生きよ

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 『まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。 ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ。」 主を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。(アモス書 546節)」

 聖書は、徹頭徹尾、『生きよ!』と語ります。命の付与者である神の前に、生きなければならないからです。旧約聖書に、アヒトフェルという人が登場します。第二代のイスラエル王のダビデに仕えた議官でした。その知恵は、〈人が神のことばを伺って得ることばのよう〉だったと言われるほどだったのです。

 ところが主君の子のアブシャロムが、父に謀反を起こした時に、『「父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにお入りください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたに、くみする者はみな、勇気を出すでしょう。」 』と言う勧めをしました。

 ダビデは、その人生の危機に際して、『主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。』と祈ります。欺きや叛逆、非人間的な勧告や非道の助言は、義や公正さを愛する神さまは看過ごしにされませんでした。義や愛を優先させる助言者・フシャイを、神は用意されたのです。

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 そのフシャイの助言を、アブシャロムは受け入れてしまうのです。これを知ったアヒトヘルは、故郷に帰って、身辺整理をして、自殺してしまいます。実にあっけない最後でした。成功者の自尊心や誇りが、決定的に傷ついたからなのでしょう。人の上限ができても、自分に人生の危機で相談する友や助言者がいなかったのです。いえ、彼には、そうできない成功し続けてきた者に見られる、独特な弱さがあったのです。

 先日、取り上げた、石原慎太郎ですが、中学時代からの親友がいました。江藤淳です。彼は奥さんを亡くした後に、後を追う様にして自殺をしてしまいます。彼もまた人生の最大の危機に際して、的確な助言を得る友がいなかったのです。中学以来の友情関係にありながら、最高度の危機に、心を打ち明けて相談できる友でなかったのです。

 金銭問題、人間関係、ことさらに異性関係などで、心や肉の戦いの中で、『真の友を得よ!』と、恩師は、私に勧めました。過ちに《否》と、涙を飲みながら言ってくれる友のことです。自分の赤裸々な隠された闘い、その心を打ち明けられる人を得ることこそが、おのれの人生を全うさせる力となるからでした。ダビデには、若い時にヨナタンと言う友がいました。

 人の相談を受けて、的確で優れた助言のできる人だと思っていたのに、実は自らの深い問題を解決しないまま、その問題に負けている人がいます。言い訳できない深刻な欠陥です。自分が罪と戦わない敗北者なのに、人を助けることができるでしょうか。私は、そう言う人の著作は捨てました。どんな賢い助言も受け入れませんし、参照にすることも致しません。

 賢くはないけど、義を愛し、公正な道を歩む無学、無名な人の方が、神の前には優れているからです。彼らには、《神の知恵》が与えられるからです。その人の経験から得た知恵ではなく、《天来の知恵》を与えられた人です。

 生きる意味、死の現実を真正面から捉えないで、人生の最期で、悶々として、迷ってしまう成功者は、本物の成功者なのでしょうか。若い日に、一冊の本を読みました。「カタコームの殉教者」と言う題でした。ローマの市街地の地下にある墓所に逃げ込んで生きていた人たちです。捕らえられて闘技場でに置かれます。市民の熱狂の中で、飢えた獅子に、噛み裂かれて死んでいく、初代の基督者の姿が描かれていて、慄然として読みました。天を見上げ、神をほめたたえつつ、死んでいく、雄々しい信仰者の姿を知って、『そんな時が、自分の生涯にもあるのだろうか!』と、深く考えさせられたのです。

 自分のやがて迎える「死」を、しっかりと見据えながら、今の責任を果たして生きるだけです。死の向こうにある約束の永生の国、《天なる故郷》の市民であることこそ、今朝の私の確信なのであります。

(“キリスト教クリップアート”による「ダビデ」です)

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