてしまいます。一番は、〈悲しみ〉が溢れ出るようです。

私には父の弟の叔父がいて、会ったこともないのですが、徴兵されたのでしょう、南方戦線で戦死したと聞いています。祖国のためであって、外人部隊ではなく日本軍に従軍したわけです。

弟の書架に、どうして手に入れたのか聞いたことがないのですが、叔父の名と、学んだ大学の名の記された岩波文庫本がありました。戦前の学生が読んでいた文庫本には、知識欲を満たしてくれるものが多くあって、若者が好んで読んだわけです。「読書子に寄す〜岩波茂雄〜」と言う一文があります。

『真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。

岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。

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吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである。このときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。

この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。

この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世の読書子とのうるわしき共同を期待する。 昭和二年七月 』

夢を持って学んで、妻子を得て、家庭を築き、社会的な貢献も果たそうと、叔父は思ったに違いありませんが、夢を叶えることなく果てたのです。ウクライナでも、多くの青年が夢を破られ、侵攻のロシア軍の若者も戦死しています。なぜ人は愚を繰り返すのでしょうか。なぜ学ばないのでしょうか。戦争放棄の国、日本も再び戦争に関わるのでしょうか。

東京大学協同組合出版部が、「きけわだつみのこえ」を出版し、今でも、岩波書店刊で買って読めます。戦没学徒の手記です。80年近く前の若者たちの心の思いを知ることができます。重くて悲しい歴史の一頁です。

(モロッコの砂漠です)

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どう生きるかを

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 若い時に受けた感化は、一生にわたって影響するのでしょうか。母は、四人の男の子を育てる上で、母の意思で子どもたちに、何かを強いることは、ほとんどありませんでした。ただ例外は、四人を従えて、教会へ行くことでした。血気旺盛の父の子を、どう育てるかを考えた結論は、神の前に一人一人を立たせて、《神を畏れる者》としたかったに違いありません。

 クリスチャンの子どもたちは、私たちの四人も例外なく、聖句を覚えさせられることだったでしょう。それって《一生もの》に違いありません。『エレミヤ33の3は?』と聞くと、今も答えられるかも知れません。孫たちも、「詩篇23篇」、「詩篇91篇」、「イザヤ53章」などを覚えているようです。親に言われて、孫たちが暗誦するのを聴いて、素晴らしいなと思いました。

 外孫の男の子が、ワシントン大統領の有名な演説を、学校で暗唱している様子を、ビデオに撮っていて、それを聴かせてもらいました。アメリカの政治家の演説って、アメリカの学校では、暗唱させるのですね。その精神を学ぶのを目的にして、教育の場で、覚えさせられるのです。

 武士の子たちは、幼い日から正座して、『子曰く・・・』と、「論語」の暗唱をさせられています。分かっても、分からなくとも、素読をし、暗唱することで、その精神を学んだのです。「門前の小僧経を読む。」で、聞くことで暗唱してしまうのです。

 東京大学を出て、社会主義思想に共鳴した若者が、その政党の党員になりました。階級闘争の中で、内部でも権力闘争がなされているのを見聞きし、悩んでいました。そんな頃に、牧師をしていた兄に誘われて、伝道集会に出席したのです。あいにく、その晩の説教者は、ズウズウ弁の東北訛りの強い方だったそうです。『せっかくの機会なのに、これでは、弟は信じっこないな!』と思ったのに豈図らんや、その晩、弟さんは、信仰告白をして、十字架の福音を信じ、後に牧師になっています。

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 人は、どんなに優れた教育を受けても、「真理」の前に立たされる時に、生き方を変えることができるのです。サウロは、名だたる学者からユダヤ教を学んだ人で、将来を嘱望された青年学者でした。それで熱心なキリスト教徒の迫害者だったのです。ところが、「《復活のキリスト》と、ダマスカスへの途上で出会います。その呼びかける声を聞いて改心し、後に熱心なキリストの伝道者、使徒となるのです。

 これとは逆に、社会主義理念を学んで、ソ連の共産党員になり、KGKの幹部諜報員になったのですが、連邦の崩壊で、国の形態が変わったのです。それに、どれほど戸惑ったことでしょうか。そんな中で、ロシアの大統領となったプーチンは、KGK諜報員だった精神を忘れずに、強かったソ連邦、強いロシアのために、戦争侵略の愚に出て、今まさにウクライナに武装した兵士を進軍させています。

 変えられる人と、変えられない人がいます。私が在華中にお会いした方は、党員で、有名な大学で、共産主義思想を学び、学位を得て、大学の「マルクス思想」の哲学の教師になりました。そんな彼は、私がお会いした時には、十字架の福音を信じて、真性の基督者となっていました。

 大学からは給料をもらうのですが、授業の機会は奪われている、そんな雇用関係にありました。それで公認教会の神学校で、哲学の教師などをされていました。それでも、家にある教会の忠実なメンバーで、実に謙遜に、私のする説教をノートしながら聴いてくださっていたのです。長老の立場で、牧師に支え、教会内の諸問題の前に共に立ち、会計の奉仕もされていました。一緒に祈り、一緒に話し合ったりしました。

 家内を見舞うために、夫人と訪ねてくださっ伝道者がいました。多分プーチンほどの世代だと思われます。海辺の貧しい村の出身で、教育も小学校だけしか終えていないのですが、素晴らしい説教者で、何万人もの信仰者を導いている器です。牢に入れられても恐れも怯えもしません。逆に証をするのです。この方の関係される幾つかの教会に、定期的に招いてくださって、お話をさせていただきました。

 国は違えど、二人とも革命後に生まれて、社会主義教育の基礎を学んでも、キリストの十字架の福音に触れて、信仰者となり、伝道者となり、たくさんの魂のお世話を、省を越えてのお働きをされています。一人は大統領に、一人は無名に伝道者になるのですが、人の一生とは分からないものです。どう生きるかは、一人一人が、神の前に選ぶのです。

(美しい海岸風景を訪ねたことがありました)

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人を残す

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 東京という街は、よくできた街だと思います。太田道灌の城を増改築して、江戸を首都として定めた家康、その意を汲んで江戸を一大都市に創り上げるべく、働いた家臣には驚かされます。その街が、東京になり、関東大震災で大打撃を受けたのですが、そこに手を入れて、世界に誇れる「東京」に作り上げたのが、陸奥国胆沢の出身の後藤新平でした。

 市長や外務大臣、さらには台湾総督・民政長官などをした彼は、死の間際に、『よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておきなさい!』と、三島通陽(日本にボーイスカウトを広めた人)に、言葉を残したと言われています。

 また、中国の古典「管子」には、『一年の計は穀を樹うるに如くは莫く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、終身の計は人を樹うるに如くは莫し。 』とありますから、国を造り、時代を造ろうとするなら、先ず、<人材育成>が最もすべきことという勧めです。

 その人ですが、矢張り、柳の枝がしなうが如く、あるいは『鉄は熱いうちに打て!』という様に、若い時期、自在に形作られるを由とする時が最適だと言われてきています。ある講演会で、『年をとった猫に、芸を教えることは至難の業です!』と講師が語っていて、笑ってしまいました。犬や猿なら、「芸」を教えることができますが、猫などは、始めから芸を仕込む事などできないからです。人も、歳をとって硬化してしまってからは、学ぶには不適で、どうにもならないのでしょう。

 「教育」と言うのは、人となるために重要な働きだと、つくづく思わさせられます。『◯◯先生から学びました!』、『恩師の生き方から影響を受けました!』と、日本でも中国でおも、多くの人から聞きました。青年期に受けた感化は、一生に亘るのでしょう。『一生、詩人たれ!』と、まだ三十代の講師が、熱く語りました。同じ学校の先輩でした。後輩に、現実に押し流されないで、『夢や幻や理想を掲げて生きていけ!』と言ったのです。

 国にも地方自治体にも教育界にも、そして福祉の世界や実業界にも、その時代時代の必要に見合って、仕えることのできる【人】が必要です。歴史を学ぶ面白さは、国家危急の時に、必ず【人】がいたと言うことです。21世紀の日本にも、備えられた【人】が、必ずいることでしょう。

 『もう学び終えた!』などと言えません。ありのまんまの自分を受け入れて、これに感謝して、もう一歩の成長を課したいと、自らに願って、毎朝目覚めます。学ぶ姿勢で生きるなら、人生を肯定し、感謝に溢れて生きているなら、きっと創造主に出会うことができます。神の前に、『自分が何者か?』を知らずして、道を説くことはできないからです。

 5歳年下の新渡戸稲造は、しんぺいと同じ陸奥国(岩手県)、盛岡で生まれていますが、札幌農学校で、創造主と出会い、救い主キリストを信じて基督者となっています。二人とも、日本の近代化に貢献した人材であったのです。

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生きよ

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 『まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。 ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ。」 主を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。(アモス書 546節)」

 聖書は、徹頭徹尾、『生きよ!』と語ります。命の付与者である神の前に、生きなければならないからです。旧約聖書に、アヒトフェルという人が登場します。第二代のイスラエル王のダビデに仕えた議官でした。その知恵は、〈人が神のことばを伺って得ることばのよう〉だったと言われるほどだったのです。

 ところが主君の子のアブシャロムが、父に謀反を起こした時に、『「父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにお入りください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたに、くみする者はみな、勇気を出すでしょう。」 』と言う勧めをしました。

 ダビデは、その人生の危機に際して、『主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。』と祈ります。欺きや叛逆、非人間的な勧告や非道の助言は、義や公正さを愛する神さまは看過ごしにされませんでした。義や愛を優先させる助言者・フシャイを、神は用意されたのです。

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 そのフシャイの助言を、アブシャロムは受け入れてしまうのです。これを知ったアヒトヘルは、故郷に帰って、身辺整理をして、自殺してしまいます。実にあっけない最後でした。成功者の自尊心や誇りが、決定的に傷ついたからなのでしょう。人の上限ができても、自分に人生の危機で相談する友や助言者がいなかったのです。いえ、彼には、そうできない成功し続けてきた者に見られる、独特な弱さがあったのです。

 先日、取り上げた、石原慎太郎ですが、中学時代からの親友がいました。江藤淳です。彼は奥さんを亡くした後に、後を追う様にして自殺をしてしまいます。彼もまた人生の最大の危機に際して、的確な助言を得る友がいなかったのです。中学以来の友情関係にありながら、最高度の危機に、心を打ち明けて相談できる友でなかったのです。

 金銭問題、人間関係、ことさらに異性関係などで、心や肉の戦いの中で、『真の友を得よ!』と、恩師は、私に勧めました。過ちに《否》と、涙を飲みながら言ってくれる友のことです。自分の赤裸々な隠された闘い、その心を打ち明けられる人を得ることこそが、おのれの人生を全うさせる力となるからでした。ダビデには、若い時にヨナタンと言う友がいました。

 人の相談を受けて、的確で優れた助言のできる人だと思っていたのに、実は自らの深い問題を解決しないまま、その問題に負けている人がいます。言い訳できない深刻な欠陥です。自分が罪と戦わない敗北者なのに、人を助けることができるでしょうか。私は、そう言う人の著作は捨てました。どんな賢い助言も受け入れませんし、参照にすることも致しません。

 賢くはないけど、義を愛し、公正な道を歩む無学、無名な人の方が、神の前には優れているからです。彼らには、《神の知恵》が与えられるからです。その人の経験から得た知恵ではなく、《天来の知恵》を与えられた人です。

 生きる意味、死の現実を真正面から捉えないで、人生の最期で、悶々として、迷ってしまう成功者は、本物の成功者なのでしょうか。若い日に、一冊の本を読みました。「カタコームの殉教者」と言う題でした。ローマの市街地の地下にある墓所に逃げ込んで生きていた人たちです。捕らえられて闘技場でに置かれます。市民の熱狂の中で、飢えた獅子に、噛み裂かれて死んでいく、初代の基督者の姿が描かれていて、慄然として読みました。天を見上げ、神をほめたたえつつ、死んでいく、雄々しい信仰者の姿を知って、『そんな時が、自分の生涯にもあるのだろうか!』と、深く考えさせられたのです。

 自分のやがて迎える「死」を、しっかりと見据えながら、今の責任を果たして生きるだけです。死の向こうにある約束の永生の国、《天なる故郷》の市民であることこそ、今朝の私の確信なのであります。

(“キリスト教クリップアート”による「ダビデ」です)

沈みゆく太陽

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 吉岡治の作詞、原信夫の作曲の「真赤な太陽」を、美空ひばりが歌っていました。

まっかに燃えた 太陽だから
真夏の海は 恋の季節なの
渚をはしる ふたりの髪に
せつなくなびく 甘い潮風よ
はげしい愛に 灼けた素肌は
燃えるこころ 恋のときめき
忘れず残すため
まっかに燃えた 太陽だから
真夏の海は 恋の季節なの

いつかは沈む 太陽だから
涙にぬれた 恋の季節なの
渚に消えた ふたりの恋に
砕ける波が 白く目にしみる
くちづけかわし 永遠を誓った
愛の孤独 海にながして
はげしく身をまかす
いつかは沈む 太陽だから
涙にぬれた 恋の季節なの
恋の季節なの 恋の季節なの
恋の季節なの 恋の季節なの

 この歌を歌った、美空ひばりは昭和を代表する女性歌手でした。川田晴久と一緒に歌っていた、まだ子どもの頃の彼女の歌声を、薄覚えています。歌は、1967年に発表され、なんと140万枚の大ヒットを飛ばしたものでした。ジャッキー吉川とブルーコメッツが、バックで歌っていました。自分は、青春真っ只中で、すぐ上の兄に買ってもらった背広に、白いYシャツにネクタイ、黒い靴を履いた社会人一年生でした。その年の夏前に、流行ったのです。

 この2月1日に、89歳で亡くなる直前の石原慎太郎氏が、この歌詞の「いつかは沈む太陽」のくだりを、余命わずかな時期、昨年の秋頃に引用して、「死への道程」と言う遺稿を記していました。大学在学中の1955年に、「太陽の季節」を発表し、57年には芥川賞を受賞し、一躍文壇の寵児となり、「太陽族」の社会現象が起こりました。少なからず自分も、夏休みに坊主頭に、「慎太郎刈」の真似事をし、中学校の校則違反をしたことがありました。足を引きずって裕次郎の様な歩きの真似もしたのです。

 湘南海岸の砂浜を駆け回った男たちも、鬼籍に入ったわけで、輝いていた「太陽」が沈むように、生者必衰で、「太陽族」の弟の裕次郎も、その歌の作詞者も、作曲者も、歌手も、一緒に歌った若者たちの多くも亡くなっています。聖書には、次の様にあります。

 『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・。(ヘブル927節)』

 誰もが、「死」を迎えるのです。父も、母も、恩師たちも逝きました。やがて順番に、私も、決して避けることができずに、死に逝くのです。実に厳しいのは、「死後に裁き」のあることを言います。聖書には、次の様にもあります。

 『しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。 1コリント1554節)』

 これは、パウロが、コリントの教会に書き送った手紙の中の一節です。パウロは何を言っているのでしょうか。語ることなく、封印しておきたい「死」の問題を取り上げているのです。この聖書箇所の前に、次の様に書き記されてあります。

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 『聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告jげましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(1コリント154553節)』

 人類の始祖の〈最初の人アダム〉と、《最後のアダム》、《第二の人》である、イエスさまが比較されて記されています。アダムは死にました。ところが、イエスさまは十字架で死なれたのですが、復活されて、「死」を討ち滅ぼされたのです。《死に勝利した救い主》だと、パウロは記します。代々の基督者は、これを信じたのです。私の母も、父も、二人の兄も、一人の弟も、息子も娘も孫たちも、そう信じたのです。受くべき「裁き」を、代わって受けてくださったことを信じることができました。未知、未経験の「死」を、恐れないで、怯えないでいいのです。イエスさまは、

 『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは「死」を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。 2テモテ110節)』

と、パウロが弟子のテモテに、「死」は滅ぼされたと書き送ったのです。

 『「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(1コリント人へ155558節)』

 軍隊を、ウクライナの街々に送って、殺戮行為を繰り返している命令者のプーチンも、レーニンやスターリンがそうだった様に、彼もまた必ず死ぬのです。誰一人、これを免れることはできません。だから生きている今、神と和解し、私の身代わりに十字架に死んでくださったイエスを、誰でも信じるなら、救われ、永遠の命を頂けるのです。ここに「救い」があります。聖書は、そう約束するのです。

(1950年代の若者の「太陽族」、“キリスト教クリップアート”からです)

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幕末の雄

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 高知の桂浜の高台に、坂本龍馬の像があって、太平洋の彼方に目を向けて、遠望している姿が印象的でした。華南の街のわが家に出入りしていた若者が、明徳義塾高校に留学するので、親御さんに代わって、その入学式に出席したことがあり、その式の帰りに、その高台に上がってみたのです。

 この龍馬は、あまりにも虚飾が多くなされて、実像とかけ離れているのを知って、司馬遼太郎の功罪を考えてしまいました。sensational に筆を進める誘惑に、小説家はさらされているので、遥かに実像とかけ離れた人間像が作られ、それが一人歩きをしてしまうのでしょう。

 世界に目を向けていた幕末期の青年であったことは間違いがなさそうです。当時の青年たちが、鎖国の外の世界に関心があったからです。同じ土佐から、船員だった万次郎が太平洋を漂流して助かったのですが、その万次郎が、10年ぶりに帰国して、その漂流の記録を本にしました。「漂巽記略(ひょうそんきりゃく)」で、鎖国で海外事情に飢えていた人々に、その本は情報を提供しています。龍馬も、その本を読んで、その目を外国に向けたのでしょう。

 それで観光用の像が、太平洋の彼方に向けられた龍馬像を作っているのでしょう。面白おかしさではなく、歴史上の人物の真実さを提供してくれるのが、「日誌」です。1966年から68年にわたって、同じ司馬遼太郎作で、毎日新聞に掲載された「峠」があり、幕末に登場した人物を取り上げていました。文庫本になっていたのを、読んでみたことがあります。

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 越後国長岡藩の家老を務めた河井継之助を、小説家の筆で、憶測や願望をもって描いていますが、実虚を織り交ぜた小説で、読者の興味に応じて筆を運んでいるので、実像とは大分違った誇張や飾りがあります。買って読んでもらわなければならないので、何とかも方便があるのでしょうか。

 幕府支持の長岡藩は、長州軍を迎え撃つのですが、福島の会津只見で、戦いで負った傷が原因で没しています。あの戊辰戦争の犠牲者となったのです。その只見川の河畔に、記念館があるそうで、雪が溶けて春になったら行ってみたいと計画してます。日帰りは難しそうですが。

 この徳川への恩義や忠実さを忘れず、穏健な立場をとって、会津と長州の間で執り成しをしますが、長州に打たれてしまいます。この継之助の実像を知りたかった私は、彼の日誌を、古書店で見つけたのです。藩の要職につく以前の、若き日々の旅行記です。コロナ禍の良い点は、いながらに旅行案内の日誌を読んで、文字と sketch で、その旅程を、当時の様子を思い描きながら 楽しむことができることなのです。

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 『安政戊午(ホゴと読み、五年のことの様です)十二月二廿七日に、長岡を出で・・・』、継之助が32歳の時でした。三国峠を越えて、九日後に江戸に着いてます。品川沖では、「異船(外国船のことです)を見て、驚き怪しんだと言うよりは、『気味好き事なり。』と言っています。

 横浜、鎌倉などを訪ね、実に羨ましい旅の見聞を知ることができるのですが、若き継之助の目的は、観光だけではありませんでした。これと決めた人を訪ねて、教えを請うと言った修行時代の旅でした。四国は備中松山藩に、「幕末の三傑」と呼ばれた、「山田方谷」と言う賢者から教えを受けたいと願っての西国遊学の旅でした。この方谷は、石井十次、富岡幸助、山室軍平らに、「至誠惻怛(『世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし。』と言った教えです)」の教えの影響を与えています。

 方谷は、多忙だったのですが、よく時間を割いてくれて、その訪問を『談ず。』と書き残しています。その内容の記録は省いているのです。旧知の会津藩の訪問者などもいて、そう言った訪問者仲間でも、『談じ。』たのです。師の方谷は、江戸に行く用ができたので、継之助は短期滞在で松山を経って、九州に向かうのです。

 十月二廿一日に、肥後国熊本に着いています。加藤清正の築城した熊本城は、長岡城と比べてみたのでしょう、その石垣の大きさに驚きを見せています。噂に聞いた通りの城だったのでしょう。『平地多し、広大なり。』と言って、城下から薩摩の方面を見たのでしょう、肥後藩の豊かさを、その感想で記しています。

 後世に残そうと旅日記を書いただけではなく、金銭の出納の記録を、『何々に二文。』とか書き残していますし、漢書を学んでいた人なのに、当て字も多くある様です。自由に書き記した日誌だったのがうかがえます。よく本を読んだ人でしたが、〈多読〉ではなく、《精読》を旨とした人だと言われています。

(越後長岡の花火大会、旅行地図です)

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