孤高

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「孤高」と言う言葉があります。「孤高の人」を考えてみると、独房に収監されている人とか、詩人、失恋してしてしまった人など、孤寂(こせき)を覚えている人の様子を言うのかも知れません。

職業としては、裁判官や検察官が、そんな感じを漂わせている仕事かも知れません。厳しく人に接しなければならないので、人との交際にも、言いようもない厳しい制約を自らに課さなければなりませんから、とても孤独な立場にあるのだろうと思っていました。

学生時代の友人でも、親友でも、反社会的な立場にある人とは、闇雲なく交際を表立ってすることはできなさそうです。 ずいぶん窮屈な生き方が強いられていて、大変そうだと思ってしまいます。

そんな窮屈さの中で、そんな立場の人たちにも息抜きが必要に違いありません。登山や釣り、サイクリング、家庭大工、個人ゲームなどは、かえって無聊(ぶりょう)をかこつことになってしまうので、よくないかも知れません。

そんなで、立場を弁えてくれる仲間と、卓を囲みたくなるのかも知れません。食事だったら良いのでしょうけど、件(くだん)の人は、麻雀卓を囲んでしまった様です。時期も悪かったし、囲んだ仲間もよくなかったのです。しかも、賭け麻雀をしてしまいました。

私の父がお世話した方の中に、苦学して検事になった方がおいででした。東京地検の検事で、お相撲さんが花札賭博をして、検挙したことがあったのです。有名な相撲取りでしたが、相撲の勝負も、賭け事にされてしまう様な仕事なのだと聞いていましたから、それでもやってはいけない〈御法度〉の遊びでした。その記念品の花札を、小学生の弟が、この方からもらってきたことがありました。『大人になってするなよ!』の教えと共に。

お相撲さんはともかく、検事さんが賭け麻雀をすると言うのは、お相撲さんがするのとは違います。『仕事がキツくて、息抜きが欲しくてつい!』と言い訳のできない立場です。発覚しても、責任を取らない、潔くない人が、人を罪に定めてきたとするなら、《法》とはなんなのでしょうか。

そんなことを言う私なのですが、潔白な人間なでどではありません。だから、人を裁く立場には立てないのですが、教師になった時、『若気の至りで!』と言う言い訳を捨てて、《聖職者》の責任を重く感じて、悪い習慣を断ちました。それは、自分としても信じられない様な決断でした。

裏表なく生きていく決心をし、夜遊びに誘惑されていた若気の至りを、振り切ったのです。『赤い顔をして生徒の前に立たない!』、そんな単純な決心でした。教師をやめても、その生き方をし続けて、今日に至りました。あの二十代の決心、『どこを切っても、切られても潔くある様に!』は正解でした。面白くなさそうですが、けっこう楽しく生きてこれました。

喧嘩別れして、友情を犠牲にしてしまう〈賭け麻雀〉をよく見てきました。競輪狂いで家庭を壊した人もいました。今、「総長」になれなかった男が、惨めそうに見えて仕方がありません。「孤高を持する人」であった方が、良い一生になったのでしょうに。「孤高」とは、〈俗世間から離れて、ひとり自分の志を守ること〉と、「六法全書」に、いえ普通の国語辞書に、そうありました。

(「孤高の山」の男体山です)

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