水辺にたたずんで

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 この6月半ばに、今上陛下・徳仁さまは、今回のイギリス訪問を前にして、会見をされていました。その時、次のように話されたと、ニュースで報じられていました。

 『今でも留学から帰国した後にまとめた研究論文を読み直すと、テムズとともに過ごした日々の記憶がありありと蘇ってきます。テムズ関係の資料集めに奔走したこと、研究で疲れた私を癒やしてくれたテムズの緩やかな流れと周囲の美しい景観。テムズを見ながら川沿いをジョギングした日々など、数え上げたらきりがありません。』

 堀の水の周りに皇居があって、流れる川を眺められるのは、お出かけの時だけなのでしょう。水の流れに、心が癒された経験がおありなのでしょうか。川の側に立ちますと、瀬(せせらぎ)の音が聞こえてきます。母の胎内にいた時の「羊水」の音の記憶を思い出させるのだそうです。それで、なつかしく誰もが感じるのだそうです。

 「水」や「水問題」は、人の生活と不可分の関係にあります。生まれた山奥には、山から流れ落ちる渓流がありました。東京に出て住んだ街にも、一級河川があって、水泳や魚釣りをしたのです。隣国の華南の街の中心を、大河が流れていて、歩いて五分ほどで流れのほとりに行くことができました。

 そして今は、江戸期から明治期までに、「舟運」で、主に江戸の街との交易が盛んに行われていた川の近くに住んでいます。この巴波川の河岸では、栃木から江戸には、米や大麻、薪炭、そして鍋山の石灰等を運んでいました。そして、江戸から栃木への帰り舟には、砂糖、干鰯、酒・酢・油などを積んで、この地域の必要に届いていたのです。文化の交流も、川を介してあったようです。

 どの時代も、統治者の責務は、民を治めるには、水を治め、水問題を解決することが、最も必要でした。たとえば飲料水の確保、下水道の整備、灌漑用水の提供、水害時の対策などでした。江戸の街はよく治められていて、ことのほか水利は、賢く計画されていたことで知られています。

 あの主要な河川であった、利根川の流れを変え、江戸川を掘削し、周辺地域との舟運の物資の運搬を行ったのです。宇都宮も、水戸も、栃木も、そして川越も、利根川や荒川を利用して、生活が成り立っていたわけです。

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 346kmのテムズ川も、多くの役割を担い、そして、それを果たしてきた、長い歴史がいあるのでしょう。ちなみに、日本第二の長さを誇る利根川は、332kmあり、この二つに川の長さはほぼ同じです。豪雨、線状降水帯で、わが家の脇の川が、また氾濫しないか心配ですが、恐れたら何もできませんので、護られるようにと過ごすことにしています。

 強い雨が降った後は、溢れるほどに増水することがありますが、普段は、静かな流れで、鯉や鴨が泳いでいるのです。川の流れの中の水草に、尾鰭を激しく打ち叩いて、雄と雌の鯉が産卵をする光景が見られましたが、この一、二年は見かけません。川底をブルトーザーでさらって浚渫(しゅんせつ)したからでしょうか、産卵場所が変わってしまったようです。

 聖書に出てきますケバル川のほとりで、主の幻を見、語られる声を聞いた預言者エゼキエルのことを思うことがしばしばあります。これから、この地上に、何が起こるのでしょうか。これからの日、世界中で起こることを、しっかりと見極めながら、主のおいでをお待ちしたいものです。マラナタ。

(巴波川の流れ、ウイキペディアのテムズ川です)

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