陸奥の歴史

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 上海の街中を、「黄浦江 」が流れていて、この流れの岸に、「上海国際港」があります。1月に乗った「蘇州号」が、週一の往復便で、大阪との間を航行する発着港も、その「外灘」にあります。最近の上海のニュースで、「豚の死骸」が、その上流から1万3千匹も流れてきたと報じていました。どうも、その上流の養豚農家が、病気に感染したので、処分に困って、[水に流した」のです。この「水に流す」を、goo辞書で調べますと、『過去のいざこざなどを、すべてなかったことにする。「これまでのわだかまりを―・す」』とあります。

 この言葉の意味を教えてくれたのは、国語の教師ではなく、歴史や地理の「社会科」を教えてくれた中学の時の担任でした。「陸奥」、東北地方では、冷害などで凶作に見舞われることが多かったのです。今でこそ改良に改良が加えられて、新潟や秋田などでは、「こしひかり」とか「あきたこまち」の人気銘柄が収穫されるようになってきていますが、この地域は、かつての凶作地でした。現在では、米作農家は、豊かな時代を迎えていますが、かつては極貧に甘んじていたのだと教えられました。

 農家では、赤ちゃんが産まれると、『食べていけない!』という現実に、生まれてくる子どもを処分をしてしまったのです。「間引く」という言葉も、本来は、米の成長に不要な苗を引きぬくことを言った言葉でしたが、こういった場合にも用いられた言葉でした。さて、「水に流す」というのは、その生まれてきた赤子を籠に入れて、川の流れに、流してしまったのです。先に生まれてきた子どもたちの生き死にを考えた結果、どうしても子育てが出来なかった農家の若夫婦は、その赤ちゃんを「水に流・・・」してしまったわけです。どんなにつらい決断だったことでしょうか。

 北上川という川が、岩手県から宮城県にかけて流れていて、石巻で太平洋に至ります。この川は、くねくねと蛇行していているのです。その蛇行するところに、「地蔵」が多く見かけられるようです。どうしてそうなのかといいますと、「水に流した」赤ちゃんが、その浅瀬に流れ着いていたので、地元の人たちが、亡くなった赤子のために作ったからだそうです。ずいぶんと悲しい歴史が、日本、とりわけ東北地方にあったのだと、教えられて、胸が詰まったのを覚えています。このことは、温々と大事にされて育った私にとっては、『そんな出来事が本当にあったのか!』と思わせた、衝撃的な学びだったのです。

 東京オリンピックのために、高速道路やビルのなどの土木建設が行われ、特別な産業がなかった、東北の農家の働き手が、その労働力として求められ、いわゆる「出稼ぎ」が行われたのです。今では、言葉だけが残ってしまった感がいたしますが。その労働者たちの悲哀を歌ったのが、「山谷ブルース(岡林信康の作詞、作曲、歌)」でした。経済大国になった影に、そういった過去を持つ世界があったということは、忘れてはいけないことのようです。

 そんなことを教えられた私は、東北が怖くて、なかなか旅行することができませんでした。高校の時の修学旅行が北海道でしたが、その時の列車に乗せられて、車窓から東北の夜の町を眺めたのです。その教わった悲しい過去が思い出されて仕方がありませんでした。どこにも、誰にも、人に語れない過去があるのでしょうか。いまの平和と繁栄に感謝するとき、覚えておくべきことの一つかも知れません。

(写真は、東北有数の河川の「北上川」です)

#はるがきた♭

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 すっかり春の気配をみせてきたからでしょうか、毎朝、実に綺麗な声の小鳥のさえずりが聞こえてまいります。隣のアパート群との間に、背の高い木が植えられていて、きっと以前からあったのだろうと思うのですが、その林に飛んでくるのか、その梢の巣で一夜をを明かしたのでしょうか、ひときわ抜きん出て、美声でさえずる鳥がいるようです。『朝だよ!』と、春眠から目覚めさせてくれるのです。

 このところ、街の中をバスで走りますと、木々には、みじかい冬の間、縮こまっていた蕾が、一輪一輪とほころび始めてきています。落葉した木にも、若葉が芽生えています。今朝、学校の4階の教室から、外を眺めていましたら、あわい薄緑の色の葉が、春の陽にキラキラと輝いていました。絵心のない私でさえも、その淡色の緑色の絵の具を買ってきて、画用紙の上に塗ってみたい衝動にかられて参りました。

 どの季節にも趣がありますが、寒く縮こまっていた冬の後ですから、ことのほか「春」の到来は、喜ばしく感じられてなりません。故郷の谷間から見上げた山肌の見覚えのある「青葉若葉」を思いださせるほどです。昨年の秋に出かけた、山の中は、もっと春を感じさせてくれるのでしょうか。時間があったら、街の北にある「森林公園」に行ってみたいものです。聞くところによりますと、桃の花は咲き終わってしまったそうですが、ほかの花が咲き始めていることでしょう。

 昨日の一年生の「会話」の授業で、教科書にある歌を見せられた私は、『歌ってみて下さい!』と頼まれて、つい歌ってしまいました。

   一、
    春が來た  春が來た
    どこに 來た
    山に來た 里に來た 野にも來た
   二、
    花が咲く 花が咲く
    どこに咲く
    山に咲く 里に咲く 野にも咲く

 歌い終わったら、学生のみなさんが拍手をしてくれました。みんな、春が好きなのでしょうか。もちろん、この私も「春」が好きです。きっと「夏」になっても、「秋」になっても、また「冬」が来ても、『好きです!』ということでしょう。

(写真は、梢に芽吹いた若葉です)

あめ

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     春雨のやまんとしつつ美しく   星野立子

 昔は、「霧雨(きりさめ)」、「涙雨」、「小雨」、「小糠雨(こぬかあめ)」、「慈雨(じう)」、「時雨(しぐれ)」、「驟雨(しゅうう)」、「通り雨」、「夕立」、「氷雨(ひさめ)」とか、美しい日本語で雨を表現していました。「雨」の読み方も幾通りもあって、日本語の面白さではないでしょうか。どうも俳句や短歌を作る心の余裕のある雨が降っていて、情緒があふれていました。ところが、最近では、「豪雨」、「集中豪雨」、「ゲリラ豪雨」、「ゲリラ雷雨」などといった響きの怖ろしい言葉をよく耳にしております。

(絵は、歌川広重作の「名所江戸百景」で、夕立ではないでしょうか)

 米海軍のサミュエル・J・ロックリア司令官が、最近、温暖化による影響が、気候変動を起こし、その脅威は、長期的に見て、おどろくほど激しくなるのではないかと予測しています。『それほど遠くない将来、海面上昇の影響を受ける国々が出てくる可能性はかなり高い!』、『天候のパターンが過去に比べて激しいものになっているのは間違いない。たとえば、西大西洋で発生する巨大な台風の数は、例年17こ程度だが、今年(2013年)は27~28個にもなりそうだ!』と、予測しています。フィリピンの近くで「台風」が発生し、そこからさまざまな方角に進路をとって猛威をふるっています。またビルマの周辺では、「ハリケーン」が発生していますし、最近ではインドネシアや日本で大きな「地震」が起こり、「津波」の規模も甚大になっています。

 「海と波があれどよめき・・・天の万象が揺れ動かされる」といったことが古来言われてきておりますが、雨一つみても、尋常な量ではありません。排水路が容積を超えて、地下鉄の入り口から、雨水が流れこんで、東京でもニューヨークでも、利用者の足を奪うような問題も起きています。これまでは、何かの力によって、制御されていたのではないかと思うのです。このところの、予想外の降雨量をみますと、押しとどめていた手が引っ込められてしまったかのように感じられてならないのです。何だか、人間の心が荒れて、優しさが少なくなり、思ってもみなかった「心の荒廃」」が、自然界の均衡を崩しているのではないかとさえ、思ってしまいます。

 童謡に、北原白秋の作詞、中山晋平の作曲の「あめふり」があります。

    あめあめ ふれふれ かあさんが
    じゃのめで おむかい うれしいな
    ピッチピッチ チャップチャップ
    ランランラン
    かけましょ かばんを かあさんの
    あとから ゆこゆこ かねがなる
    ピッチピッチ チャップチャップ
    ランランラン
    あらあら あのこは ずぶぬれだ
    やなぎの ねかたで ないている
    ピッチピッチ チャップチャップ
    ランランラン
    かあさん ぼくのを かしましょか
    きみきみ このかさ さしたまえ
    ピッチピッチ チャップチャップ
    ランランラン
    ぼくなら いいんだ かあさんの
    おおきな じゃのめに はいってく
    ピッチピッチ チャップチャップ
    ランランラン

 この童謡が発表されたのが、1925年、大正14年の11月だったそうですから、社会がゆったりして、人情の熱い時代だったことになります。優しい男の子の心遣いがなんとも言えませんね。去年の秋だったでしょうか、町こちらの街をブラリと歩いていましたら、「番傘」、つまり、この歌の中に出てくる「蛇の目」が売られていたのを見かけました。竹と紙で作られた雨傘です。子供の頃には、雨降りの日に、この傘をさして小学校に通っていたことを覚えています。もちろん下駄履きでした。その蛇の目に落ちてきた雨も、『ピッチピッチ チャップチャップ!』の優しい雨だった記憶がありますが。

のびる(野蒜)

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      みちのくの ひとはかなしや 野蒜掘る      山口青邨

 「みちのく」とは「道の奥(僻地や田舎のことでしょうか)」で、漢字表記にしますと「陸奥」ですが、東北地方を、古来、そう呼んでいます。よく気候異常で、凶作や不作に見舞われた東北のことが、日本史の中に出てきて学びました。盛岡生まれの山口青邨(せいそん)は、凶作で食べ物に事欠いた東北のみなさんが、米は採れないが、畔道には、冷害に見舞われても生い出る「野蒜」を掘って、食糧にした悲しい歴史があったことを詠んだのでしょうか。

 日本語では、「いなか」を「田舎」と漢字で書きますが、中国語は「郷下(乡下xiangxia)」と言います。日本語よりも、「いなか」の雰囲気が強烈に伝わってくることばではないでしょうか。その反対の「都会」を、「城市chengshi」と言い、大きな街を「大城市」と言うようです。私たちが住んでいる所は、省都でありますので、「大城市」になります。新しく開発された地域に住んでいますので、「◯◯市◯◯区◯◯路」と住所表記をするのですが、どうも以前は、「◯◯市◯◯县◯◯镇建新村」と呼ばれていたようです。「县xian」は県(縣)、「镇zhen」は県の下にある町を言うようです。その名残の表示が、壁に記された表示に見られるのです。

 昨日の集合場所は、予定変更で、師範大学の一停留所手前のバス停の近くで、待ち合わせて、バンに乗せて頂きました。そこから1時間半ですと、郊外よりも遠い、「田舎」になるわけで、昨日は、その「乡下」へ週末の小旅行をしてきたわけです。今日(日曜日)、一緒に出かけた方たちと会いましたら、「野蒜(のびる)」を頂いたのです。昨日、腰掛けて談話をしていたので、野蒜摘みに行かなかった私たちのことを覚えていて、分けて下さったわけです。「味噌汁」の具にすると、春の香りがして美味だと、ウイキペディアに書いてありましたので、夕食には、作ってもらうことにしています。この「のびる」は、私の育った街では「のびろ」と呼んだように記憶しているのですが。

 天津にいた時に、北の方の人たちが好んで食べるものに、小麦で焼いて作った「饼bing(お餅と煎餅の〈餅〉」がありました。日本で言う、「お好み焼き」の簡単なもの、韓国料理ですと「チヂミ」でしょうか。あまり具だくさんでないので、かえってシンプルで美味しいのです。華南の地では、小麦粉を「麺(中国語は〈面〉で〈麦〉をとってしまっています)」にして、煮込んだり、焼きそば風にしものの方が好まれるようですが。こちらに来てから、この「饼」を自分で作ってみたことがあり、結構いけたので、今晩は、「野蒜」もありますので、久しぶりに焼いてみようと思っています。野蒜の玉(球根)と葉の部分を細かく刻み、長葱ときゃべつも同じようにし、肉のミンチを小麦粉を溶いたのに入れて、フライパンで焼いてみようと思っています。きっと美味しくでき上がることでしょう。今日は半袖で大丈夫な「全くの春」の日曜日であります。そこで一句。
   
      源格の 野蒜もらいて ビンをやく     廣田雅仁 

(写真は、「野蒜」です)

「源格村」への春の一日

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 春晴れのもと、バスと自家用車に分乗して、総勢五十人ほどのグループで、車で1時間半ほどの「源格村」に出掛けてきました。咲き誇った菜の花の黄色が、青空に映え、春のそよ風が頬を撫でていく田舎の村でした。空気は美味しいし、「木苺」がなっていて、それを摘んで、口に含んだら、幼い日が蘇ってくるほどでした。清の時代に、県知事に任命された人の「記念の石版」が、訪ねた家から15分ほど小高いい丘を登り切ったところにある作業小屋の入り口に、踏み板になって使われていました。きっと、この家の何代も前の方のものなのでしょうか。『そんなに由緒ある「石版」を、こんな使い方をしていいのかしら?』と思わされましたが、何もいいませんでした。

 こういった季節と自然を感じられる小旅行が、毎年春と秋に行われていて、いつも誘われて、時々参加させてもらっています。この家の若婦人が、もち米を蒸して、それに「野沢菜(日本の物とまったく同じです)」の漬物と、「ぜんまい」の茹でたをのせて、その上に、またもち米をのせたのを、歓迎の意味で振舞ってくれました。昼にはだいぶ早かったのですが、空気は美味しいし、小腹も空いていたので、実に美味しかったのです。まるで日本の味でした。歌ったり、ゲームをしたり、また語り合ったりしてから昼ごはんには、用意して持っていった食材、牡蠣とアサリと豚肉と青菜等の入った麺を作ってくれて、食べました。村中が見下ろせ、山も迫り、自然がイッパイでした。すぐ近くの「豚舎」から、きつい匂いがやって来ましたが、それも自然の内、苦もなく美味しくいただくことができました。

 食後には、見栄えは悪いのですが、この時期に取れるのでしょうか、甘い「夏ミカン」のような柑橘類を食べ、丘の中腹にある「オリーブの木」から、木の枝に登ってゆすり落とす実を拾いました。子どももいましたから、大歓声を上げて拾ったのです。都会から脱出して、田舎に出かけるというのは、「原点回帰」になるのでしょうか。子どもの頃に、兄たちの跡を追って山の中に分け入ったことがありましたから、山村生まれの私にとっては、「故郷回帰」のようでありました。植生も、山の姿も、人情も、村人の表情も、日本と全く同じでした。
  
 私と家内が乗せていただいた車は、「面包車mianbaoche」というバンで、運転は穏やかなのです。ところが、ただ行きも帰りも、ハラハラの連続でした。対向車も後続車も、追い越し禁止の道路で、酷く危険な追い越しをしているのです。日常的に、これが行われているのですから、運転手は大変だと思いました。日本よりも道路の幅員は広いのですが、『こちらでは絶対に運転しない!』と、改めて思わされるほどでした。以前は、今ほど車が多くなかったので、こういった危なさを感じなかったのです。しかし今年は、その危なさに度肝を抜かれた感じでした。車の数の増え方が、ものすごいのです。しかも、高性能な外車(日本やドイツやアメリカ製です)の割合が非常に高いのです。それなのに、運転が荒すぎるのには驚きです。今後事故が頻発する予感がしています。これさえなければ、郊外への小旅行は楽しいのですが。

 別れ際、歓迎してくださった夫妻、若夫婦と7ヶ月のチビちゃんが、笑顔で挨拶をしてくれたのが印象的でした。無事に帰れて、よい春の一日でした。外は、そろそろ暮れなずんできたようです。

(写真は、「菜の花」の咲き誇る畑です)

三寒四温

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 「三寒四温」とは、よく言ったものです。goo辞書でみますと、『冬季に寒い日が三日ほど続くと、その後四日間ぐらいは暖かいということ。また、気候がだんだん暖かくなる意にも用いる。 』とあります。ここ華南の地でも、暑いと思ったら、その反動で「寒さ」を感じる日があります。今日も、夕方は、涼しいと言うよりは、『寒い!』と言った感じがしています。午後から、二人のお客さんが見えて、日本語と中国語で交わりをしました。お二人とも、日本留学の経験者で、一人は大きな企業の社長さん、もう一人は大学の先生でした。

 せっかく来られるので、朝はスーパーにデザートを買いに行き、昼過ぎにはバスに乗って、街中の「ケーキ屋」さんに出かけて、チーズケーキを買って来ました。珈琲と紅茶を淹れたのですが、ケーキには手を付けられなかったのです。結局、客人の分は冷凍庫に入れ、われわれの分は、二人で食べてしまいました。客人は、話の間に、ジャンバーを着たり脱いだりされていました。ストーブをつける程ではなかったのですが、ちょっと薄着では、ゾクッといった感じがしていました。

 おとといの水曜日の夕方には、雷光が閃いたと思いましたら、雷鳴が轟き、強い雷雨が降り始めました。日本の私たちが過ごした街でも、同じでしたが、それは「春到来」の告知なのです。しかし、こちらの「春」は極めて短いのです。『わあ春だ!』と喜ぶのもつかの間、もう30度の夏がやってくるのです。週初めには、31度の日がありましたし、明後日は28度の予報が出ていました。『春眠暁を覚えず!』と言われる、寝坊をしたいような季節になって来ました。それでも明日は、ハイキングに誘われていて、7時過ぎには家を出て、バスで師範大学の前の集合場所に行かなければなりませんので、朝寝坊はできそうにありません。

(写真は、ブログ「おおば屋」の「雷光」です) 

心を聞く

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 3月14日に、広島県江田島で悲しい事件が起こったことをニュースが報じていました。牡蠣の養殖を学んでいた中国人の研修生が起こした死傷事件です。二人の方が亡くなり、6人の方が負傷しました。このニュースを聞いて、残念でなりません。「3K」と言われる職域に、外国人労働者を雇う機会が多くなってきた日本の企業の経営者は、低賃金労働で、利潤を確保できるだけでいいのでしょうか。

 先月、上海から乗り込んだ「蘇州号」に、大勢の若い中国人のみなさんが、渋谷の街で見かけるような服装、ヘヤースタイル、靴の出で立ちで乗っておられました。日本企業への「研修生」のみなさんでした。中国にも日本にも、いわゆる「ブローカー」がいて、日本の会社からも、研修生からも、いろいろな経費の名目で金銭を得ているのです。劣悪な労働条件で働き、報酬も、日本人従業員と比べて低く、様々な経費も天引きされて、月々の手当をもらっています。その手当も、中間搾取があると聞いています。もし、同じ労働条件で働く日本人の給料の額を耳にし、賃金に格差があることを知ったら、誰もが不満に思うのは当然ではないでしょうか。「労働力」と「儲け」だけで、彼らの「心の問題」を聞いていないのです。雇い手には、彼らの心を聞いてあげられる機会を持たなければなりません。

 受け入れる側に、外国人の持っている文化、生き方、価値観を学ばないで、ただ、安く働かせて、得しているだけに終わっているのです。こういった現実が、この事件を生んだのだと考えられます。『零細企業だから・・・』という、経営者の言い訳だけでいいのでしょうか。外国人を受け入れている企業としての努力が忘れられているのではないでしょうか。『あいつら、まじめに仕事もしないでサボろうとしてばかりいやがる!』とか、『生活の仕方がなってねえ!』とか言う前に、彼らを知ろうと努力していないのではないでしょうか。『どこでも痰を吐く』、『便所に行っても手を洗わない』、『大声で話をする』とか言って嫌いますが、 日本人と生活の仕方が違うのは当然です。外国人と接触のない島国で育った日本人の方に問題があります。

 この事件のニュースを聞いて、先ず第一に、そう思ったのです。『働いてもらって感謝だ!』との思いがない経営者は、何時か事業に失敗するのです。日本人への要求を、外国人のみなさんに要求するのが問題です。こちらの企業でも、「労働争議」が起こるのは、日本方式、日本精神を押し付けて、彼らを理解しないからなのです。これは、日系企業に働き始めた卒業生たちの弁です。台湾に訪問した時に、知っている方が、いつも間にか日本に撤退していました。その理由を、台湾の方に聞きましたら、『彼の《日本精神》が一番の問題で、うまく人間関係を構築できなかったからです!』と言っておられました。台湾と大陸中国とは、さらに違うのです。もちろん犯罪は赦されるものではありませんが、彼の心の動きを思い図ってみて、彼の気持ちがわかるのです。『馬鹿野郎!』は、絶対に言ってはいけません!

(写真は、http://nupi.no-ip.com/shin/tasogare.htmlの「暮れなずむ瀬戸(広島県江田島市)」です)

新柔道?

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 ここに貼りつけた写真は、「新柔道?」のようです。身につけているのは、「柔道着」ではありませんし、素足であるのにクツを履いています。それに、帯も締めていません。また、畳の上ではなく、土の上です。さらに形相をみますと、怒りに満ちていますから、スポーツのようには見えません。この戦いを見ている人は、審判ではなさそうです。何なのかと、よく見ますと、アメリカ人とメキシコ人なのです。アメリカ人が、メキシコ人を投げ倒しているではありませんか。投げていますから、「柔道」だと思ったのですが、こんな柔道、見たことがありません。

 これは、ついこの間の「ワールドベースボール」の予選で、アメリカ・チームとメキシコ・チームとが対戦した「野球」の試合の一コマなのです。一コマと言っても、野球ではなく、怒り心頭のアメリカ選手が、メキシコ選手を、地面に叩きつけているのです。バットもグローブもボールもありませんから、「乱闘」なのです。私はこの写真を見た時に、「新しい柔道」が始められたのだと思ってしまったのです。ところが、多くの少年たちが憧れて、『何時かイチローのような、松井のような野球選手になりたい!』と願っている「野球」をしている選手同士の争いだったのです。

 父が、「プロ野球」が大好きで、とくに「読売巨人軍」のフアンでした。テレビの中継時間が終わると、小型ラジオに耳をつけて、最後まで勝敗を見守っていたのです。その父の影響で、兄弟4人が、同じように「ジャイアンツ」贔屓だったのです。すぐ上の兄は、高校球児になり、東京都の大会で、ベスト16位になったことがあったと思います。私は、兄たちとキャッチボールをしたり、友人たちと「三角ベース野球」をやったりしたのですが、鈍足だったので、野球は不得意でした。東京ドームではない、「後楽園球場」には、兄に連れられて2回ほど行ったことがありました。そのころの「プロ野球」は、とても面白かったのです。

 しかし、最近はつまらないのです。「高校野球」も、清々しい若者のスポーツの雰囲気がなくなり、青田買いのように、「契約金」をちらつかされて、「野球=お金」の算式になってしまいました。昔は、貧しい子が、一生懸命やって夢を叶えられた時代だったのでしょうが、今は、そうではなくなりました。ほとんどの「アマチュアスポーツ」が、「お金」に絡んできてしまいました。だからつまらなくなって、カサカサした乾燥感がしてきたわけです。そんな中での、「乱闘劇」、象徴的な出来事ではないでしょうか。

(写真は、2013年3月10日のカナダ対メキシコ戦の一こまです)

ランドセル

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 次女が小学校に入学するときに、ほんとうは、新しいのを買ってあげたかったのですが、従姉妹が6年間使った物が、『まだ使える!』と聞いた私は、次女を納得させて、それで入学し、通学することになったのです。新入生のことを、『ピカピカの一年生!』と言っていた時代でしたから、誰もが、着る物もクツもソックスも、全てが真新しかったのです。その小学校の新入生を象徴するのは、伝統の「ランドセル」でした。ところが次女だけ、中古だったのです。『ちょっと、可哀想かな!』と思いましたが、文句一つ言わないで、それを背負って、家内と入学式に行くのを見送りました。

 初めての保護者会があって学校に出かけ、5年の長男、3年の長女についで、次女のクラスに行きました。どのランドセルも一様に照り輝いていたのです。そんな中で、輝き一つない、くすんで傷のついた次女のランドセルだけが、『デン!』と馴染んで、教室の後ろの棚に置かれてありました。少しゆっくりな同級生の世話を焼いて、自分のしなければならないことを後回しにしてしまう彼女は、それ以降、マイペースで生きてきたようです。

 先日、次女に電話をかけたら、小学校の1年の孫のことを話していたでしょうか、そうしたら、『お父さん、小学校2年の時の試験で、あまりよくない点数をとったことがあったけど、そんな点数を取る生徒はいないよね。それなのに私なんか平気で、そんな点数だったよ!』、と言っていました。四人の子の試験の点数など、全く気にしなかった私は、それを初めて、本人の口から聞いたのです。それで、彼女の息子は、どうなのかなと、ふと考えてみたのです。『人間の価値を点数で測る事自体が無理!』と、常々思って来ましたし、欧米の教育は、日本と違うこともわかっていますので、まあどうでもいいことで得心しました。

 長男の息子が、来月7日に、市立小学校に入学します。それでジイジの私は、帰国中に、「ランドセル」を買ってプレゼントしました。約束していたからです。やはり、「孫」には、中古は使わせられないので、「ピカピカ」を買ったのです。4人の子どもたちの入学の頃を思い出してみましたが、昨日のことのようです。家内が来月帰国し、入学式前に着きます。『入学式に出るので、きちんとしたスーツを持って行こうかな!』と言っていましたが、子どもたちの四回の入学式に、祖父母が列席していた試しがなかったことを思い出したバアバは、その願いを引っ込めてしまったのです。「慣例破り」をしてみても面白いのですが。

 「入学式」と「桜」はセットのような日本の社会なのですが、ことしの「開花予報」はもう出ているのでしょうか。満開の桜の木の下での記念写真は、みんなが撮りたいところですが、我が4人の時はどうだったのか、思い出せない三月の中旬であります。

(写真は、「桜ん坊ブログ」から、「坂戸橋の桜〈長野県上伊那郡中川村〉」です)

ふるさと

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 『ふるさとは遠きにありて思うもの。』と言ったのは、室生犀星でした。この言葉は、「小景異情ーその二 」という彼の詩の冒頭の部分で、その後に続くのです。

     ふるさとは遠きにありて思ふもの
     そして悲しくうたふもの
     よしや
     うらぶれて異土の乞食となるとても
     帰るところにあるまじや
     ひとり都のゆふぐれに
     ふるさとおもひ涙ぐむ
     そのこころもて
     遠きみやこにかへらばや
     遠きみやこにかへらばや

 犀星は、21歳で「物書き」として生きていくことを志して、故郷の富山から東京に出ました。若き犀星の「望郷の思い」が込められた詩ではないでしょうか。でも、悲哀に満ちて、輝かしい青春の光が感じられないのは、東京の貧しい生活のせいでしょうか、それとも彼の生い立ちのせいでしょうか。それとも「明治」という時代のせいなのでしょうか。

 飛行機で3時間、船ですと上海から丸二日で大阪港に着くことのできる「祖国」ですが、いつでも帰れそうで、そうできない現実があります。犀星が、東京から富山へ思いを向けたように、この華南の街から、中部山岳の我が故郷に思いを馳せますと、犀星のように「悲しくうた・・・」えない私は、情感が乏しいのでしょうか。親族も知人も友人もいない生まれ故郷ですが、空の高さ、川の流れの清さ、空気の清々しさ、野菜や果物の香りや味が、目の前の現実のように感じられるのは不思議な感覚です。もう何年も何年も前の夏、生まれた家が、「破れ屋」のようになっていたのを訪ねたことがありました。産湯の水を汲んだ井戸も、竈(かまど)も、そこにはありませんでしたが、『ここで生まれた!』という感覚を呼び覚まされたのです。いえ、産んでくれた母、養ってくれた父を思い出したと言うべきでしょうか。

 犀星のように、「涙ぐむ」ことはありません。そこだけが私の故郷ではなく、「永遠の故郷」の存在を知った今の私にとっては、生まれ故郷は「一里塚」なのです。苦しみ悩み痛むことのない世界への「憧れ」が、今、心を満たしています。もちろん、懐かしいことは確かですが、私の「ふるさと」への思いは、未来に向けられているのです。そこには幼い日の「団欒の賑わい」が待っているように思えてならないのです。だから、今、微笑んでいる私なのです。

(写真は、雲海の向こうに見える「ふるさとの山」です)