卵売り

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作詞が佐伯孝夫、作曲が利根一郎の「ミネソタの卵売り」と言う歌が、ラジオから流れて聞こえて来たのは、1951年2月のことでした。

ココココ コケッコ
ココココ コケッコ
私はミネソタの卵売り
町中で一番の人気者
つやつや生みたて 買わないか
卵に黄味と白味がなけりゃ
お代は要らない
ココココ コケッコ

ココココ コケッコ
ココココ コケッコ
私はミネソタの卵売り
町中で一番ののど自慢
私のにわとり素敵です
卵を生んだり お歌のけいこ
ドレミ ファ ソラシド
ココココ コケッコ

ココココ コケッコ
ココココ コケッコ
私はミネソタの卵売り
町中で一番の美人です
皆さん卵を喰べなさい
美人になるよ いい声出るよ
朝から晩まで
ココココ コケッコ

実は、ミネソタにも、ロサンゼルスにも、シカゴにも、「卵売り」はいなかったそうですし、今もいない様です。実は、「◯◯の◯◯売り」と言う歌のシリーズが、1950年頃からあって、「リオのポポ売り」、「チロルのミルク売り」というレコードが、日本で売り出されて、その三部作の最後が、この「ミネソタの卵売り」だった様です。

戦争に負けた日本に、アメリカの朝食、「目玉焼きとハム」、「スクランブルエッグとソーセージ」が、憧れの朝食の様に流行って行く時代の歌でした。それはアメリカ食文化の象徴の様な食事でした。

この歌で歌われた、「ミネソタ」は、カナダと国境を接した中西部の州で、州都はセントポールです。その大きな街ミネアポリスで、アフリカ系アメリカ市民が、複数の警官の過剰な確保によって亡くなり、その行為に抗議する運動が起こって、全米に飛び火していて、まだ収まりません。

アメリカ社会には、深い「人種差別問題」があります。リンカーンは、そう言った問題のさなかで、暗殺されています。日本でも、「部落のみなさん」が根強い差別を喫して来ています。同じ血、同じ文化の中にいながら、江戸時代の「逃散」などによって、山中や町外れの一郭に住み着いたみなさんを、部落に閉じ込めて発生しています。

民族的にも、経済的にも、文化的にも〈優位に立ちたい心理〉が、そういった差別や虐待を生んできています。学校で見られる、〈いじめ〉も同じ根を持つ社会問題です。みんなが譲り合って、美味しい卵料理が食べられるような、平和な市民生活がなされる、大きな転換の事件にして行きたいものです。

(「ミネアポリス」の写真〈ウイキペディアから〉です)

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問われる

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「40年」、正確に言うと、1977年11月から2020年6月5日ですから、「42年」になります。

人が生まれて、「惑うことなし」の《不惑》の年齢になる年月が、「40年」だと、孔子が言いましたが、横田滋、早紀江夫妻にとっての年月を思う時、それは他人が測ることのできない、途方もなく長い時間になることでしょう。『生きている!』、『きっと帰ってくる!』と言う望みを持って、無事の帰宅を待ちわびた年月でした。

〈拉致〉と言う、国際犯罪の犠牲になって、お嬢様のめぐみさんが、いつもの様に、帰宅すると思う中を、下校の途中で行方不明になったのです。人の子の親にとって、こんなつらく理不尽なことはありません。

やがて、北朝鮮の平壌で、めぐみさんに似た女性を見かけたとの情報があって、生存の確信が与えられたのです。それ以来、国家間の交渉が行われましたが、『亡くなった!』と言う報告や、様々な情報があるたびに、ご家族の心が弄ばれる年月を過ごしてこられたのです。そのお父様の滋さんが、この5日に亡くなられました。

かつては、あんなに強面国家だった日本が、敗戦を喫した後は、及び腰になってしまい、義に立てない脆弱さを満たしてしまい、拉致問題解決に、決死な覚悟を取れないまま、今に至っています。国が、手を拱(こまね)いている間に、国連の人権委員会やアメリカの政府や議院に出掛けてまで、解決を求め続けた、「家族会」の働きは必死です。

開発途上国が、〈ヘッドハンティング〉で、優秀な頭脳を得ようとするのとは違って、義務教育を受ける、十代前半の少女を拉致すると言う、非人権の犯罪は、赦せません。人類史上で、組織、会社、国家が犯した犯罪と言うのは、不問に付されることなどありえません。いつか、はっきりとした審判の元に置かれて、それらの責任が、なんらかの形で問われることになるでしょう。

人道に悖(もと)る犯罪、邪悪国家の非道さは、有耶無耶などにはなりません。ローマ帝国、ソヴィエット連邦、コンゴ共和国、大日本帝国、そして北朝鮮などの専制国家が犯した犯罪は、その責任が霧散することなどはありえません。人の生命や尊厳に対する犯罪は、重大だからです。「歴史」は、厳しく国家と為政者とに厳粛な結果責任を問うのです。

(「テミスの女神」像です)

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爱拼才会赢

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タクシーに乗り込んで、しばらく経つと、『これぞ日本演歌!』と言うべきでしょう、カセットテープから、強烈な小節の効いた歌が流れて聞こえてきました。日本からのお客様を、車に乗せると言うことで、演歌のテープをかけて聞かせてくれたのです。

そして、アクロバットの様なハンドルさばきで、追い越しをかけるし、急ハンドル、急ブレーキで、これほど運転の荒さを経験したことのなかった車に乗ったわけです。〈最高の接待術〉を示してくれ、この方は得意げでしたが、こちらはハラハラのしどおしでした。

同乗の案内をしてくださった年配の方が、『割増し料金を払うから、ゆっくり走って!』と、この運転手さんにお願いしていました。とにかく、大変な歓迎を受けたのです。どこの国かと言いますと、「台湾」ででした。

上の兄に誘われて、台北から高雄まで、講演旅行をした時のことでした。私には、初めての台湾訪問です。訪ねたどこの街でも、大歓迎してくださったのです。台湾の方は接待上手で、美味しい料理をご馳走になり、案の定、訪問前よりも、だいぶ太ってしまった旅でした。

日本統治の時代を知っておられる方が多くいて、一様に、日本贔屓(ひいき)で、あの時代を懐かしんでおいででした。玄関を施錠しなくても、物がなくなることなどなかったそうです。ところが日本人が引き上げてしまった後の治安は、とても悪くなった様です。

華南の街の語学学校の若い女性教師が、授業で、「台湾演歌」を教えてくれたのです。台湾語は、大陸の「闽南语(minnanyu )」と同じで、今でも、この方言で一曲だけ歌うことができます。「爱拼才会赢 (aipincaihuiying)」と言う、日本の演歌に似たメロディの歌です。

次に台湾に行くことがあったら、前回行かなかった「山地」を訪ねたいと思いながら、年月が過ぎてしまいました。台湾の金門島は、ビサ査証の更新のため、家内と、3ヶ月に一度、出掛けたのです。「牛肉麺」が美味しく、台湾型のセブンイレブンがありました。今頃は、マンゴーが美味しいでしょうね。

(“写真AC”のマンゴーです)

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三十一年

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「三十一年前」に、世界を揺るがす様な事件が起こりました。私の父が青年期の一時期を過ごした国ででした。私たちよりも一世代若い多くの青年たちが、その騒動の渦中で亡くなったのです。自分たちの国の指導者の死を追悼した集いの中ででした。

とても悲しかったのを思い出します。その国に、2006年に出掛けました。六十を過ぎていましたが、留学のために、家内と二人でまいりました。一年後、出会った方の推薦で、大学の外国語学部の日本語教師として就職したのです。

その時の同僚で、私のお世話をしてくださった方が、その運動に加わった学生の一人だったのです。お子さんを連れて、教員住宅のわが家に、遊びに来られ、日本の大学院の博士課程で学びたいと言っておいででした。不遇の中を過ごしておいでだったのです。

私の30数年前は、腎臓を悪くして、血液透析をしていた次兄が、体調を崩していて、大変な時でした。それで、私が提供者となって、腎移植の手術を、東京の病院でした後でした。

日本の社会は平穏でしたが、その国は、騒然として、ニュースがひっきりなしに、その状況を伝えていました。私の60、70年代の青年期も、条約の締結の反対の学生運動が盛んでした。国を憂える青年たちが、将来の不安に駆られて、世界中で蜂起していました。

あの手術後、次兄は、職場に復帰し、定年延長で働きを続けできました。今は、悠々自適な時を過ごしています。私は家族のもとに帰って、それまでの生活に戻ったのです。そう30数年もの歳月が過ぎて、今があります。《落ち着いた市民生活》ができることが、今も私の願うところです。

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孤高

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「孤高」と言う言葉があります。「孤高の人」を考えてみると、独房に収監されている人とか、詩人、失恋してしてしまった人など、孤寂(こせき)を覚えている人の様子を言うのかも知れません。

職業としては、裁判官や検察官が、そんな感じを漂わせている仕事かも知れません。厳しく人に接しなければならないので、人との交際にも、言いようもない厳しい制約を自らに課さなければなりませんから、とても孤独な立場にあるのだろうと思っていました。

学生時代の友人でも、親友でも、反社会的な立場にある人とは、闇雲なく交際を表立ってすることはできなさそうです。 ずいぶん窮屈な生き方が強いられていて、大変そうだと思ってしまいます。

そんな窮屈さの中で、そんな立場の人たちにも息抜きが必要に違いありません。登山や釣り、サイクリング、家庭大工、個人ゲームなどは、かえって無聊(ぶりょう)をかこつことになってしまうので、よくないかも知れません。

そんなで、立場を弁えてくれる仲間と、卓を囲みたくなるのかも知れません。食事だったら良いのでしょうけど、件(くだん)の人は、麻雀卓を囲んでしまった様です。時期も悪かったし、囲んだ仲間もよくなかったのです。しかも、賭け麻雀をしてしまいました。

私の父がお世話した方の中に、苦学して検事になった方がおいででした。東京地検の検事で、お相撲さんが花札賭博をして、検挙したことがあったのです。有名な相撲取りでしたが、相撲の勝負も、賭け事にされてしまう様な仕事なのだと聞いていましたから、それでもやってはいけない〈御法度〉の遊びでした。その記念品の花札を、小学生の弟が、この方からもらってきたことがありました。『大人になってするなよ!』の教えと共に。

お相撲さんはともかく、検事さんが賭け麻雀をすると言うのは、お相撲さんがするのとは違います。『仕事がキツくて、息抜きが欲しくてつい!』と言い訳のできない立場です。発覚しても、責任を取らない、潔くない人が、人を罪に定めてきたとするなら、《法》とはなんなのでしょうか。

そんなことを言う私なのですが、潔白な人間なでどではありません。だから、人を裁く立場には立てないのですが、教師になった時、『若気の至りで!』と言う言い訳を捨てて、《聖職者》の責任を重く感じて、悪い習慣を断ちました。それは、自分としても信じられない様な決断でした。

裏表なく生きていく決心をし、夜遊びに誘惑されていた若気の至りを、振り切ったのです。『赤い顔をして生徒の前に立たない!』、そんな単純な決心でした。教師をやめても、その生き方をし続けて、今日に至りました。あの二十代の決心、『どこを切っても、切られても潔くある様に!』は正解でした。面白くなさそうですが、けっこう楽しく生きてこれました。

喧嘩別れして、友情を犠牲にしてしまう〈賭け麻雀〉をよく見てきました。競輪狂いで家庭を壊した人もいました。今、「総長」になれなかった男が、惨めそうに見えて仕方がありません。「孤高を持する人」であった方が、良い一生になったのでしょうに。「孤高」とは、〈俗世間から離れて、ひとり自分の志を守ること〉と、「六法全書」に、いえ普通の国語辞書に、そうありました。

(「孤高の山」の男体山です)

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漂泊

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杜甫の代表作に、「登岳陽楼」があります。

昔聞洞庭水(昔聞く 洞庭の水)
今上岳陽楼(今上る 岳陽楼)
呉楚東南坼(呉楚 東南に坼け)
乾坤日夜浮(乾坤 日夜浮かぶ)
親朋無一字(親朋 一字無く)
老病有孤舟(老病 孤舟有り)
戎馬関山北(戎馬 関山の北)
憑軒涕泗流(軒に憑って 涕泗流る )

この「詩聖」と、後の世になって呼ばれる杜甫は、湖北省で生まれ、すでに6歳で詩作をしたほどの人でした。洛陽で文人の仲間入りをしています。でも漂泊の思いを捨てきれずに、諸国を漫遊した詩人でした。それでも食べていくために、同行の妻と五人の子どもを育てるために、官職に就きますが、芭蕉が語る様に、「旅を住処として、旅に死す」様に、59年の生涯を、湘江(湖南省の大河)の舟の中で終えています。

四川省の成都に、杜甫が家族とともに住んだ「草庵」が復元されていて、そこを、一度は人を訪ね、もう一度は、語学学校の遠足で訪ねたことがあります。そこは観光化されていて、当時の面影を感じさせてはくれませんでしたが、洛陽からは随分と西に離れた地だったのです。

広大な四川盆地の中にあって、「天府之国」と呼ばれ、「三国志」、「麻婆豆腐」、「火鍋」、「パンダ(熊猫)」で有名な地です。大きな空、豊かな土地で、年間を通して晴れ間の少ない土地柄だと聞きました。初めて行った時に、新聞記者をしていた方が、『ここで仕事を見つけますから、ぜひ住んでください!』とお誘いくださったのですが、数年後、天津に1年、そして華南の街で12年を過ごしました。

杜甫の時代、この詩にあるのですが、59年のこの詩人の生涯は、すでに「老病」の年齢だった様です。唐の時代の人の寿命は、現在に比べ短かったのです。もう一つの杜甫の詩に、「春望」があります。

国破山河在(国破れて 山河在り)
城春草木深(城春にして 草木深し)
感時花濺涙(時に感じては 花にも涙を濺ぎ)
恨別鳥驚心(別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす)
烽火連三月(烽火 三月に連なり)
家書抵万金(家書 万金に抵る )
白頭掻更短(白頭掻けば 更に短く)
渾欲不勝簪(渾て簪に 勝えざらんと欲す)

人に世の移り変わりは、めまぐるしいのですが、国土の自然は変わらないことを詠んでいます。杜甫は、五十代で、もう白髪になり、髪の毛も薄くなっていたのです。生活を詠み、国を憂い、人生そのものが旅の様に漂泊の思いに浸り、旅を住処として一生を終えたのです。

こう言った杜甫の生き方を憧れたのが、芭蕉だったと、中学の時に教えられました。奥州松島の美しさに圧倒された芭蕉は、行ったことのない、杜甫が詠んだ、「洞庭湖」と比べています。芭蕉作ではないと言われている、

松島や ああ松島や 松島や

『ああ、これも俳句!』、これには驚かされてしまいます。

( “ 百度図片 ” から洞庭湖の風景です)

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『あの人は手が遅い!』と言ったりします。〈手際〉よく、物事を処理できない人のことを言う様です。これとは反対に、『手が早い!』と言います。これには、もう一つの意味があって、あまり好い意味ではないのですが、男性が女性への接近術が長けている人、喧嘩っ早い人を言うのだそうです。

「手」には多くの言葉があります(”weblio辞典“より)。

手に掛ける
① 世話をする。育て上げる。 「 手に掛けた牛をせり市に出す」
② 自らの手で殺す。 「息子をわが手に掛ける」
③ 自分で、思うように事を運ぶ。

手に手てを取る
仲良く行動をともにする。特に、男女が連れだって行くのにいう。 「 手に手をとって祖国の復興のために汗を流す。」

手を広げる
事業などの規模を大きくする。関係する範囲を広くする。 「商売の手を広げ過ぎている。」

手を袖(そで)にする
手を袖に入れる。何もしようとしない。袖手(しゆうしゆ)。 「 手を袖にして徒に日月を消するのみにて/学問ノススメ 諭吉」

手を取り合う
① 共通の喜び、悲しみなどに駆られて互いの手を握る。 「 手を取り合って泣く」
② 力を合わせる。 「 手を取り合って共にがんばりましょう」

手に落ちる
戦いや争いで、相手や敵に負けてしまうこと。軍門に堕ちる。「信長は光秀の手に落ちた」

手を切る
それまであった関係を断つ。縁を切る。 「悪徳業者と手を切る」

私の愛読書に、「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は・・・祝福を受ける。」、「どこででもきよい手をあげて」などと記されています。弱くされて、困窮している人のために、「手をこまねく」ことなく、「手をのべて」、何くれとなくすることこそ、今日日、私たちのすべきことかも知れません。

「手の焼ける」私を、「手塩をかけて」育ててくれた親に感謝し、「手の離れた」私を見守っていてくれた父と母を思う、六月の初めです。

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破屋

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南信州の山間部で、山の斜面に、へばりついている様な集落があって、当時、飯田に住んでいた娘が連れて行ってくれたのです。『よくも、こんな辺鄙で、畑地のないところで生活してきたものだろうか!』と驚いたことがありました。

どうみても、〈不便〉に思えて仕方がありませんでした。人とは、住んでみると、そして住み慣れると、ほかに移り住むことなど考えなくなっていくのでしょうか。今になると、あの番小屋の様な家に住んでみたい気持ちがしてくるのです。人は本来、自然を住処としていたからなのでしょう。

自分が育ったのも山地でした。戦時中、山奥で、戦闘機の防弾ガラスを作るための石英を掘り出すため、軍命をうけた父が働いている時に、私は生まれたのです。戦争が終わってから弟が同じ家で生まれています。熊や鹿や猪の出る山奥でした。

そしてその原石を運ぶ策動(ケーブルカー)の終着地に、集積場と事務所があって、そこを宿舎にして住み替えたのです。もう少し山奥には、満洲帰りの家族の住む部落もありました。そんな山奥でも小学校があって、分教場もあったりで、日本の教育は、そんな山奥の子にも、機会を与えていたわけです。

山の中で、木の実を摘んでは食べた記憶があります。一番美味しかったのは、秋に熟した「木通(あけび)」でした。うす甘い上品な味の木の実でした。ヤマメの魚影を眺め、冷たい沢の水に足をつけ、空気も鳥の鳴き声も、梢を揺する風の音も、原始そのものでした。

今のコンクリート造の家が、〈終の住処〉になってしまうのでしょうか。最近、引越しの虫が、また騒ぎ出してきて、次の街か村に狙いを定めているところです。叱られて、藪の中に、藁を集めて寝入った、あの時の土や枯れ草の匂いが、漂白の思いを刺激しています。芭蕉の「奥の細道」の冒頭に、

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。
よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋にくもの古巣をはらひて、やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず。
ももひきの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

  草の戸も 住替る代ぞ ひなの家

面八句を庵の柱にかけ置く。

とあります。江戸の随分と辺鄙な所に、芭蕉の庵があって、21世紀の今でも、江戸とは思えない所に住んでいたのです。ああ、この〈騒ぐ虫〉をどう抑えられるのでしょうか。もう五月が、過客の様に行って、六月になってしまいました。

私のペンネームは、〈寄留者〉です。華南の街に住んでいた時は、それに〈大陸の〉を冠して、呼んでいました。〈便利さ〉よりも、『もっと人間らしく、つまり自然と一体になって生きて行きたいな!』と思うこと仕切りです。今度は、「破屋(はおく/やぶれや)」に、〈開拓民〉と呼ばれて住んでみたいのですが、それには年齢制限があるでしょうか。
 
(木通(あけび)の花です)

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落語の醍醐味は、「間」にあるのではないかと思っています。話の間に、短い沈黙を置くのです。『次はなんて言うのか?」』を考えているのでも、次の言葉に期待を持たすためでもなさそうです。なんともいえない、潤滑油のような「間」なのです。

結構、長い話をするのですから、たまには〈ど忘れ〉だってありそうです。話が詰まってしまうのです。それを、「間」にして、上手にやり過ごしています。

噺家(はなしか)で名人と言われた六代目の三遊亭円生は、6才の時に、20ほどの演目を持って、高座に上がるほどだったそうです。通常、真打は、30~40年の間に努力して100席ほどが普通なのだそうです。ところが円生師匠は、何と300席を、いつでも、どこでも自在に演じることが出来た方だったそうです。『え~一席、ばかばかしいお話を・・』と、よどみなく話し出す落語なのですが、それだけ、たゆまぬ研鑽を積まれた円生師匠に敬意を覚えさせられたのです。

この円生師匠でも、噺を〈噛む〉ことが、ままあったのです。でも上手に、次に続けてしまうのです。それも噺家の手連れ(てだれ)の技なのでしょうか。それでも、落語家のみなさんが、決して言わない言葉(?)があります。聞きづらい『えー』、『あのー』です。その代わりに、「間」があるのかも知れません。

〈間抜け〉と言われたことが、私にもあります。これを、“ 笑える国語辞典 “ では、『間抜けとは、おろかで要領が悪いこと、また、そういう人をいう。「間」とは、物と物や音と音に挟まれた「抜けている」部分を意味し、「抜けているところ(間)」が「抜けて」いるとは、「抜けているところがさらに何かが抜けている」のか、「抜けているところがちゃんと抜けていない」のか、いまいちよくわからない言葉だが、要は「抜くべきところ(間)」の抜き方が悪くて、物と物や音と音の間隔がアンバランスになっていることをいうらしい。もっとも、語源についてあれこれ考えなくても、間抜けなやつというのはふたことみこと言葉をかわせばすぐ判別できる(自分が間抜けだったら、わからないかもしれないが)。』とありました。

人生にも、この「間」があります。今回の騒動で、強制的な「間」を、私たちは持たされたのですが、それを、〈与えられた間〉と理解したいのです。次が輝いたり、落ち着いたり、楽しくしてくれる「間(余裕)」になります様に!

("pitarest"の裂け目(間)に生える雑草です)

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生かされたこと

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人の願いのうちには、後世に、〈自分がいたことの証〉を残しておきたいと言う願望があるのだそうです。そういえば、一国の大統領や首相を務めた方は、将来の叙勲の前とは別に、在任中の国家への貢献を形で残したいと願う様です。

名を残すだけではなく、例えば、条約の批准、公社民営化、憲法改正など、『あの領導は、こんなに偉大な事業を成し遂げられたのです!』という称賛を、自分と家族、そして一族が受けることを切望するのです。

秀吉は、聚楽第や大阪城の造営や、朝鮮出兵で国土の拡張、豊臣一族の繁栄と栄華を求めましたが、六十年の生涯を終え、『難波のことも夢のまた夢!』と思い返して、何一つ持つことなく、棺が彼を納めたのです。あの栄誉や奢りはどこに行ってしまったのでしょうか。関白職を受け継いだ姉の子・秀次は切腹させられ、秀頼は自害、豊臣は露の様に失せたのです。

次いで天下を収めた徳川家康は、百家争鳴の戦国の世を平定して、長期政権の基礎を据えましたが、七十五歳で亡くなり、久能山と日光に、亡骸は葬られました。家督を息子や姻戚に譲らねばなりませんでした。まさに栄枯盛衰、人の命は、かくも短いものなのです。富と地位を得ても、王も将軍も大統領も首相も、寿命には勝てませんでした。

『虎は死んで皮を留める!』のだそうですが、いったい、自分は何を残すのか、考えてみましたが、何一つ見当たりませんでした。内村鑑三は、『金を残せ!』そうできなかったら『事業を残せ!』、それもできなかったら、『思想(書)を残せ!』と言いました。歴史を見て、そうできた人は、ほんのわずかでした。そして、もう一つ、これなら誰にもできることを上げたのです。『勇ましく高尚な生涯を生きよ!』とです。

私の恩師は、書を残し、弟子を残しました。私の書庫には、その本がきちんと納められていて、時々紐解きます。ところが私は、一冊の本も著すことがありませんでした。また一人として弟子を持つこともありませんでした。さりとて、勇ましくも、高尚でもなく、凡凡たる生を積んできただけです。

この凡庸とした生を、どう言ったらよいのでしょうか。自分で、自分の生を肯定でき、感謝でき、満足を覚えるなら、それでよいに違いありません。欠点の多い私を、多くの方たちの忍耐や激励や諭しが与えられて、『生きよ!』と声を掛けてくださり、他方面にわたって助けてくださいました。

一人の妻の夫であったこと、四人の子の父であったこと、幾らかの学生の教師であったこと、そう生きられたことを感謝しています。100まで生きたいのですが、こればかりは自分では決められません。ただ定められた来た道を、さらに前に向かって、一歩一歩と行くのです。生きたこと、いえ《生かされたこと》で満ち足りたいのです。

(「アマナイメージズ」の張子の虎です)

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