散歩道の途中に、いくつもの小学校があります。市内の設立の古い学校の庭には、やはり金次郎像が置かれているのです。ある学校は正門脇に、ある学校は庭の隅に置かれて、《勉学励行》の勧めを無言の内にしています。
薪と言うよりは、柴(しば)を背に担いで、「四書」の一つで、中国の朱子学の「大学」を読んで歩く像なのですが、その本に刻まれているのは、『一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興り、一人貪戻なれば一国乱を作す。その機かくのごとし。』なのだそうです。
尊徳の死の翌年の1857年に、二宮尊徳の高弟で相馬中村藩士の富田高慶(1814年・文化11〜1890年・明治23)が著した「報徳記」があります。この書をもとに、幸田露伴が、「二宮尊徳翁」という書を表していて、これらを題材に、「二宮金次郎像」が作られ、全国の小学校で作って置かれるようになったのです。
海外進出が、日本の生命線だという時代の「富国強兵」の旗印を掲げつつ、「勤勉」を勧める教育行政の一環で、昭和7年(1932年)に金次郎像の設置を推し進めた中での運動だったのです。私が学んだ小学校にも、中学校にも、この像が置かれてありました。どのような時代でも、この「勤勉」は意味のあるものなのです。
校長の勧めで、入学当初には毎朝、登校すると、立ち止まって、脱帽して、礼をしていた自分でした。神社礼拝などしない両親、キリスト者の母の影響で育ったのですが、思い返すと、鋳物の像に、敬礼をしたことは、キリスト者の家庭としてはふさわしくなかったなあと思い、校長よりも、聖書に従おうと、敬礼をやめました。
二宮金次郎の出身地である神奈川県の小田原市や、農業の振興で手腕を発揮した地である栃木県の真岡市や日光市などには、芝を背負う二宮金次郎像ではなく、立派な大人となった姿の「二宮尊徳像」が見られます。その二宮金次郎、尊徳を、「代表的日本人」の一人として、海外の読者に紹介したのが、内村鑑三でした。
二宮金次郎像や二宮尊徳像を見たり考えたりする時、この人の生き方、あり方に目を止めていくことなのです。小田原の人が、この下野国で、農業開会や振興に尽力し、農業用水を他にひいて、稲作を推し進めたのは、当時の農村に活力を与えたことは、驚くべきことででした。
それほどの高い評価を受けた二宮尊徳(金次郎)が、農作を導いた、「真岡」には、「報徳田」」が残されてあります。尊徳は小田原藩主・大久保忠真公に、農作の手腕を認められた人で、「野州桜町(現・真岡市の一部)」の復興の命を受けています。1823年に赴任し、自ら先頭にたち用水路や堰や橋の改修を行ったのです。
桜町での働く様子は、村人にとってまさに超人的であったようです。早朝4時に起床し、村内を見回り、開墾や改修を行い、陣屋へ帰って夕食を散った後には、1日の反省や、明日の計画などを練ったそうです。それで寝るのは、12時過ぎで、毎日の睡眠時間は4時間ほどだったのは有名な話です。
その尊徳自身が米作りを行っていた水田跡が残されていて、それを発掘、復元したのが、この「報徳田」でした。そのために市民などの多くのみなさんが集まって、列になって一定の間隔を保ちながら、苗を丁寧に手植えたりしたようです。
やはり有言実行の人で、勤勉な人や労苦して働く村民には、報奨金を与え激励したようです。人の先頭に立って、尊徳自らが働く姿こそが、教えの根幹だったのでしょう。ご自分の出が、「百姓」だということを忘れずに、百姓の悲哀をよく知っていたからこそ、善政を行い得たのでしょう。県北で、農の基本を実践している方たちがおいでです。
(二宮の住宅兼住居の陣屋が保存されています)
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