どう生きるか

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 若い時に受けた感化は、一生にわたって影響するのでしょうか。母は、四人の男の子を育てる上で、母の意思で子どもたちに、何かを強いることは、ほとんどありませんでした。ただ例外は、四人を従えて、教会へ行くことでした。血気旺盛の父の子を、どう育てるかを考えた結論は、神の前に一人一人を立たせて、《神を畏れる者》としたかったに違いありません。

 クリスチャンの子どもたちは、私たちの四人も例外なく、聖句を覚えさせられることだったでしょう。それって《一生もの》に違いありません。『エレミヤ33の3は?』と聞くと、今も答えられるかも知れません。孫たちも、「詩篇23篇」、「詩篇91篇」、「イザヤ53章」などを覚えているようです。親に言われて、孫たちが暗誦するのを聴いて、素晴らしいなと思いました。

 外孫の男の子が、ワシントン大統領の有名な演説を、学校で暗唱している様子を、ビデオに撮っていて、それを聴かせてもらいました。アメリカの政治家の演説って、アメリカの学校では、暗唱させるのですね。その精神を学ぶのを目的にして、教育の場で、覚えさせられるのです。

 武士の子たちは、幼い日から正座して、『子曰く・・・』と、「論語」の暗唱をさせられています。分かっても、分からなくとも、素読をし、暗唱することで、その精神を学んだのです。「門前の小僧経を読む。」で、聞くことで暗唱してしまうのです。

 東京大学を出て、社会主義思想に共鳴した若者が、その政党の党員になりました。階級闘争の中で、内部でも権力闘争がなされているのを見聞きし、悩んでいました。そんな頃に、牧師をしていた兄に誘われて、伝道集会に出席したのです。あいにく、その晩の説教者は、ズウズウ弁の東北訛りの強い方だったそうです。『せっかくの機会なのに、これでは、弟は信じっこないな!』と思ったのに豈図らんや、その晩、弟さんは、信仰告白をして、十字架の福音を信じ、後に牧師になっています。

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 人は、どんなに優れた教育を受けても、「真理」の前に立たされる時に、生き方を変えることができるのです。サウロは、名だたる学者からユダヤ教を学んだ人で、将来を嘱望された青年学者でした。それで熱心なキリスト教徒の迫害者だったのです。ところが、「《復活のキリスト》と、ダマスカスへの途上で出会います。その呼びかける声を聞いて改心し、後に熱心なキリストの伝道者、使徒となるのです。

 これとは逆に、社会主義理念を学んで、ソ連の共産党員になり、KGKの幹部諜報員になったのですが、連邦の崩壊で、国の形態が変わったのです。それに、どれほど戸惑ったことでしょうか。そんな中で、ロシアの大統領となったプーチンは、KGK諜報員だった精神を忘れずに、強かったソ連邦、強いロシアのために、戦争侵略の愚に出て、今まさにウクライナに武装した兵士を進軍させています。

 変えられる人と、変えられない人がいます。私が在華中にお会いした方は、党員で、有名な大学で、共産主義思想を学び、学位を得て、大学の「マルクス思想」の哲学の教師になりました。そんな彼は、私がお会いした時には、十字架の福音を信じて、真性の基督者となっていました。

 大学からは給料をもらうのですが、授業の機会は奪われている、そんな雇用関係にありました。それで公認教会の神学校で、哲学の教師などをされていました。それでも、家にある教会の忠実なメンバーで、実に謙遜に、私のする説教をノートしながら聴いてくださっていたのです。長老の立場で、牧師に支え、教会内の諸問題の前に共に立ち、会計の奉仕もされていました。一緒に祈り、一緒に話し合ったりしました。

 家内を見舞うために、夫人と訪ねてくださっ伝道者がいました。多分プーチンほどの世代だと思われます。海辺の貧しい村の出身で、教育も小学校だけしか終えていないのですが、素晴らしい説教者で、何万人もの信仰者を導いている器です。牢に入れられても恐れも怯えもしません。逆に証をするのです。この方の関係される幾つかの教会に、定期的に招いてくださって、お話をさせていただきました。

 国は違えど、二人とも革命後に生まれて、社会主義教育の基礎を学んでも、キリストの十字架の福音に触れて、信仰者となり、伝道者となり、たくさんの魂のお世話を、省を越えてのお働きをされています。一人は大統領に、一人は無名に伝道者になるのですが、人の一生とは分からないものです。どう生きるかは、一人一人が、神の前に選ぶのです。

(美しい海岸風景を訪ねたことがありました)

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漂泊

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杜甫の代表作に、「登岳陽楼」があります。

昔聞洞庭水(昔聞く 洞庭の水)
今上岳陽楼(今上る 岳陽楼)
呉楚東南坼(呉楚 東南に坼け)
乾坤日夜浮(乾坤 日夜浮かぶ)
親朋無一字(親朋 一字無く)
老病有孤舟(老病 孤舟有り)
戎馬関山北(戎馬 関山の北)
憑軒涕泗流(軒に憑って 涕泗流る )

この「詩聖」と、後の世になって呼ばれる杜甫は、湖北省で生まれ、すでに6歳で詩作をしたほどの人でした。洛陽で文人の仲間入りをしています。でも漂泊の思いを捨てきれずに、諸国を漫遊した詩人でした。それでも食べていくために、同行の妻と五人の子どもを育てるために、官職に就きますが、芭蕉が語る様に、「旅を住処として、旅に死す」様に、59年の生涯を、湘江(湖南省の大河)の舟の中で終えています。

四川省の成都に、杜甫が家族とともに住んだ「草庵」が復元されていて、そこを、一度は人を訪ね、もう一度は、語学学校の遠足で訪ねたことがあります。そこは観光化されていて、当時の面影を感じさせてはくれませんでしたが、洛陽からは随分と西に離れた地だったのです。

広大な四川盆地の中にあって、「天府之国」と呼ばれ、「三国志」、「麻婆豆腐」、「火鍋」、「パンダ(熊猫)」で有名な地です。大きな空、豊かな土地で、年間を通して晴れ間の少ない土地柄だと聞きました。初めて行った時に、新聞記者をしていた方が、『ここで仕事を見つけますから、ぜひ住んでください!』とお誘いくださったのですが、数年後、天津に1年、そして華南の街で12年を過ごしました。

杜甫の時代、この詩にあるのですが、59年のこの詩人の生涯は、すでに「老病」の年齢だった様です。唐の時代の人の寿命は、現在に比べ短かったのです。もう一つの杜甫の詩に、「春望」があります。

国破山河在(国破れて 山河在り)
城春草木深(城春にして 草木深し)
感時花濺涙(時に感じては 花にも涙を濺ぎ)
恨別鳥驚心(別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす)
烽火連三月(烽火 三月に連なり)
家書抵万金(家書 万金に抵る )
白頭掻更短(白頭掻けば 更に短く)
渾欲不勝簪(渾て簪に 勝えざらんと欲す)

人に世の移り変わりは、めまぐるしいのですが、国土の自然は変わらないことを詠んでいます。杜甫は、五十代で、もう白髪になり、髪の毛も薄くなっていたのです。生活を詠み、国を憂い、人生そのものが旅の様に漂泊の思いに浸り、旅を住処として一生を終えたのです。

こう言った杜甫の生き方を憧れたのが、芭蕉だったと、中学の時に教えられました。奥州松島の美しさに圧倒された芭蕉は、行ったことのない、杜甫が詠んだ、「洞庭湖」と比べています。芭蕉作ではないと言われている、

松島や ああ松島や 松島や

『ああ、これも俳句!』、これには驚かされてしまいます。

( “ 百度図片 ” から洞庭湖の風景です)

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