饅頭

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「饅頭」

 夕方になると、『マント、マント!』と、呼びかけながら、「饅頭(まんとう)」を、リヤカーを曳きながら売る声が聞こえてきます。小麦粉で作った拳ほどのものを蒸かしたもので、甘みを加えたものもありますが、実に素朴な食べ物です。朝など、これをかじりながら道行く人を、よく見かけるのです。『こんな、栄養のないもので大丈夫なのかな!?』と、つい思ってしまうのですが、朝食としては伝統的な食べ物なのかも知れません。きっと、起き抜けで家を出てきて、道すがら、この饅頭を一個買って、頬張るのでしょうか。

 実は、この饅頭が、家内も私も大好きなのです。二つに切って、トーストして、バターやピーナッツバターを塗ったり、チーズを挟んで食べたりするのです。これに、キューリとトマトと紅茶、これが、いつも変わらぬ朝食なのです。『同じものを食べ続けて、飽きないの?』と言われそうですが、飽きないで何年も何年も続けているのです。たまに、「フランスパン」を手に入れたときは、これに換えるのですが、「定番」はマントウです。

 冬場は、蒸篭(せいろ)から湯気を出して道端の店で売っていて、冬の風物詩なのです。私が育った街では、道端で物を売っていることは、全くなかったのですが、こちらは、一日中、道端に自転車やリヤカーをとめたり、道端にしゃがんで売っている人たちが多くいます。様々な食物、例えば菜っ葉やじゃがいもや漬物、日用品や薬などもあります。店がなかった時代に、こういった形で物が売られていて、その名残が今日まで続いているのでしょうか。

 テレビで、「輪島の朝市」を見たことがありますが、あんな光景です。あれほど整然と並んではいないのですが、道のあちこちに、自営の店が開かれています。ドラム缶を半分に切って、鉄板を載せた上に油を引き、卵や葱を入れた薄焼きなどが、売られています。これからの日は、「衛生問題」で、きっと禁止されるのではないかなと思っております。シンガポールの昔を知りませんが、きっと、以前は、ここと同じだったのだと思うのです。今では、「フード・コート」が街中のあちこちにできて、政府の管理のもとで、衛生的に商いがなされています。そんなシンガポールのようなことに、こちらも近いうちになるのかも知れません。今夕も、売り声が聞こえてくることでしょうか。

(写真は、「饅頭」の一種類です)

個性的

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「コスモス」高遠

 『この字は、あなたが書いた字だ!』と、アメリカ人の知人に言われたことがありました。漢字を学んだことがなく、書いたこともないのに、そう断じたのです。嬉しいのか、歯がゆいのか不思議な思いで、彼の言葉を聞いたことがありました。ということは、私の字には特徴があるということなのかも知れません。歌舞伎に使うような、落語家が演題や演者を紙に書くような「文字」に似ているのだそうです。故意に真似ようとして書き始めたのではないのですが、そんな風になってしまいました。

 中学一年の「国語」を教えてくれたのが、2年の担任で国語教師だったS先生でした。隣町で住職をしながら、教壇に立っておられました。歯切れのよい言葉の人で、眼光がキラっと光った、実に頭のよさそうな先生でした。「国語」ですから、字を書かなければなりません。私の提出物を見た、この先生が、『こんな字を書いていたら、絶対に出世しないぞ!』と言ったのです。坊さんだから占いをしたのでも、宗教家だから「預言」をしたというわけではないのですが、『字を改めないと、こんな字を書いていては、世の中では通用しないぞ!』と言ってくれたのでしょう。結局、その注意を聞かずに、今日を迎えております。

 習字も、からっきし駄目なのです。同じ中学の「書道」の先生も坊さんだったと思いますが、厳しい先生でした。一生懸命に書き、清書したものを床に落として、スリッパで踏んでしまったのです。破り捨てたらよかったのに、労作だったので、「スリッパ痕」のついものを提出してしまったのです。この先生は怒って、最低の点をつけたのです。それ以来、「習字」は苦手になり、筆が走らなくなってしまい、そのひねくれた思いが、字に現れていったのかも知れません。「仰げば尊し」の歌詞の中に、『身を立て、名を上げ、やよ励めよ』とありますが、そういったこともなく、出世とは程遠いところを生きてきました。

 人なみに、野心がなかったわけではありません。「成功」や「富」を夢見たり、「有名」にもなりたい気持ちもありました。でも読んだ本や出会った人の影響や感化からでしょうか、「母校」のためにも、「廣田家」のためにも、いわんや「日本」のためにも、役に立つ人とはならなかったのです。でも、もう一度やり直せても、きっと同じ道を歩むのだろうと思うのです。九割九分九厘の人が、そういった「凡人」だからです。故郷に記念館を建ててもらったり、故郷の駅に胸像を設置してもらっても、遺族や縁故のある人には意味があるのでしょうけど、100年も経ったら、『この人だれ?』ということになるのでしょうか。

 JRの恵比寿駅から、駒沢通りを歩いてきて、横道に入ったところの、ビルの玄関脇に、ご夫婦と思われる「胸像」が並んであります。『この方は、どなたですか?』と聞いてみようと思うのですが、聞いても詮なきことで、そうしませんが、多くの通行人が、そんな思いで見て通って行くのでしょうか。作って置かれた方には、思い入れが強烈なのでしょうけど、人の功績など、そんなものなのかも知れません。こちらの大きな川の畔にも、この「胸像」があります。この街の功労者であることは確かですが、なんとなく寂しそうでなりません。たとえ記念館や胸像はなくとも、ただ、悔いなく個性的に生きたい、そう願うこの頃であります。そういえば、先日、道端に「コスモス」が、もう一、二輪咲いていました。

(写真は、長野県高遠町に咲く「秋桜(コスモス)」です)

四‐四

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__アポロ14号月着陸船アンタレス1971年2月5日

 日本人が好きな「数字」を、NHKがアンケートで調べた所、「7」がトップでした。欧米の《ラッキーセヴン》から来ているようです。かつては、「末広がり」の「8」が好まれていたのですが、欧米文化の影響でしょうか。ここ中国では、「8」です。「發財(商売繁盛の意味)の「發(発)」の発音《fa》が、「8」に似ているからです。もう一つは、「9」で、「永久(永久に続くの意味)」の「久」の発音《jiu》が、「9」に似ているのです。しかし日本では反対なのです。「9」の発音《く》が、『苦しむ!』ことを連想するので、これを嫌うのです。中国のみなさんが嫌いな数字は、日本と同じで、「4」です。「死」の発音《si、スー》が、「4」に似ているからで、日本語の「四」の発音《し》が、「死」を連想されるので嫌ってきたようです。

 だったら、「4」を、《よん》と発音したら問題はなくなるのではないでしょうか。中国も日本も、こだわり方が似ていて「悲観的」、それに比べて、ヨーロッパ人は、「楽観的」なようです。それでも、キリスト教圏でも、「13」を嫌う人も稀にいるようです。キリストの受難が、「13日の金曜日」だからだと言われています。人間の一生が、「数字」や「日にち」や「方角」に支配されることなどありません。地球は丸いので、日本の「4日」は、アメリカ大陸では、まだ「3日」ですし、「9日」は「8日」なのです。

 1971年4月4日に、私は家内と「結婚式」を挙げました。「四」が2つ並んだ日だったのです。「縁起」を気にする人が嫌っている日を、ひねくれ者のようにして選んだのではありません。日曜日でもあり、桜の花も咲く頃でしたし、しかも春休み中でしたので、そうしたのです。今日は、その42回目の記念日なのです。昨晩、友人たちと話をしていたら、私たちの結婚の日が話題になり、『実は、明日私達の結婚記念日なのです!』と言ってしまったのです。そうしましたら、『明日の夕方、近くのホテルで結婚記念パーティーをしましょう!』と、その家の夫人が言ってくれ、今夕、家の近くにある大きなホテルでしてくださることになったのです。

 実は、今夕、二人で、「日本料理店」に行って、「にぎり寿司」を食べる約束をしていたのですが、急遽、変更することになりました。『42年も忍耐してくれてありがとう!』と、今朝、家内に言いましたら、『私の方こそ忍耐してくださって・・・』と返事がありました。もう、朝の9時の今から、「夕方」のことを思って、そわそわしている私であります。

(写真は、1971年2月5日、アポロ14号月着陸船アンタレスが撮影した「月面」です)

身だしなみ

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「御茶ノ水」歌川広重

 こちらで生活しながら、体の異変を感じることがあります。日本では、そのような兆候を感じることはなかったのですが、最近、頓(とみ)にそう感じるのです。大陸気候のせいでしょうか、それとも体の中に原因があるのでしょうか。それは、鼻の中の毛の伸びが早いことなのです。日本では降雨量も多く、緑が溢れているので、空気がしっとりとしています。ところが、私たちの住んでいる街は、乾燥しているのです。ある友人は、地熱が高いことが関係しているといっておられました。長い間、自然環境の整備が行われ、植樹による緑化運動に励んでおられます。それに植物が育つための陽の光も、年間を通じて多いのです。それで国内有数の「緑の多い街」となっているそうですが、それでも街の空気は乾燥しているのを感じています。

 四川省の成都に行った時には、『一年でこんなに晴れた日が続くのは、本当に珍しいです!』と、私たちの訪問時に、地元の方が言っておられました。一年中、どんよりしているのだそうです。また南京を訪ねた時も、町の中の空気が淀んでいて、視界も非常に悪かったのです。それに比べて、私たちが住んでいる街は、晴れの日が多く、青空を仰ぐことができます。ほどほどの雨も降ります。それでも、地熱が高い関係上、雨が降っても、すぐに乾いてしまい、すぐに自動車が砂ぼこりを上げてしまうのです。

 もうひとつ考えられるのは、「白頭掻けばさらに短し」で、自分の頭の髪の毛が薄くなったせいで、鼻の中に栄養が回っているのではないかとも思うのです。わが家に時々顔を見せていた方が、京都の大学に留学し、卒業と同時に、大手の日本企業に就職されました。今、上野のマンショに部屋を借りて、通勤されています。1月に帰国した時に、御茶ノ水で会いましたら、『いつもご馳走になっていますので、今日は僕がおごりますから!』と言って、お昼をご馳走になりました。帰国時に、都内でよく人と合うときに、コーヒーを飲んだり、食事をしているレストランででした。

 彼から、東京での生活、会社での仕事の話などを聞きつつ、ちょっと気になったことがありました。食事をすませて、明治大学の近くで行われていた「講演会」に一緒に出かけ、その後に、町の中を歩いていた時に、薬局に入ったのです。そこで、気になることを解決するために、1つの電気製品を買って、彼にプレゼントしたのです。それは、「電気カッター」でした。大企業に勤めるサラリーマンの「身だしなみ」の一つで、ぜひ彼に、これを使って欲しかったからです。『アッ、そうですね。ここで生活する上では、こんなことも気を使わないといけませんよね!』と言って、喜んで、それを受け取ってくれたのです。
 
 きっと、あれ以降、出勤前に、鏡に向かって、それを使っていてくれるだろうと思っております。私も、時々使うのですが、その頻度が高くなってきているのに気づくのです。これって、「男の身だしなみ」の一つですから。こちらでは妙齢の女性のを見てしまうと、「カッター」をプレゼントしたい衝動にかられてならないのです。自然だからいいのだと思っておられるのに、ちょっとお節介なことでした。

(浮世絵は、歌川広重の描いた「御茶ノ水」です)

電動車

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「电动车」2

 5階のベランダから、下のバス通りを眺めますと、後ろに子どもをのせた「電動車㊥电动车diandongche」が、いっせいに左のほうに向かって走り抜けていきます。この乗り物は、「電動自転車」のことで、日本のものはスピード制限がなされていますが、こちらのは違うのです。最近では小型化されてきましたが、以前の主力は、125ccほどのモーターバイクのような重量感があります。強力なバッテリーを搭載して走りますので、ずいぶんと高速なのです。しかも、音無しで走るので、今でこそ慣れましたが、こちらに来た当初は、道路を歩いていて、すぐ脇を風を切って走るので、驚かされてばかりでした。 

 朝、7時半ごろからの週日の光景です。小学生、中学生を、お父さんやお母さんが乗せて学校に送るのです。昼前になると迎えに行き、1時半頃にまた学校に向かって送っていきます。夕方、5時頃になると送っていった子どもたちを、今度は迎えに行くのです。日本では、あまりみられない光景です。下校時の学校の近くを通りますと、黒山のような人だかりが、校門の前にできています。そこがバス通りだと、もう動きの取れないな渋滞を引き起こしています。両親やおじいちゃんおばあちゃんが、自転車や電動車、歩きで出迎えているのです。

 時々、上級生や保護者が、先頭になって集団下校したりしていますが、それは珍しいことです。やはり、交通が頻繁などの理由で、こういった送迎が必要なのでしょうか。これも稀ですが、一人で寄り道をしながら帰って来る子を見かけます。ちょうどわれわれの時代の下校風景なのです。田んぼに水を引く農業用の小川があって、フナや蛙やザリガニを捕まえながら、まあのんびり帰ったのですが、あんな風景です。でも、ここは住宅地で、畑や田圃はないのですから、あのような遊びはないようです。地方の農村に行けば、また違っているのでしょうけど。

 日本では、大体3時頃に下校になるのですが、こちらでは、退社時間と下校時間が重なるようで、大変な人やクルマや電動車が行き交っています。先日、繁華街にあるパン屋さんで、昼食をとってしていましたら、高校生が一人、高価なパンとコーヒーを買って、本を読みながら、昼食をしていました。『少なくとも30元ほどになる!』と計算したのですが、たまの贅沢の私と遜色ない食事をしていたのです。今は、こちらで麺類を食べても7元(来たばかりの頃は3元ほどでした)ですから、少々驚きました。『両親の子供時代は、ほとんど肉など食べたことがなかったと聞いています!』と、学生さんが話してくれましたから、豊かになってきているのを感じています。

「きなこパン」

 そう言えば、「一人っ子」ですから、都市部にいれば、両親のそれぞれおじいちゃんやおばあちゃんから、小遣いももらうのでしょうね。「コッペパン」にジャムやマーガリンをつけ、たまに、コロッケを挟んで食べられた私たちの時代にくらべて、好い時代になったということでしょうか。日本では、給食がありますね。私の小学校は、私たちが卒業した翌年から、「給食」が始まって、無給食の時代でした。でもその母校で、中学の時に、一度、その給食をごちそうになったことがありました。母校の校庭に、古代の住居跡があって、その発掘をしていた時に、出してくれたのです。

 わが家の子どもたちが、『わー、今日は《きなこパン》だ!』と、大喜びをしていたのを思い出します。一度、子どもに分けてもらって食べたことがあり、美味しかったのです。来週、孫が第三小学校に上がります。期待と不安で、入学式を迎えることでしょうか。

(写真上は、旧式の「電動車」、下は、「きなこパン」です)

「仕事」

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「そば畑」長野県信濃町

 長野県下の中央自動車道に、「伊北」というインターチェンジがあります。その近くに、家内と私の行きつけの「蕎麦屋」がありました。飯田の近辺で、英語教師をしていた娘婿たちが住んでいましたので、ちょくちょく訪ねていたのです。その飯田からの帰り道を、高速を走らないで、国道を走っていましたら、一軒の「蕎麦屋」を見つけたのです。食事時だったこともあって、入ってみました。「ざるそば」を頼んでから、メニューをみますと、「そばがき」が品書きにありました。それで、注文してみたのです。きっと素朴なものが出てくると思っていたのですが、出てきた「そばがき」は、もちろん、そば粉を練ったものなのですが、まるでプリンのようでした。胡桃で造られたソースが掛けてあって、350円ほどだったと思います。口の中で溶けるようでしたし、「そば」の香りと胡桃とがほどよく調和して、美味しくいただきました。

 その味に魅せられた私たちは、帰り道を同じようにとって、四、五回でしょうか、そのお店の暖簾をくぐったのです。何度か目に行ったときに、ご主人がいなくて、息子さんが「そばがき」を作って出してくれました。ところが、お父さんのような味が出ていなかったのです。なんとなくザラッとした感じで、その違いが一目瞭然でした。最初に行った時に、『そばがきを自分で作ってみたいので、そば粉を分けていただけますか?』と聞きましたら、直ぐに返事が出なかったのです。『素人の方では、ちょっと・・・』と言葉を濁されたので、諦めて帰ったのです。その意味が、息子さんが作って出してくれたのを食べた時に、分かったのです。単なるそば粉をお湯で溶いたものを、と思っていたのですが、やはり、「職人芸」というのでしょうか、年季が入らないと、あのようなものは作れないのでしょう。あの味を知ったら、「そばがき」は、これしかないことになって、それ以来、よその蕎麦屋に入っても、「そばがき」の注文はしたことがありません。

 このお店で、最初に「そばがき」を食べた時に、調理場から暖簾を押しながら、私たちの「ざるそば」の進み具合を伺っていました。それは、食べ終わって出す頃合いを見計らっていたのです。そんなに細かい心配りがあって、あの「そばがき」を美味しく頂いたわけです。いつ出しても構わないのではなく、そこまで気配りをするというのは、本物の「蕎麦職人」なのだと分かって、とても嬉しかったのを覚えています。『たかが蕎麦、されど蕎麦!』と言うのでしょうか、ご自分の天職に情熱を傾ける心意気というのが、私たちより一回り半ほど年かさの名のない職人さんの内側に宿っているのを感じました。

 こういった世代の技能者が、あらゆる職域にいて、プロ意識を持って、頑固に、愚直に生きてきていたのです。その世代が消えてしまい、次の世代が台頭してきます。この世代は、ほんの短い期間の修行で、独立して一城の主(あるじ)に収まる傾向があるのでしょうか。やはり、前の世代の職人芸には、程遠いのです。かつての「職人」たちは、さしたる高等教育は受けていなくても、仕えた主人の技術を盗んで覚え、会得してきた職人だと聞かされています。這うように修行した人がほとんどだったのです。その仕事をやめたら、次の仕事が待っているような今日日とは違っていましたから、「石の上にも三年」の努力をし、下働きをしながら「仕事」を覚えたのです。ですから仕事への愛着と意識を強固に持っていた世代でした。そういったおじさんたちが、アルバイト先に、何人もいたのを覚えています。みんな「頑固オヤジ」でした。それだからでしょうか、学ぶことが多かったのです。四月朔日、今日から「新年度」でしょうか。新たに社会人になる方の「仕事」が祝されますように!

(写真は、ぶろぐ〈FOTOFARM信州〉の信濃町の「蕎麦畑」です。

夕食

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DSC02827

 昨晩の「夕食」が綺麗だったので、写真を撮ってアップしました。「日本食」の感じ100%です。味噌汁と梅干し、キャベツの塩もみと菜の花のおひたしと果物が添えられています。健康や食生活に注意しながら過ごしています。ご安心ください。

「夜桜」

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「目黒川の桜」

 今朝一番で、次男が送信してくれた「目黒川の桜」をアップします。早朝でしょうか、昨晩でしょうか、華の東京の名所の「夜桜」です。上野も綺麗ですが、春の宵を、そぞろ歩きながらの「観桜」は、この川ぞいの堤の桜が最高です。写真で、「桜」を楽しませてくれる気持ちに感謝して! 

「おやつ」

おしるこ.

 「おやつ」は、「御八つ」と書きます。gooの辞書によりますと、『《八つ時(どき)に食べたところから》午後3時前後に食べる間食。また、一般に間食のこと。 』とあります。上流の家庭のお母さんですと、『お三時ですよ!』と呼びかけてくれるのですが、母には、『なにか食べるものある?』と、その時間帯になると、聞いていたでしょうか。育ち盛りの子どもたちには、この時間、つまり、まだ夕食まで、しばらく時間があったり、学校から帰ってくる頃には、お腹が、『グーゥ!』とサインを出している時間帯です。お釜でご飯を炊いていた頃、釜の底に焦げ付いていたご飯を水にひたして、取り出し、平べったい、木製のお鉢にとって、母が外に干していました。それでいろいろな物をこしらえてくれたことがあったのです。これが「ほしいい」だったと思います。昔の人は、物を大事にしたのですね。

 山奥から、都会に出てきたばかりの頃、住んでいた家の近くに小さな小屋があって、そこで小父さんが、今では、『昔懐かしい・・・!』と書いた袋の中に入れて、スーパーで売っているか、もうほとんどなくなってしまっている駄菓子屋にあるような「飴」を、板の台の上で、ひっぱたいたり、手でゴシゴシと伸ばしたりしながら、作っていました。『端っこをくれないかな!』と期待して、その作業を眺めていましたが、もらった試しがなく、行くのをやめてしまいました。キュウリやトマト、いちじくやいちご、庭グミなどが目に入ると、「収穫」の助けをしていました。いえ、盗み食いでした。あの頃の私は、いつでも空腹を感じていましたが、今の子どもたちには、「空腹感」とか「飢餓感」というのを知らないほど、物にあふれた時代に育っているのでしょうか。

 あの頃、一番美味しかったのは、小遣いで時々買うことができた、「落花生」を真っ白な粉砂糖でかぶせたお菓子でした。買えるときは、小銭をポケットに入れて、跳んで行き、小さな紙袋に入れてくれたのを、こっそりと食べていたのです。実に美味しかった!よく行く、こちらのスーパーの壁に、いろとりどり、驚くほどの種類のお菓子が並んでる中に、それがあるのです。懐かしくて、月に一度くらいは買ってしまいます。こんなコーナーの光景は、こちらに来たばかりの頃は、本当に珍しいことでしたが、今では、どこに行っても、食べ物があふれていて、子どもたちが、『モグモグ!』と口を忙しく動かしています。

 さて、わが家でも、今日の週末の午後に、「おやつ」が出てきました。「小豆(あずき)」を砂糖と少々の塩で煮たものに、冷蔵庫に中に残っていた、どなたかに頂いた「お餅」を焼いたのを入れて、家内が作ってくれた、「おしるこ」でした。何の期待もなかったので、驚いたぶん、なお美味しかったのです。一瞬、日本にいるような感覚に陥ったようでした。「舌鼓を打つ」とは、こういったことなのでしょうか。辞書には、『あまりのおいしさに舌を鳴らす。舌鼓を鳴らす。「山海の珍味に―」』とあります。たまには、こういった「甘味」も、心にはいいかも知れませんね。美味しい物には、「お」が付くのですね。そんな美味しい三月三十日であります。

(写真は、「おしるこ」です)

味方

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春の海

 子どもたちが小さかった頃の話です。「夫婦喧嘩」に、子どもたちが巻き込まれて心を痛めていたことがあったようです。家内は、おっとりでのんびり、いえ慎重に生きる人です。それに反して、私は、せっかちで、気短で、衝動的で短絡的なのです。男ばかりの間で育ったからと言うよりは、「わがまま」に育ったから、そうだったのでしょう。夫婦でも、家族でも、親しい友人の間でも、隠れた思いを隠れ持っていて、苦い思いが心を満たして、何時か〈大噴火〉するよりは、ときどき〈小噴火〉をしたほうがいいと、単純で、気の短い私は、そう思いながら生きてきました。

 あるとき、上の娘が、お風呂に一緒に入りながら、家内にこんなことを言ったそうです。

 『おかあさんをいじめるから、おとうさんきらい?』
 『きらいじゃあないよ。おかあさんは、「あば(?!)」にあいされているから、おかあさんもおとうさんをあいしてるよ!』

 寝る前になって娘が、

 『おとうさん、おかあさんはおとうさんをあいしてるんだよ。おかあさんはおとうさんのみかたなんだよ。おとうさんもおかあさんのみかただね!!』

 そう念を、娘は私に押したのです。子どもたちは、両親が、どう互いを見ながら、評価しながら、一緒に生きているのかを、大きな目を開きながら見て、心全部を向けていたようです。願ったようにしてもらえなくて文句を言い、非難する短気な父親を見ながら、家内の味方をして、両親の間をとり持とうと、悩みながら、考えながら、最大限に知恵をふり絞りながら、執り成そうと努力していたのです。攻撃型の父親と、防御型の母親の衝突は、一方向の争いでした。取っ組み合いの喧嘩をしたことなどありませんでした。もし彼女がヒステリーだったら、「金切り声」を上げて、鳥小屋のような家庭だったことでしょう。

 勝っているのに、私には勝利感がないのです。しかし負けているのに、家内の方は勝利感に溢れているわけです。彼女のほうが大人で、『駄々っ子と一緒に生活をしてきた!』という感じだったのでしょうか。いつでも、子どもたちは母親の味方でした。子どもたちが、みんな出て行ってしまってからは、結局、夫婦の私たちは、「振り出し」にもどってしまったわけです。これまでを総括すると、「オリーブの冠」や「軍配」は、家内、四人の子どもたちの母親に上がるようです。

 後、どれだけ一緒にいられるのでしょうか。もう一つの「振り出し」、どちらかが独りになる時が来るのでしょうね。短い一生で、出会って結婚の契を交わしたのですから、もっと変えられながら、異国の空の下を一緒に生きていくことになります。そんなことを思っている弥生三月も、今日明日で終わろうとしております。こんな両親を、四人は、それぞれ、どう思っていることでしょうか。

(写真は、和(な)いだ「海」です)