與一様

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 『祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。』、高校の国語で、「平家物語」を学んだ冒頭の部分です。この書の「扇の的」の段は、次のように記しています。

 『ころは二月十八日の酉の刻ばかりの事なるに、折節北風激しくて、磯(いそ)打つ波も高かりけり。
舟は、揺り上げ揺り据ゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり。
沖には平家、舟を一面に並べて見物す。
(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。
いづれもいづれも晴れならずといふ事ぞなき。

与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光の権現(ごんげん)、宇都宮、那須の湯泉大明神(ゆぜんだいみょうじん)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。
これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度(ふたたび)(おもて)を向かふべからず。
今一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢外させ給ふな。」
と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。

与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。
小兵(こひょう)といふ条、十二束三伏(じゅうにそくみつぶせ)、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要際(かなめぎわ)一寸ばかり置いて、ひいふつとぞ射切つたる。
かぶらは海に入りければ、扇は空へぞ上がりける。
しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一揉み二揉み揉まれて、海へさつとぞ散つたりける。
夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、ふなばたを叩いて感じたり。
陸には源氏、えびらを叩いてどよめきけり。

あまりのおもしろさに、感に堪へざるにやおぼしくて、舟のうちより、年五十ばかりなる男の、黒革をどしの鎧着て、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)持ったるが、扇立てたりける所に立つて舞ひ締めたり。
伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)、与一が後ろへ歩ませ寄つて、
「御定(ごじょう)であるぞ、つかまつれ。」
と言ひければ、今度は中差取つてうちくはせ、よつぴいて、しや頸(くび)の骨をひやうふつと射て、舟底へ逆さまに射倒す。
平家の方には音もせず、源氏の方にはまたえびらをたたいてどよめきけり。
「あ、射たり。」
と言ふ人もあり、また、
「情けなし。」
と言ふ者もあり。』

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 これは、源義経の命を受けた「那須與一」が、平氏の軍との一戦、「屋島の戦い」で、海に浮かぶ舟の扇を、一矢を放って射抜くという話です。日本史の中の逸話として有名な話ですが、与一は、下野国(現在の栃木県)の那須岳の近くの出身でした。

 その武勲によって、兄たちは平家に与(くみ)したので、家督相続は、那須佐久山の父・那須資隆の十一番目の子の「與一宗隆」が継いでいます(佐久山城の那須地域では、領民は誇らしく、「お殿様」として接したのでしょう。

 大田原市では、この那須与一を「郷土の誉」としています。那須岳から吹き下す冬季の雪は冷たそうですが、郷土の名を挙げた人材だったわけです。ここ栃木では、誇る人や事物や名産や歴史的事件などに、「様(さま)」を付けるのです。例えば、宇都宮は「雷都(らいと)」と呼ばれるほど、雷で有名なのですから、これに、様をつけて「雷様」と、怖いものなのに愛称をもって呼んでいます。

 それで「與一様」と、親愛の情を込めて呼んでいるのです。「与一温泉」と名のついた温泉もあったり、マンホールの蓋にも描かれ、西瓜にも、その名をつけてています。『あるかな?』と思って探してましたら、「与一栗饅頭」がありました。

 すみよい街として、栃木県下では高く評価されているのです。この那須の出身で、若き友人のお話によると、夏場は涼しいので、都会からの移住者が多いのだそうですが、寒さの厳しい冬がやってきますと、みなさん尻込みをして、去っていく人もあるのだそうです。甲州八ヶ岳の麓の別荘地は、boom の頃は乱立するほどですが、やがてそれが去って、廃屋が点在していたのと似ています。土地の人は、寒さに耐えて生き続けてきた強さがあるのでしょう。

(美味しい「与一西瓜」です)

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春来

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 東側の窓を開けましたら、太陽の光が差し込んできたと同時に、四階の窓下は予備校の屋上で、そこに雪がうっすら積もり、その上を、陽を浴びて雪がキラキラと輝きながら舞っていたのです。奥山深山に行かなくても、旧宿場町のここでも、そんな光景を目にできて、喜んだ朝です。

 こんな朝、つい唇からついて出てくる歌があります。高野辰之の作詞、岡野貞一の作曲の「春が来た」です。

春が来た 春が来た どこに来た。
山に来た 里に来た、
野にも来た。

花がさく 花がさく どこにさく。
山にさく 里にさく、
野にもさく。

鳥がなく 鳥がなく どこでなく。
山で鳴く 里で鳴く、
野でも鳴く。

まさに窓に、屋上に、春の日差しがやって来たようで、やはり、ウキウキとした気持ちがあふれてきます。「聖書」に、季節を作り、四季を備えられた神のみ業が記されてあります。

『わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。(エゼキエル34章26節)』

太陽と地球に距離、地軸の傾き、地球の自転などなしには、春もやってきません人を楽しませる創造の神が、そうされた以外に、考えられない天然の理によるのです。どの村にも、どの辻にも、日本の神々がいて、それが分かると、習慣的に歩を止めて、合掌しては祈っていた男が、創造の神、摂理の神、義なる神と出会って改心し、基督者となりました。彼は生涯、その信仰を続けて終えたのです。それが内村鑑三でした。彼が、「寒中の木の芽」と言う詩を残しています。

一、春の枝に花あり
  夏の枝に葉あり
  秋の枝に果あり
  冬の枝に慰(なぐさめ)あり

二、花散りて後に
  葉落ちて後に
  果失せて後に
  芽は枝に顕(あら)わる

三、嗚呼(ああ)憂に沈むものよ
  嗚呼不幸をかこつものよ
  嗚呼冀望(きぼう)の失せしものよ
  春陽の期近し

四、春の枝に花あり
  夏の枝に葉あり
  秋の枝に果あり
  冬の枝に慰あり

自ら、かつては、「憂に沈むもの」、「不幸をかこつもの」、「冀望(きぼう)の失せしもの」であったのに、喜ぶ者、幸福なる者、希望ある者とされた喜びが、内村に与えられたのです。基督者であるが故の不都合な事態があっても、自らの弱さがあっても、友や弟子に裏切られ、娘を亡くしても、青年期に出会った義なる神、救い主キリストと離れることはありませんでした。

内村は去り、時は移り、季節は巡り、令和の御代になっても、天然自然は不変に、忠実に運行されています。

(2月17日朝、家内が朝日の中に雪の舞う様子を撮りました)

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本地の歴史

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 ここ栃木市は、かつて足利藩だったことを知って驚きました。足利は、日本史で学んだ足利氏の支配した地で、室町幕府(1337年)を起こす前、清和源氏の流れを汲み、下野源氏の一族でした。鎌倉幕府の時期には、御家人の要職にあったのです。下野国の足利庄に在を置き、「坂東(ばんどう/関東地方の古称です)の雄」でした。鎌倉幕府を滅した後、あの足利尊氏が征夷大将軍に着き、京都に幕府を開いたのです。

 数年前に、足利学校を見学しました。平安時代に初期に創設され、「坂東の学校」として前途有為の若者を集めたようです。宣教師のザビエルも、その国元のイスパニアに書き送った書状で紹介しています。日本中から学ぶ者がやって来て、論語などから孔子の思想を学んだのです。

 イギリスのオックスフォード大学は、1096年に、最初の講義が行われたそうですから、それよりもはるか昔に、足利学校は開校されていたことになります。日本最古の高等教育機関だったことになります。足利市民は、ここを「足利様」と親しみを込めて呼んできたのだそうです。庶民からの支持があって、応援が飛んでいたと言うことでしょうか。

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 源頼朝も足利尊氏は、元々は、源義家(平安期)を祖とした一族で、源氏の天下は長く続いてきているわけです。ですから、「驕る平家」は、日本に全土に、落武者となって散っていき、農業に従事して、二度と天下を狙うことはなかったわけです。県北の湯西川には、落人部落だったと言われ、温泉で注目されています。室町幕府も、15代まで続くのですが、織田信長によって義昭が追われ、その時点で滅びています(1573年)。

 農民も商人も職人も、覇権競争の外にあって、畑地は踏み荒らされたり、家は焼かれても、再び地を耕して種を巻き、稲を植え、家を建て直しては住み続けて、営々と生活を続けてきているわけです。散歩道に巴波川の流れを眺めるのですが、舟運に従事した人々は、荷を舟に載せたり下ろしたり、舟の櫓を漕ぎ、舟を曳きながら生きていたのを思ってみますと、農も商も工も、日常は平凡な労働の繰り返しだったことになります。

 政権交代が繰り返され、足利藩だった栃木にも、皆川氏が、市の北の地に城を設け、その後、栃木に城を新たに建てるのですが、幕府の改易で、皆川氏は退いてしまいます。そして足利藩の支配下に置かれて、明治維新を迎えるのです。散歩で歩く日光例幣使街道も、道沿いの商人も農民も、支配者が変わろうと、日常を営々として続けてきたわけです。いつの世も、民百姓は健気に、逞しく生き続けてきたのです。市内に「城内町」という地名があるのは、その名残なのでしょう。

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皆川城址や湯西川温泉に行ったりしたら、源平盛衰の余韻や、室町時代の空気を感じることができるでしょうか。古い日本が残されて、今があるわけです。

(皆川城址、足利学校、湯西川です)

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流行病

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 仙台の病院で、鼓膜の再生手術をしたことがあり、市内の将監(しうげん)で、四日ほど入院しました。退院した足で、青葉城に登ってみたのです。そこは伊達政宗の居城で、彼を「独眼竜」と呼びます。戦場で負った傷だったとばかり思っていましたが、実は、幼少期に罹った「天然痘」で、右目を失明していたのです。

 古代エジプトに起源のある「天然痘」は、長く人類の敵として、数多くの命を奪ってきました。日本には、大陸からの渡来人によって持ち込まれたと言われています。1796年に、「近代免疫学の父」とよばれたジェンナーの人体実験によって「種痘(牛痘接種)」という、ワクチンが誕生したことによって、制圧されるまで、続いたのです。

 日本人は、古来、突如として襲ってくる「流行病(はやりやまい)」に見舞われて、どういったふうに、対処してきたのでしょうか。近代的な疫学の研究や保健衛生などのない時代、先人が残した知恵や、多分《閃き》、天来の知恵と言ったらいいでしょうか、それらで対処してきたのでしょう。

 少なくとも、global な21世紀の日本列島で生きている私たちは、そのたびたび襲ってきた流行病をくぐり抜けて、命を受け継いできていることは確かです。例えば、私を産んでくれた母は、生まれて間も無く、流行った、〈伝染病〉に感染することなく、95歳まで生き抜きました。

 幕末から明治には、1850年に、アメリカのミシシッピー号という船の乗組員によって、長崎に持ち込まれた、「コレラ」が流行っています。

 日向国(現宮崎県)高鍋藩では、この流行病を、「ころり病」と呼び、次のようなおふれが発行されています。

 『「臍の両脇一寸五分のところに折々灸治をして身を冷やさぬ」養生や、「少しでも吐瀉・腹痛など、いつもと違う症状のあるときには、はやく寝所に入り、飲食を慎んで体を温め、「芳香散」(漢方薬)を服用し医師へみてもらうこと」・・・』

 この「コレラ」は、1880〜90年代にわたって、大流行したのです。大正時代に入ると、「赤痢」、「発疹チフス」が流行しています。大正期7年に、インフルエンザが流行り、それを「スペイン風邪」と呼びました。

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 この「スペイン風邪」による全世界の患者 6 億人で、死者 が2300万人でした。日本では、国民の 5 人に 2 人に当たる 2100万人が感染、発症しています。なんと死者は38万人 にものぼっているのです。母は、島根県出雲市で生活をし、前年の1917年の三月生まれですから、感染の可能性はあったわけです。

 新コロナ感染症(Covid19)では、〈三密回避〉とか 〈 social distance 〉とか言われて、〈マスクの着用〉が求められています。当時、どんな対策があったかが報告されています。

1 多数人の寄る所,ほこり立つ所へは行 かぬがよろしい

2 悪性感冒の病人には接近せぬように注 意せられよ

3 せきをするとき,ハンカチで口を覆い, また,たんを吐き散らさぬようになさい

4 鼻毛をそらぬよう,また胃腸をこわさぬように用心せられよ

5 日々丁寧にうがいをし,口内,のどを清潔にせられよ

6 うがい液御入用の方は本会事務所ヘビ ール瓶お持ちあれば差し上げます

7 食振るわず少しでも身体だるく,また 熱あると思えば,早く医者に治療を受けられよ(大阪府衛生会)

 100年後の今と、あまり変わらない生活上に注意事項だったわけです。人類の歴史は、飢餓や戦争と共に、この流行病と闘ってきた歴史と言えるでしょうか。きっと、新型コロナ感染症も制圧され、流行の終息を迎えることと信じています。

 私たちに必要なのは、正しい科学的な知識であって、基本的な予防なのでしょう。親に言われて、家に帰ると、手洗いやうがいをするように言われて、身につけた生活習慣を守ることなのでしょう。結局は、《注意深さ》なのでしょうか。もう一つは、「自粛警察」的な社会的な責任追求や責め、さらに「ケガレ」とされる〈差別〉があるようです。だれにでも起こることであって、地域社会全体、国全体、地球的な規模での協力と理解でしょうか。

(独眼竜の政宗、マスク姿の古写真です)
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明日

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Green Tree with red Apples. Vector Illustration.

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 九歳の親鸞が、詠んだとされる和歌があります。

明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かむものかは

 この歌を、上の兄に教えられたのです。その意味は、『美しく咲いている桜が、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜中に強い嵐が吹いてきて、花びらを散らししまうかも知れない!』と言ったのです。道を成す人の幼い日の垣間見せた賢さに驚かされます。親鸞は、自分の命を桜の花に例えたのです。「今」の大切さを心に期して、生きた人だったのでしょう。

 1958年、中学生の頃であったでしょうか、石原裕次郎が、「明日は明日の風が吹く」と言う歌を歌って、それが映画化されたのです。その前年でしょうか、「ケセラセラ」と言う、スペイン語の歌が和訳されて、『明日はなるようになるさ!』と歌って、流行っていました。

 新美南吉も、「明日」と言う詩を書きました。

花園みたいにまつてゐる。
祭みたいにまつてゐる。
明日がみんなをまつてゐる。

草の芽
あめ牛、てんと虫。
明日はみんなをまつてゐる。

明日はさなぎがてふになる。
明日はつぼみが花になる。
明日は卵がひなになる。

明日はみんなをまつてゐる。
泉のやうにわいてゐる。
らんぷのやうにともつてる。

 明日はないかもしれないと言うように、哲学的な捉え方をするか、それとも、『どうにかなるさ!』と気楽に、しかし実態のなさで捉えるか、明日って、そんなに漠然としたものなのでしょうか。

 明日、世界が終末を迎えようとしても、『私は、リンゴの木を植えよう!』としたと言われている(出典の確証は無いようです)ルターや、イスパニア(スペイン)にまで足を伸ばし、福音を宣べ伝えたいと願ったパウロのように、明日に望みを繋いで生きたほうがいいのです。

 明日は不確かに思えて、どうなるのかの不安が、地の表を覆っている今日日、29歳で結核で亡くなった新美南吉は、蛹(さなぎ)や蕾(つぼみ)や卵は、きっと蝶になり、花開き、鶏にかえると信じて、明日を捉えていた人だったのです。次の season が、必ず来ると言う《待望》って、とても快い生き方ではないでしょうか。

 中国語は、人から離れる時に、『明天見mingtianjian』と言う表現を使います。それは《願望》です。明日への《肯定》なのです。『だから元気でいてね!』の《祝福》でもあるのでしょう。

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詩人

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 JR中央線の豊田駅の発車時に、ホームで流れる〈発車melody〉は、「たきび」です。弟が住んでいまして、コロナ前はよく乗り降りをしました。岩手県で生まれ、東京都下の日野市で亡くなるまで生活をした詩人の巽聖歌(たつみせいか)が作詞をしています。作曲は、「不思議なポケット」にも曲を付けた渡辺茂です。

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけおててが もうかゆい

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

かきねの かきねの
きたかぜぴいぷう ふいている

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

そうだんしながら あるいてる

 この巽聖歌は、岩手県盛岡市に隣接する紫波町(旧・日波町)に生まれ、父が生まれ育ち、父の祖父がいた横須賀海軍工廠で働きつつ、作詞をしていた方です。戦後、日野市で生活をしました。私は、結婚してから、同じ日野市に住みまして、弟も同じ日野市の旭ヶ丘に、結婚後に住んでいるのです。

 若い日に、教会に導かれた人でした。北原白秋に師事し、新美南吉と親しい関係があって、新美が亡くなる頃には、よく世話をしています。私の恩師は、卒業していく私たちに、『詩人たれ!』と一言語ってくれました。多才な人だった寺山修司は、自分を「詩人」だと言って自己紹介をしていました。

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 やはり、「感性」が飛び抜けて鋭かったり、豊かだったりする人なのでしょうか、「詩人」って。最近、家内が図書館で、谷口ジローの「歩く人」を借り出してきて読んでいました。椅子の上にあったので、私も読んでみました。緻密な描写の漫画で、言葉数は少ない一編一編の日常を、散歩する主人公が、東京都下の北多摩郡の街を歩いているのだと、北多摩で育った家内が、『見慣れた光景が描かれていわ!』、そういっていました。

 詩のような漫画で、人気作家であることに納得しました。物や風景、人の営みなどに無関心ではないような生き方が、「詩人」にはあるのでしょうか。それでいて、どこか夢を見ているような理想家でもありそうです。そんな人になるように、恩師は願ったのでしょうか。横須賀にお住まいでした。実に重い Thema をもって生きるように激励され、それが何かをまだ考えつつある今なのです。

(豊田駅の古写真、「歩く人」の一コマです)

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Never give up

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ヨーロッパが、ナチス・ドイツの世界制覇の野望のもと、危機的な状況下にあった、そんな時に、イギリスの首相に就任した、ウインストン・チャーチルは、イギリス国会の下院で、次のように演説をしました。

 『我々は最後までやるつもりだ。我々はフランスで戦う、我々は海で戦う、我々は日々大きくなっていく自信と力でもって空中で戦う。我々はどんな犠牲を払おうとこの島を守る。我々は海岸でも戦うだろう。我々は水際でも戦うだろう。我々は野で、街頭で、丘で戦うだろう。我々は決して降参しない。例えこの島やその大部分が征服され飢えに苦しもうとも、私は降参を信じない。我々の陛下が海の向こうで英国艦隊に守られ、陛下の全ての力と権力によって、神のよき時代の中へ、彼らを古きより救い新世界へ解放する歩みを進めるまで、努力を続けるだろう(1940年6月4日)。』

 やはり光輝ある大英帝国の政治的な指導者の決意は、違っていました。決して揺るぐことも、ずれることもなかったのです。しかも英国一国だけを守備するだけではなく、ヨーロッパ全体に思いを向けていたのは、驚くほどでした。その度量の大きさは、さすが英国国民の長でした。そして、チャーチルの言葉で忘れられないのが、

 “Never, never, never, never give up(決して、決して、決して、決して諦めない)!

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 私も、『最後まで諦めない!』で、与えられた一度きりの自分の人生を全うしたいと願っています。年をとり、肉体は衰え、例え病気がちになったとしても、そして息子や婿や孫に背負われても、最後の日まで、諦めないで、<双六(すごろく)>のゲームのように、《上がろう》と決心しています。私も抱えている、「魂の闇」に負けないで、この馳せ場を走り抜き、光り輝く中を昇華したいものです。

 思い返しますと、ずいぶん長く生きてきたものです。6歳で、17歳で、19歳で、35歳で、そして59歳で、何度も何度も死の危機に直面しながらも、生きることが、許されての今日なのです。ですから、老いの明日に夢を繋いで生きて行こうと、改めて決心しています。

 ヨーロッパでは、風雲急を告げそうな様相を呈していますし、北関東ではまた雪も舞いそうですが、確実に春が来ようとしています。年齢的に、もう十年生きられるでしょうか。でも残された日を、意味あるものにして生きていきたいと思うのです。人生のあちこち痛い晩年を過ごしている今、孫たちの成長ぶりが伝えられてきています。英検合格、水泳大会の活躍、高校合格、baseball の新season 開幕など、青春を謳歌しているのです。孫たちの結婚式出席や、ひ孫を抱くことなど、まだすべきことがありそうです。

 明日に夢を繋いで、今日を輝いて、家内と一緒の時を生きていきたい、そんな思いの2月です。誕生日にもらった胡蝶蘭が、窓辺で第三期目の花を、四つの鉢で5輪ほど開きました。もう春の陽は、強く差し込んできているのです。私も Never give up  なのです。

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ムズムズ

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 私の記憶では、国鉄でも私鉄でも、国鉄が民営化してJRになってからも、電車の一等車に乗ったのは、ただ一度だけでした。それは、職場の慰安旅行で、伊豆に出掛けた時でした。その年の幹事が、『たまには一等車に!』との奮発で、東京から、伊豆急行直通で下田まで乗ることができました。普通車の硬い座席とは違って、《重役》になったら、こんな気分かなとの気持ちで、ゆったり座ることができたのです。

 その職場の出張時には、出張規定で、二等車の利用でしたから、福岡県に出張した時、東京から博多まで"ブルートレインの「あさかぜ」の二等寝台でした。帰りも予約してあったのですが、福岡の協会の事務局長が、福岡発、羽田着の飛行機の搭乗券を買ってくれて、それで初めて飛行機に搭乗したのです。

 戦闘機ノリを夢見ていた軍国少年の私でしたが、離陸時と着陸時は、ギュッ!"と手を握ってしまう様な緊張を、いまだに忘れていません。それでも"アッ!"と言う間の羽田でした。

 実は、滞華中に、アモイから私たちに住んでいた街に帰る時に、一等車に乗車して帰ったことがありました。アモイ駅の乗車券売り場の「軍人用窓口」に並んで、2〜5時までの<二等座>を買おうとしていたのですが、空きがありませんでした。一等車だけがあったので、それを買い求めたわけです。街の駅に、車で出迎えてくださる方がいましたので、遅くならないために奮発したのです。

 やはり、ゆったりと座れました。ただ後ろの一団の話し声が高く強くて、だいぶ迷惑でしたが、「郷に従え!」で、じっと"我慢の子"をしていました。これで中日両国の《一等車乗車経験》をすることができたわけです。このアモイ駅の軍人用窓口ですが、軍人の他に、外国人や年寄りを優先する窓口の様で、列に並ぶ時間が少なくてよかったのです。

 アモイ駅の最初の窓口係は、女性でしたが、もう少し笑顔と優しさがあったら、ご自分もハッピーになれそうでした。ところが隣の窓口に回されたのですが、そこの若い男性の係りの方は、穏やかで、外国人の中国語をしっかり聞き取って、優しく接してくれたのです。爽やかで好かった!

 帰国後の今、コロナ禍で旅行もままならないのですが、そろそろ自転車から飛行機や特急電車や新幹線や高速バスに乗り換えて、長崎や熊本に行ってみたいのです。そうでなくとも〈中遠足〉をしてみたい、ムズムズとした願いが湧き上がってくる、雪の後の陽を浴びて思う二月です。

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 今日は雪が降って、乾き切った街も野も畑も、うっすらと白く彩りを見せてくれました。何か心の渇きが、潤されるような気持ちになって、ホッとしたような思いになっています。作詞が内村直也、作曲が中田喜直の「雪の降る街を」がラジオから聞こえてきて、雪が舞ったり、山から吹っ飛んでくる( 那須地方ではこんな表現をされるようです)と、この歌が思い出されるのです。

雪の降る町を 雪の降る町を
思い出だけが 通りすぎて行く
雪の降る町を
遠いくにから落ちてくる
この想い出を この想い出を
いつの日にか包まん
あたたかき幸福(しあわせ)のほほえみ

雪の降る町を 雪の降る町を
あしあとだけが 追いかけてゆく
雪の降る町を
一人こころに満ちてくる
この哀しみを この哀しみを
いつの日かほぐさん
緑なす春の日のそよ風

雪の降る町を 雪の降る町を
息吹きとともに こみあげてくる
雪の降る町を
誰も分からぬ わが心
このむなしさを このむなしさを
いつの日か祈らん
新しき光降る鐘の音

 雪が降ると、教会の建物が角地にあり、小学生や中学生の通学路でしたので、毎年、冬になると雪除けをするために、ずいぶん苦労をした記憶があります。年に2、3回あったでしょうか。車で踏み固められる前に除雪をしないといけないのです。真夜中に起き出してやったこともありました。

 一旦凍ってしまうと、通学の子どもたちが滑ってしまうので、懸命な作業をしたのです。陽が出てくると溶けるので、待っていたいのですが、それでは登校時には間に合わないので、水道水をホースでかけたりしました。

 今年は、近年になく大雪が、北海道や東北、日本海側で降って、大変な様子がニュースで伝えられてきています。雪が溶けると、春がくるといった喜びを、豪雪地の人々は感じられるのでしょうけれど、雪の少ない地で生まれ育った私は、そんな喜びを味わったことなどありません。降る雪を楽しんだ子どもの日を思い出します。

豪雪の地方で、雪の災害にないことを願い、雪に慣れない首都圏で、交通事故や滑って怪我のないようにと願う夕べです。

(“フォト蔵”からのイラストです)

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