滋賀県

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作詞が小口太郎、作曲が吉田千秋作曲(イギリス民謡「ひつじ草」を下敷)で、第三高等学校の歌として有名な「琵琶湖周航の歌」があります。

われは湖(うみ)の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
昇る狭霧(さぎり)や さざなみの
滋賀の都よ いざさらば

松は緑に 砂白き
雄松が里の 乙女子は
赤い椿の 森蔭に
はかない恋に 泣くとかや

波の間に間に 漂えば
赤い泊灯(とまりび) (なつか)しみ
行方定めぬ 浪枕
今日は今津か 長浜か

瑠璃の花園 珊瑚の宮
古い伝えの 竹生島
仏の御手に 抱かれて
眠れ乙女子 安らけく

矢の根は深く 埋もれて
夏草しげき 堀のあと
古城にひとり (たたず)めば
比良(ひら) 伊吹(いぶき)も夢のごと

西国十番 長命寺
汚れの現世(うつしよ) 遠く去りて
黄金(こがね)の波に いざこがん
語れ我が友 熱き心(むね)

 近江八幡市は、日本最大の湖の琵琶湖の岸にあって、風光明媚な街なのです。第三高等学校とは、今の京都大学の前身で、学府としては西の雄であって、多くの有名無名の器を送り出した学校です。その学校の漕艇部(ボート)は、この琵琶湖を練習の場としていたのです。今津の浜の宿で、小口太郎が詩を書き上げ、三高の寮歌になったのです。小口も作曲家も、二十代前半で亡くなっています。

 この滋賀県は、律令制下では、「近江国」と呼ばれ、京の都の近く栄えた地でした。そこは、「近江商人」と言って、正直さを売りにする訪問販売などに従事した商いをした人たちの出身地なのです。この人たちが掲げたのが、「三方よし」でした。「売り手よし」、「買い手よし」、「世間よし」で、正直な商いをしてきて有名です。私の家から北の方に、「かましん」と言うスーパーマーケットがあって、その近江商人の釜屋新兵衛が、明治期に創業しているそうで、その「正直」を売っています。

 メンソレータム(今は、商品名がメンタームと変わりました)で名の知れていた「近江兄弟社」が、滋賀県近江八幡市にあります。そこに、近江兄弟中学・高校があって、「滋賀県私学教育研修会」が開催され、事務局の責任をおおせつかっていたので、出張したことがありました。そこでお会いしたのが、実に温厚な校長先生でした。ご一緒に食事をした時に、若いだけの私に、丁寧で誠実なお相手ををしてくださったのが印象的だったのです。

 その高潔な人格に触れたことで、すっかり滋賀県の印象が良くなってしまって、今日に至っております。この近江兄弟社は、アメリカ人のヴォーリスと言われる方が始められたキリスト教の背景の建築会社やメンソレータムなどの販売会社でした。基督者で建築家のヴォーリスは、来日した際、英語教師として商業学校の教壇に立ち、後に、その信仰基盤でキリスト主義の近江兄弟社(現ヴォーリス学園)の中学高校を設立しました。

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明治期、文明開化以降、欧米の技術は、怒涛のように日本社会に入り込んできましたが、教育や思想やキリスト教などの精神的な面でも影響を受けるのです。近江兄弟社の創始者のヴォーリスもその一人でした。そう言った多くの宣教師の働きで、人々が救われ、札幌、弘前、横浜、近江、島根、熊本などに、キリスト教会が建て上げられていきました。

 また、父が働いていた会社の工場が、滋賀県下にあったでしょうか。東海道線に「米原(まいばら)」と言う駅があります。その近くだったと覚えています。父は東京本社勤務でした。その米原は、北陸本線への乗り換え駅( terminal )で、人や物が行き交うだけではなく、言葉や文化が行き交う場所なのだそうです。太平洋側の街に出掛けた方が、北陸の街に帰って行くために乗り換える駅です。人生の<交差点>とも言えるでしょうか。

 ある方が、金沢に帰ろうとして、北陸本線に乗り込む前に、駅弁を買ったのです。その様子を見ていた、ある人が、『北陸の人だね。』と声をかけたのだそうです。雪国の人は、雪が少ない米原の駅でも、背筋を丸め、狭い歩幅で歩くといった特徴を見破られたからでした。住む環境によって、人の習慣や癖までも作り上げて行くことがあるです。自分の所作の中にも、特徴的な何かがあるのかも知れません。(とんだ勘違いで、この項を、岐阜県の記事に載せました。米原は滋賀県でした。ごめんなさい。)

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県人口は141万人、県都は大津市、県花はシャクナゲ、県木はモミジ、県鳥はカイツブリです。歴史的にみますと、第38代の天智天皇の時には、近江大津宮には、都が置かれたこともありました。京都,大阪をひかえている地理的な関係で、大都市への供給の農産物とくに、米やお茶の生産にあたってきた歴史がありますから、農業県とも言えそうです。琵琶湖からは鮎やシジミがとれています。近来は、工業生産圏として、大きな地歩をしめている県でもあります。

近江国といえば、彦根、彦根といえば、井伊直弼(なおすけ)の出身藩で、徳川末期の大老として、43歳で幕政にあったのです。江戸城の桜田門外で、暗殺されています。部屋住の経験などがありましたが、そんな苦労をしていた上、聡明だったので、有能な指導者でした。私たちに住む街の隣町は、佐野市で、そこは彦根藩の飛び地であったために、市内の寺に直弼が祀られています。安政の大獄で刑死した吉田松陰は、この井伊直弼を高く評価しています。

県都の大津には、天智天皇の御代に、都が置かれましたから、近江国人にとっては、「滋賀の都」であり、信州岡谷出身の作詞者の小口太郎にとっても、漕艇の琵琶湖は、かつての栄光を湖面に写して見え、誇らしく思えたことでしょう。

華南の街で出会った日本で牧会をしておいでの方と、今もお交わりがあります。彼は滋賀県下で奉仕されておいでなのです。家内と私は、貧しいみなさんに古着を、大連に運んだことがありました。この牧師の若い時期に、大連の学校に留学されていて、日本人基督者の集会のおいでになっていたのだそうで、私たちが訪ねたことを覚えていてくださったのです。そんな私の滋賀です。

(ヴォーリスの設計した川口教会(大阪市西区)、石楠花です)

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恐怖か勝利か

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 衝撃的な、戦後の若者像を、石原慎太郎が描いたのが「太陽の季節」でした。この本は best seller で、sensational  を巻き起こしたのです。でも描かれた若者は、主流ではなく、湘南に生きる、豊かな家庭で生きる青年たでした、その実態を、興味深く書き上げていたのです。芥川賞受賞作品で、作者は現役の大学生でした。一躍、時代の寵児となり、小説が映画化すると、弟で、当時の湘南で生活をしていた裕次郎が、その生態を演じて、大スターとなっていきます。あの時代に作られたhero だったわけです。

 髪型も〈慎太郎刈り〉が流行し、私も、中学では坊主頭でしたが、高校に入ると、慎太郎刈りに近い、〈スポーツ刈り〉にし、裕次郎の足を引きずるような歩き方を真似て歩いていました。足りなかったのは、小遣い銭だったでしょうか。かえって、それが深刻な不良になるのを抑止したかも知れません。

 兄は知的に、弟は自由奔放に生きていて、この石原兄弟は、私たちより上の世代で、1950年代後半から青年期を過ごした者たちにとっては憧れでした。その石原慎太郎が亡くなられました。息子の良純さんが、次のように語っていました。

 お父さんは、こう言っていたそうです。『俺はいい人生だった!』とです。良純さんは、『本当に楽しくいろんな人に支えられて生きてきた人だったと思うけど、89年間、それをやり続けて亡くなる最後の2週間はつらかったと思っているんです!』、一方で、『普通、余命宣告したら、そこでいろいろ思うじゃない?ウチのオヤジ、すぐ立ち直って医者に俺の何がわかるって思うワケ。そこで変わらない・・・最後ずっと怒ってたもんね、なんで俺が調子悪くて寝ていなくちゃいけないのかって!』と続けます。

 『生命力の強さみたいな、自分が前へ前へ進んでいくことだけに執着して生き抜いてきた人だから、肉体が滅びたときに自分の精神はなくなってしまったら、その先は、ないっていう・・・最後の2週間でその恐怖心みたいなものが芽生えて本当に動けなくなった・・・その最後の2週間以外はずっと前を向いていた!』、そう父を語っています。

 だれにも、死の恐怖があるのでしょう。死に対して、人は勝てないのでしょうか。聖書に、次のように記されています。

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 『しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。  「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」  しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。 1コリント15545557節)』

 ローマ帝国の支配下の基督者は、ネロ帝の元で迫害を受けました。闘技場で放たれた飢えたライオンに噛み砕かれ、また火に焼かれました。しかし天国に凱旋する希望と復活の約束を信じて、死を恐れなかったと伝えられています。なぜなら、『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(2テモテ110節)』、そう信じたからです。

(“アニーお笑い体験マガジン” 、 ”キリスト教クリップ“から)

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貯蓄

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– cartoon illustration of an ant with sack full of berries

 

 『われ太平洋の橋とならむ!』と、入学面接で語って、その夢を、国際連盟の事務次長の職を務め上げて果たしたのが、盛岡藩士の子で、札幌農学校や一高で学び、アメリカやドイツで学んだ、新渡戸稲造でした。フレンド派の Quaker 教徒として、科学と信仰を両立させた人物です。

 私は、個人的に若い時に、この方の書物を読んで大きく啓発されたのです。15歳で入学した札幌農学校では、active (活動家)とあだ名される、教師と殴り合いをするほどの荒くれの問題学生だったのですが、キリストを信じて以降、同じく信仰を持った同級の内村鑑三たちから、Monk (修道士)と呼ばれるほどに柔和な人になったと言う話が好きで、いっぺんに新渡戸の自称《弟子》になってしまいました。

 この新渡戸稲造の友人の森本厚吉が、東京で始めた女子経済専門学校の校長を、晩年の1929年から数年務めたのです。その学校で、私はしばらく勤めさせていただきました。そんな縁があって、なおさら、その影響力は大きいのかも知れません。

 この方が、「修養(1910年刊)」と言う題の本を書いています。『いかに誹謗を受けても、自ら楽しみ、いかに逆境に陥っても、そのうちに幸福を感じ、感謝の念をもって世を渡ろうとする。それが僕のここに説かんとする修養法の目的である。』と、その総説にあります。

 この本の中に、「貯蓄」と言う項があります。聖書の「箴言」にも、次の様にあります

『なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言6611節)』

 新渡戸稲造は、貯蓄には四つのものがあると言っています。

金銭の貯蓄

 日本人には「余力」が不足していると言います。『今日あって明日なき命!』という生き方は、格好はいいのですが、通常は、明日は必ず来るのですが、積極的で合理的であるべきなので、計画的に金銭の貯蓄はすべきです。『貯蓄心のある人は、善良な国民である!』と言っています。ジョンズ・ポプキンズ大学を創設したポプキンズは、貯蓄と節約をして生きた人で、大学だけではなく、病院まで建てています。5セントの電車にも乗らずに歩いて、蓄えたほどだったそうです。公共的なことに、その貯えを使った人でした。

体力の貯蓄

 日本人は〈戦国的道徳〉を受け継いでいて、遠い将来のことを考えるのは、卑しいことだとして、飲めや歌えの不健康な生き方をする傾向があるそうです。青年が血気旺盛な時に、体力を浪費して、老いては病気に悩むのです。虚栄心や享楽を避け、衛生上にも身体的な健康を保つことが必要です。悪習慣から離れて生きることが良いのです。

知識の貯蓄

 結婚して、ご主人が肺病に罹ります。一年の余命宣告を受けたのですが、ご主人は知識欲旺盛で、取り寄せた英字新聞を、ご夫人が読み聞かせて、病床の夫を慰め励ましたのです。その広告欄に載っている新薬を取り寄せては、それを服用させた結果、寿命が5年も伸びたのです。それは不要無用と言われた英語を、ご夫人が若い頃に学んでいた結果でした。蓄えた知識は、そんなことをさせてくれる一例です。知力を涵養することの大切さが分かります。

徳の貯蓄

 これは、『職業の貴賎、金力の有無、社会階級の高下、身体の強弱に関係なくできる。』、大切なのは、しようとする「意志」の問題だと言っています。徳を積むことによって、闇夜も恐れることなく朝を迎えられ、朝日の輝くのをみると、心がそれが反射してくるのです。資本や書物がなくとも、徳を蓄えることはできます。自分の境遇を、ありにままで感謝して受けとめ、嬉々として生きられるのです。

 私の最初の説教は、「蟻の貯蓄」について、阿蘇山の麓のキャンプ場で、その多くは学生さんたちでした。その集いで話をさせていただきました。あの夏の光り輝く光景を、昨日のように覚えています。結婚したばかりの夏のことでした。

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 『目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。(詩篇4026節)』

 毎晩、ベランダに出て、夜空を見上げるのが習慣になってしまいました。大気が綺麗なのでしょうか、煌(きら)めく星が見られます。バス通りの車や人や店ではなく、天然の世界は、人の心を和ませ、はるか神秘の世界に誘(いざな)われるようです。春や夏によく出かけた、八ヶ岳の「少年の家」から見上げた星空が、驚くほど雄大であったのを思い出します。そこには、「プラネタリューム」があって、一緒に出かけた子どもたちが、見上げているうちに眠ってしまうほど静かで、幽玄で、まるで宇宙に引き込まれてしまうほどだったのでしょうか。

 福岡の大分との県境に、お茶の名産地で有名な八女市があります。そこに、「星野村」があって、友人に連れて行ってもらったことがありました。名前の様に、まさに「星の村」なのです。綺麗な星空が広がって、「星のふるさと」とか「日本で最も美しい村」の一つだと言っていて、小さいのですが、有能な天体望遠鏡を持った天文台もありました。

 小学生の頃だったでしょうか、父親にひどく叱られて、家に入れてもらえなくて、山の木の間に、藁や枯れ草を敷いて、泣きながら夜空を見上げて、一晩を過ごしたこともありました。涙が光っていたのか、星が光っていたのか、真っ暗闇に星が瞬(またた)いていたのが、今でも星を見上げると、懐かしく思い出されます引き込み線に停めてあった、貨物車の後尾にあった車掌室で寝た日もありましたが、そこでは星空の記憶はありませんが。

 何といっても、星空が一番大きかったのは、内モンゴルの省都フフホトの郊外に連れて行ってもらった時に、見上げた大パノラマの世界でした。本当に、<降る様な>と形容するほど、満天の星の煌めきに圧倒されたのです。あんな世界に生きていたら、この地上に起こることなど、本当にチッポケなものにしか思えなくなります。自分の存在が小さくも見え、何か、星の世界に吸い込まれるかの様だったのです。

 脳梗塞の後遺症で、リハビリをしていた方を、時々車に乗せて、病院に通ったことがありました。先年、亡くなられたのですが、この方が、釣りが好きで、カナダまで行くほどでした。その方を励まそうと、『元気になったら、オーロラを観に、アラスカに行きましょうね!』と誘ったことがありました。果たせなかった約束ですが、天然の世界は、人の作った世界にない「夢」があるのです。

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ball in the field

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 明治の少年たちが、base ball に魅せられて、ball を投げ、打ち、取り、ベースを走って、日暮れを忘れて興じた姿は、戦後の物のない時代、母親の手作りの道具で、横丁の空き地に線を引き、三角base で遊んだわれわれ世代と同じ楽しみや興奮があったのでしょう。

 一高に学んで、ball in the field base in the field  野球)を大いに楽しんだ松岡子規が、次のような句を詠んでいます。

久方のアメリカ人にはじめしベースボールを見れど飽かぬかも

今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな

九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり

 1902年、34歳の若さで、結核で亡くなった子規が、こよなく愛し、自らも元気な時には興じ、病をえて地元に帰って、母校の松山中学校で教えたのが、子規の野球でした。21世紀の日本人選手が、野球発祥のアメリカのリーグで、活躍するなどと、まさか予想もしなかったことでしょう。

 父も、次兄も、二人の孫たちも、彼らを熱狂させ、させている野球ですが、実に面白いsports ではないでしょうか。日本では、すでに camp in したプロ球団が、今年も戦うのですが、American League では、労使の紛争が未解決で、開催できるかが危ぶまれています。

 隣家のご婦人が、有名校の野球部顧問をされていて、東京六大学に進学した卒業生が送ってくれたと言って、野球の ball  の何倍もある、大きな梨を昨秋、いただきました。野球の味はしなかったのですが、とても美味しく食べたのです。

 スタルヒン、沢村、小鶴、青田、千葉、大下、与那嶺、稲尾、別所、藤尾、江夏、衣笠、吉田、落合、台湾の嘉義農工、カナダのバンクーバ朝日などなど、野球の話は尽きません。

 市の北の運動公園があって、そこの野球場で、市内の中学校や県内の高校の大会が行われるのですが、この2年、野球関係者でないただの市民は、コロナ禍もあり、stand に座ることも許されず、外野のfence の隙間から覗き見しているおじさんの肩越しに眺めただけでした。

 試合を待っている選手たちから、『こんにちは!』と元気な声が掛けられて、何とも嬉しいのです。高知に行った時に、名門校に留学した青年の入学式に、親御さんの代理を買って、行った時も、grand の横を rent-a-car で通った時に、大きな ground で練習をしていた選手たちが、同じような声をかけてもらい、いい気持ちでした。それで応援せずにはいられなくなってしまったのです。

 母の故郷の島根県代表が、岩手の盛岡の高校と戦っている試合を、上海からの船が大阪南港に着いた私、〈上海帰りのジュン〉は、乗り換え駅で、応援に駆けつけるおばさん軍団に、ticket をもらったので、おばさんたちの後について甲子園に行って、三塁側の外野 stand  から応援したことだってあります。

 まだ catch ball ができるでしょうか。野球部の catcher の次に遠投記録を持っていたのですが、試してみたい思いで、暖かくなったらやってみようかなの「立春」です。

(Illust eakika によるイラストです)

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 聖歌に、「春をつくられた神」があります。

原に若草が青く萌え出すと

雪解け水が高く音立てる

私たちも春の喜びを歌おう

春をつくられた神さまを歌おう

 2週に一度ほど出かける、わが家のベランダから眺められる、今年の大平山は、雪の白景色を見せることがなく、春を迎えるのでしょうか。季節季節に山容を変化させてくれるのですが、流石、「立春」ともなると、枯れ木に蕾がついて、膨らんでくるさまが遠望できるのです。

 遠望だけでは満足できない私は、出かけて行って、その梢を見上げるのです。枯葉がカサカサと音が開いて、足元がにぎやかでしたが、何度か強い風の日があって、道の吹き溜まりにも、みう全く枯葉が見られなくなってしまいました。その代わりに蕾が出てきています。


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 参拝客は、階段を登って行きますが、 trekking   の私は、登山道はキツ過ぎて、車道を歩き、途中でコースを外れて、横道に行くのです。最近は、折り畳みの杖を買い込んで携行し、キツくなると背のリュックから下ろして使うのです。猪が出てきたらと、木こりの鉈(なた)も潜ませているのです。

 山がワクワクしている様に、私の心にもワクワクした、春への期待が高まってきています。もう「立春」ですね。山の中を歩き、巴波川の脇道を歩いていると、花や草木や鳥や魚を眺めていると、コロナを忘れられて、創造の天然を楽しめるのです。

 (三期目の胡蝶蘭が今朝開き、咲きました)

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質問

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 『しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。 (ルカ1228節)』

 よく質問されたことがありました。『神が愛なら、どうして?』と言われるのです。どうして人に不幸があるのか?、病人、障害者、孤児、悪党がいるのはどうしてか、なぜ悲惨な地震や津波や飢饉が起こるのか、などと言うものです。

 私の母は、生まれるとすぐに、養女に出され、養父母に育てられています。一度、小学校一年生の時に、母のふるさとを訪ねたことがありました。母にお小遣いをもらおうとした時に、『無駄遣いはいけない!』と、厳しくおばあさん(母の養母)に注意されたのを覚えているのです。それで、今思うに、母は放任ではなく、しっかりと躾を受けて育てられたのが分かります。

 ですから両親に捨てられたのですが、養父母に愛されたのだと思います。養父は早く亡くなって、養母の手で育てられたようです。でも、友だちには兄弟や姉妹がいるのに、自分は一人ぼっちだったのが寂しかったと、私に、母が言ったことがありました。

 母が幾つの時か聞きませんでしたが、自分が、この母の子ではなく、お母さんは奈良に、お父さんは下関にいる、と言うことを聞いたと話してくれました。そんな母を、教会学校に連れて行ってくれた幼馴染がいたのです。そこで、聖書に記される神さまが、「父」であると教えられ、〈父(てて)無し児〉の自分に、《本物の父親》のいることを知って、大変に慰められ、喜んだのだそうです。

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 『お転婆だった!』と、母の親族で、母の子ども時代を一緒に過ごした、同世代のおばさんから、そう聞いたのです。その母は、讃美歌を歌い、聖書のお話を聞くこと、何よりも、「父である神」に祈ることで、孤独が慰められていたのです。それで熱心に教会に通っていた母の信仰について、『耶蘇は親の面倒を見ない邪教だ!』と養父母に告げ口をしたのです。それで教会に出席するのを禁じたのです。

 そんな母を、『台湾に売り飛ばしてしまえ!』と言って、そうされかけた時に、教会に知らせてくれる人がいて、教会は地元の警察に話し、警察は母を保護したそうです。命からがら、人身売買の難を脱れることができたのです。

 「サンダカン八番娼館底辺女性史序章(山崎朋子著、1972年刊)」と言う本に、天草の貧しい家から、ボルネオに売られた「からゆきさん」が描かれています。映画では、母と同級の田中絹代が、サキを演じていました。母は、ボルネオではなく、台湾に売られるところだったのです。やがて父と出会って結婚し、父の子四人を産んで、育ててくれました。自分の人生の不幸を、創造者の所為にしたのではなく、不幸を転じて幸福に変えてくれた神を認め得たのです。

 神は、意地悪をされるような、冷酷な方ではないことを知ったので、母の95年の生涯は、素晴らしかったのではないでしょうか。

 草を装うように、いえそれ以上に、母は祝福された一生を生きることができたのです。それを聖書は、『神のわざが現れるため』であったと言います。人の周りに起こる不都合さの原因は、人にあります。そう人の「罪」によるのです。その罪を、人が認め、その罪を赦すために、イエスさまが十字架、代わって死んでくださったことを信じられて、母は基督者として生き、夫も子たちも、孫たちも、その信仰を継承し得たのです。まさに、「よくしてくださる神」と出会ったから、いえ、神に見つけ出されたからです。

(熊本の天草、キクを演じた田中絹代です)
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如月

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 作詞が相馬御風、作曲が廣田龍太郎の「春よこい」があります。

春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている

春よ来い 早く来い
おうちのまえの 桃の木の
つぼみもみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている

 今日から二月、旧暦だと「如月(きさらぎ)」と言います。この月名は、まだまだ寒さが厳しい時季ですので、上着や下着をもう一、二枚と重ね着したいと、どなたも思うのでしょう。それで「衣更着(きさらぎ)」になったのだそうです。お隣の中国でも、「如月ruyue」と言ってきていますが、通常は「二月eryue」なのですが、月の呼び名も、大陸との関係があるわけです。

 寒い冬が終わり、春に向かって万物が動き始める時期という意味があります。つまり、同じ漢字を使っているものの、「きさらぎ」と「にょげつ」で表している意味は違っているということになります。

 英語ですと February と言います。Februaryは、ローマ神話の月と贖罪の神「フェブルウス(Februus)」が由来なのです。『古代ローマでは、戦争で亡くなった戦士の霊を弔うために、毎年2月に慰霊と浄化のお祭りである” Februa”を行っていました。フェブルウスはこのお祭りの主神とも見られ、お祭りの名称もフェブルウスから取られています・・・』(Kiminiブログから)

 私たちの家のベランダから、西に「大平山」がみえるのですが、山肌が、枯葉色から盛り上がるような薄ピンクのような感じがしてきているのです。実際に先週、この山に行ったのですが、芽がふくらんでいるのが確認できたのです。春到来の準備万端が整っているのでしょう。

 この歌に出てくる「みーちゃん」は、作詞者の御風のお嬢さんだそうで、1921年(大正10年)に生まれているとのことで、母より三歳年下だったのですから、想像がふくらんでしまいます。雪深い新潟県糸魚川生まれですから、なおのこと、春を待って、外を「じょじょ」を履いて歩きたい思いが強かったに違いありません。

 この歳になっても、春の到来は、コロナ終息の願いと共に、どなたの思いの中でも強いのでしょう。わが家のベランダでは、ペチュニア、ラベンダー、ガーベラ、カランコエ、金魚草の花が、今朝など零下4℃の寒さを耐えて咲いています。

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まさか

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 栃木駅前から、目抜き通りだったと聞き、この3年ほど、散歩や買い物で通っている「みつわ通り」や「銀座通り」は、まるで休眠状態の商店や、住まなくなった民家が、ずっとそのままでした。一昨年の巴波川の氾濫があってから、一軒一軒と取り壊されて、さらに歯抜けのような状態になってきています。この辺りの住民は、栄えていた時代を知っていらっしゃるので、その寂しさは一入だろうと思ってしまいます。

 ところが、最近は、その更地で新築される工事が進んでいて、その槌音がよく聞こえるようなってきています。街というのは、何代も何代も住み続けるのかと思うと、どうもそうではなく、処分されて売られ、新しい人たちが住み始めて、新しい街になっていくのでしょうか。『この辺は、昔・・・』と言い出す人たちも、だんだんいらっしゃらなくなっているのです。

 ラジオ体操仲間で、昭和初期にでも建てられたのか、時代を感じさせる一軒の理容店の主人がおいでです。石灰石の産地の鍋山辺りの出身のお父様の代に、この街で開業されたのだとお聞きしました。多くの街の人の頭を刈り続けて、今日まできておいでなのです。先日、その前を通ったのですが、店から、なにやら色々な箱が運び出されて、店の脇に置かれていたのを見て、いよいよ廃業されるのかと思ったのです。ところが、一昨日、散歩で店の前を通りましたら、あの理容店の赤青白の広告塔( Barber’s pole /赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表しています)が回っていて、営業しておいででした。

 この地で知り合った方が、『亡くなった夫も義父も叔父も、みんな髪を刈ってもらった床屋さんなんです!』と言っておいででした。職業柄、街の人の動きなどの情報を持っていて、この街で生き続けてきた顔なのでしょうか。近くに明治期から続く旅館があってたそうで、そのお嬢さんが有名な女優さんの実家だったそうですが、今は、コンビニに変わってしまっているようです。

 そう言えば、ラジオ番組の担当者( personality )が、長い留守中に聞かなかったこともあって、いつの間にか代替わりしていて、ある方は、もう亡くなったと聞いて、時の移り変わり、街の移り変わり、人の移り変わりは、流れゆく川の流れのように、〈元の水、人、街にあらず〉なのだと、つくづく思ってしまいます。

 もう何年もすると、『ああ、この辺りに、ちょっと変わった老夫婦が住んでいましたね!』とか言われそうです。いつでしたか、子どもの頃に、キャッチボールや追いかけっこをし、父ともキャッチボールをしていた道を通ったことがあっのですが、全くの様変わりで、記憶と現実の差の大きさに、寂しくも感じたことがありました。

 生まれた家だって、50年前には、まだ建っていたのですが、その後に行った時には、傾いてしまっていました。最後に通った時には、跡形もなく片付けられていたのです。そんな同じ光景が、ここの街中に見られ、住む人も変わっていくのでしょう。『いたらしいですね。お嬢さんが近くに住んでおいでだそうです!』と、以前住んでいた人たちの様子が、朧げになっていってしまうのは、寂しくもあります。

 江戸や明治の世には、人も物も噂も、賑やかだったのでしょう。巴波の流れを眺めていると、そんな時代の人がそぞろ歩く下駄の音や、舟に棹さす水音が聞こえてきそうです。私にとっては、まさかの栃木、それなのに地元民のように生活しておられるのが不思議でなりません。栄えた下駄屋さんの看板だけが残って、空き家になっている前を、今日も通りました。
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ダシ

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 長田弘に、「ことばのダシのとりかた」と言う詩があります。

かつおぶしじゃない。
まず言葉をえらぶ。
太くてよく乾いた言葉をえらぶ。
はじめに言葉の表面の
カビをたわしでさっぱり落す。
血合いの黒い部分から、
言葉を 正しく削ってゆく。
言葉が透きとおってくるまで削る。
つぎに意味をえらぶ。
厚みのある意味をえらぶ。
鍋に水を入れて強火にかかて、
意味をゆっくり沈める。
意味を浮きあがらせないようにして
沸騰寸前サッと掬いとる。
それから削った言葉を入れる。
言葉が鍋で踊りだし、
言葉のアクがぶくぶく浮いてきたら
掬ってすくって捨てる。
鍋が言葉もろともワッと沸きあがってきたら
火を止めて、あとは
黙って言葉を漉しとるのだ。
言葉の澄んだ奥行きだけが残るだろう。
それが言葉の一番ダシだ。
言葉の本当の味だ。
だが、まちがてはいけない。
他人の言葉はダシにはつかえない。
いつでも自分の言葉をつかわねばならない。

 論理的でない言葉が横行している時代だと、この時代の言葉の問題点が指摘されています。言葉の正しい使い方を学んでいない、とくに若者が多くなっているそうです。学校では、習わないのです。ところで明治に活躍した文人の国語力には、驚かされてしまうのです。

 永井荷風が、「十六、七のころ」と言う文章を書いています。

 『・・・わたくしが十六の年の暮、といえば、丁度日清戦役の最中(もなか)である。流行感冒に罹(かか)ってあくる年の正月一ぱい一番町の家の一間に寝ていた。その時雑誌『太陽』の第一号をよんだ。誌上に誰やらの作った明治小説史と、紅葉山人(こうようさんじん)の短篇小説『取舵』などの掲載せられていた事を記憶している。

 二月になって、もとのように神田の或中学校へ通ったが、一週間たたぬ中(うち)またわるくなって、今度は三月の末まで起きられなかった。博文館が帝国文庫という総称の下に江戸時代の稗史(はいし)小説の復刻をなし始めたのはその頃からであろう。わたくしは病床で『真書太閤記』を通読し、つづいて『水滸伝(すいこでん)』、『西遊記』、『演義三国志』のような浩澣(こうかん)な冊子をよんだことを記憶している。病中でも少年の時よんだものは生涯忘れずにいるものらしい。中年以後、わたくしは、機会があったら昔に読んだものをもう一度よみ返して見ようと思いながら、今日までまだ一度もそういう機会に出遇わない。・・・』

 病弱な中学生の荷風は、すでに漢書を読んでいたのでしょうか。「中年以後」に、それを読み返したかったようです。時代が下るに応じて、日本人の国語力が劣ってきているのです。父や祖父の時代の書物には、きれいな言葉遣いがあって、言葉が選ばれているのです。今は、スマホやパソコンやタブレットの操作で、字を書かない時代になってしまって、それで、自分でも漢字力が落ちているのを感じています。「推」にするか、「敲」にするか迷った作者の表情を思い浮かべてしまいます。

 ネットサイトに、「難読漢字」が見られますが、時々読めるものがありますが、不必要な言葉もありそうで、何か興味本意のように思えるのですが、読めないと悔しい思いもしてしまいます。美しい言葉を受け継いできたので、荷風の年齢に少し加えて、「老年以後」に、明治や大正の作品を、「青空文庫」を開いて読んでみたいなと思っています。

 「ダシ」の効いた文章には魅力を感じます。昆布や鰹節や椎茸でとったダシは、化学調味料を極力使わないで食事作りをしている私には、母の味を思い出させてくれるので、懐かしい味がしてくるのです。古典も、そうなのでしょう。

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